https://www.city.himeji.lg.jp/jyokakuken/cmsfiles/contents/0000017/17238/05-01.pdf
【白鷺城、「鵜城」となる】より
近世城郭の意外な天敵
「白鷺城」としてその“美しさ”を誇らしく見せる姫路城。多くの観光客の目を楽しませてくれます。しかし、細部を見てみると外見とは正反対、少し興ざめする箇所も見かけられます。例えば、白漆喰の外壁は瓦とのコントラスト、背景となる広峰の山々と調和して“美しさ”を際立たせています
が、間近で見ると埃でくすんだ箇所もあります。間近で見たら肌の荒さが目につく女優さんがいるようなものです。でも、だからといってその女優の力量が著しく減じるというものでもありません。しかしそれも不潔となると、事情は大きく異なってきます。
姫路城は管理者の努力でいつも綺麗に維持されています。もちろん人間の建てた建物ですから、上記の白漆喰のようにどうしても自然環境の影響で汚れたり劣化することは避けられませんが、不潔になることは滅多にありません。ところが管理者がいくら注意を払っていても汚れてしまう場合があります。その一例が動物による仕業です。具体的にいえば糞害などです。ムクドリの大群による街路樹下の糞害や、鳩などの糞で高層アパートのベランダの洗濯物や公園の銅像などが汚されることは、多くの人が身近な例として知っていることでしょう。最近では、鳩が増えたためにその糞による人間への健康被害が懸念されるという報道があるほどで、汚れたら掃除すれば済むよ、なんて悠長に構えているわけにもいかないようです。
姫路城でも鳥の糞で汚されている箇所があります。城内の建物をよくよく見ると、とくに天守出格子窓等では鳩の糞が落ちていることがあります。高層アパートも大天守も彼らにとっては同じです。
多くの観光客による撒餌や動物園が城内にあることで餌に事欠かないことが、鳩を繁殖させる要因になっているのでしょう。ちなみに、鳩は糞害ばかりでなく、建物の屋根目地漆喰を壊し、そのために屋根裏に雨水が入り込んで建物を腐らせる原因になっているとの指摘もあり、そうだとすれば姫路城にとっては少し厄介な住人ということになります。
こうした動物による被害は、決して現代的な問題というわけではなさそうです。次に紹介する史料はまさに鳥害について記していてます。
姫路城天守郭内樹木江連日数百之鵜群集為メニ該城体裁ニモ関スルノ巨木漸々衰枯スルヲ
以客年十月中追却方伺出御許可之上歩兵第十連隊之内ヲ以二週日之間狙撃有之、一時該処
ヲ散乱スト雖モ頃日至リテハ尚亦往日之如ク群集候ニ付更ニ三週日之間銃撃之儀大坂鎮台
江御達相成候様仕度此段相伺候也
追而該台江モ及協議候処何等異存無之ニ付此段申進副候也
この記事は『陸軍大日記』に収載されている「姫路城天守郭内樹木江群集之鵜追却方之儀ニ付伺」と題する明治9(1876)年11月26日付の陸軍少佐飛鳥井雅古から陸軍中将西郷従道宛文書です(以下「11月伺」とする)。文中「十月中追却方伺出」とあるのは、10月28日付「姫路城内歩兵営周囲之樹木ニ群集之鵜鳥撃除方之義ニ付伺」のことで、陸軍卿山県有朋から太政大臣三条実美宛に出されたものです(以下「10月伺」とする)。
「11月伺」からわかるように、この時、姫路城では鵜の大群による巨木の枯死が問題になっていました。「10月伺」によれば、「歩兵営周囲之樹木ニ連日数百之鵜鳥群集シ夫カ為該城体裁ニモ関スル巨木漸々衰枯スルニ寄リ且営内之為妨害不尠候」というのです。だから追い払いたいのでむこう六週間、銃撃を許可して欲しい、というのが「10月伺」なのでした。それに対して許可が出たのものの、銃撃を2週間行ってはみたけれども兵営周囲の鵜はひとまずいなくなったよう見えるだけで、結局のところ「天守郭内(備前丸のことか)」の樹木に巣を移したにすぎず、その上巨木の枯死もおさまらず、再度「11月伺」の提出となったわけです。ところが、明治11年1月29日には山県有朋の名で砲兵支廠に対して、姫路城内の鵜を撃ち除くための火薬と雷管の支給を求めていますから、この2年のあいだ、“白鷺”は鵜に悩まされ続けていたとみられます。
『陸軍大日記』を読んでいくと、以下に記すように、どうも明治10年前後の時期に各地で鳥害が発生していたことがわかってきます。姫路同様に鳥害に悩まされた諸旧城を陸軍関係文書でみていくと、今のところ目を通したものだけを挙げれば、次のようになります。
明治8年 皇城(近衛局から伺)、大阪
9年 金沢、松江、福岡
10年 皇城(旧江戸城和田倉門・竹橋門・半蔵門・大手門)
11年 新発田、名古屋、金沢
鳥害は、各城で少しずつ様子が異なることが、それらの文書を読むとわかります。例えば、福岡では「主犯」は鵜ではなく鷺でした。大阪では玉造門と京橋門で、鴉・鵜・白鷺による兵営に近接する「郭堤上ノ樹木」に被害が出ています。松江でも鵜のほかに鷺が問題になっていて糞の掃除への出費が大きくなっていること、鳥によって枯れた木は、かねてから陸軍用材として使用するつもりだった、と上申しています。また、新発田では鵜による兵営のガラス損壊(ガラスに映った自分の姿を敵と思って嘴でつつくため)とその修繕費用の出費が問題になっています。
しかし、姫路の場合と同様、許可がおりて銃撃を始めても効果はあまり上がらなかったようです。旧江戸城和田倉門の例では、3週間かけて銃撃を加える予定でいるものの、鳥は一時的に驚いていなくなるが、それは他の場所に一時的に逃げるだけのことだから、3週間のうちに数百羽を殺したとしてもそれでは意味がない、そこで大手門や竹橋門といった諸門の近辺にも狙撃手を配置しておき、鳥が余所から逃げてきたところを狙撃することにした、と記しています。ちなみにこの狙撃方法については許可がおりましたものの、対象とする諸門はどれも人通りが多いところなので時宜をよく見計らった上で、堀に小船を浮かべて船上から狙撃するようにとの但書が付けられました。
このように陸軍省では、各鎮台より上申されてくる鳥害の状況を受けて、明治10年12月27日、山県有朋から三条実美に宛てて「各鎮台営所兵営周囲ノ樹木ニ群集之鵜鳥撃除方之義ニ付伺」を提出しました。この伺書では、鳥を撃除する理由として、城郭に生えている巨木の衰枯と糞尿の臭気を具体的に挙げています。姫路城の場合、10月・11月の伺書を見るかぎり、まさにこの巨木衰枯による体裁の悪化が問題になっていたわけです。勿論、それはあくまで文言上のことで、兵士や兵舎への悪影響(「営内之為妨害不尠候」とある)、樹木枯死による資産価値減少が無かったと断言はできませんが、樹木の衰枯が城の体裁悪化を招くと公文書に書かれることは少し注意しておきたいと思います。そこには、人工的な構造物だけでは捉えきれない城郭に対する何らかの意識(堀田浩之「城郭礼讃」『城郭を描く』兵庫県立歴史博物館、1998年)があったということなのでしょう。
ところが、明治8年の近衛局からの伺書には、城の体裁なんて綺麗ごとを言っている状況ではないことが既に書かれています。それによると、鵜の糞尿が堆積してそれが雨湿で腐敗し、ひどい臭気が兵営に充満するため不潔になって近衛兵に健康被害が出ているというのです。近衛兵というのは『改訂近衛兵編成並兵額』(明治8年)によれば「全国諸兵ノ模範タルヲ以テ諸兵ノ上ニ位セシメ」「全国共戴ノ至尊ヲ護衛スルノ兵」で、「各鎮管内常備熟
練兵ノ中強壮ニシテ行状正シキ者ヲ各隊中ヨリ兵種ニ応シ若干人ヲ撰挙シタル者ヨリ編成」された兵隊です。彼らが不健康になっては「輦下」も護衛できなくなるだけではなく、国家を象徴する軍隊が機能しないとなると「強兵」のスローガンは無意味となり、諸国で蠢動する不穏分子を力づけてしまいます。
各兵営の方では、鳥害対策の基本は「撃除」すなわち撃払いですが、そのやり方は皇城に準じて行うこと、その際は事前に関係地方官と協議することとしています。関係地方官と協議が必要なのは、例えば城内に他の官公庁があったり、一般人の通行があるためです。あるいは、兵士ではなく鳥猟の免許を持つ一般人に射撃させようとした(松江)こととも関係があるかもしれません。それにしても、これだけ陸軍省に鳥の駆除を申請してきているところをみると、上記の例以外にも、鳥害が日本各地で起きていたことが予想されます。
すると、明治8年には「博覧会事務局」から鳥害に関する照会文書があがってきています。「博覧会」とはこの時期から察するに第1回内国勧業博覧会でしょうから、その会場予定地である上野公園でも、各地の兵営同様鳥害による環境悪化が問題になっていたと考えられます。大久保利通の建議による「富国」への第一歩(『博覧会の風景』吹田市立博物館、1995年)となるデモンストレーションが、鴉や鵜に汚されたままでいいわけありません。
姫路城以上に鳥による体裁への影響には気を遣わずにはいられなかったことでしょう。
明治初期、城郭は意外な敵に遭遇することになりました。それにしても、どうしてこの時期に鳥害が各地で起きたのか、その原因が気になるところではあります。
最後に、現在では姫路城周辺で鵜を見かけることはないものの、鳩や鴉が群れていることがあります。姫路城に来られる皆さん、三の丸広場や本城跡、観光売店あたりに群がっているいる鳩などには、むやみに餌を与えないようにお願いします。「白鷺城」を「鳩城」にしないためにも。
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