ひと魂でゆく気散じや夏の原  葛飾北斎

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 ひと魂でゆく気散じや夏の原

                           葛飾北斎

浮世絵師・北斎の辞世句として、つとに知られる。享年九十というから、長命だった。「気散じ(きさんじ)」は心の憂さをまぎらわすこと、気晴らしのことだ。これからの俺は「ひと魂(ひとだま)」となって、ふうわりふうわりと「夏の原」を気ままに漂うのさ。もう暑さなんかも感じないですむし、こんなに気楽なことはない。では、みなさまがたよ、さようなら……。北斎は川柳をよくしたので、川柳のつもりで詠んだのかもしれない。死を前にした境地ながら、とぼけた味わいがある。言い換えれば、残された者への救いがある。同じ辞世句にしても、たとえば芭蕉の「旅に病で夢は枯野をかけ迴る」などとは大いに異なっている。ところで、最近気になるのが、この死ぬ前の境地という心のあり方だ。それぞれの境地に至るのはそれぞれの個人であるわけだが、一方ですべての境地はその人が生きた社会的産物でもあるだろう。となれば、現代社会の産物としての境地なるものは、どんな中身と構造を持つのだろうか。少なくとも江戸期などとはまったく違うだろうし、それをよく俳句様式に集約できるものなのかどうかもわからない。辞世の念を述べる述べないはさておき、私にも一度だけチャンスは訪れる。そのときに果たして、何が見えるのだろうか。べつに、楽しみしているのではないけれど。(清水哲男)

 悲と魂でゆくきさんじや夏の原

                           葛飾北斎

掲出句はかの超人的絵師・北斎の辞世(90歳)の句として知られる。江戸後期に活躍した謎多い超弩級のこの絵師について、ここで改めて触れるまでもあるまい。掲出句の表記は、句を引用している多田道太郎にしたがっている。特に上五の表記は、茶目っ気の多い多田さんが工夫したオリジナルであると考えると愉快であるけれど、出典が別にあるのか詳らかにしないが、一般には「人魂で行く気散じや夏野原」と表記されている。いきなり「悲と魂(ひとだま)」と表記されると、いかにも奇人・北斎らしさを感じずにはいられない。「気散じ」ということも北斎にかかると、「人魂」とはすんなり行かず、「悲と魂」で行く夏草繁るムンムンした原っぱということになってしまう。芭蕉の「枯野を駆けめぐる」と、北斎の夏の原をゆく、両者の隔たりには興味深いものがある。「枯野」どころか、ムンムンした「夏の原」の辞世の句には畏れ入るばかりである。多田さんはこの句について、「「気散じ」のくらしはできそうもない」とコメントしている。その言葉に二人が重なってくるようだ。ちなみに北斎の法名は「南牕院奇誉北斎」である。多田道太郎『新選俳句歳時記』(1999)所載。(八木忠栄)


https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/5032 【葛飾北斎の辞世~人魂で 行く気散じや 夏野原】より

今日は何の日 嘉永2年4月18日

『富嶽三十六景』『北斎漫画』の葛飾北斎が没

嘉永2年4月18日(1849年5月10日)、葛飾北斎が亡くなりました。江戸時代の浮世絵師で、『富嶽三十六景』や『北斎漫画』などで世界的に知られ、ゴッホなど海外の芸術家にも影響を与えたといわれます。

宝暦10年(1760)、江戸本所割下水の農民の子に生まれた北斎の本名は川村時太郎。幼い頃より手先が器用で画道を志し、安永7年(1778)、19歳で浮世絵師・勝川春章に弟子入りします。しかし浮世絵に飽き足らず、師匠に内緒で狩野派や司馬江漢の画法なども学び、一説にそれが発覚して春章から破門されました。それからは行商をしたり、うちわ絵の内職をして糊口をしのぎつつ、絵を描き続けます。そのジャンルは人物画、風景画、化物画、春画、漫画などの多岐にわたる浮世絵の他に、肉筆画、挿絵画も描きました。

文化2年(1805)、46歳の時に葛飾北斎の画号を用いますが、他にも「春朗」「宗理」「戴斗」「為一」「卍」などもよく使い、さらに別の号も使っていて、その数30種類に及びました。一説に、新ジャンルに挑戦する度に新人を装って新しい画号にしたともいいます。

数々の奇行でも知られ、まず生涯に転居すること93回。1日に3回転居したことも。その理由は部屋が汚れるたびに移ったためらしく、日常は絵を描くことに集中し、食事を作ることも掃除もせず、暑い時期以外はこたつに入りっぱなしで、眠くなるとそのまま横になっていたとか。

また人を驚かせるのが好きで、120畳もある巨大な布に達磨を描いてみせたり、逆に米粒一つに雀二羽を描いたりもしました。将軍の御前に召された時は、横につないだ紙に刷毛で藍色をひいた上で、足の裏に朱をつけた鶏を紙の上を走らせ、「竜田川でございます」と言って、一同を唖然とさせています。

そんな北斎の頂点とされるのが、富士山を主題に描かれた『富嶽三十六景』です。文政6年(1823)、64歳頃から制作を始め、天保4年(1833)、74歳頃に完結。上から覆いかぶさってくる波、制作中の桶の向こうに見える富士など、印象的な構図、色合いが見事で、江戸っ子は「北斎といえば富士、富士といえば北斎」と絶賛しました。

ちなみに74歳の時、「73歳になってようやく虫や生き物、草木のつくりをいくらか知ることができた。だから86歳になればますます腕は上がり、90歳になれば一層奥義を極め、100歳になれば神妙の域に達し、110歳ともなれば、あらゆるものを生きているように描けるだろう」と記しており、絵を描く意欲がまったく失われていないことが窺えます。

嘉永2年、90歳で没。辞世は「人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原」。 

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