Facebook竹元 久了さん投稿記事 🔵いのち犠牲にする戦争やめるのが先!
ウクライナで戦争が行われていることについて正しい対応は何か。
言うまでもない。戦争をやめること。戦争に敵も味方もない。あるのは滅びだけだ。
♦これは長崎で被爆され、いのち尽きるまで被爆者の救護に尽力した永井隆博士が遺された言葉。
米国のバイデン大統領とウクライナのゼレンスキー大統領は戦争を長期化し、戦争を拡大することだけを目指している。共通するのは二人とも我が身を安全な場所に置いていること。
ウクライナは民主主義国家でない。言論を弾圧し、苦役を国民に強制している。民間放送会社は廃止された。あるのは国営放送一本。
野党は禁止された。政府への反論は許されない。
成人男子は国外に避難することを許されない。国家総動員法が施行されている。かつての日本と同じ状態だ。
そもそもウクライナ政府は正当な政府でなかった。
2014年に暴力革命が勃発した。2014年2月21日、ウクライナ政府とEUは最終合意に到達した。大統領選挙を2014年末までに実施することなどを決定し、和解したのである。
ところが、この和解を忌々しく思っていた人物が存在した。
米国国務次官補のヴィクトリア・ヌーランド。
ヴィクトリア・ヌーランドはウクライナの極右組織、ネオナチ勢力と結託していた。ウクライナの政変は2013年11月21日にスタートしている。
ウクライナのヤヌコビッチ大統領がEUとの連携協定署名先送りを決定したことが端緒。
EUとの連携協定がウクライナ国民にプラスにならないことを考慮しての決定だった。
米国はあらかじめ水面下で大規模デモを組織化する準備を進めており、大統領決定と同時に大規模デモが組織された。
この平和デモが暴力デモに変質させられた。
その変質を主導したのが米国であると見られている。米国はウクライナ民族主義者、ネオナチ勢力と結託して平和デモを暴力デモに変質させた。
2013年11月21日から23日にかけて、新たなテレビ局が3局も開局された。
そのひとつに資金支援したのがジョージ・ソロス。
こうしたヌーランドの努力の甲斐もなく、EUはウクライナ政府と和解した。
これが14年2月21日。
その直前にヌーランドとジェフ・パイアット駐ウクライナ米国大使がウクライナ暴力革命後の人事について相談した電話音声がYoutube で暴露された。
このなかでヌーランドが”Fuck the EU”と叫ぶ場面がある。
ウクライナ政府と冷静な対話をするEUに対する怒りの感情を示したものと見られる。
翌2月22日に流血の惨事が勃発した。デモ隊およびウクライナ警察官29名が何者かによって射殺された。米国と結託するネオナチ勢力による「偽旗作戦」が遂行されたと見られている。
群衆は暴徒化し、大統領は国外脱出を余儀なくされた。
ウクライナ新政府の樹立は憲法の規定に則って行われたものでない。非合法政府が樹立されたが、この非合法政府を直ちに承認したのが米国である。米国の「力による現状変更」強行だった。
非合法政府は2月23日にウクライナ民族社会の設立を決定。ロシア系住民に対する人権侵害と差別的取り扱いを決定した。この結果としてクリミアで住民投票によるロシア帰属が決定され、ドンバス2週で内戦が勃発した。
その延長線上で今回のウクライナ戦乱が発生した。
最大の原因は東部2州に対して高度の自治権を付与することを決めたミンスク合意がウクライナ政府によって踏みにじられたことにある。
引用
永井隆博士 この子残して💕
https://www.ezakinet.co.jp/mainichi-daigaku/report/202 【戦争はなぜ繰り返されるのか 終戦74年 講演会】より
広岩 近広 氏毎日新聞 記者
1975年に入社。大阪社会部や「サンデー毎日」で事件と調査報道に携わり、2007年から原爆や戦争の取材と執筆を続け、現在、客員編集委員として大阪本社発行の朝刊でルポ「平和をたずねて」(第22回坂田記念ジャーナリズム賞を受賞)を連載中。
講演5戦争の起源は、人類の歴史のなかでは最近のこと。
講演1
長年、事件記者をやってきた私は、毎日のように殺した者、殺された者をめぐる取材をし、記事を書いていました。そのなかでオウム真理教という宗教団体が詐欺的商法をしているとの情報を得ます。
そして、取材活動のなかで色々なアドバイスをもらっていた坂本弁護士とご家族が殺される事件が起きました。地下鉄サリン事件では大勢の人が亡くなりました。
この頃から、戦争こそ最大の殺人事件ではないかと思うようになり、なぜ戦争が起きるのか? それがなぜ続くのか?といった疑問に突き動かされ、歴史を学びながら取材を始めました。
戦争責任をとらないと新聞社を辞め、郷里でミニコミ誌を出版していた元朝日新聞記者の方が、こう教えてくれました。
人類の歴史のなかで戦争が出てくるのはつい最近。狩猟時代は、自分たちを狙うどう猛な動物を恐れて人間は助け合って生きていた。農耕生活が始まり物を作るようになると、たくさん作った人は富を築き、権力を持ってくる。すると権力の範囲を広げようとする。それが領土、国になっていき、人類は戦争を始めていったのです。
領地を必死に守る。それが、やがて戦争へ。
講演2
『日本の領土の歴史』というムックによると、鎌倉時代の武士は、一ヵ所の領地を必死に守ることで貢物をもらったり、労働力や権力を得て力をつけた。この一カ所を守ること、つまり「一所懸命」が「一生懸命」の語源だそうです。
隣り合う者同士が自分の領地を一生懸命に守る。その過程で利を同じくする個人が集団となり、集団が規模を拡大して領地ができ、さらなる領地を求めて戦争が繰り返される戦国時代になりました。
やがて豊臣秀吉が天下を統一します。これで戦争は終わったと思ったら、なんと朝鮮出兵です。
幕末には、尊王攘夷の中心となって人を育てた長州の吉田松陰がこう言います。「取り易き朝鮮、満州」。その門下が長州藩の伊藤博文や山縣有朋でした。山縣は後に日本の陸軍を作った人。伊藤は首相になります。軍部の中枢に座った山縣は、「主権線は日本の国土。主権線を守るために必要な利益線は朝鮮半島」と断じました。豊臣秀吉から吉田松陰、その門下へと同じ方向性が受け継がれていったんです。
明治時代には政府軍ができました。民衆が集まったフランス革命の政府軍とは異なり、長州や薩摩などの武士が集結した軍です。この軍隊は会津などで要人を焼き殺し、略奪や拉致監禁をしたのです。もともと同じ幕府軍にいた人たちなのに、戦争ではここまで憎みあわないといけないのかと思います。
と同時に、日本の軍隊誕生を語るときは、会津の悲劇をしっかり教えないといけない、と私は思っています。
武士の「尚武思想」が、軍事体制を強化。
封建制度下の武士は、武士を尊敬させ、武を尊重させました。それが武士の「尚武思想」です。明治維新のリーダーたちは、その武士出身です。軍人の尚武思想は、武力尊重と軍隊尊重思想になるので、結果として軍備拡張に繋がります。武士たちがつくった維新の政府が、最初から軍国主義の道を突き進んだのは、武士ゆえに必然的だったといえます。それが尚武思想でした。
武力で政権を奪うと、その権力を拡大するために軍隊ができ、軍事国家になっていく。大日本帝国憲法ができるのは明治22年。しかし明治5年には軍隊が確立されていたのです。
大日本帝国憲法は、天皇のもとでの軍の体制を強化する憲法です。天皇を大日本帝国の元首、そして陸海軍を統率する大元帥にし、軍はその権威を最大に活かしました。
同じ時期に軍人勅諭や教育勅語もできます。軍人勅諭とは「上官の命令は天皇の命令」、だから絶対に逆らえない。そして「いったん戦争になったら天皇陛下のために命を捨てる人間になりなさい」と、教えるのが教育勅語です。
維新政府に、国民を従わせる力がなかったので、天皇の名によって詔勅や詔書を発布して、国民に国家の方針を伝えました。そうして国民の教化を図ったのです。
戦争が、新たな戦争を生む繰り返し。
講演3
一カ所を守る「一所懸命」を「一生懸命」にして、獲得して広げた領土を守る、それを担った武士が国土を守る軍隊になる。植民地を求める帝国主義の時代になると、軍隊は外征の軍になる。こうして軍事国家の体制がどんどん進んでいきました。
以後、日本の政権の頭に常にあったのは、主権線を守るための利益線である朝鮮半島です。そして朝鮮半島で内乱が起きたとき、日本軍は清国軍が出てくるのを計算済みで出兵し、清国と戦争。利益線を守るために軍事強化をしてきた「尚武思想の軍隊」は、勝利を得ます。
ここで台湾と遼東半島を取り、賠償金も当時のお金で3億円でした。国家予算の4倍です。政府も軍部も国民までも「戦争に勝ったら領土もお金も取れる」と認識しました。
言論も後押し。福沢諭吉は日清戦争を「文明と野蛮の戦い」とし、毎日新聞の前身の東京日日新聞も「なるべく決戦を急がんことを押す」。皆が戦争を肯定したことも見逃せないことです。
しかしロシアから警戒され、ドイツ、フランスを加えた三国干渉によって遼東半島を返還することになりました。このときからロシアへの復讐が国の方針になり、ロシア戦に備えた軍備増強が進みます。
ドイツの詩人、シラーは「戦争は戦争を養う」と言いました。戦争は次の戦争の原因を作るという意味。日清戦争も日露戦争の原因を作りました。繰り返したくなくても繰り返していくのです。
国民も新聞も戦争を支持し、軍事体制がさらに強まっていく。
日露戦争に突入した日本は、厳しい戦いを強いられますが、ロシアで革命が起きたおかげでかろうじて勝利します。ところが賠償金を取れなかったため国民はカンカンに怒り、日比谷公園の焼き打ち事件や警察官舎の襲撃など暴動を起こしました。
国民の声を代弁したのが大阪の朝日新聞です。一面に髑髏(されこうべ)の木版画「白骨の涙」を載せ、「中国大陸で死んだ兵士は泣いてるぞ」と訴えたのです。こうした状況を見て軍部は強気になったかもしれません。「国民はここまで熱狂するんだ」と。
政府は国民の怒りを国外に向けさせるため、韓国に矛先を向けました。日露戦争のときから「韓国の独立を守るなら、日本の軍隊が韓国で自由に動けるように」と迫って傀儡的の国にしていましたが、日露戦争後には遂に併合してしまいました。豊臣秀吉が出兵、吉田松陰も同様の考えを持っていましたが、とうとう明治の軍隊はここまでやってしまったのです。
戦争は次の戦争を生む。韓国を取ったら、それを守るために中国を視野に入れます。そうして今度は第一次世界大戦に参戦します。
同盟国のイギリスから「ドイツの艦隊がヨーロッパに来ないようにしてほしい」と頼まれた日本は、これに喜んで飛びついてドイツが占領していた中国の山東半島を奪ったのです。そして中国には「この土地を日本に譲れ」と、際限がなく迫っていきます。
強気で行く。すると国民は支持するから軍隊費が取れ、軍事政権が維持できる。軍事政権維持は、戦争と一体になっていったのです。
無責任な強気だけが蔓延していった……
戦争1
その後、日本はシベリアにも日本の言うことを聞く自治政府を作ろうとしましたが、パルチザンという民衆の抵抗に遭って苦しめられます。ベトナム戦争時のゲリラと同じ有様でした。
この頃、戦後に総理大臣となる石橋湛山は警告を出しています。「満州、台湾、朝鮮、樺太は、取ってもそれが戦争のもとになる。日本が他国から脅かされることはない。シベリアや朝鮮を垣根だと考える方が、むしろ危険。火事のもとだ」と。
しかし、事態は石橋の警告とはむしろ逆の方向に。この頃は軍隊を抑えていた長州閥の人たちがいなくなり、強気であれば体制を維持できるとばかりに、軍部はますます強硬になっていきます。朝鮮半島で勝手な事件を起こした軍人は言い逃れて、むしろ軍部の中枢におさまります。また陸軍大学校出の軍事官僚が台頭して、軍隊を牛耳っていきます。
そしてついに中国の東北部に展開する関東軍が、政府の許可もなく勝手なことをします。満州を支配していた張作霖を列車ごと爆破します。さらには1931年9月、柳条湖近くの鉄道を爆破して、それを中国人がやったことにして戦争をしかけたのです。これが満州事変です。
この一件でも責任者は言い逃れ、むしろ傀儡の「満州国」を作った以上、守らなければならないと軍事力を強化します。満州国を認めない国連に対抗して、日本政府は脱退します。新聞はこれを後押しし、大阪毎日新聞も東京日日新聞も、「満州国は日本の領土だ」とニューヨークタイムズに全面広告まで出したのです。
日本国内では、天皇中心の国体至上主義を信奉する皇道派と、統制派の派閥抗争が強まります。その結果、二・二六事件が起き、過激な派閥が台頭していきます。
満州事変を起こした軍人の石原莞爾は「これ以上、戦争を拡大したらいかん」と訴えますが、部下たちは「あなたは満州事変のとき、拡大しようとした」と譲らない。
過激な派閥は生き残り、無責任にも「強気、強気、強気」でいき、国民からも異論は出ず、強気でいくという空気が蔓延していきました。
細かな責任逃れ、他人任せの積み重ねが。戦争に繋がっていった。
講演4
日米開戦前、海軍は「アメリカの海軍には勝てない」と漏らしています。しかし日本海軍は無敵だと言ってきた手前、公には本音は言えない。近衛文麿首相に任せるも簡単に応じず、結局投げ出してしまった。
その後を継いだ東條英機は、「日米開戦を考え直しなさい」と天皇に言われても、二・二六事件のトラウマもあって「戦争を回避したらあのような事件が起きる。戦争では国は滅びないが内乱によって滅びる」と逃げて、戦争回避に踏み切りません。戦争への流れを止めるだけの胆力がなかったのです。
陸軍もまた、アメリカの要求通り中国や東南アジアから撤兵したら、軍の士気を下げ、将校たちに反乱の機会を与える、と。もうやけっぱちみたいに開戦に向かいました。
それまでに大きな敗戦がなかった軍は、勝利を叫ぶことができ、軍事官僚は傲慢になり、軍事の拡張と組織の増量も続いていました。
また、陸軍は「ドイツが勝てば日本が有利になる」とドイツを過信してドイツ任せ。一方でアメリカとの戦いは海軍任せという意識が強い。海軍は弱気を見せたくないから反対しない。
そうした細かい責任逃れの積み重ねが戦争に繋がっていき、本気でこの国のことを考える人材がいなくなってしまった。強気の軍人と官僚が組織を牛耳り、組織を守るためには戦争への道を閉ざせなくなっただと思います。
日本の戦争は、権力闘争で勝利した、小粒の軍人と官僚によってなされたのではないでしょうか。
国民には困難を強いる、戦略なき成り行き任せ。
実際、国民に対する責任感は、何もなかった。あるのは、「敗戦によって国は滅びないけど、革命によって国は滅びる。戦争を回避して混乱を招くなら、戦争をする方がまし」という戦略なき、成り行き任せです。
それどころか「戦争を軍隊だけでやるのか」と、国民にとんでもない我慢を強いる。国家総動員法ですね。名前からしてびっくりですが、戦争になったら何でも動員できる法律です。ついには兵士として若い人がどんどん取られた。すると本土に人がいなくなる。アメリカの日本上陸に備えて少年戦争兵を作り、女性は竹槍を持ち、訓練する。健康で腕自慢の女子を選ぶために、なんと女子も徴兵検査を受けさせられたのです。
自分の責任逃れを続け、取らなければいけない責任を先延ばしする。そうして戦争が長引いていきました。
新聞も太平洋戦争では大本営発表以外、書けませんでした。それどころか世論指導方針を与えられ、国民が戦争に協力する論調をつくるよう強制されました。毎日新聞の社説でも、特攻隊員たちを神様にする賛美の書き方をしています。メディアにも戦争に対する罪があると思います。
「敗戦という責任」を先延ばしするために、戦争を長引かせた。
戦争2
明治維新で政府軍ができ、戦争をしないという選択肢を失った。そして戦争が戦争を養う。それを繰り返すことで政権や軍部を維持させる。戦争を拡大させることで、軍部の指導者たちは生き延びる。生き延びるために戦争を続ける。これが敗北の原因です。
太平洋戦争にいたっては、勝ち目がないから、敗戦による責任を先延ばしして、国民には「いかに死ぬか」を語り、「特攻」で国民を自分たちより先に死に追いやる。
たとえ戦争回避の意見が出ても「お前は弱腰だ」。同時に「弱気では国民が納得しないだろう」と国民のせい。もう泥沼です。
真っ当な人たちを抑えつけ、強硬な人が残っていきました。ついには強硬な人たちが無責任を極めて「一億玉砕」と言い出す。これが日本の戦争でした。
地球温暖化の解決に向け、狩猟時代のように協力し合うとき。
ところでアメリカが戦争をするのは、これまで戦争をしてきて軍部、官僚、軍事産業が複合体となり、戦争が国家ビジネスになっているからです。核兵器も作れば儲かるから、なくならない。戦争をしないときは武器を売りまくる。日本も次々と買い、今後も買わされるでしょう。
そうした国が強気のトランプ大統領を選んだ。世界情勢は穏やかではなくなってきていると思います。
冒頭で、狩猟時代はどう猛な動物に食べられないために、人々が助け合っていたから戦争がなかったとお話しました。その時代に帰るべき、という人がいましたが、ここで私が思うのは、地球環境です。
とくに温暖化については、人類が狩猟時代のように協力し合わない限り解決できないと思っています。今度は地球を守るために一緒になる。核兵器なんか作っている場合じゃない。そういう声を上げるリーダーをつくり、自分たちも声を上げていかなければ、と思っています。
戦争は大量殺人事件です。温暖化を人災とみれば、大災害による大勢の犠牲は、大量殺人ではないかと思ってしまいます。
https://toyokeizai.net/articles/-/444666 【「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇】より
日本は負けを承知でなぜあの戦争を続けたのか
丹羽 宇一郎 : 日本中国友好協会会長
8月15日は終戦の日。あの夏から76年を経て戦争は人々の記憶から、歴史の記録へと変わりつつある。だが350万人の犠牲をけっして記憶から消してはならない。「戦争に近づかないために、日本人は、76年前に終わった日本の戦争について学び直すべきである」と訴え続ける、『戦争の大問題』の著者で、日中友好協会会長の丹羽宇一郎氏が、二度と戦争をしないために心にとどめておくべきことを訴える。
なぜ負けが明白な戦争をやめられなかったのか
昭和の大戦の犠牲者は310万人とも350万人ともいわれる。そのほとんどが戦争末期の1年間に集中している。いったい終戦の1年前には何があったのか。
戦時の日本は「絶対国防圏」という最終防衛ラインを定めていた。太平洋方面における絶対国防圏はマリアナ諸島である。マリアナ諸島を取られると、日本本土全体が米軍機によって空襲可能となるからだ。
事実、東京大空襲ほか主要都市の大空襲、広島、長崎の原爆投下はマリアナ諸島のサイパン、テニアンから飛び立った爆撃機によるものである。そのマリアナ諸島を終戦のほぼ1年前、1944年6月の「マリアナ沖海戦」で失った。この戦闘によって日本海軍は壊滅的な損害を受け、対米戦の敗北が決定的となった。知らぬが仏というが、知らない仏はいなかった。軍人と役人は仏の顔をしながら、その実、鬼だったのだ。
拙著『戦争の大問題』で、元自民党幹事長・元日本遺族会会長の古賀誠氏は次のように述べている。
「マリアナ沖海戦の後に200万人の日本人が犠牲になった。政府はこの段階で戦争をやめるべきだった。このとき戦争をやめていれば、東京大空襲はなかった。沖縄戦もなかった。広島、長崎の原爆もなかった。戦争をやめなかった政府の罪は重い」
(『戦争の大問題』)
戦前、海軍兵棋演習ではマリアナ諸島が取られたらそこで演習終了。つまりマリアナ諸島を取られたら負けなのだ。対米戦の敗北は筋書きどおりとなり、戦争をやめようとしない仏の顔をした鬼によって、負け戦をずるずると延ばし、いたずらに人命を損なっていったのが、1944年6月から1945年8月15日までの日本である。
沖縄では実に県民の4人に1人が犠牲となり、広島では14万人が、長崎では7万5000人が原爆の犠牲となり、東京では10万人、その他の都市の空襲犠牲者を合わせると50万人を超える。この間、多くの兵隊も南方戦線で、中国・アジアで、補給を絶たれ降伏することも許されず病気や飢えによって命を失った。フィリピンのミンダナオ島に軍曹として派遣された谷口末廣さんはこう語っていた。
「最初は(倒れた戦友を)連れていくのが戦友愛、次は手榴弾を1個渡して捕まったら自爆しろよと置いていくのが戦友愛、そのうちどうせ死ぬんだから彼の血肉を生きている者の体力とするのが戦友愛と変わってくる。死人と一緒に寝たとか、死人のものを食べたとか、死人の服を着たとか、死人の靴を貰ったとか、みんな知っている」
戦場で、国内で、人々が酸鼻を極める日々を送らざるをえなくなる前に、なぜ負けが明白な戦争をやめることができなかったのか。この問いは、なぜ戦争を始めたのかよりも重い意味がある。
最後まで責任と権限のあいまいなまま戦後へ
大変な犠牲が出たうえに負けは確実、それでもなお、やめられなかった理由はいったい何だったのだろうか。
私は社長時代に4000億円の不良資産を処理したが、赤字決算となれば株価は下がり、株価が下がれば株主から批判される。ひとつ間違えば経営危機となり、社長は四方八方から責任を追及される。
手柄は自分のもの、責任は他人のものが人間の本性である。そこで、みんな御身大切で責任を取ろうとせず、問題を先送りにしてしまう。
戦時中の指導者もそうだったのではなかろうか。戦争をやめるということは、南方の島々もアジアにおける権益も手放すということだ。それは赤字決算の比ではない。誰も進んで責任を負おうとは考えなかったはずだ。
いや、そもそもはじめから責任を負って戦争に臨んでいたのかも不明である。
これも私が社長時代、ある役員から事業プランが上がってきた。私は実現困難と判断したが、本人が強く求めるので、そこまで自信があるならと実行を認めた。ただし「他人に任せず君が最後まで実際に陣頭指揮を執ることを条件とする」とした。失敗したらその責任を取らせるという意味である。
事業プランの承認を得たら後は現場任せ、失敗しても責任を現場に押し付け自分は取らない。そんな腹づもりなら、失敗しても自分は安全なのだから、無謀な計画でも安易に実行しようとする。これが見通しの立たない事業に手を着けるときの心理だ。責任の所在があいまいなのである。
戦前の外交評論家、清沢洌が戦時下の国内事情をつづった『暗黒日記』にこんな記述がある。
「昭和18年8月26日(木) 米英が休戦条件として『戦争責任者を引渡せ』と対イタリー条件と同じことを言ってきたとしたら、東條首相その他はどうするか?」
「昭和20年2月19日(月) 蠟山君の話に、議会で、安藤正純君が『戦争責任』の所在を質問した。小磯の答弁は政務ならば総理が負う。作戦ならば統帥部が負う。しかし戦争そのものについてはお答えしたくなしといったという」
(いずれも『暗黒日記』)
清沢は小磯総理の答弁を記した後に、「戦争の責任もなき国である」と付記した。清沢の日記中には、今日とまったく変わらない日本人の姿がある。
責任と権限のあいまいなまま戦争が始まり、最後まで明瞭になることなく、天皇の御聖断によって戦争は終わった。戦争を推し進めた指導者は、だれも責任を負って戦争をやめようとはしなかった。
そして、戦争責任はあいまいなまま日本の戦後が始まってしまった。
戦争を始めた責任者が不在でも、戦争をやめる責任を負うことはできる。責任を負うことは国であれ企業であれ、組織のトップに就いた者の務めである。責任を負わないトップは誰がどう言おうとトップの資格はない。
負けると知りながら必勝を叫ぶ無責任
実際に戦場に立った人たちも、なぜあの戦争をやめられなかったのかと問う人は多かった。シベリア抑留を経験した與田純次さんもこう語っていた。
「満州(満州国、1932年満州事変によって建国された中国東北部にあった日本の植民地、1945年日本の敗戦と共に消滅)でやめておけばよかったのだ」
(『戦争の大問題』)
できることなら「満州も」やめておけばよかった。しかし満州事変に国民は大喝采を送った。
「満州事変では関東軍の暴走、朝鮮軍の独断越境(満州の応援に国境を越えて派遣)に、責任を感じた陸軍大臣(南次郎)等が辞表を用意したが、新聞は林洗十郎朝鮮軍司令官を『越境将軍』ともてはやしたため陸軍大臣は辞表を懐に収めた」
(『戦争の大問題』)
結果がよければ規律違反を犯しても責任を問われない。では、結果がついてこないときはどうするのか。結果が出るまでやめないのである。確たる結果もなく途中でやめれば責任を逃れられない。だから、どれだけ犠牲が出ようと結果が出るまで続けるのだ。
だが、日本人は結果に対する査定もあいまいだ。国民の大喝采を浴びて建国された満州国だが、結果的には最後まで経済的にお荷物だったし、国際政治上でも益するところがなかった。
戦前でも、石橋湛山などは「日本が国際社会で立ち行くためには、政治的のみならず経済的にも、満州を放棄するほうがむしろ有利である」と主張していた。
だが形だけのものでも、一度手にしたら放棄するのは難しい。当時の指導者も国民も、ここまでやって手放すのは惜しい、ここまで来ていまさらやめられないという気持ちだったに違いない。権限と決定のあいまいさと、いまさらやめられないは、日本人の悪しき習性であり、今回の東京2020オリンピックや新型コロナ対策でもさまざまな形で影を落とした。
いまさらやめられないと考えた指導者たちも、本気で対米戦に勝てるとは思っていなかったはずだ。
「昭和15年『内閣総力研究所』が発足した。日米戦の研究機関である。陸海軍および各省、それに民間から選ばれた30代の若手エリート達が日本の兵力、経済力、国際関係など、あらゆる観点から日米戦を分析した。その結果、出した答えが『日本必敗』である」
(『戦争の大問題』)
この報告を聞いた東條陸相は、「これはあくまでも机上の演習であり、実際の戦争というものは君たちが考えているようなものではない」と握りつぶした。つまり口が裂けても言えないが、内心日本が負けることはわかっていたのである。
市井の人である清沢はこの事実を知る由もないが、彼の批評眼は事実を鋭く突いていた。
「昭和19年9月12日(火) いろいろ計画することが、『戦争に勝つ』という前提の下に進めている。しかも、だれもそうした指導者階級は『勝たない』ことを知っているのである」
(『暗黒日記』)
東條首相は開戦時の演説「大詔を拝し奉りて」で、「およそ勝利の要訣(ようけつ)は必勝の信念を堅持することであります」と強く国民に訴えた。科学的な検証に目を背け、神風頼みで勝利のみ信じよと国民に迫るのは、とても責任あるトップの言動ではない。国民には仏のような顔を見せていた軍人、役人だが、『暗黒日記』では文字どおり暗闇の中でうごめく鬼と、その正体が暴かれている。
いまわれわれに問われるもの
皇室と日本を深く敬愛した清沢だが、国民に対しては期待と失望が織り交ざっていた。
「昭和18年7月15日(木) 僕はかつて田中義一内閣のときに、対支強硬政策というものは最後だろうと書いたことがあった。田中の無茶な失敗によって国民の目が覚めたと考えたからである。しかし国民は左様に反省的なものでないことを知った。彼らは無知にして因果関係を知らぬからである。今回も国民が反省するだろうと考えるのは、歴史的暗愚を知らぬものである」
(『暗黒日記』)
と手厳しく国民の未熟さを指摘するときもあれば、次のように将来の期待を示すこともあった。
「昭和20年1月25日(木) 日本人は、いって聞かせさえすれば分かる国民ではないのだろうか。正しいほうに自然につく素質を持っているのではなかろうか。正しいほうにおもむくことの恐さから、官僚は耳をふさぐことばかり考えているのではなかろうか。したがって言論自由が行われれば日本はよくなるのではないか。来たるべき秩序においては、言論の自由だけは確保しなくてはならぬ」
(『暗黒日記』)
われわれはこの清沢の期待に応えたい。しかし彼の指摘するわれわれの愚かさのほうが正鵠を射ているように思える。清沢は76年前に今日のわれわれのことを見通していたかのようだ。
いまだに愚かさの先行するわれわれは、努めて自らの行動を慎まねばならない。われわれには依然として動物の血が流れている。動物の血に一度火が点けば、もはやとどまることはできない。途中で引き返すことも不可能だ。このことを忘れてはならない。
2021年8月15日、終戦から76年を経て戦争は人々の記憶から、歴史の記録へと変わりつつある。だが350万人の悲劇をけっして記憶から消してはならない。この悲劇とともに、今もなお、おろかで動物の血を宿しているわれわれの危うさを肝に銘じておくべきだ。
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