https://designroomrune.com/magome/daypage/08/0831.html 【機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク(昭和15年8月31日、西東三鬼】より
昭和15年8月31日(1940年。 82年前の8月31日) 朝早く(午前5時30分頃)、「京大俳句」の同人・西東三鬼さいとう・さんき (40歳)の当地の自宅(東京都大田区大森北一丁目17 map→)に、京都府警の特高が4名、大森署の私服の特高が1名、警視庁の巡査部長と、計6名が乗り込んできます。
天井裏までかき回されて、俳句の本に限らず蔵書のほとんどを押収された後、大森署に連行され、その後京都行きの夜行列車が出るまで、東京丸の内署に留め置かれました。
三鬼が住んでいたあたり(赤丸で囲んだあたり)。大森駅と海岸駅(現・大森海岸駅)間の目抜き通りあたりで歯科医院を開いていたこともある 出典:昭和15年発行の地図(東京地形社) 三鬼が住んだあたりの現況。通りの向うの右手。「ベルポート」の外れから撮影した。このあたりは昭和20年4月15日の空襲で焼け野原になった。我々は被害者になるまで戦争の悲惨に気づけないのか・・・
三鬼が住んでいたあたり(赤丸で囲んだあたり)。大森駅と海岸駅(現・大森海岸駅)間の目抜き通りあたりで歯科医院を開いていたこともある 出典:昭和15年発行の地図(東京地形社) 三鬼が住んだあたりの現況。通りの向うの右手。「ベルポート」の外れから撮影した。このあたりは昭和20年4月15日の空襲で焼け野原になった。我々は被害者になるまで戦争の悲惨に気づけないのか・・・
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三鬼はなぜ検挙されなければならなかったのでしょう?
三鬼はシンガポールで歯科医院を開いていましたが、昭和3年(28歳)帰国、当地(東京都大田区大森北一丁目17 map→)で昭和7年(32歳)まで再開業していました。その後、自営をやめて、東京神田の共立和泉橋病院で歯科部長に就任、その頃、若い患者たちに勧められて俳句を始めています。
その頃はちょうど、句誌「ホトトギス」に代表される従来の花鳥風月を詠む俳句からの脱却を目指す新興俳句の勃興期で、三鬼は、その中心をになう句誌「天の川」「旗艦」「京大俳句」「 傘火かさび 」などに参加し、句作にのめり込んでいきます。これらの句誌はモダニズム、ダダイズム、リアリズム、反戦思想といった様々な潮流を果敢に俳句に取り込んでいきますが、三鬼はその中でたちまちに頭角を現し、昭和11年(36歳)頃からはそれらの句誌で選者を務めるまでになります。
ところが、昭和15年初頭から、新興俳句への当局の弾圧が始まります。社会をリアルに描こうとすれば、自然、その矛盾や不条理にも突き当たりますが、それを表現することが体制批判、反体制、非国民(今でいう「反日」)、社会主義・共産主義(今でいう「左翼」)と受けとられたのでした。新興俳句の主要メンバーが治安維持法違反で次から次へと検挙され、関連句誌が廃刊に追い込まれていきました(「新興俳句弾圧事件」。被害が大きかった「京大俳句」への弾圧を取り上げて「京大俳句事件」とも)。その流れで三鬼も検挙されたのです。
国が認める範囲の季語を使うよう推奨され、それを超える表現をすればすぐに目をつけられる。「表現の自由」などあったものではありません。自由に表現することすなわち「治安を乱す」といった解釈でしょう。“非常時”(戦時、災害時など)には、国家は国民に徹底した服従を要求してきます。
その頃、三鬼は、次のような俳句を作っています。
機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク
逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ
砲音に鳥獣魚介冷え曇る
占領地区の牡蠣を将軍に奉る
これら戦争の残虐性や非人道性を見事に結晶させた作品は、「けしからん」となるのでしょうが、
昇降機しづかに雷の夜を昇る
を特高は「雷の夜はすなわち国情不安定なとき、昇降機(エレベーター)すなわち共産主義が高揚する」と解釈して責め立ててきたそうです。おそらくはどんな表現でも罪に定めることができるのでしょう。
検挙された三鬼は、新興俳句や自由律の俳人の系図のようなものを見せられ、「仲間を売る」よう誘われます。その系図には、石田波郷、石塚友二、加藤楸邨、山口誓子 、日野草城、 水原秋桜子の名もあり、波郷、友二、 楸邨には「プロレタリア・リアリズム」「社会主義・リアリズム」と註釈がついていて、 三鬼を驚かせます。
検挙のおり自宅に踏み込んで来た一人の警視庁の巡査部長は、捜査に関係ない漱石全集など値が付きそうな本を大量に押収していったそうです。三鬼は京都からの特高に「古本屋に売るんだっせ」と教えられます。その特高も京都までの汽車賃を三鬼に払わせ、官給される被検挙者の切符代を着服。そもそも「京大俳句」が狙われたのも、欲づくで、京都府警特高部に新しく就任した中西警部が“成果”を挙げたいがためだったと三鬼は考えました(前任者は「大本教事件」で手柄を立てた)。“成果”を挙げるためにでっち上げられた「横浜事件」(雑誌編集者、新聞記者ら60名が逮捕され、うち4名が獄死)と同じ構図でしょう。
一点救われるのが、同道の巡査は親切だったこと(「横浜事件」でも看守は親切だった)。「魚は頭から腐る」というのは本当なのかもしれません。
京都の特高は、東京の特高のように残虐でなかったのか、「治安維持法の最高は死刑」と脅されたり、怒鳴られたりはしても、拷問はなかったようです。どちらかというと温情主義で、手記を書かせた後、2〜3ヶ月後の11月(昭和15年)、三鬼を起訴猶予で放免しています。俳句を作るのを禁止されたので、三鬼はその後敗戦までの5年間、俳句を作っていません。放免後も特高につきまとわれたようです。
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