ホトトギス

http://0209ko.sakura.ne.jp/haiku/kamisama1.htm 【俳句の神様】より

 俳句結社ホトトギスでは写生を重んじており、「俳句は滑稽でも閑寂でもなく、自然をそのまま詠む客観享受の文芸である。」と主張している。そのまま自然を詠むとはいっているが、本当に良い写生句は、句の中に新しい発見がある場合や人生の深みをモノを使って暗喩的に表現している場合が多い。実は写生派とはいいながらも本当の写生派は詩人であり、一般の人がなかなか見つけることのできないものを見つける能力を持っているのである。

 写生を一般の人が追求する場合、大きな落とし穴がある。それは写生が些末主義に陥り、虫眼鏡で観察するような細かい事実をなぞっただけの句になってしまうことが多いのである。たとえば、台所の隅に白い黴が繁殖していたとしよう。些末主義の人は、その黴がどれくらい繁殖していたかやどのように広がっていたかなどに注意を向けてしまうのである。定規を取り出し、縦0.8センチ、横1.2センチ。よって面積は、0.96平方センチメートルなどと調べ、「白黴や0.96平方センチの世界かな」などと句を作ってしまうのである。実際こんな句を作る方はほとんどいないが、分かりやすく、大げさに表現してみたのである。だが、これに近いことをやっている方が写生派には、結構いるのである。だが、その些末主義的な句は、私自身それほど嫌いではないのである。些末主義を突き詰めていくと、滑稽の彼岸が見えてくるのである。さらに追求していくと、俳句の神様が見えてくるのである。つまり、普段見えない世界が見えてくるのである。そこには発見されていない俳句が貴方を待っているのである。

 先ほどの句に関して暗喩で表現するなら、白黴の世界の中には、白い街並みが遙か彼方まで広がり、俳句の神様が白黴神社の大木の下に座り込み、句を地面に書いている姿が見えてくるのである。その句が解読できたら大したものである。

 些末主義の批評を恐れる必要はないのである。偉い詩人は些末主義にとても接近しているのである。ただそのことを一般の人には教えないだけのことである。些末主義は努力を必要とするのであり、俳句は努力すればそれなりの佳句がつくれるのである。些末主義を突き抜けた所に俳句の神様が存在するのである。


https://tsukinami.exblog.jp/27128121/ 【ホトトギス的均衡~写生と季題】より

正岡子規の「写生」論は、じゅうぶんに古典の知識をもたない大衆、低学歴の庶民でも短詩型文学にとりくむことのできる方法論として、倒幕・明治維新の熱気冷めやらぬ近代青年たちの心をとらえ、俳諧連歌から俳句への革新的移行を推し進めることに大きく貢献しました。

ところが、まもなく「写生」の名のもと野放図な自己主張のみが拡散していく状況を懸念した高濱虚子は、大正期に入ると「客観写生」の指導語をもって、作家の個性を重んじた句づくりを抑制する立場へと転換をはかります。よって、客観写生イコール現実をありのままに描写すること、ではありません。

さらに昭和期に入ると、ホトトギス雑詠欄の選句作業をとおして「客観写生」の名のもと些末的描写にこだわった凡句が粗製濫造されるさまを目の当たりにした虚子は、こんどは「花鳥諷詠」という第二指導語をもって、花鳥風月すなわち「季題」を大切にする旗幟を鮮明にし、もう一度明治革新期以前に必須とされた古典文学の教養をとり入れるべく、ふたたび転換をはかります。ただし、写生との調和をはかるべく、季題諷詠でなく花鳥諷詠の造語を用いました。

すなわち、わざと現実描写(写生)と古典趣味(季題)という相反しかねない二つの理念の間に立って、俳句および俳壇に均衡をもたらそうとしました。このバランス感覚こそが、昭和期を通じて、ホトトギス主流俳壇の基本姿勢となりました。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498749857.html 【高野素十の凄みについて】より

高野素十(たかの・すじゅう)は、昭和初期から活躍し、水原秋櫻子・山口誓子・阿波野青畝とともに“4S”と称された人である。

秋櫻子、誓子、素十、青畝…、みな“S”で始まるので“4S”と呼ばれた。

みな、20代~30代で台頭してきた新しい時代の「ホトトギス」の若手俳人である。

4Sのうち、素十と青畝は生涯、高浜虚子に師事し「ホトトギス」にいた。

秋櫻子、誓子は「ホトトギス」を脱退し、新興俳句の旗手として活躍した。

(ただし、先日、稲畑廣太郎さんのインタビューでは誓子は生涯「ホトトギス」に所属はしていた、とおっしゃっていた。)

「ホトトギス」一強時代を壊したのが、秋櫻子であり、誓子である。

秋櫻子が「ホトトギス」を脱退したのは、虚子との対立であり、素十との対立に拠る。

秋櫻子は“主観的美”…、つまり自分が理想とする美の構築を追求した。

それに対し、素十は“純写生”“純客観写生”…、つまり主観を排し、ただ、眼前の景色や風物を単純に“写生”した。

虚子は素十に“加勢”した。

昭和3年、虚子は「秋桜子と素十」という一文を書き、

この作者(※素十のこと)の心は、夫(もっぱ)ら実際の景色に遭遇する場合、その景色の美を感受する力が非常に強い。

同時にその感受した美を現はす材料の選択が極めて敏捷。

と素十を誉め、秋櫻子の“主観美”より、素十の“純写生”を支持した。

これによって秋櫻子は態度を硬化し、虚子・素十VS秋櫻子の対立が決定的となる。

もともと秋櫻子、素十は同じ東大医学部の同窓で、草野球チームでは素十がピッチャー、秋櫻子がキャッチャーをやっていた間柄で、大の親友であった。

素十が俳句を始めたのも秋櫻子の誘いによるものである。

その二人がなぜ、決定的に対立したのか?文芸上の対立もある。

が、私にはもっとその他に感情的な、生き様の違いのような対立が生まれた、と考えている。(このへんのところはちょっと書きづらい。)

昭和6年、秋櫻子は、主宰誌『馬酔木』に「自然の真と文芸上の真」を発表。

「ホトトギス」から離脱した。

その時、槍玉に挙げたのが、素十の、甘草の芽のとびとびのひとならび という句だった。

「非近代的」と批判した。

以後、新興俳句勢にとって、この句はもっとも軽蔑すべき句とされ、客観写生、些末的な描写を批判する際、「草の芽俳句」という言葉で揶揄するようになった。

私は、秋櫻子が好きである。

作品だけでなく、秋櫻子の生き方も清らかでいいと思っている。

東京神田の生まれで、一本気のところがあった。

それゆえ、素十を否定する側の人間であるが、最近、素十作品の凄さがわかってきたような気がした。

それは、素十を尊敬する香川県高松在住の俳人・涼野海音君と話したり、その文章を読んで思った。

一部を引用してみる。

ひつぱれる絲(いと)まつすぐや甲蟲(かぶとむし)   素十

甲蟲の句は、一筆書きのようにシンプルであるが、技巧が伴っている。

「単純化」という目立たない技巧を、素十は用いたのである。

(略)

素十は、俳誌『芹』の創刊号に「写生は志向であり実践である」と書いている。

(略)

私は四年制大学卒業後に、通信制の大学および大学院で六年ほど、素十の俳句を研究した。

簡潔な表現で季語そのものに迫る、素十の句に魅了されたのである。

涼野海音

ここであらためて感じ入ったのは、素十俳句とは、まとめると、

単純に、シンプルに、簡潔に、季語の本質に迫るということである。

まあ、単純もシンプルも簡潔もほとんど同じ意味だが、要するに、徹底的にシンプルに!

と言いたいのである。

季語に迫るとは「ものの本質」「いのちの根源」に迫ることである。

素十の句には、和歌などに代表される、詩歌の伝統「雅」も、松尾芭蕉の「わびさび」も、高浜虚子の「花鳥諷詠」も、秋櫻子の「叙情」もない。

ただ端的に「ものの本質」に迫る、「いのちの本質」に迫る、ということである。

その為に、すべてを徹底的に単純化し、簡潔にする…、それが素十の手法であり、凄みなのではないか。

別のいい方をすれば、句の中に「一切の雑味、雑音」を入れない、ということである。

例えば、甘草の芽のとびとびのひとならび を、仮に、風の中甘草の芽のひとならび

とする。これによって「叙情」が生まれる、と考えてもいい。

しかし、「風の音」という雑味が加わってしまうのだ。

二句を較べてみれば、どちらに“雑味”が無いか、一目でわかる。

素十の凄さは、極限まで単純化し、濾過した詩世界。これが素十の凄味ではないか、と思うようになった。

(※写真の花は甘草というわけではありません。)


http://shiika.sakura.ne.jp/jihyo/jihyo_haiku/2012-11-09-11726.html 【ひとつの白痴的継承―宇多喜代子編著『ひとときの光芒 藤木清子全句集』】より

『ひとときの光芒 藤木清子全句集』(宇多喜代子編 沖積舎)が刊行された。『片山桃史集』(南方社 一九八四)に続く、宇多の大きな仕事である。

新興俳句の圏内にあった女性俳人として稀有の存在であった藤木清子の俳句は、これまであまり一般に知られているものではなかった。単行本としては、戦前、阿部青鞋編『現代名句集』第二巻(教材社 一九四一)に「しろい晝」と題する作品一〇〇句が掲載されたことがあったが、藤木の俳句の復権はその半世紀以上の後――すなわち宇多喜代子『イメージの女流俳句』(弘栄堂書店 一九九四)によって試みられたというべきだろう。また『新興俳句表現史論攷』(桜楓社 一九八四)に藤木の句を採録していた川名大も、その後『現代俳句』上巻(ちくま学芸文庫 二〇〇一)や『挑発する俳句 癒す俳句』(筑摩書房 二〇一〇)などで藤木を論じている。しかしながら『旗艦』『京大俳句』をはじめ新興俳句系の雑誌に作品が発表されていたこともあり、藤木の句業の全貌を目にすることは困難であった。そこへ(本書末尾に「遺漏句(他誌への発表句)があるやも知れません」と付言されているものの)ようやく藤木清子を読むための重要なテキストが出現したのである。今後、新興俳句のみならず俳句表現史を問ううえで不可欠の一書となろう。

藤木清子は謎の多い俳人である。生没年さえ不明のこの俳人について川名大は次のように記している。

藤木は初め「水南女(みなじょ)」と号していたが、日野草城主宰の「旗艦(きかん)」の昭和十年二月号に、「広島県 藤木水南女」の俳号で初めて句が載る。翌年、夫と死別、子を持たぬ寡婦となった。同年九月に藤木清子の俳号となり、昭和十三年の初めに神戸に転居。以後、十五年まで「旗艦」誌上で心境俳句や戦争俳句に佳品を発表したが、昭和十五年十月号に「ひとすぢに生きて目標うしなへり」を発表したのを最後に句作を断った。「旗艦」昭和十六年一月号に「保護色と言ふことについて」という最後の文章が載るが、身体的にも文学的にも挫折せざるを得ない困難に立ち至ったことを窺わせる内容である。以後、藤木清子の消息は不明のままだ。(前掲『現代俳句』上巻)

なお川名はその後、藤木の投句開始時期について、昭和六年に「蘆火」に藤木水南女の俳号で投句を開始したとも述べており(前掲『挑発する俳句 癒す俳句』)、全句集にも昭和六、七年の藤木の句が見られる。

ここでもう少し川名の言に従おう。川名は藤木の句を次の二つの観点から藤木を「俳句表現史上、新興俳句随一の俳人」と評している。

ひとりゐて刃物のごとき晝とおもふ

しろい晝しろい手紙がこつんと来ぬ

晝寝ざめ戦争厳と聳えたり

戦死せり三十二枚の歯をそろへ

初めの二句がいわゆるエスプリ・ヌーボーの領域。次の二句がいわゆる戦争俳句(銃後俳句)の領域。(前掲『挑発する俳句 癒す俳句』)

川名はこのように述べたうえで、これらの句において「寡婦の視点」から新興俳句の新感覚が発揮されている点、あるいは「寡婦の視点から銃後の世への率直な思い」が表現されている点に独自性を見出している。すなわち、「寡婦」という境遇が自らの方法の発見へとつながり、そこから生まれた「刃物のごとき晝」という新感覚や高野窓秋にはじまる新興俳句の「白」の表現の更新、そして渡辺白泉とは異なる場所から生まれた戦争句こそが藤木を「新興俳句随一の俳人」たらしめているのである。

前掲の二句(「ひとりゐて」「しろい晝」)については、宇多もまた『イメージの女流俳句』において高い評価を与えている。しかしながらこれらの句を生みだして以後の藤木について宇多は次のようにも評しているのである。

昭和十四年にもなると、藤木清子の俳句は足踏状態になり生彩を欠いてゆく。(略)せいぜい自嘲し、憐み、自暴気味にふるまうことが藤木清子の自愛の表現であったと思われるのだが、それでいて一般社会の中でのモラルにそって生きている、というやり場のない壁とでもいえばよいのか。この壁の向うへとどかぬ視力の限界内での感情の吐露はひたすらなる反芻にすぎず、もはや新たなる言葉空間を展開する突破口はどこにもみられない。(略)なまじ文学の一端に触れた藤木清子の知性は、日常と熾烈に向い合う現実の中でますます自縄自縛の痛みにさらされていたように思えるのだ。

宇多は全句集に収録された講演録のなかでも「目標としていたものが文学であったとして、自らの何がどうその文学なるものと接しているのか、そこのところが自分でわかっていなかったのではないか」と述べている。いわば言語表現が自らの生と切り結ぶときに生じる火花としての作品を、戦時下における寡婦という特殊な状況におかれたことによって藤木はほとんど偶然に掌中のものとしていたのであった。そう考えるとき藤木の文学的夭折は必然であったとも思われてくる。

ところで、講演録のなかで宇多は、こうした藤木の作品のみならず、戦時下にあって新興俳句運動が俳句史上重要な実績を残したこと、そしてそのなかに藤木清子という一人の人間がいたこと、そして彼女が懸命に生き、作家としての生命を燃焼させていたことそれ自体にも意味を見出している。これを「新興俳句に関った女性の数が少なかったせいもあろうが、その僅かな数の女性のうちでいわゆる主婦俳人として戦前戦中戦後を生きぬいてきた女流は、ほとんど無に等しい」(前掲『イメージの女流俳句』)という宇多の言葉と重ねてあわせてみるとき、宇多がこの全句集に込めた思いがいっそう明らかになってくる。「後記」の末尾に付された「このささやかな一冊を、お若い方々が手にしてくださることを期待しております」という一文が、決して看過できないそれとして立ち上がってくるのはまさにこのときである。

かつて「未定」の同人でもあった宇多は、「戦後派」の向こうを張ったいわば「戦無派」の俳人たちと行動をともにすることがあったが、現在の二〇代や三〇代の「若手」はその子ども以降の世代に当たる。いまや戦争を知らないどころか「戦無派」の仕事さえも僕らには次第に遠いものとなりつつある。宇多のささやかな焦燥は、先人たちや自分たちの仕事をもはや受けとめることができなくなりつつある新しい世代への危惧にその要因のひとつをもとめることができようか。それはいわば「歴史」をなおざりにする表現者への警鐘でもあろう。

だが僕はややもすると、「新興俳句随一の俳人」であり懸命に生きたひとりの人間としての「藤木清子」を知ったうえで、それでもなお「藤木清子」を看過しようとする衝動に駆られることがある。

思えば、僕らの目の前にはいつだってカルチャーセンターの俳句が大量に流通していたし、「俳句って楽しい」ものであった。その一方で、それらを批判する言説さえもすでに過去のものとなっていた。女性は俳句をつくるものだったし、女性の多数を前提にして俳壇や総合誌は運営されているものだった。そのようななかで、懸命に俳句をつくることには共感できても俳句に殉ずるなどという文学青年らしい血気など正気の沙汰とは思えなかった。僕たちには俳句に「未来」を見出すことはできなかったけれど、そこにはいかにも便利なテンプレートとしての「過去」があった。そしてそこから反射的痙攣的に生み出される表現を、あらかじめ用意しておいた「俳句」という名で呼ぶことが、ほとんど唯一といっていいほど確かな「現在」の手ごたえであったような気がするのである。いわば「歴史」を知らないし参画するつもりもないというその白痴的な素地と身ぶりとにおいて、ようやく僕らは決定的に「僕ら」でありえたのかもしれなかった。

だから僕は、宇多や藤木の志の前にあまり不用意に襟を正すようなことはするまいと思う。しかし本当のことを言えば、藤木の文学的夭折を自らのものとして受けとめようとする意志とは、いまやそういうふうに現れるものなのではないだろうか。僕たちがその不遜な出自と振る舞いに目を凝らしつつそれでも詠うのであれば、それは「自縄自縛の痛み」を抱えつつそれでも詠った藤木のありかたと、どこかで交錯するものであるように思われるのである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000