Facebookごとう 孝二さん投稿記事「この世のすべては意識で出来ている」
この認識をまず、持ってほしい。
ジョン・レノンはイメージしよう!(イマジン)と言った。そしてマイケルは癒やそう!(Heal the world)と言った。癒やすとは精神的な意味で、病気を治すとは意味が違う。
ボブ・マーリーは「ONE LOVE」と歌った。キヨシローは「イマジン」を日本語で歌ってくれた。あの、アナスタシア(ディズニー映画)のお父さんは歌唄いだったと言う。
その美声に誰もが聞き惚れ、その歌に皆が影響されたという・・
その影響力を恐れた権力者が彼を牢獄に閉じ込めたという。現代なら暗殺される・・・という事か。
それはなぜか?権力者は何をそんなに恐れたのか?アナスタシアのお父さんはどんな歌を歌ったのか?現代の歌にも、それが唄われている。
これらの歌たちは、まるで物質的な事を唄っていないのだ。デモに行こう、とか革命を起こそうとも言っていない。すなわち反社会的な内容でもないのだ。
じゃあ、なぜこの歌達を唄った歌手たちが弾圧されてしまうのか?一体、権力者側は何を恐れているのか?と言う事だ。それは民衆の「意識」が変わる事なのだ。
それが権力者側が一番恐れる事なのだ。すなわち彼らは「この世は意識で出来ている」事を知っているわけだ、
人々の意識を利用すればこの世は征服出来ると・・・彼らはずっとその方法を使ってきた。
そしてもうひとつ彼らが恐れる事があるのだ。
それは「愛」という「宇宙最強の力」に民衆が気づいてしまう事だ。そしてまた、それは「意識の変換」で起こる事を知っているからだ。彼らが(権力者側)恐れているのはこの2つだ。しかし逆に考えれば、これは彼らの弱点だと言っていいわけだ。
すなわち・・・彼らを倒せる力を我々は皆、持っていると言う事なのだ!
意識を変換して〝愛〟に目覚めるこれだけでいいのだ!これだけ!
たったこれだけの事で、この世は変わってしまうのだ!
向こうが使って来た「やり方」をそのままお返ししてやるだけ!そういう事なのだ。
いくらデモをやっても、反対しても、あっちは痛くもかゆくもないんだ、彼らが一番恐れているのは「意識が変わる」ことなんだ。
ジョン・レノンもマイケルもボブ・マーリーもキヨシローも、その事を伝えようとしてた。
みんなでそれをやったらどうなるか?彼らはそれを知っていたんだ、それはこの世で一番伝えてはいけない、隠されてきた「教え」なんだ。僕の言いたい事はもう解るでしょう?
そう、みんな「意識」を変えて「愛」最優先で生きてほしいのだ!
生活がどう、とか収入がどうとか、そんな事はどうでもいいんだ、とにかく「愛」最優先に生活を切り替えてほしい!
どんな仕事をしてようが、酒を飲んでいようが、タバコを吸っていようが、電気を使っていようが、車に乗っていようがそんな3次元的な事はどうでもいいのだ!
ニュース見て一喜一憂する暇があったら「愛」に真剣になってほしいのだ、愛こそすべて!なのだ、ただひたすらに「愛」に目覚めるのだ!
そして、それがどんな社会運動よりも、一番「強力」なんだと知ってほしい、「宇宙最強」なのだ! だから全力で「愛」を見つけてほしい!全力で愛し愛されてほしい!
本当にそれだけでいいのだから!「世界を変えるたった一つのやり方」はこんなに簡単なのだ!本当にこれだけ、ものすごくシンプル。
「愛」最優先に意識が変わると、自然の少ない所は居心地が悪くなったり、またパートナーがすぐに見つかる人も多い、逆に離婚する人も出てくる、
自然の多いところに引っ越したり、仕事を変える人も出てくる、
それは3次元的な価値観が変わって来るからで、自然と起きる事が多い。
と言う事で、これを読んじゃった「あなた」!今から「愛」最優先の生活に「意識変換」して下さい!あなたが世界を救うのです!
TFacebookoshihiko Wakabayashiさん投稿記事 ありがとう❤️🌈
これやっぱり素晴らしい言靈だわ 添加物多くてもありがとうって声に出す
もしくはありがとうと思いを伝える 毒抜きになるって書いたけど 厳密には毒に左右されない 氣が流れるというのが真相
だからスマホにもありがとう すると電磁波は出て害があるはず だけど自分には無毒化
知り合いにこういう人がいました 徹底的に身体に悪いものを避ける でも恐怖や不安を強く持つことが 身体にすごく悪いので 色んな病気にかかり 早死にされました 本末転倒だよね
不安、恐怖 これは自ら悪い世界を創造する なぜならみんな創造主だから
だから細かいことは抜きにして 明るく楽しく生きたらいい そして「ありがとう」なのよ
「ありがとう」この言葉は ただの感謝の表現でなく マントラと言われる言靈なの
この言葉「ありがとう」は 発する時に身体や頭蓋骨に 響く振動が実にパワフルな
宇宙エネルギーを生み出す 例えば営業マンなら お客様と会う前にお客様を 思い浮かべて「ありがとう」って言ってみて
例えば看護師さんなら患者さんに会う前に「ありがとう」 先生やインストラクターなら
授業やレッスン前に 生徒さんを思い浮かべて「ありがとう」って言ってみて
嫌いな相手にも無茶苦茶有効
こういうのもいいよ 朝起きて鏡の前で みんなに「ありがとう」さあやってみて
あなたの宇宙は変わります😊
聖書に「園の中央にある善悪を知る木から取って食べてはならない。食べると死ぬから」と書いてあります。取って食べたアダムとイブは 神を失い、楽園を追放されます。
善悪の区分をすることは自己を神化することであり、絶対的な善悪は 存在しないということではないでしょうか。
「ハートビーイング」というライフスキルプログラムがあります。
その中で人に言われて 嬉しかった言葉を書き出す作業をします。いつもと言って良いほど トップになる言葉があります。それは「ありがとう」です。
感謝の言葉が 人を癒し 愛の循環を生む力を持つことが 良く分ります。
若い頃の私はモラリストが嫌いでした。偽善者のように思えたからです。
しかし偽とは人(の)為と書くのも面白い。
(無関係かもしれませんが 私が優の字が好きなのは 人が憂うと書くからです。憂いを知る人は優しく優れている、優秀ともいえます。)道徳律を押しつけられるのも嫌でした。
ひところ不登校が話題になりました。「よい子で頑張ること」が 不適応を生む大きな 要因と言われました。善い子とは 周りの大人にとって都合のよい子の呼称です。
善い子は自分の意思より 周囲の期待や価値観に応えることを優先します。
成長する中でいつの間にか自分を失っていくのです。
保育士の研修を担当していますが その方々の大多数が 善い人でなければならないという誤った信じ込みを持っています。
研修内容の一つに「~さん あなたはかけがえのない大事な方ですよ。ありのままでいいですよ。よく頑張ってきましたね」と伝えるプログラムを入れています。皆 大感激を受けます。
しかし「善い人であれ」を自分に課して 生きていくと周りから評価を得 人生を勝ち取る大きな力になります。
このような 自分を縛りながら 一見人生を勝ち取ってきたかに見える厄介な信じ込み(一般的にドラィバーと呼ばれる)は気づいても手放す(自由になる)のが困難です。
以前思春期の自分のささやかなレジスタンスぶりを紹介しました。この頃の自分はむしろ偽悪者を目指していたのかもしれません。
虚無に目覚めた中学時代のある日から 毎日やり続けていた気象観測もぴたりと止め、レギオン遍歴をはじめました。
授業は興味が持てないとボイコットに徹するのですが(教科担任に帰れと言われ 帰ると次回からは教室に入れないと宣告されました。クラス担任が平謝りに謝って 事なきを得たこともありました。)
試験をボイコットした時も クラス担任が自宅まで 車で迎えに来てくれました。
教科書持ち込みでいいから 追試を受けるよう言われましたが、授業が進めば そこまでの教科書は破り捨てていましたので 持ち込み用の教科書もありません。
その後はどうなったか記憶にないのですが退学届まで提出し、突き返された高校を 無事卒業してしまいました。
休み時間は職員室に入り浸りの 不思議な少女でした。教師たちには主に「生きる意味」を尋ね続けるのです。ある理科の教師が 「命とはリトマス反応のようなものだよ」とそっけなく言い切りました。(今はわかる気がします)
教師たちもニヒリストが多く逆に「死ぬ自由があるものとないものとどちらが幸せだと思うか?」「浦島太郎はなぜ老人になったと思うか?」などチンケナ質問をされてしまいました。授業中はチョークを投げつける教師が自宅にまで招待してくれました。
理科室、図書室はフリーパス。図書室は高校生になってからもフリーパスでした。
こんな私は真面目か不真面目か決められますか?
意味を問う落とし穴は 無知の底なし沼、レギオンの墓場となりました。
善悪を区別してすっきりしようとする独善からようやく解放され続けています。
コメントをいただきました。
心の色眼鏡・・・。最も恐ろしいのは親から子へ、子から孫へ形を変えながらうつってしまうトコだと思います。
私が子供の頃、自ら死を望むほどイヤだった母から受けた行為は母が祖母から受けたものが原因だと気がついてからやっと母を許せるようになりました。
祖母も母もそれは良かれと思ってやっていたのです。
聖書の冒頭、私が一番心に残っているのは食べてはいけないとされた木の実は『善悪の知識』の実だったところです。
良い悪いを判断するのではなくあるがままで生きて生きたいものですね。
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親は人生の先輩だと思って 子どもに色々強要してしまいますよね。
私は 夫にも 二人の愛子にも キリスト教を強要してしまいました。
意識では 自分が最善だと思うものを 伝えるのが責任だくらいに思っていました。
思春期生きる「意味を問う」ニヒリスト、レギオンを脱し 神様に「いかに生きるかを問われるものになろう」と心に決め 虚無の淵を 乗り切った経緯は記してきましたが それ故に 善きクリスチャンワーカーとして 自他からの評価に耐え得るよう もがき続けてしまったのだと思います。
弱く敗れに満ちている自分を(神に愛されるものとして)愛する力がなかったからだと思います。
日曜日は家族で教会に行くのは我が家のルールでした。
しかし娘が中1の時 「自分は生まれた時から教会に連れていかれ 価値観の根底には嫌でもキリスト教がある。学校で友人からいろいろ誘われても 教会があるからと断ればみんな引いてゆく。 自分を自由にしてほしい。」という旨 宣言され、唖然としてしまいました。それ以来キリスト教の強要は止めました。
そして今 霊現象故に 神観も、人間観も、価値観もすべて覆され ようやく新しく生まれ変わろうとしているという実感です。よく止めたと今でも思います。
善悪を判断するのでなく あるがままで生きていきたいですね。
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まあ、生まれてきた名を 背負う これは、正直 逆らったら終わりかもしれませんね。
俗に 名は体を表す。呼ばれるように自己イメージを持ち 自己イメージのように生きる。
名を背負うということでしょうか?
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セネカは怒りの状態の人に「鏡」だそうですよ。
怒りは自分の心の投影だと言われる故、じぶんをうつしだすかがみといえますね。
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