https://dananet.jp/?p=8463【『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』(10)】より
石嶌 岳
雁帰る攫さらはれたくもある日かな 大石悦子
春に雁が北へ帰ってゆく日などは、誰かが来て自分をどこかへ攫っていってしまってくれないだろうか、というのです。白馬の王子様が来て連れて行って欲しいというような女性ならではの心理なのでしょうか。または、鬱屈した心から解放されたいという願いなのでしょうか。雁が飛んで帰ってゆくという景色を見ての一瞬の心の動きに気づいたのです。つまり、帰雁という眼前の景色が、心の奥にあるものを引き出したのであります。
雁渡しいのちいつさい吹かれをり 大石悦子
この句も雁に関するものですが、「雁渡し」とは、雁が日本に渡って来る秋に吹く風のことです。そんな雁渡しに自分のいのち一切が吹かれ飛んで行ってしまいそうだというのです。自分のいのちの傷みを感じさせてくれています。
てふてふや遊びをせむとて吾が生れぬ 大石悦子
蝶々が無心に飛び回っているのを見て、悠久の時間のなかでほんのひと時をこの世に生れてきたことを思っているのです。平安時代の歌謡集『梁塵秘抄』にある「遊びをせむとや生まれけむ戯れせむとや生まれけむ」を下敷きにして詠まれております。この句も飛び回っている眼前の蝶々を見ての心の動きが句になっております。
蕪村忌の京に一日を遊びけり 大石悦子
江戸時代の俳人・画人の蕪村が亡くなったのは十二月二十五日です。この日に作者は、江戸時代の遊郭のあった京都島原の「角屋」で丸一日遊んだのです。何して遊んだかといいますと、十数名の人たちと俳句を作ってはお互いの俳句を読み合って遊んだのです。「島原蕪村忌大句会」という俳句会です。私も一度参加させていただいたことがあります。
亀鳴くや詠ふとは虚に遊ぶごと 大石悦子
春の夕べにどこからともなく聞こえてくる声を亀が鳴いていると興じたところから、「亀鳴く」という季語が生れたのです。実際には亀は鳴かないそうです。そのように虚の世界に遊ぶことが、俳句を詠むことの本来の精神だというのです。
大石悦子は、「悲しみが言葉となり、俳句のかたちになることで、魂が救済される思いがした」と『自註現代俳句シリーズ・大石悦子集』のなかで述べております。俳句を詠むことで救われるという思いがすることがあるのですね。
この寺の花守ならばしてみたし 大石悦子
百済野の春の大きな夕日かな 大石悦子
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
石嶌 岳(俳人)
応用DNA3日目のペアワークでは思わぬ気づきがありました。
私のテーマは「雑談が苦手」「特に近所付き合いが面倒」です。
子どもが小さい頃は子どもを通しての共通話題があり、近所付き合いもしていたのですが二人の子どもが自立して出て行ってからは殆ど話すこともなくなりました。
もともとクリスチャンワーカーだった私は 日曜日は家族そろっての教会デーでした。
そのことで一番最初に根を上げたのは 中1になった娘でした。
土着の宗教ではないキリスト教信仰は、やはり社会から受け入れにくい信仰でした。
もしかしたら、義理の両親との確執の大きな要因だったのかもしれません。
その上義母が隣人に悪口を言い続けている現場はよく見ましたし、子どもたちからその内容を聞く羽目にもなりました。それだけではなく 私と衝突すると、両親揃って当たり散らし、義母は電話の前に座り込み、親戚一同、民生委員、警察、私の実家、そして教会にまで苦情電話をかけ続けました。
夫が中に入り暴力沙汰になったことも幾度か!!
たまりかねて私たちが引っ越せば 転居先まで義父が日参。義母は心筋梗塞で入院。
一人っ子という重荷に耐えかねて、プライバシーを尊重するという条件で同居生活に還りましたが、約束は、なし崩し・・
出戻りの家族に対する隣人の眼は 決して快いものではありませんでした。
しかも私の関心は「キリスト教教育主事としての専門性を高める学び」に向いていました。その流れから みなみ心理健康オフィスを開設することとなり、私の心の世界から隣人を追い出してしまいました。
その上、心理健康オフィス開設準備の自己浄化から、クンダリーニが覚醒し、凄まじい霊現象が始まってしまいました。その最中で夫が脳溢血で倒れ、長い闘病生活が始まりました。
ようやく社会復帰が可能になり再出発をする頃には 私は霊現象に翻弄され続け、生死の境をさまよい続ける状況でした。私の人間関係も 霊現象絡みの不思議な関わりばかりになりました。その中で上祐史浩さんとも会うことになり、過去世絡み(ジョイ=上祐??)の不思議な縁で ひかりの輪の在家スタッフへのお誘いがあり、ヒーリング道場の素案を示され、烏山で本部スタッフの仲間入りをし、横浜道場の担当さえすることになりました。
諸事情で今はひかりの輪とも縁を切りましたが これで私は二度目の出戻りをすることになりました。そのうえ霊現象は峻烈さを極め、自宅に閉じこもり状態。どうかすると一か月以上も外の空気に触れない生活をしました。キリスト教関係の関わりを一切失い、仕事をすべて手放し、悪霊との闘いばかりをすることになりました。
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3つのRの前は怒りのペアワークがあり すでに亡くなってしまった義母への怒りの感情が未処理で貯まっていたことが解りました。
夫・南幸夫は一人っ子であり 私たちの結婚自体、義理の両親にとって不本意な事でした。彼らの最大の価値は富でした。
私はお金は道具だと思っていました。両親がお金を使って操作的にかかわってくることも嫌いでした。
そのうえ私は結婚して、しかもクリスチャンワーカーになるべく、大学で学びはじめました。
結婚式もキリスト教式~~~先祖代々の宗教を捨てさせることにしたのです。
2回生の時、長男が生まれ、大学付属の乳幼児保育センターでのアルバイトを条件に託児をお願いしながら 学生生活を送り、卒業の年に長女が生まれることになりました。
その年はパートタイムながらも教会の教育主事としての働きをスタートすることになりましたが、すぐに休職。8月には出産・・・復職して最初のクリスマスを迎えるとき 両親との同居の話になりました。
義母は足が悪かったので、まだどうにか歩けるうちに同居する方が良いと考え、年明けの同居に同意しましたが、年内に同居がスタートする羽目になりました。
キリスト教教育主事として初めて迎えるクリスマス。しかも二人(乳児と幼児)の子持ち。曲がりなりにも有給の身です。教会活動は、教会員のボランティア活動。そして会員は一般社会でそれなりの実力を発揮している人々・・・プロとして、どのようにリーダーシップを担ってゆけるでしょう???
そんなストレスのさなかに 同居がスタート~~~~
そして事もあろうことか お正月明けに私の父が自死をしました。
電話を受けて震える私に投げかけられた言葉は「親戚中の恥だ!」「新居を買ってお金がないのに云々」でした。
このようにスタートした同居生活は最初から 失敗ばかりでした。
意見など会うわけがありません。
この現実を引き起こした思考パターンは「私は操作的に支配する人が嫌いです」でした。
この思考パターンの土台は「私は誰からも理解されない」でした。
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思春期の私は言うまでもなく「変わり者」といわれ続けました。
その原初体験として浮かび上がったのが「この子が兄と母を殺した。」と父に話す、責任逃れの叔母の心無い一言を聞いたことでした。
私は「私は母と兄を死に追いやった子だ」というレッテルを張られた故、亡くなった母と兄以外は愛しても愛されてもならない人生を送り、大人は狡いという怒りを持ち続けていました。
置き換えた思考パターンは「兄と母を殺したといった叔母への怒りを手放し、解消し 人は多様であり それぞれの独立した人生を生きる」です。
さらに興味深いのは 「私を生かす力になってきたと信じていたキリスト教に、がんじがらめになっていた自分の開放が起きたことです。
それは 講師から「南さんの周りに 綱が沢山あるのが見える。」とのコメントを受けての気づきと言えます。
何度も書いてきましたが「生きる意味」を求めても得られない私は、生き延びるために「生きる意味」への問いを棚上げし、絶対者から「生き方を問われる」ものになろうと決め、啓示宗教である、キリスト教に賭け人生をやり過ごしてきました。
「聖書を規範に」の在り方を手放すことにしたのです。
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霊現象とともにすべての世界観が覆されたと思っていましたが・・・
創造の主体として空になることは・・・
古い自分に固執しないで大いなるゼロになること、ワンネスになるということでしょうか?
吾であることのリセットが必要なのでしょうか?
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