不幸でも悪女でもなかった虞美人 史記が語る英雄の愛

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO59474680S0A520C2000001/ 【不幸でも悪女でもなかった虞美人 史記が語る英雄の愛】より

司馬遷「史記」研究家・書家 吉岡和夫さん

中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(80)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「一芸の天才は怖くて甘い 史記が描いた英雄・項羽」)

ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟

与謝野晶子が1914年(大正3年)に刊行した歌集の中の1首です。コクリコはフランス語でひなげし。5月のフランスに咲く、その火のように赤い花に夫と自分を重ねた心に、素直で美しい純愛を感じます。ひなげしの別名、虞美人草(グビジンソウ)の由来は、「覇王」を称した項羽(こうう)の恋人、虞姫(ぐき)です。前回に続き史記「項羽本紀」をもとに、およそ2千年後の歌人の胸にもよぎったであろう英雄の純愛にふれます。

仕事ができる男も不遇に 史記が癒やす孤独

項羽はライバルの劉邦に垓下(がいか)の戦いで敗れます。項羽軍にとって、この戦いは理解しがたいものだったでしょう。すでに劉邦とは和議が成立していたからです。天下を二分し、東を項羽が治める楚(そ)、西を劉邦の漢の領土とするはずでした。戦いが終結したと思った兵という兵は安堵しました。史記には「軍、皆、万歳と呼ぶ」とあります。

あっさり破棄される和議

項羽の軍は疲れ切っていました。長く本拠地を離れて文字通り戦闘に明け暮れる日々は、勝ち戦といえども精鋭部隊を消耗させました。各地の有力者への論功行賞も上手ではありません。劉邦の重臣たちは、そこを見抜きます。「楚の兵は疲れ糧食も尽きています。天が楚を滅ぼそうとしている今こそ攻めなければ、虎に餌を与えて、自分を危うくするようなものです」

和議があっさり破棄されるのは、今も昔も同じかもしれません。劉邦は重臣の進言を聞き入れ、項羽を追いかけます。反撃にあって一時は肝を冷やしますが、領地をえさに韓信(かんしん)という戦上手の将軍らを呼び集め、ようやく項羽軍を包囲します。

項羽の陣営を幾重にも囲んだ劉邦の軍から夜、楚の歌が聞こえてきます。項羽は敵に投降した楚の兵が多いことを知って驚きました。有名な「四面楚歌(しめんそか)」の場面です。

イラスト・青柳ちか

 項羽のそばには常に最愛の女性、虞姫と、愛馬の騅(すい)がおりました。項羽は詩を詠じます。

  力は山を抜き気は世を蓋(おほ)ふ。時利あらず騅逝(ゆ)かず。騅逝かず奈何(いかに)すべき 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん。

 自分には山を動かすような力、世界を覆うような気魄(きはく)があるが、時運なく、騅も立ちすくんでしまった。騅が走らなければ、どうしたらいいのか。虞や虞や、おまえをどうしたらいいのだろう――。「美人之(これ)に和す」。司馬遷の短い言葉が、胸に迫ります。「項王(=項羽)、泣(なみだ)数行下る。左右皆泣き、能(よ)く仰ぎ視(み)るもの莫(な)し」。項羽は覚悟していました。敗れた自分は散ればいい。だが虞姫はどうなる? 項羽は虞姫ひとりを心から愛していたのだと思います。

史記には虞姫の死を明確に伝える文言はありません。ただ史記に先立つとみられる史書「楚漢春秋」には、虞姫の辞世が残っています。「漢兵已(すで)に地を略し、四方楚歌の声。大王意気尽き、賤妾(せんしょう)何ぞ生に聊(やす)んぜん」。「大王」は項羽、「賤妾」は項羽に愛されたことをもったいないと虞姫が自分を卑下した表現です。「おまえをどうしたら」と嘆じた項羽の思いを察し、虞姫は自ら命を絶ちました。

虞姫の最期を見届けた項羽は800人余りを引き連れて囲みを破ろうと試みますが、戦闘のたびに兵は減り、28騎を残すのみとなります。項羽は「自分は兵を起こしてから8年、70回余りも戦い、敗れたことはなかった。天が我を滅ぼすのであって、戦が下手だったわけではない」と語り、それを証明しようと、さらにひと暴れしてみせます。

 そして項羽は長江の岸に出ました。ここを渡れば故郷です。そこの宿場の主は船を用意し、川を渡って再起をはかるよう項羽に勧めます。これに項羽は静かに笑って答えます。それまでの項羽は「大いに怒る」男でしたから、笑うのは実に珍しいことです。「天が自分を滅ぼすのだ。もう川を渡る必要はない」。そして言い残しました。

  江東の子弟八千人と与(とも)に、江を渡って西せり。今、一人の還(かへ)るもの無(な)し。縦(たと)ひ江東の父兄、憐(あわれ)んで我を王とすとも、我何の面目あってか之(これ)を見ん。

 自分は故郷の若者8千人を率いて長江を渡って西の戦場に向かった。今、連れて帰れるものはひとりもいない。彼らの父兄が私をあわれんで王として迎えてくれるとしても、私のほうに会わせる顔がないのだ――。時に項羽、31歳。敵将に手柄にしろと言い放ち、自ら自分の首をはねます。

歴史にはよく絶世の美女とされる人物が登場します。そして国を傾ける悪女のように描かれることが少なくありません。本当の悪女は非常に少数で、男によって滅ぼされた不幸な女性がほとんどではないかと、私はみています。ただ虞姫に限っては、悪女でも不幸な女性でもない気がするのです。しかも天下人となるほどの英雄が、たったひとり愛した女性のように後世に伝えられた例は、まれではないでしょうか。世に純愛物語は数多くありますが、これだけ大きなスケールで、しかも少年のように純粋なものを感じさせるものは思い当たりません。

司馬遷の「照れ隠し」?

司馬遷は項羽本紀の末尾で、項羽は両目それぞれに瞳が二重にある「重瞳子(ちょうどうし)」であったと記しています。やはり重瞳子であったという伝説の聖王、舜(しゅん)の遠い子孫であろうかと、さりげなく項羽をもちあげます。そして、項羽が自分の敗北を自分の過ちではなく、天のせいにしたことは間違いだ、と述べて筆を置きました。私はこの最後の指摘について、自分の項羽に対する熱の入れようにハッと気づいた司馬遷が、照れ隠しのようにつけ足したのではないかと思っています。どうでしょうか。

夏になると虞姫の墓の上に血のように赤いひなげしの花が咲き、いつしか人々はその花を虞美人草と呼ぶようになったといいます。花の世界にも「出世」があるとすれば、これがそうかもしれません。

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