Facebook相田 公弘さん投稿記事
武井哲応老師随聞記
相田みつを
「智門蓮華」
泥水の中でも
昔、中国に智門という和尚がいた。そこへ或僧がきて問うた。
「蓮華未だ水を出でざる時如何?」
智門が答えた。
「レンゲ(蓮華)」
するとまたその僧が尋ねた
「出でて後如何?」
智門がまた答えた。
「カショウ(荷葉)」
〈荷葉〉とは蓮のことだ。蓮の異名だ。蓮華未だ水を出でざる時、というのは、つまり、蓮が水中にもぐっている時、ということだ。蓮というのは花の咲くまでは泥水の中にもぐっている。泥水とは人間の煩悩妄想(迷い)のことだ。この場合の蓮は自己だ。いつもいうように他人ごとじゃない、自己自身のことだ。自己が煩悩妄想の中にいる時はどうだ?ということだ。それが〈蓮が水を出でざる時〉だ。泥水につかっていようが蓮は蓮だ。泥水から出て花を咲かせた時、それは煩悩妄想(人間の迷いの世界)から脱却した世界だな。その時も蓮は蓮だ。つまり、泥水のの中につかっていようが、泥水から出て花を咲かせようが蓮はどこでも蓮だ。
ここを押さえることが先ず一番大事。自己が煩悩妄想の世界を迷っていようが、そこから抜け出して悟りの世界にいようが自己はいつでも自己だ。そこを一つしっかり押さえる。
そこで安心してはいけない
すると、人間て、いうものはすぐこう思う。
「ああ、そうか、泥水の中にいようが、そこから抜け出そうが、自己そのものには少しも変わりがないのか。そんなら何もアクセク骨折ることはない。と安易に考えてすぐそこへ腰を落着けてしまう。安心してしまう。また、その反対に、なんとか泥水から抜け出そうと、アセリにアセッていらいらしたり、欲求不満を起こしたりする。人間というのは、この二つのうちのどちらかに大体片寄る。レンゲは人間のようにそんなみっともないまねはしない。
レンゲは泥水の中にいる時も、水から出て花を咲かせる時も、いつでもどこでも、その時その時を、いのちいっぱいに、レンゲのいのちを生きている。
泥水の中にいる時は泥水の中で、いのちいっぱいに生きている。そして、時がくれば水から出て美しい花を咲かせる。
時がくればということは、つまり、時節因縁だ。時節因縁がくれば泥水の中の蓮が水から外へ出て花を咲かす。そして、時節因縁がくれば、やがてまた枯れて水の中にもぐる。それが蓮のいのちだ。蓮のいきざまだ。
そこまでまた、時節因縁というと、人間はすぐ「そうか」と安心する。時節因縁がくれば俺も花が咲く-なんて腰を落ち着けてしまう。時節因縁のいうのはそんなもんじゃない。泥水の中に腰を落ち着けることも、水から抜け出ようとアセリにアセルことも一切を放下して、自己が自己として、その時その時を、一所懸命に、いのちいっぱいに生きてゆくことだ。それが智門のレンゲだ。
ま、いま、〈智門の蓮華〉という有名な公案を採り上げて、コタコタ説明したけれど、そんな説明は本当はなんにもしなくてもいいのだ。
「蓮華未だ水を出でざる時如何」
「レンゲ(蓮華)」
「出でて後如何」
「カショウ(荷葉)」
すっきりとこう言えばいい。
※相田みつを縁の栃木県足利市・高福寺
参禅して武井哲應和尚に”正法眼蔵”を説かれる
https://hotel-bfu.com/bunnosuke/choyaku/2021/10/09/post-2979/ 【蓮の花と葉 1/2話(出典:碧巌録第二十一則「智門蓮華荷葉」)】より
とある僧が智門和尚に尋ねました。
僧:「蓮の花がまだ泥の中にある時はどうでしょうか?」
智:「蓮の花だな。」
僧:「それでは泥から出た後はどうでしょうか?」
智:「蓮の葉だね。」
例によってなんともトボケた感じのやりとりですが、智門和尚が相手のレベルに合わせて対応したというのであれば、まぁこんな感じでしょう。
ただ、智門和尚が相手を本気でバッサリやろうとしたというのであれば、大失敗です。
さて皆さん、蓮の花は泥から出た後に咲くものですが、泥から出ていない時点では花と呼べないでしょうか? それとも花と呼べるでしょうか?
この辺りの区別がついているのであれば、まぁ、少しは見込みがあると言えるでしょう。
とはいえ、どちらも同じということにしてしまうと真理や仏性が曖昧なものになってしまいますし、違うというのであれば余計な分別心がまだ残っていることになり、いずれにしても心の平穏はいつまで経っても訪れません。
以前も申し上げましたが、昔の師匠たちは余計なことは一切言わず、また、やりもしませんでした。
例えば投子和尚は弟子たちにこう言っています。
「いいかオマエたち、絶対に言葉ヅラにはとらわれるなよ!
余計な分別心さえ持たなければ、自然と字句の善し悪しなど気にもしなくなるものだ。
いいか? オマエたちこそが一切の存在の主なのだ。
そこを逆に考えてしまうからおかしくなる。
世間における地位や名誉、金銭的損得などは全て幻のようなものだ。
「〇〇はどうか?」という質問に対する我々の回答もまた同じ。
オマエたちが質問するから答えたまでのことであって、ここでワシが何と言おうと真実の姿は不変なのだ。」
また百丈和尚は「仏性の意味が知りたければ原因・結果の関係性をよく見極めた上で、タイミングに注意しろ!」と言いましたが、雲門和尚はこれに関連して次のように言いました。
「とある僧が霊雲和尚に「仏が出現する前はどうでしょうか?」と尋ねたら霊雲和尚は手にしていた払子を立てて見せた。その僧がさらに「それでは出現した後はどうでしょうか?」と尋ねたら霊雲和尚はまた払子を立てて見せたのだが、ワシに言わせれば前のヤツはOKだが後のヤツは全然ダメだ!
「出る前」と「出た後」の区別がないのであれば、百丈和尚の言う「タイミング」になど注意のしようがなくなってしまうからだ!」
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