自然に親しめば親しむほど人は自然の性質に近づいていきます

一指李承憲@ILCHIjp

私たちは自然から人生の知恵と道理を学びます。

春、夏、秋、冬の循環の中で自然の理を悟り輝く太陽の中にすべてを公平に照らす

大きな愛を見いだし新芽や若葉の萌え出ずる新緑の中に生命の驚異を感じます。

自然に親しめば親しむほど人は自然の性質に近づいていきます。

Facebook相田 公弘さん投稿記事

日本人記者が、「あなたの知ってる日本人は?」との質問に、ケネディ大統領が尊敬する日本人として名前をあげたといわれる、米沢藩の第9代藩主「上杉鷹山」のお話です。

当時、日本人記者は、「誰その人?」と思ったそうです。

東洋思想の美点の1つに、経済を道徳と必ず関連づけて論じてきたことが挙げられる。

東洋の思想家にとり、富とは常に徳の結果もたらされるもので、その関係は実と木の関係と同じである。

木に肥料を施せば、確実に実がなる。民に愛情を注げば、富は当然もたらされるのである。

従って、「徳の高い人は、木のことを熱心に考えて実を得る。小人は、実のことばかり考えて実を得ることがない」

※「代表的日本人」内村鑑三 著 致知出版より

鷹山さんは、まず人々に徳を身につけさせることを目指したそうです。

お金(実)のことばかり考えていては、結局お金(実)を得ることは出来ないと・・・

大切なのは、どれだけ働く人(木)のことや、お客さん(土)、世間(環境)のことを考えられるかなんですね♪

実がない、実が出来ない、って言う前に、木や土や環境を一生懸命よくしていったら、自然と良い実が収穫できますよね♪

「経営というものは、天地自然の理にしたがい、世間大衆の声を聞き、社内の衆知を集めて、なすべきことを行なっていけば、必ず成功するものである」by 松下幸之助(松下電器産業創業者)

※魂が震える話より

https://intojapanwaraku.com/culture/83649/ 【自助・共助・公助「三助の思想」を掲げた上杉鷹山とは?名言や政策を紹介】より

アメリカの35代大統領、ジョン・F・ケネディが「最も尊敬する日本人」として名前を挙げたのが、米沢藩9代藩主・上杉鷹山(うえすぎ ようざん)です。上杉鷹山は江戸時代の稀代の名君として知られており、自ら倹約や節制を行い、領民たちと同じ目線に立つことで藩を立て直しました。

2020年の自民党総裁選に名乗りを上げた、菅義偉官房長官(当時)が「自助・共助・公助」を理念として掲げましたが、これはもともと上杉鷹山の思想だったと言われています。

「今、私たちの時代にも鷹山がいてくれたら…」そう願わずにはいられない、鷹山の数々のエピソードや名言をご紹介しましょう。

自分の生活費約8割カット!17歳の少年が藩の改革に挑む

上杉鷹山は、上杉家の嫡男ではありません。寛延4(1751)年に日向高鍋藩主・秋月種美(あきづき たねみ)の次男として生まれ、9才で米沢藩主・上杉重定(うえすぎ しげさだ)の養子として迎えられました。

藩主となったのは17才の頃。遊びたい盛りの少年時代ですが、鷹山には大きく財政が傾いた藩を立て直すという使命がありました。

鷹山がとった政策には以下のようなものがあります。

自身の生活費を約8割カット

藩士はもちろん、農民も意見を言える「上書箱」の設置

焼き物・養蚕など特産品の開発

田畑の整備

藩校「興譲館」の創立

この他にもさまざまな取り組みを行い、天明の大飢餓の際は、鷹山の政策によって一人も餓死者が出なかったそうです。領民や家臣だけでなく、鷹山自ら質素倹約を心がけ、食事は一汁一菜、衣服は木綿を着用していました。

鷹山は、凶作に備えるノウハウを『かてもの』という本に残している。

享和2刊 著者:上杉鷹山他 国立国会デジタルコレクションより

そんな鷹山は今でも地元の人々から愛され、「鷹山公」と敬意をもって呼ばれています。

自助・共助・公助「三助の思想」とは?

菅義偉官房長官が述べた「自助・共助・公助」は、もともと上杉鷹山が藩を立て直すために掲げた思想であると言われます。では、どのような意味をもつ思想なのでしょうか。

上杉鷹山 三助の思想

自ら助ける,すなわち「自助」

近隣社会が互いに助け合う「互助」

藩政府が手を貸す「扶助」

引用:内閣府ホームページより

これだけ見ると「困ったことがあれば自分で何とかしろってこと?」と感じてしまう方もいるかもしれません。しかし、上杉鷹山がそれぞれどのような目的で「三助の思想」を掲げたのかを見ていきましょう。

まず、「自助」実現のために、鷹山は米作以外の産業を積極的に興しました。新たな特産品や仕事が生まれれば、自分自身の力で生活していける「自助」となります。さらに農民に五人組・十人組などのグループをつくり、その中で互いに助け合うこと「共助(互助)」としました。身体や立場の弱い人々は、このグループで養うことにしています。また、グループ内で対処できない事態が起こった際は、近隣のグループが手助けします。

最後に「公助(扶助)」とは、グループ同士の協力でもしのぎ切れない飢饉などの重大な事態が起こった際に、藩政府が手を貸すことを言います。「天明の大飢饉」では鷹山自ら質素倹約に努め、その姿を見習って富裕層も貧しい人々を助けたと言われています。

「なせば成る…」あの名言は鷹山の歌だった!

「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」、この言葉を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。この名言は、上杉鷹山が家臣に対して詠んだ歌です。

その意味は、「やればできる。何事もやらなければ成功しない。できないのは、やろうとしていないからだ」となります。

一国の君主が発した言葉だと思うと、ずっしりその重みが感じられませんか?「できないのは、やろうとしていないから」。これは私たちの日常でも常に頭に置いておきたいものです。

上杉鷹山の碑文や銅像は、上杉神社で見ることができる

また、この和歌には本歌と思われる歌があります。それが武田信玄の詠んだ歌「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人の儚さ」です。戦国大名として名を馳せた武田信玄の和歌からは、自身の成功に対する驕りが感じられ、少し抽象的なイメージです。それを上杉鷹山は、より具体的なスローガンのように表現したことがわかります。

鷹山を名君たらしめるのは、その男女関係にもあり

不倫や浮気の何が悪い、個人の自由だろう。そういう考えの方がいることを否定はしません。しかし鷹山は、添い遂げた妻との間柄さえも評価されているのです。

鷹山の正妻幸姫(よしひめ)は、脳の障害や発達の遅れがあったと言われています。いつまでも子どものような妻と一緒になって、鷹山はお人形やおもちゃで遊んで楽しんだのだとか。

そんな鷹山を女中たちは憐れみましたが、幸姫が30才という若さでこの世を去るまで正妻として重んじ、幸姫の父からも感謝されたとのことです。

参考書籍:『代表的日本人』内村鑑三著 『国史大辞典』『故事俗信ことわざ大辞典』

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ケネディ大統領が最も尊敬した日本人上杉鷹山 童門冬二の世界

Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事  才

 才能とか、才気と言いますが、「才」は、川の氾濫をせき止めるために立てられた良質の木を表わす象形文字で、もともとは人にあるものではなく、木や草や石などの自然界に宿っているもののことでした。

これを知ったとき、人間は傲慢になってはいけないな、と思ったものです。自然界の秩序の中に置いていただいているに過ぎないわけです。むろん、知恵を出すことが出来ますが、知恵の働きは、「みんな」がよりよく生きるためです。善もなく悪もなく、存在するという一点を分かちあいながら。

人生百年時代とは言いますが、人の一生には到底比較できない諸行無常を自然界は生きています。そこに学びのないはずはないのですね。だから、人間の才である想像力が与えられたのかも知れません。知恵を得たことでむしろ欠如したものが大きいから?と。

ところで、田舎では、採れすぎた野菜や果物をお裾分けするのが習慣的なことです。そっと玄関先に置いて帰るというのも普通のことですが、「分ける」は「分かる」と同じというのが、なんとも味のあるところです。

分け合えば、分かり合える・・・

https://www.youtube.com/watch?v=vfP5X8fySO8

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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