キジの伝承

https://www.kankou-shimane.com/shinwa/shinwa/5-2/index.html 【葦原中国の平定

<第ニ章>アメノワカヒコの死】より

三年が経ってもアメノホヒ神は帰ってこないので、再び、タカギムスヒ神とアマテラス大神は高天原の神々と相談して、アメノワカヒコを派遣することにしました。

アメノワカヒコは、葦原中国に降りてゆきましたが、オオクニヌシ神の娘のシタテルヒメと結婚してしまいました。

アメノワカヒコは、葦原中国を自分の国にしようと考え、八年が経っても、命令を果たしませんでした。

そこで、アマテラス大神とタカギムスヒ神は、「アメノワカヒコが帰ってこない。

 どの神を遣わして、長い間帰ってこない理由を聞いたらよいだろう。」と、高天原の神々に問いました。

神々は相談して、オモイカネ神が「ナキメがよいでしょう。」と答えました。

そこで、ナキメに「『おまえを葦原中国に遣わしたのは、その国の荒ぶる神々を説得して、従わせるためである。どうして八年経っても帰ってこないのだ』と聞いてきなさい。」

と命令しました。

ナキメは天より降って、アメノワカヒコの住まいの入り口にある神聖な桂の木にとまり、

アマテラス大神とタカギムスヒ神の言葉を伝えました。

ナキメは雉の姿をしています。すると、それを聞いたアメノクサメが

「この鳥は、ひどく鳴き声が悪いので射殺すべきです。」とアメノワカヒコに進言しました。

アメノワカヒコはただちに、天つ神より与えられた弓と矢をもち、ナキメを射殺しました。

その矢は雉の胸を突き抜けて、天の安の河にいたアマテラス大神とタカギムスヒ神のところに届きました。

タカギムスヒ神はその矢を手に取ってみると血が矢の羽についています。

「この矢は、アメノワカヒコに与えた矢ではないか。」タカギムスヒ神は、矢を高天原の神々に示し見せながら「もし、アメノワカヒコが命令どおりに 悪い神を射た矢なら、アメノワカヒコには当たらない。もし、命令に背いて放った矢なら、アメノワカヒコは、この矢の禍を受けよ。』といって、矢を突き返しました。

矢は、朝方になってもまだ寝ているアメノワカヒコの胸に突き刺さり、アメノワカヒコは、死んでいました。

結局、天より遣わした雉は帰って来ませんでした。

そこで、行ったままで、帰ってこない使いのことを「雉の頓使い(ひたつかい)」というようになりました。

一方、夫の死を悲しんで泣くシタテルヒメの声は、風に乗って高天原まで届きました。

高天原にいつアメノワカヒコの父は、アメノワカヒコの妻子とともに天より葦原中国に降りて嘆き悲しみました。

アメノワカヒコを喪屋(もや)に安置していると、アヂスキタカヒコ神がやって来て、

アメノワカヒコを弔いました。

それを見たアメノワカヒコの父は「わが子は死んでいなかった。」といい、高天原に住む妻も「わたしの夫は死んでいななかった。」といって、アヂスキタカヒコ神の手や足にすがりついて泣きました。

それを聞いたアヂスキタカヒコ神は、「仲の良い友だちだったからこそ、弔いに来たのに

 わたしを死者と間違えるなんて。」と大変怒って、その喪屋を切り倒し蹴り飛ばししてしまいました。

その喪屋は、美濃国(みののくに)の喪山になってしまいました。

アヂスキタカヒコ神が怒って飛び去ってしまうと、妹のタカヒメ神が、その名を明かそうと、「アヂスキタカヒコ神は私の兄です。」と歌いました。


https://www.yurihama.jp/town_history2/3hen/1syo/02010103.htm 【キジの伝承】より

 神社が行う祭りには、大祭・中祭・小祭の区別があって、神饌(せん)(神に対する供え物)の種類も、それによって厳重に区分されている。大祭の神饌の中に野鳥があるが、一ノ宮ではキジは絶対に供えてはならないことになっている。理由は明記されていない。社家である米原家(藤津)でも、キジを食べることは禁じられてきた。

 これらの禁忌は、おそらく天照大神(あまてらすおおみかみ)と出雲(いずも)の大国主命との国譲りの交渉の神話に関係するものと思われる。『古事記』の大要を記す。

天稚彦命は天照大神の命を受け、国譲りの交渉をするため、出雲においでになったが、大国主命の娘・下照姫命と結婚して帰らなかった。そこで天照大神は偵察のためキジを派遣された。キジは天稚彦命の家の前にある木の上で、大神の言葉を伝えたところ、天稚彦命に仕える女が、その声を聞き「この鳥の鳴き声は、大変不吉ですから射殺してしまいなさい」と申したので、命は弓を持ち出し、キジを射殺しておしまいになった。その矢が天照大神の所まで飛んで来たので、その矢を御覧になって「この矢は天稚彦命に与えたものである」と申され、投げ返されたところ、天稚彦命の胸に当たって、死んでおしまいになった。

 この神話の後日譚(たん)が、当地に次のように伝えられている。

その後、大国主命は天照大神に国土を献上された。天稚彦命の妻であった娘の下照姫命は、隠岐島に謹慎させたと報告されたが、実際は隠岐島には行かず、海路当地に御着船された。そして一ノ宮の地で余生を送られた。

 下照姫命、天稚彦命は、いずれも一ノ宮の祭神である。前述の国譲りの神話には、古代、出雲地方の勢力範囲内にあった伯耆などの国々が、次第に大和朝廷の支配下となっていく歴史的な背景があったと考えられる。キジを「食べない、供えない」しきたりは、出雲と縁の深かった一ノ宮の、大和朝廷に対する忠誠心を表現する方法として生み出されたものかもしれない。

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