http://jukuhinokuruma.blogspot.com/2021/01/blog-post_24.html 【井筒俊彦『意識と本質 ー精神的東洋を索めてー』岩波文庫】より
話が大へん廻り道してしまったが、もともと私はここで芭蕉の本質論について語りたかったのだ。「本質」の直観的把握におけるマーヒーヤ(「本質」の普遍性)とフウィーヤ(「本質」の個体性)の結び付き。この問題を芭蕉はある独自の仕方で解決した。(53頁)
「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と門弟に教えた芭蕉は、「本質」論の見地からすれば、事物の普遍的「本質」、マーヒーヤ、の実在を信じる人であった。だが、この普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個的実在性として直観すべきことを彼は説いた。言いかえれば、マーヒーヤのフウィーヤへの転換を問題とした。マーヒーヤが突如としてフウィーヤに転換する瞬間がある。この「本質」の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず詩的言語に結晶する、俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジーであった。
一々の存在者をまさにそのものたらしめているマーヒーヤを、彼は連歌的伝統の術語を使って「本情」と呼んだ。千変万化してやまぬ天地自然の宇宙的存在流動の奥に、万代不易な実在を彼は憶った。「本情」とは個々の存在者に内在する永遠不易の普遍的「本情」。内在するといっても、花は花、月は月という『古今』的「本質」のように、事物の感覚的表層にあらわに見える普遍者ではない。事物の存在真相に隠れた「本質」である。「物と我と二つになりて」つまり主体客体が二極分裂して、その主体が自己に対立するものとして客観的に外から眺めることのできるような存在次元を仮りに存在表層と呼ぶとして、ここで存在深層とは、この意味での存在表層を越えた、認識的二極分裂以前の根源的存在次元ということである。
このように本来的に存在深層にひそむ「本情」は、当然、表層意識では絶対に捉えられない。つまり普通の形での「…の意識」の「…」にはなりえない。「…の意識」とは、すでに詳しく述べてきたように、二極分裂的自我意識だからである。ものの「本情」に直接触れるためには、「…の意識」そのものの内的機構に、ある根本的な変質が起らなければならない。この変質を芭蕉は「私意をはなれる」という一見すこぶる簡単な言葉で表現する。私意をはなれて、つまり二極分裂的でない主体としてものを見るということ。このような方向に自己を絶えず修錬していくことがすなわち彼のいわゆる「をのれが心をせめて、物の実(まこと)しる事」(『許六離別ノ詞』)という美的修錬だった。これを「風雅の誠」と彼は呼んだ。
しかし、このように美的修錬をつんで、存在の深層を垣間見ることのできるようになった人にも、あらゆるものの「本情」が常住不断に露わになっているとは芭蕉は考えなかった。経験的世界に生きる、あるいは生きなければならぬ存在者として、人の普段は「…の意識」で事物に接している。ただ、「内をつねに勤めて物に応」じる特別の修養を経た人、すなわち「風雅に情(こころ)ある人」、の実体験として、ものを前にして突然「…の意識」が消える瞬間があるのだ。
そういう瞬間にだけ、ものの「本情」がちらっと光る。「物の見えたる光」という。一瞬の、ひらめく存在開示。人がものに出合う。異常な緊張の極点としてのこの出合いの瞬間、人とものとの間に一つの実存的磁場が現成し、その場(フィールド)の中心に人の「…の意識」は消え、ものの「本情」が自己を開示する。芭蕉はこの実存的出来事を、「物に入りて、その微(び)の顕(あら)われ」ることとして描いている。「物に入る」とは、ものが「…の意識」の対象ではなくなること、つまりこの出来事が、人の側においては、二極分裂的意識主体の消去であることを指し、「その微が顕われる」とはものの側では、それの「微」、すなわち普通は存在の深部に奥深く隠れひそんで目に見えぬ「本情」が自らを顕わすことを指す。
この場合、そこに自己を開示するものは「本情」、すなわち普遍的「本質」でなければならない。しかし、この永遠不変の「本質」が、芭蕉的実存体験においては、突然、瞬間的に、生々しい感覚性に変成して現われるのだ。普遍者が瞬間的に自己を感覚化すると言ってもいい。そしてこの感覚的なものが、その時、その場におけるそのものの個体的リアリティーなのである。人とものとの、ただ一回かぎりの、緊迫した実存的邂逅の場(フィールド)のなかで、我々が始めから使ってきた用語法で言うなら、マーヒーヤがフウィーヤに変貌する。だが、すべては一瞬の出来事にすぎない。「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし」と。「その境に入って、物のさめざるうちに取りて姿を究」めなければならないのである。
以上、私は主として服部土芳(はつとりとほう)あらわすところの『赤冊子(あかそうし)』に依拠して、芭蕉の詩論と思われるものを「本質」論的に分析してみた。(57-60頁)
これに対して、不変不動のマーヒーヤの形而上的実在性を認めながら、それをそのまま存在の深層次元に探ろうとするかわりに、それが感性的表層に生起してフウィーヤに変成する、まさにその瞬間にそれを捉え、そうすることによって存在の真相をマーヒーヤ、フウィーヤの力動的な転換点に直観しようとする芭蕉のような詩人がいる。(60頁)
普通、永遠に不変不動と考えられる普遍的「本質」を、フウィーヤとの関聯において著しく動的でダイナミックなものとして彼は捉えた。
フウィーヤ追求の情熱のはげしさにおいて、芭蕉はいささかもリルケに劣らなかった、と私は思う。このものをまさにこのものとして唯一独自に存立させる「このもの性」、フウィーヤ、を彼は己れの詩的実存のすべてを賭けて追求した。他面、しかし、彼はフウィーヤの圧倒的な魅力に眩惑されて、普遍的「本質」、マーヒーヤ、の実在性を否認することもなかった。彼にとって、事物のフウィーヤはマーヒーヤと別の何かではなかったのだ。存在論的に、「不易」は「流行」と表裏一体をなすものであった。(56頁)
井筒俊彦が描く、芭蕉の句作の真相は劇的である。芭蕉のそれは「目撃」体験だった。
私には身に覚えのないことであり、字面を目で追うのが一生懸命であるが、大切なことが書かれていることだけは理解できる。
私にとって井筒俊彦の著作は「実学」の書であり、実用の書であり、そういう意味において、井筒俊彦はどうしようもなく福澤諭吉門下の人である。
「福澤がいう実学はすぐに役立つ学問ではなく、「科学(サイエンス)」を指します。実証的に真理を解明し問題を解決していく科学的な姿勢が、義塾伝統の「実学の精神」です。」
との註が、慶應義塾大学のウェブサイトに記されている。
「井筒俊彦にとって『意識と本質』の執筆は、氏の「意識と本質」の実在体験と同時進行だった。」(若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 379-388頁)
井筒俊彦の「「意識と本質」の実在体験」としての実相には目もくれず、興味のおもむくままに、乱雑に読み継いできたが、順序だってはじめから読み直すことにする。
実在体験としての描出と哲学の文章の記述との間には、懸隔がある。
次回は、岩波文庫でなく、
◇『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会
を、「解題」を参照にしつつ精読することにする。
http://akomix.blog.fc2.com/blog-entry-327.html 【井筒俊彦『意識と本質』(2)】より
三宅 流
井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】
→Ⅰ章のまとめはこちら
〜井筒俊彦「意識と本質」Ⅱ章〜
井筒俊彦は、「本質」には二つあり、この二種類を意識的、方法論的に明確に分けた哲学の例としてイスラーム哲学を挙げている。神を唯一の例外として、あらゆる存在者に二つの「本質」を認め、区別している。ひとつは「マーヒーヤ」(māhīyah)、もうひとつは「フウィーヤ」(huwīyah)である。簡単に言うと「マーヒーヤ」は普遍的リアリティのこと、「フウィーヤ」は個別的リアリティのこと。
「マーヒーヤ」は語源的には「それは・何であるか・ということ」を意味する。例えば目の前に花がある時、「それは・花・である」つまり、目の前の「花」を「花」として成立させている「花」性のことを指す。
「フウィーヤ」は語源的には「これであること」いわば「これ性」を意味する。先の例で言えば、目の前の「花」自体がもたらす存在感、リアリティー、そのものの実感を表す。
井筒はこの二つの「本質」に対する異なる向き合い方をする作家や詩人を例に論を進めていく。
まずは本居宣長の「もののあはれ」。宣長は抽象的・概念的な思考を極度に嫌った。宣長にとって普遍的な「本質」つまり「マーヒーヤ」はひとかけらの生命もない死物に過ぎなかった。目の前の生きた事物を生きるがままにとらえること。自然で素朴な実存的感動を通じて「深く心に感」じることしか道はない。物にじかに触れ、その物の心を、外側からではなく内側からつかむこと、それが「もののあはれ」を知ることであり、そういうことのできる人を宣長は「心ある人」と呼ぶ。
次にリルケ。彼にとって、物をその普遍的「本質」すなわち「マーヒーヤ」を通して見ることは、その物から一回限りの独自性を奪ってしまい、「花」は「花」という個物ではなく、どこにでもある無数の「花」になってしまう。こうしてリルケは「マーヒーヤ」に背を向けて「フウィーヤ」に赴く。
リルケは「意識のピラミッド」について語っている。その頂点の表層意識は言葉の意味分節が支配する次元。そして底辺の深層意識はそのものが言葉以前にものとしてのリアリティーを開示する領域。
言葉の意味分節の力の及ばぬ深層領域に開示される「もの」の「フウィーヤ」を詩人は改めて言語化しなければならない。言語は基本、表層意識に属するものである。深層体験を表層言語によって表現しようとするというこの悩みは、表層言語を内的に変質させることによってしか解消しない。それはある意味、禅における「転語」のような状態。ここに異様な実存的緊張に充ちた詩的言語、一種の高次言語が誕生する。
次に『古今集』『新古今集』における「ながめ」。
『古今』的和歌世界は一切の事物、事象がそれぞれの普遍的「本質」において定着された世界。春は春、花は花、恋は恋というふうに自然界のあらゆる事物、存在者が普遍的「本質」的に規定され、もしその「本質」の網目から外れたりすれば、その意外性自体がひとつの詩的価値を帯びるほどの強力な規定性がそこにある。
いわゆる「マーヒーヤ」的「本質」が、ぎっしりと隙間なく充満するこうしたマンダラ的存在風景にあきたらぬ詩人たちは、王朝文化の雅びの生活感情的基底であった「ながめ暮らす心」を普遍的「本質」の消去の手段として、ひとつの特殊な詩的意識のあり方にまで昇華させた。「眺め」は『古今集』ではどちらというと淡い性的気分を表すものであったが、『新古今』的幽玄の世界では「眺め」とはむしろ事物の「本質」的規定性を朦朧化し、そこに生まれる情緒空間の中に存在の深みを得ようとするものではないだろうか、と井筒は言う。
「ながむれば我が心さへはてもなく、行へも知らぬ月の影かな」
「帰る雁過ぎぬる空に雲消えていかに詠めん春の行くかた」
(いずれも式子内親王)
月は照り、雲は流れ、飛ぶ雁が視界をかすめる。しかしこの詩人の意識はそれらの事物に鋭く焦点を合わせていない。それらは限りなく遠いところに眺められている。
「眺め」の焦点をぼかした視点の先で事物はその「本質」的限定を超える。そこに存在深層の開陳がある。だから「眺め」は「マーヒーヤ」の否定ではなく、「マーヒーヤ」を肯定するからこそあえてそれをぼかそうという態度が出てくる。
そして最後に松尾芭蕉。
全ての存在を存在たらしめているもの、永遠不易の普遍的「本質」、すなわち「マーヒーヤ」を芭蕉は「本情」と呼んだ。この「本情」を井筒は、花は花、月は月といった『古今』的な、感覚表層に現れる「本質」ではなく、事物の存在深層に現れる「本質」であると言う。
「物と我と二つになりて」つまり主体と客体が二分してその主体が自己に対立するものとして客観的に外から眺める次元を存在表層とよぶとして、ここで存在深層とはこの主客二分以前の根源的存在次元である。
「…の意識」はすでに主体客体が二分された存在表層の次元。これに対して根本的な変質が起こらないといけない。この変質を芭蕉は「私意をはなれる」という言葉で表現する。つまり二極分節的ではない主体として「もの」を見るということ。このような方向に自己を絶えず修練していくことを「風雅の誠」と芭蕉は言う。
しかし、美的修練をつんで存在深層が垣間見えるようになった人たちに、必ずしもあらゆるものの「本情」がつねにあらわれているわけではない。人はつねに「…の意識」で事物に接している。しかし『内をつねに勤めて物に応』じる特別な修練を経た人の実体験として、ものを前に突然「…の意識」が消える瞬間がある。そういう瞬間にだけものの「本情」がちらっと光る。「物の見えたる光」という一瞬のひらめく存在風景「物に入りてその微の顕れ」ること。
人の側では二極分裂の主体が意識の中で消え、ものの側では、普段深部にかくれて見えない「本情」が自らを現す。この時自己を開示するものは「本情」つまりは普遍的「本質」でなければならない。
この永遠不変の「本質」すなわち「マーヒーヤ」が芭蕉の実存体験において突然、瞬間的に生々しい感覚すなわち「フウィーヤ」に変わって現れる。「マーヒーヤ」が突如として「フウィーヤ」に転成する瞬間。この「本質」の次元転換の微妙な瞬間を間髪入れず詩的言語に結晶する。俳句とは芭蕉にとって、実存的緊迫に満ちたこの瞬間のポエジーであった。
いずれにしても普遍的本質である「マーヒーヤ」をそのまま受け入れるのではなく、個体的リアリティー「フウィーヤ」との関係性においていかに手触り感、実体感を得ていくか、という点で共通しているように思える。しかし、一方で「マーヒーヤ」をそのイデア的純粋性において直観しようとする人々がいる、と井筒は言う。詩人であるマラルメ、宋代の儒者による理学「格物窮理」を例に井筒は次に論を進めていく。
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