https://jyohokutownguide.jyohoku-estate.com/leisure/temples-shrines/arakawaku-susanojinja-w027-20210525/ 【疫病除けのご利益、南千住「素盞嗚(スサノオ)神社」】より
南千住にある「素盞嗚神社」は、荒川区で最大の氏子区域を持つ神社です。
素戔嗚大神と飛鳥大神を御祭新としているのですが、一体どんな御利益のある神社なのでしょう。
さっそく出かけてみたいと思います。
6月は年に一度のお祭りです
境内の入り口には、天王祭と書かれた提灯が掲げられています。
天王祭ってなんだろう?
素盞嗚神社に祀られている素戔嗚大神は天照大神の弟。ヤマタノオロチを退治したといえば、ピンと来ますでしょうか。天王祭は、その素戔嗚大神の別名「お天王さま」を祀って毎年6月に疫病退散や子孫繁栄を祈願するお祭りだそうです。
スサノオノミコトと茅の輪
でも、なぜ疫病と結びつくのでしょう。
境内にある説明書きに興味深いことが書かれていました。
“スサノオノミコトが遠い村へ旅をしたときの事。疲れ果て衣服も汚れた姿で、村人に宿を乞います。みすぼらしい姿を見て受け入れるものがいない中、自身が貧しいながらも心良く受け入れて精一杯のもてなしをした若者がおりました。スサノオノミコトはお礼として「疫病が流行った際には茅の輪を腰にくくりつけていなさい。そうすれば家族は助かり、後の世まで子孫が栄えるでしょう」と伝えます。その後本当に疫病が流行し、茅の輪をつけていた家族は助かった”というお話です。
それ以来、その若者の名前、蘇民将来(そみんしょうらい)は後まで伝えられ、今でもお祭りの時には「蘇民将来子孫繁栄」と唱えるそうです。
なるほど、素盞嗚神社が天王祭で疫病退散を願う意味がわかりました。今でも境内に茅の輪が設けられるのも、そのような意味があったのですね。
疫病退散、まさに今願いたいことです。願い事は今も昔も変わらないものなのですね。
文人との深い関わり
一方、この土地は松尾芭蕉にゆかりのあったことはご存知でしょうか。奥の細道の紀行文によると、芭蕉は隅田川を北上し、この千住より奥州への旅立ちをスタートさせたのです。「行く春や魚啼魚の目は泪」の句とともにこの場所に句碑があり、千住大橋のミニチュアがあるのも風情があって楽しいです。
そして子どもたちの学び場として、子ども俳句教室の句が献句されており、文人との深い関わりを伺うことができます。
絵になる大銀杏と傘みくじ
その他にも、子育て祈願の大銀杏やカラフルで楽しい傘みくじなど見どころが満載です。
歴史に触れ、文化に触れ、神様の宿る場所、それがこの素盞嗚神社です。
今年の天王祭は茅の輪をくぐりましょう
本来ならば、3年に1度の例大祭が行われる年ですが、残念ながらコロナウィルス感染拡大防止のため御神輿や露店は控えることになっています。ですが、スサノオノミコトが伝えたという茅の輪くぐりはあるようです。6月1日から境内に大きな茅の輪が設けられるようですので、無病息災、疫病退散を願って改めて来てみたいと思います。
皆様もぜひ、疫病退散祈願に訪れてみてはいかがでしょうか。
https://susanoo.or.jp/guide/ 【素盞雄神社】より
素盞雄大神の別名を「牛頭天王(こずてんのう)」ということから、当社の通称を「お天王さま」といいます。現在はこの「お天王さま」の通称で親しまれている当社ですが、風雅を好む江戸の文人たちには「飛鳥さま」の名が好まれ、文政12年(1829)編纂の『江戸名所図会』では当社を「飛鳥社小塚原天王宮(あすかのやしろ こつかはらてんのうぐう)」と紹介しています。挿絵をひもとくと、かつて日光街道は当社正面の南鳥居前をとおり、門前には茶屋が賑わいをみせ、弁天様を祀る御手洗池が広がっていました。境内に建てられた芭蕉翁の句碑が物語るように、江戸の文人墨客たちには文化交流のサロンとしても親しまれたこの境内を「飛鳥の杜(あすかのもり)」といいます。
春には4月8日「疫神祭」桃の御守ゆかりの一重八重、紅や白の桃花が咲き誇り、秋には「子育ての銀杏」をはじめ樹齢五・六百年という大イチョウから黄色い絨毯が敷き詰められます。四季折々の風情をお愉しみください。
瑞光石 ずいこうせき
瑞光石
御祭神が御姿を現され、当社御創建の起源となった小塚の中の霊石です。「神影面瑞光荊石(しんえいめんずいこうけいせき)といい、通称「瑞光石(ずいこうせき)」と呼ばれています。
文政12年(1829)編纂の『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋の際、この瑞光石の根が大川(現:隅田川)まで延びていたために橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。
この瑞光石のある小高い塚から「小塚原」の旧地名が起こり、現在周辺小学校の名称(第○瑞光小学校)に冠された「瑞光」もこの瑞光石に因むものです。
御縁起
富士塚・小塚原富士 ふじづか・こつかはらふじ区指定文化財
富士塚・小塚原富士
当社御創建の起源となった「瑞光石」のある小高い塚に、元治元年(1864)、 富士塚を築き浅間神社をお祀りしました。塚上には20基もの奉納碑が伝存し、かつては門前の茶店で疫病除けの麦藁の蛇が土産に売られていたなど、富士参りの参詣者で賑わいをみせていたことがうかがわれます。毎年7月1日に御山開きを斎行し、当日の一定時間に限り登拝をお受けしています(天候により中止の場合もあり)。
子育ての銀杏 こそだてのいちょう
子育て銀杏
母乳の出ない婦人がその樹皮を煎じて飲み、周囲に米の研ぎ汁を撒いて幼児の無事成長を祈願しました。現在では、初宮詣(お宮参り)に際し絵馬が奉納されています。
子育ての祈願絵馬(初宮詣)
奥の細道矢立初めの句碑 おくのほそみち やたてはじめのくひ区指定文化財
奥の細道矢宣初めの句碑
千寿といふ所より船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかり幻のちまたに離別のなみたをそゝく 行はるや鳥啼魚の目ハなみた (行く春や鳥啼き魚の目は泪)
松尾芭蕉『奥の細道』矢立初め(旅立ち)となった有名な一節です。「矢立(やたて)」とは、携行用の筆記具のことを意味します。文政3年(1820)10月12日の芭蕉忌に際し、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晃の弟子で大川(現:隅田川)の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけるなど、千住宿に集う文人達により建てられました。
建碑以来百七十有余年、永年の風雨により剥落損傷が激しく判読できないために、平成7年当社御鎮座 1200年祭に際し復刻し、これを契機に全国俳句大会をはじめ様々な俳句興隆事業が行われています。
地蔵・庚申塔 じぞう・こうしんとう区指定文化財
地蔵・庚申塔
お地蔵様を中心とした江戸時代の庚申塔三基(区指定文化財)・宝篋印塔などからなる石塔群です。『江戸名所図会』にも境内に「ちそう(地蔵)」の表記があり、往時の様子が描かれています。庚申とは一年に6回巡ってくる干支の「庚申(かのえさる)」のことで、この日には人の体内にいる「三尸の虫」が眠っている間にその人の罪を天帝に告げてしまうために、徹夜して夜を過ごす庚申待の習俗があります。人々は講を形成して寄り合い、三年間で計18回の庚申待を行うと諸願成就するといわれ、その記念に建立されたのが庚申塔です。
当社の延宝6年(1678)建立の庚申塔には、人の罪を「見ざる・言わざる・聞かざる」として三匹の猿と、早く朝が来るようにと二羽の鶏が刻まれています。
https://susanoo.or.jp/tennosai/index.html 【天王祭】より
錦絵神輿振り
六月は旧暦で夏。天王祭は、人や物の行き来が盛んな街道の夏に流行する疫病を、激しい神輿振りにより、御祭神の神威をより一層振り起こして祓う悪疫退散・除災招福・郷土繁栄を願う祭禮です。春と秋に稲の収穫を祈念感謝する農村型の祭禮に対して、京都の祇園祭と同様、都市型の祭禮といえます。
宵宮祭・例大祭は、61ヶ町総代をはじめ氏子崇敬者の参列のもと、厳粛な祭儀が斎行されます。このおごそかな祭典を境として、氏子61ヶ町が勇壮華麗な祭一色へと染まっていきます。
令和3年 天王祭について。天王祭「御神幸祭」に関し、2月19日開催の本社祭禮委員会に於いて協議いたし、現況に鑑み明年への延期が決定いたしました。令和3年天王祭は昨年同様「氏子まつり」として斎行いたします。
大神様の御加護の下、皆様の御健勝御多幸と事態の 早期 収束 ・郷土の安寧を衷心よりお祈り申し上げます。6月2日宵宮祭・3日例大祭
御社頭に御祭神 ゆかり の 蘇民将来子孫也の大幟を掲げ6月1日より無病息災の茅の輪くぐりを設けます。
感染症拡大防止のため、境内露店出店および町神輿の担ぎ出しを控えます。
蘇民将来子孫也
胡瓜のお供え・胡瓜のおさがり
宵宮祭・例大祭の参列者は、半紙で包んだ胡瓜(きゅうり)を奉納します。これは胡瓜を輪切りにした断面が御祭神の御紋に見え恐れ多いために、その年の初物を先ず御神前にお供えしてから自分たちが食する、という伝統を継承したものです。なお、御奉納の胡瓜は天王太鼓会の御奉仕により漬物にし、天王祭奉納太鼓において撤下供物(おさがり)として参拝者にお頒けいたしております。
胡瓜のお供え
二天神輿振り
神輿の担ぎ棒は4本や6本を井桁に組んで担ぐことが多いなか、当社は2本のみで担ぎます(「二天」にてん)。屋根の鳳凰が地面につくほど神輿を左右へ倒して激しく振る「神輿振り(みこしぶり)」は、大変荒々しく、かつ勇壮・荘厳な情景です。
本まつり と 氏子まつり
御本社神輿が渡御する御神幸祭(ごしんこうさい)を通称で「本まつり」といいます。3年に一度の御神幸祭では、重量千貫・長柄四間半(8.1m)の二天で担ぐ大神輿を筆頭に、中神輿・小神輿(子供神輿)の3基の御本社神輿が南千住・三之輪、三河島、町屋の61ヶ町にわたる氏子区域を渡御します。
本まつり以外の年を氏子まつりと呼び、本まつり・氏子まつりを問わず、毎年100基を超える町神輿が各町内を巡行します。
天皇太鼓
縁日
境内では毎年、天王太鼓会による奉納太鼓の演奏や、参道を埋め尽くすほどの露店が出店します。
http://soyokaze0614.blog111.fc2.com/blog-entry-211.html 【スサノオ神社◇奥の細道】
より
■最近よく名前を目にしていた、(東京南千住の)素盞雄神社へ参拝しました。
ご祭神は、
素盞雄大神(すさのおおおかみ)
飛鳥大神(あすかおおかみ)
素盞雄大神は、スサノオノミコトとわかるのですが
・・・飛鳥大神というお名前は、初めて聞きました。調べてみると
飛鳥大神は、もともと百済の神様で別名を「昆伎(こんき)王」と言うそうです、、、
いまいちピンとこない。
神社の公式HPによると
大国主神(だいこく様)の御子神です。
別名を事代主神(ことしろぬしのかみ)・一言主神(ひとことぬしのかみ)といい、
善悪を一言で判断し得る明智を持たれた神様。
後世には福の神としての性格が強まり、
商工業繁栄・商売繁昌の「えびす様」として崇敬されています。
・・・飛鳥大神とは事代主神なのか・・・
その名を聞くと、出雲の美保神社を思い出します。そこの縁で今回、来たのかしら?
御由緒は、同じく神社のHPによると
当社の開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩がありました。
黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代延暦14年(795)4月8日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て鄭重にお祀りし、当社が御創建されました。
二柱の神様が光臨した奇岩は『瑞光石』として
境内の浅間神社に祀られてます。
手を併せてたら、2羽の雀がこちらに向って飛んできたのでびっくりしました。
歓迎のサイン?
境内はとても綺麗で、カコーン、カコーンとししおどしがよい音を立ててました。
お水が湧き出てるのかな?
銀杏の大木や桃の木がたくさんあります。
桃は魔よけですよね。
いたる場所に、『スサノオ=お天王様 (蘇民将来子孫也』の説明書があり、勉強になりました。
※蘇民将来子孫也のお話・・・
スサノオノミコトが旅の途中で蘇民将来に一晩家に泊めてもらったことに感謝して「蘇民将来之子孫也」の護符を持っていたらふりかかる悪疫災厄から守ってやると約束した。その後、疫病が流行ったが、蘇民将来の子孫は茅の輪をつけ疫病を免れ、代々繁栄し続けた。
それにちなんで、『蘇民将来子孫也』はふりかかる災厄から御祭神素戔鳴命にお護り頂く言葉として現在に伝わっています。
6月のはじめに天王祭があるそうです。3年に1度の大祭は残念ながら去年だったとの事。
可愛いスサノオ様お守り。皆様が病から守られますように。
e11.jpg
そうそう、嬉しい事に、松尾芭蕉の奥の細道への旅立ちが320年前の今日、だったそうで、ポストカードを戴きました。(こちらの企画。期間はH21年10月18日まで。他芭蕉ゆかりの地を廻ってポストカード5枚集めると、『認定書』と『記念品』がもらえるそう。)
芭蕉は、神社近くの千住大橋の北側あたりから旅に出たとされていて
境内に芭蕉碑があります。
「千寿といふ所より船をあがれば 前途三千里のおもひ胸にふさがりて 幻のちまたに離別のなみだをそゝぐ」
「行はるや 鳥啼魚の 目はなみだ」
e12.jpg
長い旅、しんどそうだけどあこがれます。
・・・・・朝、ロッチの詩人ネタを見た後だったので意識がなんか違うほうへ。ぷぷ。(こちら)
0コメント