穴太衆

https://plaza.rakuten.co.jp/masterless/diary/201803180000/ 【穴太積から西教寺】より

穴太衆積み石垣群

穴太積の石垣、伊賀上野城高石垣も穴太積で藤堂高虎が近江の出身で穴太衆を束ねていました。また甲良町出身ですので寺社大工の甲良大工も束ねていました。

天守閣と石垣造りの名人とうたわれました。

西教寺にある明智光秀の墓

西教寺(さいきょうじ)は、滋賀県大津市坂本にある仏教寺院。

天台系真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山でです。

開基(創立者)は聖徳太子とする伝承もあるが判然とせず、室町時代、中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である真盛が入寺してから栄えました。

真盛上人(しんせいしょうにん)は伊賀市の西蓮寺で亡くなっているので後土御門天皇、尊盛法親王と共に供養塔があります。

芭蕉の句を横に明智光秀と夫人の 煕子(ひろこ)さんとの像

坂本城主となった明智光秀は西教寺の檀徒となり復興させました。

その妻を讃えた芭蕉の句碑

「月さびよ明智が妻のはなしせむ」

(寂しい月明りのもとですが、明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう)。

芭蕉が奥の細道を終えて 伊勢の遷宮参詣をした時に詠んだ句です。

この二人の娘が細川ガラシャで子孫の細川護煕さんの煕は煕子さんから

だと思われます。

https://shiga-sampo.com/saikyoji-midokoro/ 【明智光秀ゆかりの寺院・西教寺の見どころは?穴太衆の石積みも必見!】より

公開日 : 2020年1月16日 / 更新日 : 2020年9月6日 大津 西教寺 西教寺 正門

滋賀県大津市坂本にある西教寺は天台真盛宗の総本山であり、明智光秀の菩提寺と言われています。比叡山のふもと、日吉大社の近くですが、場所は日吉大社からやや離れているため、観光名所としての注目度はあまり高くありません。

しかし、静かな中に不断念仏の声が聞こえるステキな寺院です。また、秋には紅葉が美しいので、ぜひ行ってみてください。

このページでは西教寺の見どころについてご紹介します

西教寺の6大見どころ 西教寺の見どころには次の6つがあります。

本堂の阿弥陀如来と白手の猿の像  小堀遠州作の庭園  明智一族の供養塔

明智光秀ゆかりの資料  穴太積みの石垣  麒麟の像

本堂の阿弥陀如来と白手の猿の像

西教寺の本尊は阿弥陀如来です。本堂には大きな阿弥陀如来像があり、その前に座ると見上げるほどの大きさがあります。

西教寺の本堂 本堂の中には手が白い猿の像があります。

ある時、坂本地方で一揆が起こりました。その首謀者は真盛上人ではないか?と疑った比叡山の僧兵が西教寺に押しかけてきました。寺からは念仏を唱える声が聞こえたため兵たちが本堂に討ち入ると、そこには手が白い猿が鉦を鳴らして念仏を唱えていたと言います。

この手白猿は今も本堂の片隅にちょこんと座っています。身代わりになって守ってくれることから西教寺の猿は「護猿(ござる)」と呼ばれています。

寺の屋根には、あちこちに猿がいますよ

西教寺の屋根の猿

小堀遠州作の庭園

西教寺の見どころのひとつに庭園があります。客殿の庭園は小堀遠州作で、後ろの山を借景にして池は琵琶湖の形を模したものだとか。

小堀遠州作の庭園

西教寺の客殿庭園。小堀遠州作

他にも小さいながらも手入れされた庭がいくつかあります。

西教寺の庭園 このように狭い場所でも庭があり、きれいに手入れされています。

西教寺の庭園季節によって青葉や紅葉、雪などの景色が楽しめます。西教寺の庭園 紅葉がきれいです

明智一族の供養塔

西教寺は比叡山焼き討ちで焼かれてしまいましたが、それをいち早く再興したのが明智光秀です。

それまでにも戦さに倒れた家臣や足軽の霊を供養するために西教寺に供養米を寄進したり、妻・煕子の墓を建てて葬儀を行ったりしていました。

本能寺の変の後は坂本城が落城した後、家臣が西教寺まで来て、光秀の妻・煕子の墓の前で自害したと言われています。

今でも境内には明智一族の供養塔があり、多くの人が参拝に来ています。

明智光秀ゆかりの資料

明智光秀ゆかりの寺院だけあって光秀に関する資料が展示されています。

各地の光秀にまつわる城や光秀の像、また西教寺に関する資料などが展示されています。

西教寺の資料

こちらは光秀の像でしょうか。

西教寺 明智光秀

解説などが少ないために何がどんな資料なのかわかりづらいのがちょっと残念でした。

明智光秀資料室

また、今回NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」決定によって新たに明智光秀資料室が作られました。

光秀に関する書や年表、画像などが展示されていますが、すべて写真撮影は禁止でしたので入口の写真のみをご紹介します。

西教寺 明智光秀資料室

西教寺内にある明智光秀資料室です

どんな内容かはぜひ参拝した際にご覧ください。

穴太積みの石垣

坂本は築城の際の石積みを作る職人集団「穴太(あのう)衆」がいたところです。穴太衆の石積みを取り入れてできたのが安土城だと言われています。

それまでの城作りは野積みという石の積み方をしていましたが、信長が穴太衆を起用したことで美しい石積みの城ができました。その後、穴太衆は全国各地に呼ばれて城作りを手掛けたといいます。

すばらしい技術を持つ穴太衆が住んでいた坂本地区のあちこちでは美しい石積みが見られます。西教寺も寺院ですが、まるで城のような石積みがあり驚きます。

西教寺の石積み まるで城のような石積みですが、寺院です。穴太衆の作です

麒麟の像

西教寺の開祖・真盛上人の像をお祀りしている宗祖大師堂の唐門には麒麟が彫られています。

西教寺 唐門の麒麟

まるでNHKの大河ドラマと関連づけるように思えますが、特に関係はないそうです。また、なぜここに麒麟が彫られているのかも不明だそうですが、麒麟は「良きこと」を表し、よい政治を行って国を治めたときに現れると言い伝えられています。

他にもまだまだ見どころはたくさんあります。

近くには日吉大社や坂本の町並み、比叡山などがあるので、一緒に楽しんでみてください。


https://ameblo.jp/kawahara-clan/entry-11421294338.html 【滋賀県大津市坂本の歴史】より

坂本の歴史を紹介しているウェブ があったのでここで紹介する。

滋賀県の坂本は、単に、比叡山延暦寺の「坂の下」という場所という程度の土地ではあにようだ。そもそも松尾大社に並ぶ秦氏創建の神社、日吉大社のある土地だ。このウェブの説明にあるように、確かにこの土地は、一度は都(大津宮)のあったエリアだ。渡来人が住まう文化の先端地だったといわれても納得がいく。すぐ横は、穴太という地名もある。安土城築城で有名な穴太衆の本拠地だ。彼らもまた、秦氏だろう。松尾大社→日吉大社→坂本という意外なつながり。面白そうだ。


http://shiga-bunkazai.jp/%E6%96%B0%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9C%96%E4%BC%9A%E3%80%80%E7%AC%AC27%E5%9B%9E/ 【新近江名所圖会 第27回 穴太積み-里坊を彩る-】より

大津市坂本 滋賀院門跡の石垣 滋賀院門跡の石垣

 大津は多種多様な歴史と文化財息づく町です。世界文化遺産の比叡山延暦寺に代表される仏教文化都市、天智天皇が遷都し、藤原仲麻呂(恵美押勝)が宮をつくった古代の首都、湖上に築城された坂本城や大津城、膳所城の浮城がつくられた中世から近世にかけての城郭都市、そして、木曾義仲をこよなく愛し、義仲の眠る義仲寺に自らも眠る芭蕉のふるさととさまざま顔を持っています。

 今回は仏教文化都市の象徴、坂本里坊を紹介します。「里坊」とは比叡山の「山坊」に対して、山麓の坊(寺院)の呼び名です。坂本里坊は比叡山延暦寺の門前で、山中での修行を満行した老僧の隠居坊として多くの坊が建てられており、そこでは、いっぷう変わった石垣が多く見られることで有名です。いわゆる「穴太積み」です。

おすすめPoint

 日吉社参道から一歩中にはいると、広大な境内に名勝庭園と内仏殿や書院などが建ち並ぶ滋賀院や律院、少し南下すれば荘厳な客殿のある盛安寺などの周辺で、特に見事な石垣を見ることができます。この石垣は、かつて坂本に隣接する穴太に居住する石工集団である「穴太衆」によって積まれた石垣です。

 大小の自然石を巧みに積み上げた石積みは、細長い石を使い、長い部分を石垣の奥に持っていく積み方で、石垣の奥には栗石(くりいし)という小石を詰めて仕上げています。こうすることで各石への比重が均等になり水はけが良くなります。

 その技術の高さ、非常に堅固であることから、安土城にもその痕跡を見ることができます。自然石を巧みに積み上げ、均整のとれた石垣はぜひ見ていただきたいものです。

 古都大津の貴重な文化財を守り伝える坂本、何百年も原形を維持している石垣を見ていると名もなき石工たちの誇らしげな顔が浮かんできます。



https://ameblo.jp/igirisumonya/entry-12664287814.html  【秦氏はネストリウス派のキリスト教をもたらした西方人で、日本に帰化するために大陸からやってきた氏族】より

紀元66年、イスラエルで、ユダヤ人のゼロス党がローマの守備隊を襲撃した事件。

当時、地中海を支配していたローマ帝国に対するユダヤ人の独立戦争。

紀元68年、皇帝ネロはローマ軍を派遣して反乱鎮圧。

エルサレムの第二神殿を完全に破壊した。この破壊跡は、今では「嘆きの壁」として知られる。ユダヤ人は広大なローマ帝国から追放され、多くはシルクロードづたいに、東へ向かった。中央アジアの「弓月国」を経由して、中国に到る者もあった。

ユダヤ人原始キリスト教徒のエルサレム教団がいて、大秦国(ローマ帝国)から来た秦氏を名乗った。

秦氏が日本へ帰化した経緯

『日本書紀』によると、秦氏の先祖は弓月君と言われる。

千葉県、芝山遺跡のユダヤ人風な人物埴輪、『日本神話と同化ユダヤ人(田中英道著、2020年)』P.248

秦氏はネストリウス派のキリスト教をもたらした西方人で、日本に帰化するために大陸からやってきた氏族。

以下は『日本書紀』の口語訳

「弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが、新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで、応神天皇十六年八月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木菟宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭を加羅に派遣され、新羅国境に展開させた。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。」

日本にやってきたユダヤ人の名を、ハダ氏と受け取ったという説あり。

『古語拾遺』によると、「秦」を当初「ハダ」と発音したという。

ユダヤ人がもたらした絹が、「肌膚に軟らかなり。ゆえに秦の字を訓みてこれを波陀と謂う」とある。

由来は、「ユダ族」を意味する「(ヤ)ハダ」という発音を当てて読んだのではないか、と指摘されている。

『古語拾遺(こごしゅうい)』は平安時代の神道資料で、官人であった斎部広成が大同2年(807年)に編纂した。

古語拾遺 - Wikipedia


http://blog.livedoor.jp/s_feildsforever0805/archives/16384617.html 【聖徳太子の存在有無と秦氏=ネストリウス派について】より

キーポイント

・厩戸皇子のキリスト性

・秦河勝の存在

秦氏は渡来人系であり秦河勝は聖徳太子の側近だった

秦河勝はキリスト教を信仰するネストリウス派キリスト教徒 ユダヤ人

・イエスキリストと聖徳太子に共通する神格生

・白村江の戦いで喫した初めての世界との敗北のイメージを撤廃するために作り出した?

日出ずる国の天子 日没する国の天子 煬帝

・法隆寺の隠された十字架

秦氏=ネストリウス派(景教)(太秦景教)ユダヤ人=失われた十二支族説

・秦氏は渡来人系豪族

6世紀にローマ→秦→朝鮮を経て日本へ(?)

秦氏が作った都 太秦(太っ腹だね!秦さんとかいうダジャレ説もある)

に建立された神社仏閣にはキリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教、ミトラ教、シャーマニズムなどのメッセージが残されている

・キーパーソン 秦河勝(広隆寺の建立者)

秦河勝こと大避大神

大避神社に祀られている。中国では大闢をダビデと読む

・河勝につきまとう[12]の数字

祭りが9月12日に行なわれ、祭りの船渡卸に出る船が12艘、祭りを司る社家が12家、大鳥居前の石段が12段、供物の魚が12匹、大根12本

12はキリスト教における聖数

失われた12支族、12使徒

・摩多羅神とミトラ神(秦氏が中央アジア渡来系である根拠)

ミトラ神の実体 アリーアの古代宗教の太陽神→ゾロアスター教→ローマの太陽神→インド→摩多羅へと世界を渡った神なのではないか(救世主ミロク→弥勒菩薩?)

ミトラ神を伝来させたネストリウス派ユダヤ人の秦氏が古代キリスト教をあらゆる仏閣に刻み残した

・広隆寺の隠れ十字架

秦河勝が622年に建立した広隆寺は当初仏教寺院ではなく基督教会だったのではないか?

祀られた弥勒菩薩は隠れミトラ信仰の暗喩

ミトラ教を信仰した古代の国々に共通に見られる「シリウス聖方位」に基づいて建立されている。

(疑問)ミトラ教は景教と同一なのか

・秦氏は中央アジアの出自

景教を牽引して渡来し古都 平城京(エルサレム)の興隆に尽力した


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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