Facebook相田 公弘さん投稿記事 【忘己利他という教え】
天台宗大阿闍梨、酒井雄哉師の心に響く言葉より…
ぼくがいる比叡山の教えに「忘己利他(もうこりた)」という教えがある。
「己を捨てて他を利すればいい。そうすれば皆が幸せになる」と説いているんだ。
自分が何ができるかどうかはあまり関係ない。
何かを達成できてもできなくても、自分を捨てて他を利するということを心がけた生き方をしていればいい、というの。
成功したからといって、得たものを自分だけの懐へ入れてしまうのはよくない。
得たものを人に分けてあげなければいけない。
何をするにしても、自分がたった一人でできた、なんていうことはないものな。
ここまで生きてこられたのはたくさんの人に支えてもらってきたからだし、いま生きている間にも、大勢の人に助けられているんだよ。
だから、自分は自分、人は人だなんていう考えはよくないよね。
たとえば、ぼくの行も、実際に山を歩いたり行をするのは確かに自分だ。
でも、細かい雑務なんかを知ると、とてもじゃないけど簡単にはできない。
回峰行が始まる。
そうすると、「ああ、このごろこんな行をやっているんですね。じゃあ、ちょっと応援しましょうか」とお手伝いしてくれる人がポツン、ポツンと出て来る。
それがだんだん一人増え、二人増えと、なかには、金銭的なものを応援してくれる人まで現れる。
どんどん行を重ねていくと、回峰行のなかでも荒行の「お堂入り」ができるようになる。
その積み上げてきた五年間にはやっぱりみなさんの助けを受けて、御堂入りをしている間にもお供えものなどをしていただく。
そうしてさらに行を積み重ねて、七年間にわたる千日回峰行を満行できるわけだ。
回峰行も大勢の人に支えられてこそできるんですよ。
だから、自分は千日の行をしてえらいんだなんてふんぞりかえっちゃいけないし、みなさんに支えられてきた御恩に感謝の気持ちを忘れちゃいけないってことなんだ。
だから、こうしてお話ししているんだよ。
よく、みんなも言うでしょう、「ご回向(えこう)」とか「回向してもらう」って。
坊さんが頼まれて先祖を拝んであげるようなときに言うけれど、本来は、「よい行いを他に巡らす」という意味が含まれるしな。
お寺の人でなくても、自分のできる範囲でかまわないから、人のためになることをするのがいいわけ。
暮らしのなかで、何かお手伝いをしてあげるとか、何か福祉に寄付をするというのでもいい。
自分の徳というものを、少し分けてあげてみるのもいいよね。
人は恵み恵まれ、徳を積んでいくことになるからね。
『続・一日一生』朝日新書
「己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」《最澄・山家学生式(さんげがくしょうしき)》
慈悲とは、ほんとうの優しさや、思いやり、いつくしみ、のことを言うが、仏教では苦しみを取り除き、楽しみを与えるという意味だ。
伝教大師最澄は、慈悲の最上のあり方を、「忘己利他」と言った。
自分を忘れて、他者のために尽くすことこそが、慈悲の究極の姿であると。
舩井幸雄氏は、「人間性を高める」には、「与え好きの人間にする」のがもっとも効果的だという。(法則・サンマーク出版)より
『「いまだけ」「自分だけ」という狭い我欲から離れること。
そして、他人の利益や幸福も視野に入れた、もらうよりも与えることに喜びを感じる「利他的な考え」をもたせるのです。
あるいは、物事を根源からマクロにつかみ、ミクロに対処するように仕向ければ、その人はもらい好きから脱皮して、「与え好きの人間」へと成長していき、おのずとその人間性を高めていくでしょう。』
人間性を高めるには、「与えること」。
自分から与えることはひとつもしないで、情報でも、モノでも、善意の気持ちも、「欲しい欲しい」、「ちょうだいちょうだい」という人には、感謝がない。
何かをもらった後に、「ありがとう」というお礼や、「感謝」の言葉(メール)もないからだ。
それは、自分が与える側(主催者側)になったときによくわかる。
「忘己利他」という教えの実践を重ねたい。
■【人の心に灯をともす】のブログより❗
https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000l47.html 【「己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」】より
最澄『山家学生式(さんげがくしょうしき)』(『日本思想大系』第4巻p.194)
「あなたの人生にとっていちばん大切なものはナニ?」。こんな質問をされたら、あなたならどう答えますか。かつてビートルズは「愛こそすべて」(ALL YOU NEED IS LOVE )とうたい、世界の国々に同時中継されました。また、どこかのテレビ局で流された「愛は地球を救う」というスローガンも耳になじんでいます。
<愛>はしかしながら、仏教では否定的なイメージをもって語られてきました。「愛執」といい、「渇愛(かつあい)」といい、また「愛煩悩」という語が示すように、<愛>は否定され超えられるべき煩悩と見なされています。私たちの日常的な<愛>は自分本位なあり方に染められています。自分の<愛>の対象を手に入れるためには、他人を排斥し、傷つけることさえしてしまいがちです。その意味で<愛>は煩悩であるという考え方が、仏教では一貫しています。
私たちの打算的な<愛>にたいして、仏教では<慈悲>を唱えます。<慈悲>という「慈しみ悲しむ心」が、ほんとうのやさしさや思いやりであり、私たちの<愛>のめざすべき方向を示しています。日本天台宗の開祖・伝教大師最澄(767-822)は、<慈悲>の最上のあり方を、「己れを忘れて他を利する」〔忘己利他(もうこりた)〕という語で教えています。冒頭のことばは、「自分を忘れて〔忘己〕他者の幸せのために尽力する〔利他〕ことが、慈悲の究極のすがたである」という意味であり、最澄の『山家学生式』に述べられています。
「己れを忘れる」とは、自分の都合や損得勘定を離れて、純粋に相手の立場にたってものごとを見、対処していく態度や生き方をいいます。宮沢賢治が「雨ニモマケズ」のなかで「アラユルコトヲ自分ヲ勘定ニ入レズニ ヨク見キキシワカリ」というのは、この「己れを忘れる」というあり方を語ったものです。「己れを忘れる」というあり方によって始めて「他を利する」〔利他〕という実践が可能になる、と仏教は教えます。
「己れを忘れて他を利する」という崇高な教えは、私たちの打算的な<愛>のありようを照らしだす鏡です。そして、この教えはあくまでも私たちの日常的な<愛>の実践の延長上に、あるいはその深まりにおいて見出され、実現されていくものでしょう。誠実に自分の<愛>を生き、悩むことを抜きにして、「己れを忘れて他を利する」という理想が実現される道すじはどこにもありません。そこにおいてこそ、他者とのかかわりを生きる存在である私たちにとって、必ずや深い喜びが見出されるに違いありません。
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