古代イスラエル(ユダヤ)がルーツの祭り

https://ameblo.jp/justincase/entry-11578754676.html 【ひな祭りの起源は古代イスラエルにあり】より

雛祭りの起源は、中国の「上巳じょうしの節供」にある。上巳の日とは、陰暦3月の最初の巳(3)の日を祝う日。中国の魏の時代(220~265年)、河畔に男女が集まり、災厄を祓はらう「上巳の祓い」という行事が行われた。それは藁、紙、土器などの「人形ひとがた」で身体を撫で、わが身に着いた厄(災いや苦しみ)を男女区別なく人形に託して(移して)、海や川に流し、厄を祓うという禊みそぎ(罪やけがれを祓うために水を浴びて身を清めること)の行事であった。この人形は、「贖物あがもの」とか「撫物なでもの」呼ばれた(「流し雛」とも言う)。よく「人形に魂が乗り移る」というが、それこそが人形が作られた目的であった(わら人形もしかり)。

また、この時、“曲水の宴”というものが行われ、人々は川辺に並んで座り、上流から流した杯が前を通り過ぎないうちに詩を詠じて杯をとりあげてその酒を飲んだ。この他、桃花酒や草餅を飲食することで、厄払いする祭りでもあった。これがいわゆる「桃の節句」の起源となった。「水に流す」の由来もこのあたりにありそうだ。

節句は、もともと“節供”と書いて、季節や年の切れ目(節目)に神々に食物を供えて、人々がこのお下がりを一緒にいただくという「神人共食」の習慣であるが、古代中国の行事を徳川幕府が「五節供」(“人日”=1/7、“上巳”=3/3、“端午”=5/5、“七夕”=7/7、“重陽”=9/9)として定めた頃から、民間行事として浸透したと言われる。日本では、人日や上巳とか馴染みの薄い呼び名の代わりに、“七草の節句”“桃の節句”“菖蒲の節句”“七夕祭”“菊の節句”などと季節感のある呼び名が広まった。

中国の輸入行事である「上巳の節供」は、平安中期、子どもの無病息災を願ってお祓いをする行事として宮廷に導入される。“陰陽師”(天文、地相、人間などの吉凶を占う人)を招いて、天地の神に祈り、食物を供え、人形に災いや凶事を託して川や海に流した。また当時の宮廷の婦人や子どもらの間では「ひいな遊び」という人形遊びが行われていた。紙製人形と、身の回りの道具をまねた玩具で遊ぶもので、今の“おままごと”のようなもの。そして、室町以降、中国から人形の作り方が伝来し、捨てるべき「人形ひとがた」が、毎年飾っておく、雛祭りの「人形にんぎょう」となった。江戸初期には、その風習は宮廷から大奥に広まり、姿も“立ち雛”から“座り雛”に変わり、材質も紙から布へとグレードアップする。また、男雛は天皇、女雛は皇后の姿をとって内裏雛だいりびなと呼ばれるようになり、人形自体は、武家の威光を示すものとして徐々に豪勢となり、禊の人形という宗教的意味は失われていった。江戸中期には、女子の初節句を祝う民間行事として武家から商人に広まり、愛玩や鑑賞用の美術品として発達。さらに、明治以降、女子が生まれると初節句に雛人形を贈る習俗が一般庶民にも普及し始め、昭和の高度成長期以降は、少子化に伴い、雛人形は一層豪華となり、両親ではなく、可愛い孫を思う祖父母が購入資金提供者となることが一般化した。昭和23年以降、雛祭りは端午の節句と合わせて「こどもの日」とされ、宗教的、呪術的起源をもった雛祭りは、伝統的風習(子供のお祭り)に姿を変えた。

確かに、雛祭りの原型は、禊の人形としての厄払いという宗教行事であったが、人形は、自分の厄を背負ってくれる自分の代理なのであって、決して神ではない。雛人形は、礼拝の対象ではないのだ。それは、内裏雛ならぬ、「代理雛」であって、神ではなく単なる「紙」であった。したがって、現代の雛祭りは、一般的には偶像礼拝や異教の行事ではなくなり、非宗教的な、神不在の年中行事になった。あくまで子供の健康や成長、女子の良縁を願うことがその動機であり、漠然とした感謝や願いを表わすに過ぎないものとされる。もし、宗教的意味合いを意識するなら、雛人形を川に流すだろうし、子供1人に対し、1対の人形が必要となるから、人数分購入する必要があり、使いまわすことはできないはずだ。また、神社仏閣が雛祭りに関与している場合があるが、むしろ神社仏閣が民間行事を取り入れたに過ぎず、それが本来の形でもなければ、必然的なものでもない。ただし、地域によっては、身代わり雛(流し雛)を流す所や供え物をする所があるので、そこでクリスチャンが雛祭りを祝うのは注意したい。未信者の祖父母が孫娘に雛人形を買ってやりたいという気持ちは無下にできない。丁重に断ることもできるだろうが、これを積極的な信仰の証と福音伝道の機会として用いることも可能だ

実は、雛祭りを偶像礼拝や異教の行事と断定すると、異教の祭りに起源をもつクリスマスやイースターも教会行事としては廃止せねばならない。クリスマス・ツリーやイースター・エッグなどは元々邪教の風習であったので、すべて撤去処分するはめとなる。クリスチャンはすべての行事において「意味や目的」を慎重に吟味する必要がある。なんでもかんでも、頭ごなしに偶像礼拝とみなして断罪するのも問題であるし、無知・無関心から知らず知らずに偶像礼拝に関わることにも要注意だ。

最後に雛祭りを信仰の証・福音伝道の機会として逆手にとるお話をしよう。“禊の人形としての厄払い”という考えは、実は聖書の中心的テーマである。旧約聖書のいけにえによる贖罪システムは正に罪祓いと神人共食の儀式であり、中国の「上巳の節供」より1700年以上も古いものだ。それは、いけにえの家畜の頭に手を置くことで自分の罪を移し、それを屠ることで罪を贖う(レビ4:4等)か、もくしは荒野に放つことによって罪を遠くにおいやる(同16:21)というものだ。

そして、罪を代わりに背負う代理者、究極の贖物(贖者)こそ、イエス・キリストなのだ。旧約聖書の贖罪システムはすべてイエスの雛型である(コロ2:17)。私たちが自力ではぬぐい去ることのできない罪汚れを身代わりとなって引き受けるために、神が人形ひとがたとなって(受肉)、この世に来てくださった(ピリ2:6~8;ローマ9:5)。そして、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1:29;Ⅰコリ5:7)として、十字架にかかって死んでくださったのである。

古いにしえから人々が人形に込めた願いをイエス・キリストが十字架上で実現したのである。そして”究極の節供”こそ、キリストの犠牲を記念してパンとぶどう液を飲食する聖餐式である(Ⅰコリ11:23~6)。教会では季節に関係なくこれを祝っている。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

(ローマ5:8)

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

(Ⅱコリ5:21)

キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。

(ガラ1:4)

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

(ガラ3:13)

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

(エペ1:7)

神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

(Ⅰテモ2:5,6)

また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

(ヘブ9:12)

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

(Ⅰペテ2:22~24)

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

(Ⅰペテ3:18)


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今日の京都は祇園祭前祭の宵山です。

そして、7月17日は山鉾巡航(前祭)です。

祇園祭は、

日本三大祭のひとつで、千百年の伝統を有する八坂神社祭礼で、

古くは、祇園御霊会と呼ばれ、869年(貞観11)、

京の都をはじめ全国的に疫病が流行したとき、人々はスサノオの祟りと考え、

神泉苑で当時の国の数66カ国にちなんで66本の鉾を立て、牛頭天王(スサノオの本垂)祭り、神輿で出して災難を除去を祈ったのが始まりとされます。

平安末期には疫病神を鎮め退散させるために、神輿渡御や神楽・田楽・花笠踊り、山鉾を出して町中を練り歩く祭礼として発展しました。

その後、応仁の乱や第2次世界大戦などでの中断はあるものの、千年以上の歴史を誇る祭りとして続き、京都のみならず日本を代表する祭りとして大変有名です。

今日は、その祇園祭の謎に迫りたいと思います。

その謎とは、祇園祭が古代イスラエル(ユダヤ民族)との関係があるという説です。

祇園祭では、それぞれの山鉾で厄除けの「ちまき」をいただきますが、

そこには、

「蘇民将来之子孫也」

と書かれており、このちまきを家の玄関にかざるとスサノオの災いから逃れられるという言伝えから、この風習が伝わります。

このことは、『釈日本記』にある『備後風土記』から伝わるようです。

ちょっと、ご紹介しますと

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むかし、むかし、

あるところで、スサノオが泊ま宿がなく困っておりました。

スサノオは、ある裕福な巨旦将来の家に行き宿を求めましたが、

巨旦将来は、「食べ物もなければ部屋もない」とスサノオを追い払いました。

そこでスサノオは、巨旦将来の兄、蘇民将来の家に立ち寄ったところ、

蘇民将来の家は貧しいながらも、スサノオをこころよく迎え入れましたので、

スサノオは、そのお礼に「蘇民将来の子孫」と書いた茅の輪を門前に飾れば難を逃れられると約束しました。

その後、蘇民将来の家は代々栄えましたが、巨旦将来の家は、災いや疫病により子孫は絶え滅びてしまいまいした。

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こ門前に茅の輪の伝説が伝わり、祇園祭の「ちまき」の風習となったわけです。

さて、この伝説のお話しは、実はイスラエルの「過越祭」の内容が酷使しているといわれ、

これは昔、イスラエルの民がエジプトで奴隷となり苦しんでいた時、神がモーゼに対して羊を屠ってその血を家の入り口の柱に塗ることを命じ、その教えに従ったイスラエルの民だけが神の裁きを逃れることができたことを祝したことに起因し、その神の救いを記念して「過越祭」が行われています。

「蘇民」という言葉も「民が蘇る」という意味でもあるので、イスラエルの民がエジプトで奴隷となって苦しんでいたところを、民の誇りを蘇るという意味にも読み取れますし、また、祇園祭のメインイベントである『山鉾巡行』は7月17日に行われますが、

この7月17日というのは、ノアの箱舟が地上に降りた日でもあり、

そいえば、祇園祭でも船を模様した『船鉾』があります。

祇園祭の「ギオン」という言葉も古代ユダヤで行われていた「シオン祭」からきたのではないか?

また、山鉾にはタペストリーが前掛けといてつけられていますが、

この上の写真「水を供するリベカ」は、ユダヤの教典・タナフの中の一節に描かれており、

このタぺストリは、ベルギー・フランドル地方で製作さらたもので、1718町内に住む豪商・沼津宇右衛門によって函谷鉾に寄贈されました。

1718年は江戸時代で、「暴れん坊将軍」で有名な 8代将軍徳川吉宗の時代です。

この時代はキリスト教が禁止されていたので、聖書などは禁書だったのでタナフの一節の絵を飾るということはご法度だったはずです。

それなのに祇園祭に用いられていたということは不思議なことなのです。

また、久慈力氏の著書『祇園祭の大きな秘密』の中で、

「祇園という言葉は、日本語でも中国語でも韓国語でも説明がつかない。インドの言葉で説明されても納得いかないだろう」

と述べています。

祇園、「ギオン」という言葉が古代ユダヤの「シオン祭」から来ているという説で、「シオン」とはエルサレムの別名で、ヘブライ語で「ツィオン」と呼ばれ、英語圏に入り「ザイオン」とか「ジオン」となり日本に来て「ギオン」となったというのです。

つまり、

日本は古来、古代イスラエル(ユダヤ)の影響を受けてという証拠であり、永きにわたる時間を通って、今の私たちの生活に根づいてきたという説なのです。

もちろん、この説は日本の歴史学会で信憑性のないことから認知されていません。

しかし、このような時代の流れは、証拠になる書物などで判断されるものでなく、

当時から続く祭りや風習などの共通点などを検証することが大事だと思います。

私が思うには、この日本と古代ユダヤの関係については、平安時代に巨大な権勢をほこっていた

「秦氏」

が大きく関わっていると思っています。

【 宝冠弥勒 木彫/広隆寺蔵】

そして、秦氏は、応神14年(283年)百済(朝鮮半島)から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされる渡来系の豪族ですが、その秦氏は東アジアに景教(古代キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人の末裔という説があるのです。

その説が元で、祇園祭がイスラエル(ユダヤ)との関連性があるでは…

という説が生まれたのでした。

本当のことはわかりませんが、非常に浪漫を感じせる話であり、そういう視点から祇園祭を見物するのも一興だと思います。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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