日本の本草学(ハーブ)・クチナシ

https://www.medicalherb.or.jp/archives/162532 【クチナシ – その2】

昭和薬科大学 薬用植物園 薬用植物資源研究室 研究員 当協会顧問 佐竹 元吉

はじめに

石垣島で採集したクチナシの果実は赤熟しておらず、緑のままであった。この種をまくとほとんどが発芽して、緑の葉が出そろった。一年間温室で栽培し、屋外で栽培すると約20cmに育ったが、冬の寒さで、みな枯れてしまった。筑波で採取した種からのものは枯れずに青々としていた。石垣島のクチナシは、本州の種とは異なっていることが明らかになった。

なぜこのクチナシにこだわったかの理由

サンシシは、薬局方の山梔子の規格に合わない、長紡錘形で淡褐色の水梔子が中国から輸入されていると鑑定を頼まれたことであった。水梔子の基原植物は不明のまま薬局方不適として評価していた。石垣島のクチナシは青いまま熟すので、採集し、淡褐色になるものは 水梔子と同じではないかと考えた。中国の 植物誌には、1. Gardenia jasminoides var. jasminoides  栀子と、2. Gardenia jasminoides var.fortuneana が記載されている。1.花冠は一重で、花は完全花で、果実ができる。野生または栽培されることもある。2.花冠は二重で、花粉がなく、結実しない、栽培植物である。

日本薬局方の山梔子には、水梔子は区別せず、クチナシ Gardenia jasminoides の果実で、ときに湯通し又は蒸したもので、ゲニポシド3.0% 以上を含むと記載されている。富山大学伝統薬データベースでは、山梔子は丸手のもの、水梔子は長手のもの。一般に丸手の充実した、紅色のものが上品であるとしている。

1)左/山梔子 右/水梔子

写真提供: 株)栃本天海堂 松島 成介氏

クチナシの形態

常緑灌木、葉は広披針形、狭長楕円形、または菱状広倒披針形で、深緑色、鋭頭鈍端、基部鋭尖頭で短い柄がある。長さ6~12cm、幅1.5~ 4cm。托葉は脱落性で、苞状、基部縁辺は互いに癒合する。花は単生、短梗あり、ガク裂片は広 線形で長さ1~2cm、筒部と同長、宿存する。花冠は白色、高盆状で、筒部は長さ約3cm、裂片は 6~7個、開出で、広倒披針形、長さ2.5~3cm、 果実は倒卵形、または長楕円形で長さ1.5~ 2.5cm。葉はおおむね3個輪生で大きく、花は大輪で八重咲き、オオヤエクチナシと呼び、中国原産、ヨーロッパで広く栽培された。茎が倒伏し花が小さいものをコクチナシ var.radicans と呼ぶ。

2)クチナシ

写真提供: 元昭和薬科大学薬学部 磯田 進氏

3)コクチナシ

写真提供: 昭和薬科大学 薬用植物園 中野 美央氏

薬用としてのクチナシ

クチナシの実、山梔子は薬用として、消炎、 止血、鎮静、利尿作用、不眠解消や精神不安改善などの効果のために漢方処方に配合されている。茵蔯蒿湯 ( いんちんこうとう ) は、山梔子、茵蔯蒿の組み合わせにより、肝炎、胆嚢炎などによる黄疸、全身のかゆみ、口内炎などを治す。黄連解毒湯 ( おうれんげどくとう ) は山梔子、黄連の組み合わせにより、熱のための精神不安、不眠、諸出血を治す。加味逍遥散 ( かみしょうようさん ) は山梔子、牡丹皮との組み合わせにより、更年期障害ののぼせ、焦燥感を改善する。

4)クチナシの果実

写真提供: 元昭和薬科大学薬学部 磯田 進氏

5)山梔子

写真提供: 株)栃本天海堂 松島 成介氏

食品としてのクチナシ

日本では、飛鳥時代から、食品の着色料や染料に使われていた。『日本書紀』(720年)では天武天皇(682年)に多禰島(種子島)より、「支子」が献上されたと記載されている。『延喜式』(927年)には美濃、参河、遠江、伊予の4カ国からの献上の記載がある。花は芳香があり、わずかに甘みがあって、サラダや刺身のツマに用いられていた。新鮮な花弁は、煮ると粘りが出て酢醤油で食べるとおいしい。果実はきんとん、栗甘露煮、染め飯餅、クワイ、沢庵漬けなどの着色に用いられている。古くは兵糧米の変質を防ぐため、煎液に米を浸して蒸し、貯蔵したようである。

クチナシの花の香

梅雨時、庭に出るとクチナシの香が漂ってくる。 ヤエクチナシがこぼれるように大輪の花をつけていた。ジャスミンの香と似ていることから学名に jasminoides がつけられている。成分は、ベンジルアセテート、リナロール、リナリルアセテート、ターピネオールなどである。

6)ヤエクチナシ

写真提供: 元昭和薬科大学薬学部 磯田 進氏


https://www.medicalherb.or.jp/archives/4890 【【自然療法シリーズ】日本の本草学(ハーブ)の先達 貝原益軒(1630−1714)】 より

順天堂大学医学部特任教授・名誉教授  酒井シヅ

図1 貝原益軒 60歳頃の寿像

幕末まで、日本の医学は中国医学の流れを引く伝統医学が主流であった。その中で、いわゆるハーブは「本草」と呼ばれる学問であった。本草とは、薬用に値する植物、鉱物、動物の名前、特徴、薬効を述べた学問である。

日本に登場する、最も古い本草書は、701年、大宝令が定められ、医学教育が制度化されたとき教科書にあげられた中国の古典『新修本草』である。その後、中国からたくさんの本草書が入ってきたが、日本に大きな影響を与えたのは、江戸時代の初めに伝わった李時珍の『本草綱目』であった。本書は中国の本草の歴史で古来の書き方を根本的に変えた画期的な本草書であるが、これは日本でも、本草学の発展に大きな影響を与えた書編である。

しかし、日本人が著した、日本の本草学のはじまりは18世紀初め、江戸中期、宝暦5(1708)年に、貝原益軒(図1)が著した『大和本草』16巻(図2)であった。

『大和本草』は、宝永6年1709年、益軒79歳のときに刊行したものである。益軒が生涯をかけて本草、名物、物産について調べた結果の総まとめである。

本書には本草の総数、1,362種を掲載している。その中の772種が『本草綱目』からの引用で、『本草綱目』以外の数々の本草書から取ったものが358種、日本産で、この本で初めて取り上げられた本草が358種であった。

それ以前に出された本草書に比べて、本書の特色は、

序文で本草に関する総論を述べていること

『本草綱目』の分類に従わない、独自の分類をとっていること

漢名のないものに、強いて漢名を作らず、和名をそのままつけたこと(従前の本は漢名を作っていたために、混乱が生じていた)

『本草綱目』以外のさまざまな書物を参考にしたこと

読みやすくするために仮名まじり文で書いていること

虚偽の文章がないことである。

元禄時代まで、学問書は漢文で書くことが当たり前であった。仮名交じり文で書くことは、大変勇気のいることであっただろう。しかし、益軒が、あえて、仮名交じり文にしたのは、より多くの読者に本草の学問を知らせたかったに違いない。それもあって、『大和本草』は独創性に富んだ本である。

ところで、『大和本草』には、鉱物、植物、動物以外にもさまざまな記事がある。例えば「饅頭」の記事もある。

饅頭について

「南都塩瀬が先祖、中華にてその法をならいて日本に来たり作る故に、南都を始めとす。いまは京都江戸に名産あり、多くを食えば、気を塞いで病癖を長じ、心腹痛を為し、虫を生じ、歯を損ず、小児は、これを食えば、よく疳疾を生ず。脾胃を痛め、吐瀉撹乱となる。病人食わすべからず。皮を去りて後、蒸熟し、熱食すべし。消化しやすし。蒸して後、皮を去れば味あしし、皮を去らずして冷食すれば、脾胃を傷る。また米饅頭あり。皮は糯米を用いる。味は可なり。停塞す。葛饅頭は皮を葛にて作る。焼饅頭は久しく耐えうる。おおよそ饅頭は軽小にして口に適う故に、今世に賓筵して欠かすべからず也」

と、塩瀬の先祖が中国から饅頭の技術を伝えたこと、子どもが食べ過ぎると、疳疾を起こし、脾胃をいためるなど、病と饅頭の関係もちゃんと書いている。脾胃とは漢方でいう胃腸系の重要な器官のことである。

『大和本草』で、初めて本草書に取り上げられた、漢名のない、日本産の草に「ほととぎす」(図3)がある。

「葉はサギソウの葉に似て短小なり、すじ多し.また笹の葉ににたり。つぼみは筆の如し。花は秋開く、六出あり。中より一蕊出て、また花の形をなせり。毎蕊ごとに小紫点多し.杜鵑の羽の文に似たり、絞り染めの如し、茎の高さは一二尺にすぎず。漢名知らず」

と、強いて漢名をつけずに、「ホトトギス」の呼び名で、この植物の生態を記している。

日本本草の書『大和本草』を書いた貝原益軒は、本草以外にもたくさんの書物を出版している。最も有名なのが『養生訓』である。712年前に出されたものが、21世紀の今も読まれている。最もロングセラーの養生書である。

次回は旅を愛し、日本各地を旅した貝原益軒、その人と著作について語る予定である。

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