Facebook・船木 威徳さん投稿記【 恐怖を直視する 】
〈ちょうど1年前の私の記事を、そのまま引用します。私が自分で読み返して、改めて大切だと感じることが記されていることと、状況はむしろ、悪化しているかと感じられて仕方がないからです。〉
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、
ひとへに風の前の塵に同じ。」
(祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きがある。
沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという物事の道理を示している。おごり高ぶっている人(の栄華)も長く続くものではなく、まるで(覚めやすいと言われている)春の夜の夢のようである。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまう、
まったく風の前の塵と同じである。)
日本の首相が交代なさるから、あるいは米国の大統領の選挙が近いからというわけだけでもないのですが、社会の大きな変容、とりわけ、「みんなでこうしよう」とか「多くの人にこう『させる』つもりです」という数々のメッセージを聞いてきて、私が最近、あらためて、頻繁に想い出す一節が平家物語の冒頭です。
まず、間違いなく、いま多くの人々の行動のきっかけになっているのは『 恐怖 』であり、そこからくる『 不安 』でしょう。
不安は、新たな恐怖、そしてさらに大きな不安を連鎖的に生みだしてゆきます。
話が私自身のことになりますが、私が医師になりたての頃、なにが怖かったと言って
眼の前で、声を出して苦しむ人や、意識がすでになく、どんどん状況が悪くなる人、
噴水のように血を吐いている人、交通事故などで、手足がほとんど取れかけている人を
見ることほど怖いことはありませんでした。
さらには、火事や溺水(自死しようとしたり、実際におぼれたりした場合)、縊首(首つり)、交通事故などで、すでに亡くなっている人を診ることは当初「恐怖」をはるかに超えた感情を持たざるを得ませんでした。
あるいは、死後何日も、何週間もたっている遺体を主治医である私しか確認ができない場合もやはり「恐怖」を憶えたものです。
自宅外で亡くなった場合、後から来られるご家族に会ってもらう前には、できるだけ生々しいところが見えないよう、血液をきれいに拭き取ったり、骨や血管が見えかけている傷も整えたりします。
目を見開いて亡くなっている場合はその瞼を透明な糸で閉じておきます。
ただただ「無念」の想いを感じざるを得ないどこかを見つめた眼を隠すために、瞼を閉じてゆく「恐怖」は、相当なものでした。ただただ、怖い、の一言でした。
では、その「恐怖」の感情を、私がどうやって乗り越えたのか?
それは、その患者さんの身体や傷を徹底的に「よく見る」「直視する」ことによってです。
私が実際にやったのは、「怖くても」よく見る「怖くても」もっと近づいてよく見る
「怖くても」よく触り、よく「感じる」ということ。
事故に遭って、悲しいことに手の指が複数切れてしまった高校生を診察したことがあります。
そこで、その「指」をよく見ることで、最初は底知れない恐怖を感じたその想いは
どこかに消え、ご本人の精神状態、バイタルサインは?骨の断面は?見えている動脈は?
と、冷静に、「いま」起こっているできごと、そのできごとの結果を、冷静に見ることができるようになり、さらには、「次にどうするか?」にフォーカスして頭が働き始めるのです。
もっと言いましょう。「不安」は、「恐怖」を「直視しないこと」から大きくなり始めます。
例えば、みなさんのご家族が、ひどい熱中症で病院に運ばれたとします。
意識もなく、心臓も動いているのかさえよく分からない。
もし、搬送された先の病院の医師、看護師が「怖い、怖い、死んでるかもしれないし、自分が触って死んでしまったらどうしよう」と、逃げ回っていたらどうなるでしょうか?
そんな医師も看護師もいないでしょう。
私たちは、その人が生きているか、すでに死んでいるのかをすばやく見分け、1秒でも早く処置を施すことで、仮に死にかけている人でも、生き延びられる確率を上げるように考えると同時に、手が動くようにトレーニングされています。
そうできるようになるには、それなりの時間、経験が必要ですが、そこで繰り返しているのはひたすら近くで、起きている事実を、徹底的に「見る」「聴く」、そして「感じる」という単純なことなのです。医療者が人の命を助けるために行うべきは、怖がったり、不安に思ったりすることではなくそばで、その人に起きている事実を、ひたすら「見る」ことですから。いま、日本だけではなく、世界中を覆っているような「恐怖」と、それによって増大する「不安」。
私のクリニックにも、毎日多くの方々がいらして口々に「怖い、怖い、どうしたらいいか分からない」「これからどうなるのか、不安でしょうがない」と言います。
それでいて、私が「何が怖いのですか?」「一番不安なことはなんですか?」と尋ねると、多くの人は、こう答えるのです。
「確かに、なんだろう?なにが怖いのかしら?でも、毎日、テレビでいろんな人が言っているでしょう?『このウイルスは怖い』って・・・。」
私から、「過去にテレビで『何万人もの死者が出る』と騒いだ人がいましたが、実際そうなりましたか?」「実際に亡くなっている人たちの数を知っていますか?」
「そもそも、~さんのまわりで、そのウイルスで亡くなった方が何十人もいるのですか?」
と尋ねても、「そう言われると、そうですねえ・・・。」となってしまうのです。
なかには、とっさに深く考えることをする人もいて「じゃあ、なぜ、テレビや新聞は、『怖い』病気だから、ウイルスだから、みんなで家にいよう、外に出るな、とすごく『怖い』もののように言うのですか?」と尋ねてきます。
私は、こう答えます。「怖がらせることが、目的だから、です。」
これは、あくまで私個人の考えなので、私の独り言だと思ってもらえばけっこうです。
あらゆる力、権力、パワーが、究極に求めるものは完全な支配です。客観的な評価ができない特定の思想に代々染まり、自己満足に狂う少数の者たちが、大多数の人間を完全に支配することを何千年と求めてきました。
それを実現するために、もっとも原始的でもっとも有効な方法は、多くの人々を「怖がらせること」です。
人間は「死」という本能に触れる想像をすると論理的な考えのもとに行動することができなくなってしまいます。
客観的にどうなのか?科学的根拠は?といった現代人が当たり前にできていたことさえ忘れ、「いまは、すべきではない」あるいは、「そんなことを言う奴は敵だ」とさえ言い出すのです。
これは、社会主義国家だから、「民主主義」国家だから、など無関係です。
十分な根拠を示さず、十分な議論を尽くさないまま(それでいて反対意見は決して取り上げないで)「みんなの恐怖を取り除き、みんなが安心できるようにするのは『みんなでこうすべきだ』」と言う論調のメッセージが、いったいこれまで何度、歴史のなかで繰り返されてきたでしょうか?
私たちが、まともな大人として、一方的な支配のもとにしっぽを振って自分から飛び込んでゆくことのないよう、注意しておかねばならないのは、「マスコミやネットを通じて、私たちにもたらされる『恐怖』の感情を起こしうる情報、すなわち、病気、食糧、天災、戦乱、経済や教育に関するネガティブな情報は、そのままに受け取らない」ということです。
もし、なんらかの情報を聞いて、そこで、「恐怖」を感じたなら、なおさらのこと、
できごとを直視し、逃げないで、そのできごとにもっともっと近づいて「真実はなにか」を
できるかぎり調べることです。
平家物語は続きます。
~遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらは皆旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れむことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざりしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
(遠く外国の例を探すと、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらの者はみな、
もとの主君や前の皇帝の政治にも従わず、享楽の限りを尽くし、他人の諫言も気にかけることなく、天下が乱れていることを理解せず、民衆が心を悩ませていることを認識しなかったので(その栄華も)長く続くことはなく、滅んでいった者たちである。)
もう一度言いますが、あらゆる力、権力、パワーが、究極に求めるものはその他大勢の人々の完全な支配です。
客観的な評価ができないまでに固定された特定の思想に代々染まり、自己満足に狂う少数の者たちが、大多数の人間を完全に支配することを何千年と求めてきました。
それを実現するために、もっとも原始的でもっとも有効な方法は、多くの人々を「怖がらせること」です。人々が「怖がる」のは、支配する側にとって、とんでもなく都合のよい状況です。
「これをしなくてはならない」「特効薬がはやくできて欲しい」「予防注射を打たなくてはいけない」など、私たちがなんらかの行動を取ろうとする、取らなくてはいけないと考えるときその、動機、理由を考えてみましょう。「みんなが言っている(らしい)」「テレビで言っていた」その理由が、もしも、落ち着いて考えてもはっきりとした根拠がなく、得体の知れない「恐怖」に基づくものならそれは、はっきり言って、ほぼすべてウソです。
勢いよくあおられているだけ、恐怖を作り出され、不安を大きくするよう一部の狂った力にコントロールされているだけの可能性が非常に高いと、私は考えています。
どれだけうまくやっているつもりでも、この世界の善や秩序に根本的に反した行為は、完全に成し遂げられることはないと信じています。
しかし、その本質的な悪を信じ、その悪に命さえも捧げる者たちがいる限り、相当の犠牲者、被害者は今後も増えてゆくでしょう。
私たちが、それを少しでも抑えるためには、人間は、学び続け、自分で考え続けるしかほかに方法がないと思うのです。
人間の「考える」力も、「ひとつになる」力も人間が生き抜くための最強の武器であると
私は考えています。
~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり
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