Facebook・草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
人生の借り
すこし前に、千日回峰行を満行された大阿闍梨、塩沼亮潤さんの言葉や考え方を紹介しましたが、大阿闍梨さんの言葉を聞くうちに、わたしたちの「代わり」に行をなさったのだと思えてきました。
過酷すぎてだれもが出来ることではないから、代表してやってくださる。それを追体験して、わたしたちもいのちの尊さや生きる意味を学ぶことができるのだ・・・そんなことを思うのです。
すると、大阿闍梨さんの言葉がするすると胸にしみこんできます。お説教や、訓示や助言に向かうような心構えではなく、「素直」な心がじっと耳を澄ませるような感じです。
わたしたちの大切な時間のおおきな部分を、こうした追体験でいただいているのではないでしょうか。読書もそうです。思い出もそうです。音楽や絵画の鑑賞もやはり同じではないか・・・。
生と死の垣根をこえて、わたしたちは常にいただきものをしているのだ。そして、「わたし」もまた、気づかぬうちに、なにかしらの贈り物をしているのかもしれない・・・。
偉業を成し遂げた方の言葉は深いものですが、決してそういう方ばかりのものではありませんね。
「生きる」ということ自体が実に偉大なことだからです。それぞれに抱えるモノを持ち、それぞれに葛藤し、それぞれによりよい道を模索している。ただ、その重さを問うことがないだけかも知れません。(毎日みなさまのコメントを読んでの感想でもあります。)
千日回峰行を二度満行された酒井雄哉さんは、「この世でいちばん大切なものは?」と訊かれて、次のように答えられていました。
「生きることでしょう。いかにして生きるかということでしょう。
ぼくたちが生まれてきた時には、不純なものはなにもないじゃない。この世の中に、いま生まれてきたんだよ、という真実以外ない。歳をとろうがどうしようが、真実は自分が生まれたことにあり、仏様から授かった命なんです」。
「生まれたというのは、人生に借りができたということ・・・なるべくいいことをして・・・自分の人生にお返ししていく」。
心にストンと落ちます。
生まれたから出来た借りを、精一杯生きることで返していくのですね。
https://www.news-postseven.com/archives/20210606_1665501.html?DETAIL&_from=widget_related_pc 【目と鼻のない18才の娘【前編】「やれること全てやる」決断までの葛藤】より
「世界で最も美しいものは、見ることも触れることもできない。心で感じる必要があるのです」──これは“三重苦”を抱えて生きたヘレン・ケラーの言葉。現代は、ヘレンの生きた時代より医療も文化もはるかに発達したが、人が「生きる」ことの本質も、何か変化しただろうか。アメリカで暮らす母と娘の18年間を通して、あなたは何を感じるだろうか。
2003年3月11日、米国ニューヨーク。この日は、いまにも雪の降りそうな寒い日だった。その2年前、アメリカ在住の日本人男性と結婚した倉本美香さん(51才)は、国際線の客室乗務員として勤めていた日本航空を退職し、夫妻でニューヨークに住むことを選んだ。翌年には、アメリカ進出を目指す日本人や企業のサポートを行うビジネスコンサルティング会社を設立し、その数か月後、妊娠が発覚する。
産院は日本語が通じるマンハッタンの病院を選び、“その瞬間”をとらえようとカメラを構える夫に見守られながら出産に挑んだ。絵に描いたような幸せが満ちあふれていた。
しかし、この出産で世界は一変する。当時の様子を、美香さんは著書にこう記している。
《主治医が声を荒らげて、「カメラはやめてください!」と夫を制した。何が起こったのか、私には分からなかった。
「She cannot open her eyes.(赤ちゃんの目が開かないわ)」
ナースが絶叫したのが聞こえて、その後は何が何だか分からなかった》(『生まれてくれてありがとう 目と鼻のない娘は14才になりました』/小学館より)
「このまま娘と一緒に飛び降りたら楽になるだろうな」
長女・千璃(せり)さん(18才)は「無眼球症」と呼ばれる障害を抱えており、生まれたときから眼球がなかった。両眼ともない症例は12万人に1人といわれる。眼球が小さく生まれてしまう「小眼球症」ならば、病気の程度によるが、治療によって視力を得ることもできる。しかし、眼球そのものを持たない千璃さんは、どんな治療を施しても、わずかな光すら感じることができない。闇の世界で生きていくことを生まれた瞬間から強いられた。
さらに鼻や口蓋も未形成のままで、心臓には9ミリの穴があいていることも発覚する。極度に湾曲した鼻と咽頭扁桃肥大症のせいで呼吸障害もあった。広大なアメリカの地でも、これほどの重複障害は前例がなかった。美香さんは、出産直後の心境をこう明かす。
「出産を終えた私は、夫に車椅子を押されてNICU(新生児集中治療室)へ向かいました。眠っている千璃の顔を見ると、目は、まぶたを閉じているだけのようにも見えましたが、額の骨は斜めに走り、小鼻にはぽっかりと穴があいていて、外見に異常があることは明らかでした。『かわいいね』と夫に話しかけましたが、それが心の底からの本心だったかと聞かれると、なんとも言えません」
出産は夫婦だけの出来事ではない。孫の誕生を楽しみにしている日本の両親に、どのように報告すべきかわからなかった。
「私は、自分の意志でアメリカに暮らし、ただでさえ心配をかけているのに、障害を持った子を産んでしまった。自分を何度も責めました。いざ親に電話しようと受話器を持っても、体が震えてかけることができませんでした」(美香さん・以下同)
両親への連絡は夫に任せ、時間をかけて受け入れてもらうためにも、その時点では目が見えないこと以外は詳しく説明するのは控えた。それでも、両家の親たちは言葉を失っていたという。
ただでさえ、第1子の子育ては不安が多い。妻が里帰り出産をして、しばらく実家で子育てをしたり、親が子供の家へ行ってサポートするのは当たり前のこととなっている。夫以外に頼れる身内もいない異国の地で、美香さんの心は孤独と恐怖に押し潰されていった。
「千璃を抱いてニューヨークの街を歩いていると、その顔を覗き込んだ人たちはみんな、ビクッと驚きました。悪気がないことはわかりますが、『何が起こったの?』と聞かれるのが怖くて、外出するときは千璃にツバのある帽子をかぶらせ、顔を隠すようになりました」
千璃さんが夜中に泣き出すと、アパートの隣人から苦情が来ることを恐れ、娘を抱えて屋上へ行った。深い闇の中では、衝動的になることもあった。
「『このまま一緒に飛び降りたら楽になるだろうな』と、何度も考えました。千璃の未来も、私たちの未来も思い描けず、誰も知らないところで人生を終わらせてもいいかもしれないという誘惑が夜の闇にはありました。空が白んできて、朝の光を浴びるまで屋上に立ち続ける。毎日、その繰り返しでした」
だが、娘との未来に絶望する一方で、美香さんの心に希望の光を与えてくれたのも千璃さんだった。ある日、美香さんが大好きなDREAMS COME TRUEの曲を流していると、千璃さんは足をバタバタと動かしながら、声を立てて「キャッキャ」と笑った。その姿を目にしたとき、美香さんはわれに返ったと話す。
「千璃がお腹にいたとき、エコー検査ではいつも顔が隠れていたため、障害があることに気づかなかったんです。それは、この子が一生懸命顔を隠して、『ママ、生まれたい』と意思表示をしていたのかもしれない。そう気づいたとき、私は自分の身勝手さに申し訳ない気持ちでいっぱいになりました」
千璃のためにやれることはすべてやる――母の覚悟が決まった瞬間だった。
いつになったら治療が終わるのか、費用はどれくらいかかるのか
千璃さんが初めて手術を受けたのは、生後10か月のこと。本来、眼球は「見る」ことで成長し、眼球の成長に合わせて顔の骨格が形成されていくのだが、千璃さんには眼球がないため、放っておくと目の周囲の骨が収縮してしまい顔の骨の成長に支障をきたすことが懸念された。
それを防ぐには、「義眼」を装着する必要がある。従来の義眼手術では、義眼を入れるスペースを確保するため、まず拡張器を目の中(眼窩)に装着し、じわじわと幅を広げるのが主流だ。しかし、一般的な子供と比べて著しく身体的な成長が遅かった千璃さんは、拡張器での治療に思ったような効果が見られなかった。
そこで、当時、認可されたばかりだった最先端医療に挑むことを決意する。「エキスパンダブルコンフォーマー」という、体液を吸って膨らむボール状の器具を目の中に埋め込み、目の骨の成長を促進する治療法だ。
手術は全身麻酔から始まり、中に入れた器具が飛び出さないよう、両まぶたが黒い糸で縫い合わされた。術後、両目から血を流して泣き叫ぶ娘の姿を見たとき、美香さんの胸は締めつけられた。
「たとえ手術が成功しても、千璃は自分の顔を見ることはできません。手術の意味もわからず、ただ痛くて苦しい思いをさせているだけなのではないかと、さまざまな葛藤がありました」
まだ手探り状態であった最新医療の成功は、簡単な道のりではなかった。埋め込んだ器具は幾度となく目の中から飛び出し、たった2週間で再手術となることもあった。以降、千璃さんは義眼治療だけで約30回もの手術を受ける。
精神面、肉体面だけでなく、金銭的な負担も莫大なものだった。日本のように国民皆保険制度ではないアメリカは、医療費の保障を受けるには、個人で加入している保険会社と交渉する必要がある。その手続きは複雑そのもので、そのうえ、手術前には数十万~数百万円の前納金を病院に支払う必要がある。倉本家の家計は「自転車操業」そのものだった。
「いつになったら終わるのか、費用はどのくらいかかるのか、そもそも千璃の幸せは何なのか……。正解が見つからないまま、あらゆることが重くのしかかってきました。でも、やるしかない。この先があると信じて、前に進むしかありませんでした」
希望を込めて行っていた義眼手術だが、後々、思いがけない形で美香さんを苦しめる原因となる。
日本で1冊目の著書が出版されると、「視覚のない子供に義眼を無理に入れる治療を受けさせるのは親のエゴ」と、大バッシングを受けたのだ。もちろん、それ以上に応援の声や、治療に尽力してくれる医師など、励みになる存在はたくさんあった。しかし、自分の人間性を否定する声に、美香さんは自信を失う。障害を持つ子供を育てていくことのあまりの過酷さに戸惑いを隠せなかった。
https://www.news-postseven.com/archives/20171201_633677.html?DETAIL&_from=widget_related_pc 【存在するだけで意味がある 目と鼻のない娘と歩んだ日々】 より
産んでから初めてわかった、わが娘の重い障害。母親は、頼れる人のいない異国の地でもがき苦しみ、絶望の縁まで追い込まれた。しかし、それをも凌駕する喜びをもたらしてくれるのもまた、わが子にほかならない──それに気づき、前を向いて歩くことを選んだ家族の14年8か月の軌跡を追う。
「わが家には、長女の千璃(せり)が生まれた頃の写真はありません。千璃が生まれた瞬間、主治医に“NO!”とカメラを取り上げられてしまったのです」
愛娘誕生の瞬間をこう振り返るのは、ニューヨーク在住の倉本美香さん(48才)。千璃ちゃんには目がない。無眼球症という障害で、彼女のように両眼ともない症例は、12万人に1人といわれる。鼻や口蓋の奇形、心疾患や発達遅滞などの重い障害があり、このような重度の重複障害は、前例がない。
美香さんはこう話す。
「相模原の障害者施設で19名の尊い命が失われた事件は、米国にも衝撃的なニュースとして伝わって来ました。『障害者は世の中のお荷物、世の中からいなくなるべきだ』という容疑者の言葉に、震えました。体が大きくなって、介護が必要になった障害者を家族だけで世話をするには限界があります。施設に子どもを送り出す親御さん達は、やむなくその結論に達したのかもしれません。その送り出した先で、我が子が殺傷された気持ちを思うと、いたたまれませんでした。
『障害者は不幸を作ることしかできない』と容疑者は言ったけれど、千璃の存在は、私達にたくさんのものを与えてくれています。千璃が生まれてきて、たくさんの障害を持ってきたことで、私たちは本当に必要なものは何かを勉強できていると思います。千璃が存在してくれているだけで意味があります。千璃とは言葉でのコミュニケーションははかれないけれど、私はいつも彼女に『生まれて来てくれてありがとう。生きていてくれてありがとう』と言葉にして伝えています」
そんな美香さんが千璃ちゃんとの日々を綴った『生まれてくれてありがとう 目と鼻のない娘は14才になりました』(小学館)が出版された。そこには困難を極める子育ての様子が記録されている。
◆「ああ、この子は生きたいんだ」
搾乳した母乳を与えるにも、5~10cc飲ませるのに何十分もかかった。睡眠を促すメラトニンの体内生成ができず、睡眠時間は長くて3時間。千璃ちゃんが泣いて起きるたびに、美香さんも起きて世話をした。
「まさに不眠不休。生後4か月を迎えた頃には、先の見えない闘いに疲れ果て、千璃を連れてアパートの屋上から飛び降りようと思ったことがありました」(美香さん。以下「」内同じ)
死を覚悟した美香さんがドアを開けると、さっきまでとめどなく泣き叫んでいた千璃ちゃんが、音楽を聴いてキャッキャッと笑っていた。
「ああ、この子は生きたいんだ」
この瞬間、美香さんに迷いはなくなった。目だけで30回を超えた手術代をまかなうためもあったが、周囲の一部に咎められても、好きだった仕事はやめなかった。2年後には長男が誕生。やがて子供は4人になった。
千璃ちゃんはその後、頭蓋骨を開けて骨を取り出して整え、また戻すという大手術などを経て、少しずつではあるが、着実に成長していった。
「わが家は3人の弟妹にとって、障害者と一緒にいるのが当たり前の環境です。次男はいつか研究者になって、千璃を治したいと言ってくれています。どの子も思いやりの深い子供に育ってくれています。千璃は決して、家族のお荷物などではない。それどころか、私たちにとっての希望の光なんです」
今では、成長記録の写真も増えた。千璃ちゃんの成長は、すべてが家族の喜びに変わるのだ。
※女性セブン2017年12月14日号
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