https://www.asahi.com/special/kotonoha311/ 【ことのは311震災・復興】より抜粋
東日本大震災から1年後、12人の詩人たちの自作朗読とインタビューを朝日新聞デジタルで連載しました。いま装いを新たに再掲します
いまは 高橋睦郎
言葉だ 最初に壊れたのは
そのことに私たちが気づかなかったのは 崩壊があまりにも緩慢だったため
気づいたのは 世界が壊れたのち 亀裂や陥没を せめて言葉で繕おうと
捜した時 言葉は機能しなかった 私たちはようやくにして知った
世界は言葉で出来ていたのだ と 言葉がゆっくりと壊れていく時
世界も目に見えず壊れていったのだ と
*
壊れた世界を回復するのだ といって そのための言葉が機能しないから といって
たぶん あせらないほうがいい 時間をかけて壊れた言葉は
時間をかけてしか回復しない 壊れたのなら 自分が回復する
などと 過信しないほうがいい 知るがいい 言葉が壊れた時
きみじしんも壊れたのだ と きみもまた 言葉で出来ていたのだ と
*
いま思い出すべきは きみの未明の時 きみの内なる闇に 一つの言葉が生まれ
生まれた言葉が 別の言葉を呼び 言葉たちが手をつないで 立ちあがった
その時 幼いきみが怖ず怖ず立ちあがり 幼い世界が危なっかしく立ちあがったのだ
その時 きみはあせらなかった あせることなど知らなかった
きみのその時を思いおこすがいい きみはいま あの時と同じ未明にある
*
科学者たちは言う big bangによって世界は始まった と
もし その推論が正しいなら 世界は崩壊によって始まったのだ
始まった世界はゆっくりと立ちあがっていったのだ
私たちの認識によって言うなら 言葉によって 始まった世界はあせらなかったろう
時間に委ねて ゆっくりと待ったろう 言葉によって 自らが立たしめられるのを
そのことに準ならって 私たちも待とう
*
うたわなければならない と きみは思う しかしうたい出せない と きみは嘆く
たぶん うたい出せないのは 啓示 壊れたきみと壊れた世界への 待てのシグナル
きみは闇とともに眠り 光とともに起き
日日にちにちの働きの中で 忍耐づよく待つがいい
自分の中でいつか一つ しばらくして一つと 言葉が目を覚まし 立ちあがるのを
たぶん いまは世界の終わりで始まり 私たちは老い 同時に生まれたばかり
言葉が生む害毒、言葉で立ち向かう
高橋睦郎さんインタビュー 二〇一二年二月二三日掲載
――今回の作品で「言葉だ 最初に壊れたのは」と書かれました。
「言葉というものの本源に立ちかえらないと、自分が発する言葉、詩作で使っている言葉がまるで力がない、ということを嫌というほど、思い知らされた。震災前、ぼくらは無自覚に言葉を使っていた。言葉に責任を十分に持っていなかった。たとえば、原発に関する言葉。だから、事故後の状況はすべて『想定外』ということになってしまった」
「一つ一つの単語、言葉についてゆっくりと考え、責任を持って、そこに自分の思いをこめながら発していかないといけない。言葉が本当に立ち上がるのを待つことが今ほど大切なときはない。沈黙がいかに大事かということをぼくは感じています」
――「詩心二千年」という近著で、日本は詩歌が豊かな国、と書かれました。日本語はどんな可能性を持っているのでしょうか。
「日本語のように、基本的な文法や言語構造、ボキャブラリーが千数百年も変わっていない国というのは世界でもかなり珍しい。たとえば、古代英語や中世英語と今の英語はずいぶん違う。でも、日本では、古事記も万葉集も少し慣れれば、今でも読める。読めるということは、それらを書いた人たちと対話しているということ。我々が詩を作ったり発語したりしているとき、自分ひとりが発語しているわけではない。柿本人麻呂や紫式部や松尾芭蕉といった表現者だけでなく、ごく普通の民衆も含めて過去の人たちが手を貸し、声を添えて、僕らと一緒に発語してくれている、ということ。過去の人たちが一緒に発語していると思うことは、自分たちが使う日本語への信頼ということですね。そういう信頼の上で、一つ一つの言葉に思いを込め、責任をもっていく、ということだ。たとえば、『おはようございます』という言葉も、私たちが発明したわけではない。過去のいろんな人も一緒に『おはようございます』といっているんです」
――詩人は被災地で震災を体験したわけではない。詩人はどうやって震災後の世界と対峙たいじするのでしょうか。
「ぼくは、自分が詩をつくる場合には、『大変ですねえ』と、被災した人たちに中途半端に寄り添ったってしようがない、と考えている。へんなこびにしかならない。今回の大災を自分がどう体現するかということが大事。この震災で、我々国民、あるいは人類全体がすごく危ういところに立っているということを自覚させられた。そういう根本的なところに立ち、一つ一つを自分の問題にしていくことでしか発語できない」
――震災後「言葉を信じる」という朗読会で自作の詩を朗読されました。
「なんかやらざるをえない。そんな衝動で、ああいう企画を立ち上げてみんなでやったが、まあ無力ですね。無力というのを5回の朗読会の中で、どんどん痛感していったということが収穫ですかね」
――詩で震災を主題にするのは難しいと思います。震災をネタにしてよいのか、という詩人もいます。
「ぼくは、『永遠まで』という詩集に収めた『私の名は』という詩で、『私の名は 死を喰らう者 新しい不幸の香を 鋭く嗅ぎつける者 喪の家にいちはやく駆けつけ 死肉を貪り 望まれず 甲高い嘆きの声を挙げる者』と書いた。これが表現者だろうと、ぼくは思っている。不幸ということを食って生きている。不幸があるから、存在する。しかし、その表現者の作品によって、不幸にあった人がなぐさめられるということも、非常にパラドキシカルだけど、ある。ぼくは、カトリックの教会に近づいていた時期があって、そこの司祭に、神の栄光のためになんだかんだしてください、といわれたときに、『間違えないでください。ぼくは世を滅ぼす側に手を貸している人間ですから』と20代前半から言っていました」
――毒がなくなったら詩ではない、と。
「詩は毒自体、毒そのものなんです。それが、そうでないように甘いものに見えるとしたら、余計に罪深いですよね」
――詩人は罪深いけど、世の中に必要とされる存在ということですか。
「言葉自身が罪深いものだと思うんです。言葉ができたから、数式がうまれ、その結果が原子力の発見にもなり、それをどのように制御していくか、ということにもなる。言葉っていうものを人間が発明したために、世界に、いろんな害毒が生まれてくる。でも、その害毒から解放され救われるためには、矛盾だけれども、その言葉を使うしかない。人間が存在する限り、罪や害毒と立ち向かうためにも言葉しかない。人類が滅亡し、完全消滅したら、言葉も無くなり、世界は完全に無に帰ってしまう。それこそが考えられるかぎり、一番安らかな世界だろうとは思います」
――「詩人を殺す」という詩も書いていますね。
「きれいごとばっかり聞いていると、うんざりするんです。詩人なんてすばらしい存在じゃない、いらないよ、と思う。自分は、そこにしか位置がないんだけど、立派なものだと思うなよと。いないほうがいいんだよと。詩人を必要としない世の中のほうがいい。だから、プラトンは詩人を追放した。楽園のような世であれば、詩人なんて必要とされない。でも、そんな世は絶対に来ない。だから、おできのように詩人が存在している」
(聞き手・赤田康和)
高橋睦郎
たかはし・むつお 1937年北九州市生まれ。64年に『薔薇(ばら)の木 にせの恋人たち』で詩壇へ。俳句、短歌、評論のほか、演劇やバレエの台本、能・狂言やオペラの新作も手がける。88年高見順賞、2010年現代詩人賞、15年現代俳句大賞ほか受賞多数。00年紫綬褒章
海辺の樹 辻井喬
なんという名前だったのか ある日急に見えなくなってしまった樹は
夕方になるとたくさんの小鳥が 翼を休めに集まってきて
波の音を背景にしながら ひとしきりその日の出来事を話し合った後で
みんな眠りに就くのだった 明日も今日と同じ日がくるのを信じて
かつては人間も樹や雲の言葉が分かった その頃は風もよく樹と相談していた
不確かな自分の行方について 雲は夕陽に染まってもいいのか
それとももっと高く拡がって 北へ方角をとってもいいのかを確かめるため
そうして彼らの会話は いつも自由に憧れる小鳥たちの囀りや
波の音に消されて終わるのだった
子供の頃私も樹の下に立止まって 彼らの話を聞き
そよ風のように樹とも雲とも話したいと思い その頭巾を被ると
みんなの話が聴こえるという 聴耳頭巾を探したのだった
そんな希望を私に与えてくれた海辺の樹が 姿を消してしまったのだ
もう小鳥たちはばらばらになって 思い思いの里山を目指すしかなかった
雲は無言で山の頂の上を流れ 私は途方にくれ
にんげんの一生が束の間の闇なら 見る夢はもっと儚いに違いない
そう思ってふり返ると 人々は腕を組み首を垂れて耐えていた
時と場合では耐えることが勇気なのだった
その晩私は樹が箒の形になって 暗い空を渡るのを見た
たくさんの星を鏤(ちりば)め ゆっくり地平線の方に動いていた
ひとつひとつの星は 翼を休めたことのある小鳥
あるいは言葉を交わした雲のかけららしかった 見ていると樹はもともと夜空に生えていて
私の立っている大地が動いているのが分かった
どこかでかすかに風が起きているようだった 淋しいことだけれども
私は理解しなければならないのだった 浜辺から消えた樹は
ひとりひとりの心の夜空に立っていて それぞれの生き方をはじめたのだと
納得しなければならなかった
悲劇は襲ってこない方がよかったのだ たとえそのために想いが深くなったとしても
私は生きていかなければならないのだから 耐えることに勇気の片鱗を示しながら
文学に突きつけられた疑問符
辻井喬さんインタビュー二〇一二年二月二六日掲載
――大震災でどんなことを思い、感じましたか。
「感じたのは人間存在のはかなさ。外から襲ってくるものに対して、人間というのはどうしようもない。そんな感覚です。一生懸命貯金して買った車が、津波で、ごろごろ、ごろごろ、おもちゃみたいに転がされていく。現場に行った人たちからは、映像では伝わらないすさまじい風景の話も聞かされた。昨年は、一年中、体調が悪く、感染症に弱い体になっているとして、医者から止められていて被災地には行けなかった。ただ、自分でも行くのがちょっと怖かったのも事実です」
――私たちの価値観は変わるのでしょうか。
「私たちは、国内総生産(GDP)を増加させれば幸せになれると思ってやってきたが、グローバリゼーションの行き詰まりもあって、少しも幸せという感じが出てこない。私たちが信じてきた価値観が間違っていたのではないかと思い始めていた。そんなときに起きた大震災だった。震災後のいま、生きている人間は、基本的な考え方を変えなきゃならない。決定的といってもいいような変化をしないといけない、と思っています。『がんばろう日本』なんて、空々しいスローガン。まったく心に響いてこない。むしろ、復興では、『今までと違った日本をつくる』という考え方をベースにしなくてはいけない」
――今回、書き下ろしの「海辺の樹(き)」にはどんな思いを込めたのでしょうか。
「一本だけ松が残っていた光景がありましたね。あれがヒントになっている。1本だけ残って、あとはみんな津波にやられてしまった。GDPをいくらあげても、人間は幸せになれない。消失した木々がそんなことを訴えたかったのではないか、と」
――震災で、詩や小説など文学はどんな影響を受けたのでしょうか。
「文学作品、自分が書いたものが、この事態に耐えうる強さを持っていたのか、あるいは詩壇といわれている世界の表現力が、ああいう大災害を形象化する力を持っていたのか、疑問符をつけて問いかけられてしまったのだと思います。震災という事態は、人間の想像力を超えている。むしろ、想像力は働かない状態の方が楽ではないかとすら思う。それほど厳しい現実の中にいます」
「自分が創作する上では、もっと簡単な表現があるんじゃないか。それを探したいという感じが強くなりました。詩も短歌も、文学作品において重要なのは、表現ではなく、表現を通じて訴えてくる心、なんだと。『心』が貧しければ、いくら表現が多彩で巧みでも、やっぱり、作品としては弱い。書く側が『これを書かないと生きていけない』という作品であることが大事に思えてきた。一方、人々が、言葉を求めているかどうかもわからない。言葉がなくても、切実な連帯感の方が、下手な言葉よりも力強いのではないか、とも思う。それでも、詩人としては、やっぱり、自分に向かって発するしかない。自分に向かって発することが、結果として、詩を読んでくださる人につながっていけばと思います」
――今の詩壇、詩人たちのことはどうみていますか。
「日本の今の詩壇は、対社会的、対歴史的なものごとへの対応力という意味で、弱いと思います。自分も含めてね。外国の詩人と議論すると、よくわかる。たとえば、韓国には、国が南北に分断されている問題や、植民地時代にさんざんな目にあわされた歴史に、正面から向き合っている、すぐれた詩人がいる」
「日本の今の詩にはそういう強さがない。これは詩人たちの責任というよりも、日本の明治以降の文学が思想を表現する言葉を持っていないという問題が大きい。作家や詩人たち、日本の文学者は、思想と向き合う表現を文学の表現としてできていない。そもそも、思想の言葉そのものがヨーロッパの思想書の翻訳をもとにしていたため、感性から遊離した表現が多すぎた。思想の言葉を持つために、アリストテレスやプラトンを読まなくてもいい。むしろ、日本の古典や、自分の表現をしようと格闘した日本の思想家たちの言葉を読めばいいんです」
(聞き手・赤田康和)
辻井喬
つじい・たかし 1927年生まれ。詩集「群青、わが黙示」で高見順賞、小説「父の肖像」で野間文芸賞など受賞多数。12年に文化功労者。堤清二の本名で実業家としても活躍。セゾングループ元代表で、1970年代以降の消費文化を育てた。13年、86歳で死去
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