俳句に込められた作者の心情と「詠み」がもたらす心理的効果 ―― ポジティブ心理学の観点を加えて ― ①

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はじめに

石田波郷は「俳句は私小説である」と述べた。金子兜太は,平和への思いを俳句に託した。俳句は彼らのように特別な才能を持つ人たちだけのものではない。俳句の愛好家は今や一千万人を超えるとされ,80歳を超えてなおリュックサックを背負い,吟行に出かける人たちもいる。俳句のどのような特徴が人々にそのような力を与えるのだろうか。本稿では,まず,昭和10年代に登場し,俳壇史に大きな足跡を残した人間探求派の試みについての心理学的検討を行う。次に,一般作者の俳句をポジティブ心理学の観点から読み解き,俳句が作者にもたらす心理的効果について考察した結果を報告する。これらを合わせて,俳句に込められた作者の心情と「詠み」がもたらす心理的効果について考察する。

1.人間探求派の俳句観 ― 心理学との接点 ―

俳句の基礎的技法は写生であり,十七音の定型による調べの美しさと季語の象徴機能を駆使して作者の心情を四季折々の場面や風景に託す。著者は2005年に出版した著書『俳句理解の心理学』において,俳壇史において人間探求派を形成した中村草田男らの試みを概観し,俳句における写生という技法を,物理的・光学的な映像の世界と,作者による心像の世界をつなぐものとして捉え直した。本研究では,その論を受けて,俳壇史上における人間探求派の試みとその意義について再考し,俳句に込められた作者の心情と「詠み」がもたらす心理的効果について考察する。

俳壇史上,人間探求派に位置づけられるのは,中村草田男(1901‐1983),石田波郷(1913‐1969),加藤楸邨(1905‐1993)の3名を中心とする俳人たちである。以下,その登場前の近代俳句の歴史を概観し,俳壇史における位置づけを試みる。

明治中期(1890年代)に,正岡子規(1867~1902)が対象をありのままに詠むことを是とする写生説を唱え,芭蕉に帰れと叫ぶだけで言葉の遊戯に終始していた月並俳諧の革新を試みた。子規の志を継いで客観写生道を極めた高浜虚子(1874~1959)は,写生文や小説に没頭して一時俳壇を離れたが,大正初期(1910年代)には俳壇に復帰し,平坦な写生の中に伝統趣味を生かす独自の句風を確立した。昭和に入るとさらに花鳥諷詠を提唱し,ホトトギス派を俳壇の中心とした。しかしながら,ホトトギス派の中に,客観写生に偏った花鳥諷詠に満足せず,

虚子から離れようとする動きが生じた。水原秋桜子は俳誌「馬酔木』を創刊し,石田波郷,加藤楸邨らの俳人を育てた。1931(昭和6)年には論文『自然の真と文芸上の真』を発表し,虛子の客観写生に異を唱え,有季定型の伝統は守りつつも,より主観的な叙情を描き出すことを主張した。これに端を発して,俳句と生活の直結による,感情の清新な表現を求める新興俳句運動が起こる。この運動は浪漫的な調子を帯び,短歌あるいは近代詩への接近を思わせる作風を示した。[コスモスを離れし蝶に渓深し]などの句に代表されるように叙情的雰囲気に富む秋桜子,[七月の青嶺まぢかく溶鉱炉]などの句に代表されるように都会生活や機械美を好んで詠んだ山口誓子などが中心的存在であった。

新興俳句運動に続いて,人間性の探求という課題を俳句において追求する機運が生じた。新興俳句運動は秋桜子や誓子の意図を越えて無季論へと進む尖鋭分子も表れ分裂に向かうが,有季派にあって,発句の原点にたちかえって古典を研究する中から俳句固有の方法としての定型・季語・切字を再認識しようとする機運が起こってきたのである。中村草田男が旗手となり,石田波郷や加藤楸邨も同調した。

彼らはより生活に根ざした描写によって,人間の内面を象徴的に描き出し,そこから自己の生き方を追求しようとした。波郷は俳句の中に私小説的な境地を詠み込んで,独自の句風をうち立てた。楸邨は初め秋桜子の優雅華麗な句風に傾倒したが,後に思索的生活的な人間中心の句風を作り上げ,人間の内面に光を当てた。草田男は,近代詩の境地を俳句に導入し,特に人間の欲求と成長を表現しようとした。彼の俳句には寓意的比喩的表現が多いことから難解派とも呼ばれたが,人間性の探求と俳句の持つ伝統美との融合に努め,「人間の内面を掘り下げた俳人」と称された。彼らは人間探求派と呼ばれ,対象の客観的描写に加えて,その中に自らの心象を託そうとした。

人間探求派の心理描写には心理学徒として瞠目しうる点が多い。[勇気こそ地の塩なれや梅真白 草田男][鰯雲人に告ぐべきことならず 楸邨][はこべらや焦土の色の雀ども 波郷]といった句に,その神髄をみることができる。人間探求派はホトトギス的伝統に対してもその文学性の喪失や無個性を批判し,無季新興俳句との中間に位置したとされる。無季派の主張に耳を傾けつつ,有季定型を俳句固有の方法として進化させたということができる。皆川(2005)においても論述したように,俳壇において写生の在り方の是正が叫ばれた時代(秋桜子,草田男らの試みの時代)は,心理学において極端な行動主義に対する批判が起こり,直接観察できる行動(=狭義の行動)のみならず,そこから推論しうる心的過程をも含めた広範な心的活動(=広義の行動)を研究対象にしようという気運が高まった時代に符合する。このことに歴史の必然を感じずにはいられないのである。以下,俳句に込められた作者の心情と「詠み」がもたらす心理的効果の観点から,人間探求派の作品を鑑賞する。

2.人間探求派の試みについての一考察 ― 実作の鑑賞から ―

1)中村草田男の実作とその試み

冬の水一枝の影も欺かず 草田男

『長子』(昭和11年刊)所収。季語は「冬の水」(冬)。冬の澄みきった水で,秋の澄んだ水に比べると重く暗い感じがある。

句意を簡潔に示すと,「水底まで澄みきった冷たい冬の水面は,葉を落としつくした冬木の枝の細かい枝までも,はっきりと映している」ということになる。鏡のようにはりつめた水面。視覚的にも触覚的にも冷たい緊張感に満ちている。映っているのは細かな枯枝。その一枝の影もゆるがせにせず,克明に映し取っている。「欺かず」という表現は,葉を落としつくした枝の一本一本に対して使われている。この擬人的ないいまわしによって,人間の心のいっさいをさらけだした姿に通じるものを思わせる。恐ろしいほど静かな水面を見つめながら佇んでいると,まわりの木々のみならず,それを見ている人間のすべてまでを,正確に映し取っているように思えてくる。写真でも表現できそうに思えるが,その厳しさを表せるのは,俳句という潔い韻文ならではのものである。

冴え渡った大気,冷え切った水,虚飾を捨て去った枝。いずれも読み手の背筋を正させる。

草田男は自著『俳句入門』において,この句を解説している。それは自身の俳句観の表明でもある。以下は,その要旨である。裸木の小枝の一本一本にいたるまで写しとる「冬の水」の明澄さと厳粛さとは,どうしても「欺 いっ しかず」という言葉でなければ表現できない。一枝と音で読ませることも,はっきりとしたその印象とそれの伴う厳粛な感じを打ち出すために必要である。表現は報告でも装飾でもない。まず,対象の姿をしっかりと眺め,同時にそれの伴うぬきさしならない気分をはっきり受け取って,ありのままに適当な言葉で活かすことである。句作者の注意力は,表現の前のこういう把握と,表現に移ってからのこういう言葉の選択とに集中されなければならない。この句では,無生物がまるで人間のような判断力と意志力をもってふるまったかのように表現する技法である擬人法を用いている。擬人法は表現を豊かにするが,ともすれば感銘が希薄になったりものものしい誇張に陥ってしまうので,注意しなければならない。そのためには,対象を凝視してその実感に根ざすことを基本とする必要がある。ホトトギス派と無季新興俳句との中間に位置する人間探求派ならではの論説であるといえよう。

玟瑰や今も沖には未来あり 草田男

『長子』(昭和11年刊)所収。季語は「玟瑰」(夏)。海岸の砂地に自生するバラ科の落葉低木で,六,七月頃,紅色の香りのよい花をつける。愛らしい花にも似ず,枝には棘が多く,葉も薔薇に似ている。北海道の夏を象徴する花ともいわれる。

この海の沖には未来がある,玟瑰の花のように,の意である。草田男の代表句の一つであると同時に,「玟瑰」という季語の例句として真っ先に思い浮かぶのがこの句である。「今も沖には未来あり」という散文になってしまいそうな一節が,「玟瑰」という季語を得て,叙景句としての確かさをもつにいたったと評されている。玟瑰を自らにたとえたともとれる。この句の「今も」は,第一義的には,作者が少年であった頃に海原の遙か彼方を見て未来を夢みていた記憶を呼び起こす役割を担っている。しかし,この「今も」は,単に一個人の思いに留まることなく,私たちの文化の根底に流れるものにまで届いている。未来に対する希望を与えてくれるこの句が多くの人々に愛唱され,その結果,玟瑰という季語が広く親しまれることになったともいわれている。

万緑の中や吾子の歯生えそむる 草田男

『火の島』(昭和14年刊)所収。昭和十四年の作。季語は「万緑」(夏)。夏になって地上が草木の緑一色につつまれること。この作者が,季語としてはじめて使用し,この句によってそれを定着させた。

青葉若葉が満ちあふれる季節の中,自分の子の歯が生えはじめた,の意である。「万緑」という生命のあふれる季節の中,我が子の成長を目の当たりにしたときの父としてのその喜びと感動を詠っている。ちらっとのぞいた赤ん坊の二本の白い清潔な歯に,緑のしたたりが美しく映えるようである。自然と人間のたくましい成長力の中に,作者の喜びが見事に表現されている。十七音のうち七音までが A の音であることも一句を明るく,陽光に満ちた生命讃歌としているとされている。この句のあたりから中村草田男は加藤楸邨・石田波郷とともに人間探求派と呼ばれ,人間の心理や思想を生活の裏に詠う傾向を強く打ち出してきたと評される「自己の内面界から人間としての自らを近代化する」と述べ,その考えを具現化する俳句を創作した。

勇気こそ地の塩なれや梅真白 草田男

『来し方行方』(昭和22年刊)所収。季語は「梅」(春)。梅は春の到来を知らせる花といわれ,春咲く木の花のうち他に先駆けて花を咲かせる。香り高く,暗闇の夜でも清らかな香りによって,その在処が知られる。

勇気こそが地の塩なのです,真っ白な梅が小粒の花でも凛と咲いているように,の意である。昭和19年,学徒出陣の教え子への餞に作られたという。「地の塩」とは聖書マタイの福音書にある山上の垂訓に見られる言葉。

イエスが群衆に向かって,人間のあるべき姿を説いた教えの一つである。「あなたがたは地の塩です。もし,塩が塩気をなくしたら,何によって塩気をつけるのでしょうか。もう,何の役にも立たず,外に捨てられて,人々に踏みつけられるだけです」と語りかける。冬の寒さを耐えてきた梅が早春に花開くように,真の勇気とは自ら死を望むようなことをせずに生きて帰ってくることであると伝え,それを願う気持ちが込められていると考えられる。

葡萄食ふ一語一語の如くにて 草田男

『銀河依然』(昭和28年刊)所収。季語は「葡萄」(秋)。秋を代表する果実の一つ。栽培の歴史は古く,紀元前15世紀頃のエジプトの壁画に,すでにその収穫と葡萄酒製造の様子が描かれている。日本では,12世紀に甲州葡萄が誕生した。

葡萄を,言葉を噛みしめるように食べているよ,の意である。一粒,一粒と口に運ぶ葡萄。その様を一語一語と捉えた。大粒で糖度の高い黒葡萄が見える。葡萄の一粒一粒を「一語一語の如く」口に入れているその所作への意識のあり方において,作者はかなり内面的であると評されている。論理的かつ倫理的に見つめる精神対象を「如くにて」という比喩表現(直喩)で暗示している。比喩とは詩的表現の代表的なものであり,修辞学上の用語である。相互に類似性あるいは共通性をもっている事物の一方になぞらえて,他方をまざまざと想像させる方法であるとされている。

2)加藤楸邨の実作とその試み

寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃 楸邨

『寒雷』(昭和14年刊)所収。季語は「寒雷」(冬)。寒の雷が鳴り渡って,真夜中のガラス窓が鳴っている,の意。真夜中の寒雷を,神経に響くようなガラス窓の振動によって,うまく捉えている。「びりりびりり」という擬音語がガラス窓の状態をよく表し,「鳴る」は省略されている。「寒雷」という季語は,楸邨のこの句によって多くの句作者に使われるようになったとされている。楸邨は,「十数年前,冬の雷というのでは言いきれない重苦しい自分の生活気分を読みたいと思って,寒中の雷を寒雷とよんでみた」としてこの句を示し,さらに,「そのころ晩学の私は三十歳を越えて妻子をかかえて大学生にかえっていたが,ちょうど日本の社会情勢も次第に重苦しさを加えてきていたころだった。鬱屈している心中のものが,発しようとして発しきれない感じが,寒雷というものでいくらか生かせたような気持ちがした」と記している(『北日本新聞』昭和28年2月1日)。

この句では,作者のいうとおり,「鬱屈の思い」は句の底に沈み,「寒雷」という緊迫した語によって,「びりりびりり」が,単にガラスのふるえる擬音というのではなく,人の全身をつき動かすようなものとなっている。

ガラスを「玻璃」とわざわざ漢字書きしているところにも,日常のガラスを超えようとした意識があるものと思われる。作者はただ寒雷とかガラスとかを詠んでいるわけではない。自分という人間を追求した結果として,寒雷に到達したのである。

鰯雲人に告ぐべきことならず 楸邨

『寒雷』(昭和14年刊)所収。季語は「鰯雲」(秋)。白く薄い小さな雲が空一面に規則的配列で広がっているのを,鰯の群れに見立てて呼ぶ。この雲が現れると鰯が大漁になるからともいう。細かい氷の粒からなり,5キロから13キロの高い空に現れる。前線付近にできやすく,雨の前兆になることが多い。その形状から「鱗雲」とも「鯖雲」とも呼ばれる。この雲を見かけると,気温は高めであっても秋の到来を実感する。

ふと見上げた空に鰯雲が広がっている,いま心の中にある思いは,けっして人に告げるべきことではない,の意であるが,「告げたいことがあるのだよ」と逆のことを言っているようにも読み取れる。爽やかな秋の鰯雲の広がりと,作者の内向する心情の激しくぶつかり合った句は「難解俳句」といわれた。作者個人の内面的な感情

の起伏は当人にしかわかり得ないものだが,この句は俳句が花鳥風月だけでなく,内面への展開も可能であるこ

とを証明した意義深い句であると評されている。

この句は,昭和初期の経済恐慌から戦争へと向かう暗鬱な時代相を背景に,人間の生を核心に捉えて詠まれており,人間探求派と呼ばれるにいたった句の一つとされている。「言いおおせて何かある,語ってしまって何が残るか」という姿勢で沈黙し,「何かを暗示するにとどめる」という俳句の基本を守りつつ,人間探求派の一人である楸邨らしさを示した一句である。

初つばめ父子に友の来てゐる日 楸邨 ゆき ご

『雪後の天』(昭和18年刊)所収。季語は「初つばめ」(春)。燕は春の半ば頃,南から日本に渡ってきて,秋には,南へと去る。その間,家の軒に巣を作り,町や田園を飛び交い,雛を育てる。雀とともに人間の生活圏の中にいる野鳥である。燕が街中を飛び始めると,春たけなわの感じとなる。

今年も初めてのつばめがやってきて,軒を出たり入ったりしている。今日は,父親にも子どもにも友人が訪ねてきている,の意である。毎年やってくる燕が今年もやっと姿をみせ,毎日が楽しい季節になった。この日はその季節に誘われたかのように,父親(おそらく作者)にも,子どもにも,それぞれの友人が訪ねてきて楽しそうに話している。この句は,「初つばめ」と「父子に友の来てゐる日」という二つの部分から成る。燕がやってくる季節の感動と,家族に友の訪ねてきた事柄とで,初つばめの頃の季節の平和な日本の家庭風景が,読者にほほえましさを感じさせてくれる。

凩や焦土の金庫吹き鳴らす 楸邨 や こく『野哭』(昭和23年刊)所収。昭和22年の作。季語は「凩」(冬)。凩は冬の到来を告げる北風である。冬の初め,気圧配置が西高東低型になった時,大陸で発達した高気圧から吹きつける冷たい風である。「木枯」とも書くように,草を枯らし,木の葉を散らし,天地を荒涼とした冬の景色に塗り替えてゆく。

冷たい木枯しが吹きつのっている。それが焼野原に残った金庫に当たってヒューヒューと音を立てている,の意である。太平洋戦争末期,日本全国の主な都市は米軍の空襲でほとんど焼き払われていた。それは戦後もしばらく無残な様子をとどめていた。また,四季の移り変わりはそのままに,冬になり木枯しが吹きすさんでいる。

焼けただれた金庫が焦土に置き去りにされ,木枯しは焦土を吹きまくり,金庫に当たって吹き鳴らすかのように音を立てている。敗戦の深い傷跡が焦土にこもっている。この句には,作者自身の悲しみが込められているが,同時に当時の飢えた多くの日本人の気持ちでもあった。「凩が金庫を吹き鳴らす」という擬人法が光っている。 楸邨は,句集『野哭』の後記に「人間としての自分の人間悪,自己の身を置く社会悪,かういふものの中で,ほんとうの声をどうして生かしていくか,これが今の私の課題だ」と述べている。人間探求派の神髄を表す論述である。

しづかなる力満ちゆきばつたとぶ 楸邨 やまなみ

『山脈』(昭和30年刊)所収。季語は「ばった」(秋)。

いままさにとびたとうとするばったに力がみなぎってきた,と感じた瞬間,音を立ててばったがとびたった,

の意である。折れ曲がったばったの足が,跳ぼうとしてさらに縮み込む瞬間を的確に捉えている。ばったをじっと見ていると,ばったの全身に静かに力がみなぎってきて,それが極限に達した瞬間に,みごとに跳躍する,というのである。跳ぶ前のばったの全身そして後肢は,跳ぶためにすでに筋肉の収縮が始まり,頂点に達している。

コンマ何秒かの世界をハイスピードカメラで細かく描写したかのようだ。満ちてくる力も,跳ぶ前に縮み込む足も,実際に見ることはできないが,見えているように思わせるところが作者の力である。

花鳥諷詠に飽き足らなかったこの作者は,ばったと自分を一体にして,自分をその上に重ね,自分の生命をその中に探ろうとした。花鳥諷詠はばったから入っていくが,人間探求派は人間から入っていくとされる。作者は戦後結核で倒れ,やがてそれを克服していった。その病快復期の作品で,それを理解して,この句を読むと,「しづかなる力満ちゆき」という表現が作者の内面をよく表していることがわかるとされている。一匹のばったに自分の気力・体力の回復が乗り移っている。跳ぼうとする力が四肢に満ちわたっていくのはばっただけでなく作者自身でもあるといえる。作者の喜びが,ばったをとおして伝わってくる。芭蕉に傾倒し,対象と表現者と言葉が一体となる「真実感合」の俳句観に立って詠まれ,豊かな季語の世界に作者の人間性が深く沈潜してゆくと評される句の一つである。

3)石田波郷の実作とその試み

バスを待ち大路の春をうたがはず 波郷

『鶴の眼』(昭和14年刊)所収。昭和八年作。季語は「春」。立春(2月4日頃)から立夏(5月5日頃)の前日までをいい,初春,仲春,晩春に分ける。初春はまだ風が冷たく気温も低いが,木々の芽がしだいにふくらみ,草も青みはじめる。仲春には雛祭,彼岸などの行事があり,その後半には桜の便りが届きはじめる。晩春は花時と重なり,桜が散った後から立夏までの季節感を表す。

バスを待つ間の大通りのようすから春は疑いなく来ている,の意である。作者は,バスを待ちながら,まだ風は冷たいが,あふれる陽射し,街路樹の芽吹き,花屋の店先のようす,人々の服装など,大通りの風物に変化を感じとり,春の到来を確信している。

当時の波郷はしきりに都会の風物を詠ったという。四国の農村から出てきたばかりの二十歳の青年の眼にとっては都会のすべてが新鮮そのものに映ったのであろう。街路樹が芽吹き始め,よく晴れた浮く雲もかろやかである。歩道を行き交う女性たちもコートを脱ぎ,明るい春らしい色の服に変わっている。バスを待っている作者の肩に髪に降り注ぐ日の光は,冬が過ぎて春になったと感じさせる。「大路の春」という言葉が雅やかで,ゆったりしている。「うたがはず」という言葉には,春を喜ぶしみじみとした心がこもっている。

寒椿ついひに一日のふところ手 波郷 かぜきり『風切』(昭和18年刊)所収。季語は「寒椿」(冬)。椿は春の季語だが,冬のうちから咲くものを「冬椿」または「寒椿」といい,冬の季語とされている。常緑の葉隠れにのぞく花の姿は寒気に耐えて咲いているという感じ

する。花や葉に雪の積もったところも美しい。

寒椿が咲いて光彩を放っている,私は,今日一日何をすることもなく過ごした,の意である。寒椿は,まだ寒いうちに咲く椿である。濃い緑色の葉の陰に,目立たないながらも凜として咲いている。カンツバキというきっぱりした音の響きも,その姿にふさわしい。その花を見かけて,われをふりかえり,ついになすところなく終わった今日一日のことを思っているのである。「ふところ手」が,その気分をよく表していると評されている。一日中,何ごとか考えあぐねていたのかもしれない。

数え年二十七歳で俳誌『鶴』を創刊主宰し,俳句以外のことは何もやらないと決意していた波郷は,いつも和服の着流しで歩いていたという。少しずつ重苦しさを加えつつある社会情勢の中で,俳句のようなものに一生をかけようとすることには,ひそかに高ぶる思いがあったであろう。俳句の世界でも,強大な力を持っていた『ホトトギス』にはしたがわず,新興俳句の動きにもくみせず,ときに難解派と呼ばれて,孤独窮迫の思いに陥ることもあったであろう。そういった諸々の思いを重ねてみると,この「ふところ手」に深い味わいが出てくる。

雁やのこるものみな美しき 波郷

『病鴈』(昭和21年刊)。季語は「雁」(秋)。人間界には,時折,外の世界から消息がもたらされる。晩秋に北方から渡ってくる雁もその一つである。雁は姿よりも声の鳥であったという。雁を「かりね」ともいうが,漢字で書けば「雁が音」,つまり,雁の声。これがやがて雁そのものを表すようになったのだという。

作者の出征に際しての句で,「留別」という詞書がついている。雁を仰ぎ,その声を聞きながら時の流れに思いを馳せる。「残るもの」とは愛するもの,日本の山河と,そこに生きる人々,とりわけ妻子である。残していく家族はもちろん,あらゆるものに対する留別の念を詠んでいる。二度と戻れず再び見ることができないという思いが,すべてのものを美しいと感じさせるのである。

昭和18年,長男が生まれた年の9月23日,召集令状が届いた。波郷は,この句を残して中国に渡った。そして戦地で肺結核を病み,内地へ送還されることになった。自らの行く末を空を渡る雁に託したのかもしれない。

はこべらや焦土の色の雀ども 波郷

『雨覆』(昭和23年刊)所収。季語は「はこべら」(春)。はこべのこと。畑や道端などどこにでも生え,地面を這うように茎が広がり,春になると白く小さな花をつける。柔らかい茎や葉は小動物の餌として,また民間薬として利用されてきた。春の七草の一つ。

はこべが生え,白い小さな花をつけはじめた。焦土の色をした雀たちが舞いおりてはそれをついばんでいる,の意である。戦争で焼けた地上にも春がめぐってきた。地面をついばむ雀の群れに,一面の焦土を思い出す。今その地に雑草が萌え出ている。はこべの緑色と,雀との対照。雀の羽の色を「焦土」の色とみて,あたり一帯が荒涼とした焼け跡であることを示すとともに,はこべと雀の取り合わせが,やって来た「春」と「平和」のよろこびをよく表している。雀に対する作者の愛情と,可憐な平和な風景が読者の眼前に浮かんでくる。「雀ども」の「ども」といういい方に作者の雀へ呼びかけた親しさが表されている。

七夕竹惜命の文字隠れなし 波郷

『惜命』(昭和25年刊)所収。季語は「七夕竹」(秋)。牽牛星と織女星が,天の川を渡って年に一度だけ会うことを許されるのが,旧暦7月7日の夜である。この日が七夕で,五節句の一つである。日本には奈良時代に中国

から伝わり,平安時代には宮中行事となった。その後,しだいに民俗行事として,七夕竹を飾り星空を仰ぐ祭として民間に広がった。

七夕竹に「惜命」という文字が隠れることなく書かれている,の意。波郷は戦時中に胸膜炎に罹り,その再発によって,昭和23年,東京・清瀬村(現・清瀬市)の国立東京療養所に入院した。その時の作と伝えられている。

そのころ結核は不治の病であった。この句は,七夕竹の願いごとを書いた短冊に「惜命」の文字を見付けて心の底から驚いたという気持ちを表しているとされる。入院患者たちの切実な願いであり,それが下五の「隠れなし」という言葉に集約されている。七夕に願いを書いた短冊の文字にもっと長く生きていたい,死にたくないという思いが隠しようもなく込められ,そのことがひしひしと伝わってきたのであろう。この句が収められた句集『惜命』には,命を見つめた療養俳句が多数掲載され,高い評価を受けた。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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