世に洩るる声も光も四葩かな 五島高資
https://19339360.at.webry.info/201106/article_4.html 【紫陽花を知る・・・・七変化・八仙花・四葩(よひら)とも呼ぶ】より
今年は、例年より20日ばかし梅雨入りが早い。その分、梅雨明けが早いのではと予想している。比較的気温も低く過ごし易い日が続き、余裕の裕さんで喜んでいましたが、それも6月半ば過ぎ迄のこと。
突然か、異変と言うか・・・・・先週の23日頃から、蒸し暑い真夏日が続いています。ご近所の方々と顔を合わせては「暑い!」「暑いですね~」と鸚鵡返しの朝の挨拶。
震災により、原発停止が現実となるまでは、節電なんて考えもしなかった。声高に節電を叫ばれるご時世にあって、些か気になるが最早や辛抱にも限界、堪らずエアコンに縋るばかり。でも、我が家はエコ運転?設定28℃を遵守しています。(但し、これは今年に限らず例年のこと・・・・・・)
さて、さて、6月に入ると雨降りのなか、此処彼処で紫陽花の花開を見る。その都度、カメラに貯めた写真と過去のものを整理しておくことにいたします。
近年、この種の紫陽花は、店先や花好きのご家庭でよく見掛けます。鑑賞花は品種改良が進み、色や形が突然変異するが如く、或いは他の花と見紛うばかりに変化する。
アジサイ(Hydrangea・ハイドレインジア・水の容器)、初夏に球状(房状)に集合した青紫色の花を開く。ユキノシタ科の西洋アジサイである。「アジサイ」紫陽花の漢名を有するが、日本原産、暖地の海岸に自生する「ガクアジサイ」を母品として改良されたもの、中国からの渡来したものではないという。
ガクアジサイは枝先に大きな集散花序を付け、その周囲に萼片からなる青紫・白等の方形の装飾花をもち、額縁の様に見えることが名前の由来という。
花の色は(実際は、花ではなく萼)、アントシアニンの他、発色に影響する補助色素や土壌に含まれるアルミニウムイオン量やPH(酸・アルカリ度)。更に、開花からの日数によって様々に変化する。そのため「七変化」と呼ばれている。
花の色は、リトマス試験紙の発色とは正反対に「土が酸性であれば青、アルカリ性であれば赤」と聞かされていたがそれは正しくないという。土壌のPHは、花の色を決定付ける一つの要因にしか過ぎないという。
花弁に含まれる補助色素によって青にならない、なり難いものもある。また、PHは土壌に含まれるアルミニウムがイオン化する量を左右するのみ。仮に、酸性土であってもアルミニウムの含有量が少なければ花は青くならないという。
要は、紫陽花の青色は、アルミニウムイオンが適度に含まれる土壌であることが条件となるのでしょう。始めに青かった花も、咲き終わりに近付くと赤味が増してくる。なかには緑色になることもある。花が緑の品種もあるというが「アジサイ葉化病」に罹ったことも原因という。
カシワバアジサイ(柏葉紫陽花) 北米原産、和名の由来は文字通り、葉の形状が柏に似ているからという。花は白く、円錐状に付く。花期は5月~7月、一重・八重咲きがある。
数年前に流行期を迎えたようだがブームは冷めたようだ・・・・・・
カシワバアジサイに替わり、現在よく見掛ける品種がこれだ!ご近所の庭にも青色に花咲く鉢が置かれている。汗を流さず、眺め、カメラを向けて密かに楽しんでいます。
余談ですが、私は育てるよりも枯らすのは得意、特に鉢植えはメチャ簡単なのだ・・・・・・
あじさいは、あづ(集まる)さあい(真の藍色)から生まれた語というが、別名「七変化」・「八仙花」または四葩(よひら)等と称す。
古人の詠歌に
「夏のなお 心はつきぬ あじさいの よひらの露に月も澄みけり」 (藤原 俊成)
よひらの露・・・・・四枚の花弁、「よひら」なる呼称は、西洋紫陽花では無く、ガクアジサイであってこその表現だと感じ入る・・・・・・
シーボルト(1796~1866 ドイツの医師・博物学者)は、長崎・丸山遊郭の遊女で愛人だった「楠本滝」さんに因んで紫陽花の学名を「オタクサ」と名付けたという。
西洋紫陽花は、このオタクサや日本を経て中国に渡った紫陽花等と共に品種改良され、西洋のアルカリ土壌で19世紀には紅色花が登場、20世紀にオランダ・ベルギー・フランスを中心に更に改良が進み、華やかで、繁殖力の強い西洋紫陽花として400~500種に至る迄になり、これが戦後になって逆輸入されたという。
綺麗な花には棘がある・・・・・・と言われるが、紫陽花に棘はないが毒がある。蕾・葉・根に含まれるアミグダリン・アントシアニン・ヒドラゲノシド等があり、牛・山羊・人が食すると中毒を起こすという。過呼吸・嘔吐・痙攣・麻痺などを経て死に至る場合もあるというから・・・・クワバラ・クワバラ
https://www.kobe-park.or.jp/shinrin/ajisai/arekore/arekore07/ 【アジサイとシーボルト】より
シーボルトについて
シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold (フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト) 1796年‐1866年)はドイツ生まれの医師・博物学者です。
江戸時代に長崎・出島のオランダ商館の医師として日本へやってきました。日本人医師の育成をする傍ら、日本の風物や植物などを世界に広く紹介したことが知られています。
シーボルトは医師でありながら、自然科学などの分野にも非常に高い関心があり、様々な功績を残しています。
シーボルトとオタキさん
シーボルトは数ある植物の中でも日本の植物であるアジサイを愛したようで、彼の著書『日本植物誌(フローラ・ヤポニカ)』には、彼が日本で知り合った「オタキさん」という女性の名前からつけられたといわれる「Hydrangea otaksa(ハイドランジア オタクサ)」という学名でアジサイが紹介されています。ただ、アジサイの学名はシーボルトが命名する以前に「Hydrangea macrophylla (ハイドランジア マクロフィラ)」という名前で発表されていたのでオタクサの名前は認められませんでした。
ちなみに、ハイドランジアは「水の器・水瓶(果実の形が水瓶に似ていることから)」マクロフィラは「大きな葉っぱ」という意味です。大きな葉をして、水を好むアジサイにぴったりの名前ですね。
シーボルトと日本
シーボルトは当時の西洋の最新医療技術を日本へ伝えるのと同時に、日本で生物学や地理学など多くの情報を集めてオランダに送り、日本文化の紹介などに貢献しました。日本の文化などをとても愛した人だったようです。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0202/00/index.html 【その前にちょっとお勉強。「シーボルト早分かり講座」】より
シーボルトって、何をした人? と尋ねると、
「長崎の【鳴滝】という所に日本の医師に医学の講議を行なう【鳴滝塾】を開いたりっぱなお医者さんでしょ。それに、ヨーロッパに日本の文化を広めたんだよね」
きっとこ~んな答えが多くの人から返ってくることだろう。
日本とヨーロッパを結ぶ接点として、日本に巨大な足跡を残したシーボルト。
また「お滝さん」という女性と出会い、長崎の地で愛に生きたシーボルト。
長崎の町には今でも彼ついて知り、感じられる場所が「鳴滝」の地に残されている。
シーボルトの生涯を追いながら、シーボルト研究に詳しい長崎純心大学の宮坂先生に素朴な疑問を投げかけ、あまり知られていないシーボルトの人柄が垣間見れるようなエピソードを交えた「シーボルト早分かり講座」をレクチャーしてもらおう。
案内人●宮坂 正英先生
宮坂 正英先生
長崎純心大学人文学部・比較文科学科助教授
『医学界の名門に生まれたシーボルト』
シーボルトはドイツ人。フルネームはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトといい、1796年、南ドイツの学都ヴュルツブルク(現在のドイツ連邦共和国バイエルン州ヴュルツブルク市)に生まれた。
一族は多くの大学教授をだした医学界の名門。しかし、彼が1歳の時、父クルストフが死去。
伯父のロッソに育てられヴュルツブルク大学に入学し、大学で医学をはじめ、動物学、植物学、民族学などを学んだ。
さらに下宿していた父の友人・ドリンガー教授の家に下宿し、そこに出入りしていた学者から自然科学の知識を得たのだとか。
『シーボルトが日本を訪れたのはこんな経緯から』
シーボルトは外科、産科、内科の博士号を取得して大学を卒業して開業したが、どうしても自然科学への関心が断ち切れない。
「これまであまり調査されていない地域の研究がしたい!」
そこで周囲の協力を得てオランダ領東インド陸軍の外科少佐に任命され、オランダの東洋貿易の中心地バタビア(現在のインドネシア共和国ジャカルタ市)へ行くことになる。
そこで、自然科学への深い知識と探究心を認められ、貿易先である日本の長崎・出島にあるオランダ商館の医師に任命され日本へ渡ることになる。
1823年(文政6年)、シーボルト27歳。
身分としては医者だが、当時はオランダと日本の貿易が落ち込んでる時期で、日本の国土と産物を詳しく調査し、必要とされる商品を取り揃えて貿易を改善する必要があったので、オランダ政府にとってシーボルトはまさしく適任。
またシーボルトにとっても未開の地の自然科学研究をする上で願ってもない大チャンスだったのだ。
『オランダ商館(出島)でのシーボルト』
シーボルトはオランダ商館員の健康管理にあたりながら、オランダ通事(通訳)たちと交流を深め、日本についての知識を得た。
シーボルトは単に医者というだけではなく、おそるべき博学者で、一日3時間しか眠らなかっただろうとも言われている。
・最初の滞在はわずか7年。その間続々と多くの門弟が訪れたことって不思議なんですけど?
宮坂先生
「シーボルトは長崎奉行、オランダ商館(出島)などのたっての希望で「すごい博学の医者が来る」となりもの入りでオランダ商館医として迎えられたんです。
当時出島からの外出が許されなかったと言いますが、それはあくまでも規則。
必ずしも規則を守っていたかというとそうではないようです。
それにシーボルトの場合は商館長の働きかけで出島以外で活動することを長崎奉行所から許されていたんです。
薬草の採集に出かけたり、日本人の診察を行なっていたので出島以外でもシーボルトの評判は広まって各地から大勢の人があつまってきたんですね」
・そして日本人女性・お滝と結ばれ、文政10年(1827)に娘のお稲が生まれる。
お滝さんのことを「オタクサ」と聞き間違えたことは有名な話。
後に出版した『日本植物誌』のアジサイの絵に「ハイドランゲア・オタクサ」と名づけるほど愛していた。
『自分の研究の場でもあった鳴滝塾』
シーボルトは、日本の調査・研究を進めるとともに、日本人の医師に医学の講義をおこなうために、文政7年(1824)、長崎郊外の鳴滝にあった民家を買った。
・シーボルトはどのようにして日本の研究をしたんですか?
宮坂先生
「日本各地からあつまった門弟に臨床医学などを教えるわけです。
しかしその一方、医学、生物、日本の歴史、風俗など多方面にわたっての日本研究を鳴滝塾の学生たちに課題として与え、オランダ語で提出させたんですね」
・鳴滝塾があったシーボルト宅跡は今でも風情のある場所ですよね。
宮坂先生
「居宅跡、書斎跡と石碑を建ててますが、それは正確ではないと思われますね。
しかし、裏手の井戸や倉庫は当時のものなんじゃないかと思います。
クスノキなど、鳴滝塾当時の花木も多少残っていますしね。
鳴滝塾を上っていった所に七面山(ひちめんさん)と言われるお寺があるんですけど、そこの観音堂前の灯籠はシーボルトの門弟が寄贈したものらしいですよ。
ここは昔から安産祈願の寺で、女性の参拝客がよく鳴滝塾の前を通っていたそうです。
風光明媚な場所で、桜の時期は穴場の花見スポットですね」
・シーボルトは日本語は話せたんですか?
宮坂先生
「1度目と2度目、合わせて10年程度日本にいたことになりますが、カタカナは書けたようです」
・シーボルト記念館のエレベーターに書かれた俳句にカタカナでルビがふってますね。
宮坂先生
「ああいう風にシーボルト自身がルビをふっていたんだと思います。
あと、漢字は50位読めたと文献に記されてますね。
お滝に教わって、かたことの日本語も話せたんじゃないかな」
『日本を知る旅・江戸参府』
当時、出島のオランダ商館長は4年に一度江戸に行き、将軍に拝謁し多くの品物を献上した。
シーボルトは、この商館長の旅行「江戸参府」に同行し、日本各地の地理・動植物・産業・風俗習慣などを調査したんだとか。
『シーボルト事件とお滝(妻)とお稲(娘)との別れ』
シーボルトは5年の任期を終えて文政11年(1828)に帰国することとなったが、8月、彼が乗船することになっていた船は長崎を襲った暴風雨により長崎港内の稲佐の海岸に乗り上げて出航が延期された。
その船の中から、禁制品の日本地図などが発見された。
世にいう「シーボルト事件」である。
その間江戸では、幕府・天文方の役人高橋景保がシーボルトに日本の地図などを渡した疑いで幕府に捕らえられ、取り調べを受けていた。
同年11月、シーボルトは長崎奉行所の命令で、地図ほか禁制品を没収される。
出島に拘禁され、厳しい取り調べを受けることになるが、彼は多くの協力者に罪が及ぶことを恐れてその名前は一切あきらかにしなかったという。
しかし、シーボルトの門弟や友人、関係した役人までもが取り調べを受けることになりシーボルトは文政12年9月(1829)、国外追放を申し渡された。
・門弟や友人まで取り調べられたんですね。
宮坂先生
「門弟には課題としていた翻訳ができると『蘭文免許状』が渡されていたんですが、これもシーボルト事件があってだいぶ処分されたりしたみたいですね。
だからシーボルトの功績が広く一般に認められるようになったのは明治以降ですよ」
・長崎港を離れる時はつらかったでしょうね。
宮坂先生
「確か12月30日か31日に出航して、シーボルトが長崎港から見えなくなったのが翌年の1月2日だったようです。
当時は風待ちで船を出せなかったんですね。」
・国外退去するとき、シーボルトは今のお金に換算すると1千万円以上の生活費をお滝とお稲のために残したと聞いたんですが……。
宮坂先生
「そうですね、言葉は汚いですが、お滝はいわば現地妻だったわけですよ。
だけど、きちんと子ども産ませ、別れるようになってもきちんと生活できるだけのお金を残していく。
そういうところはきれいですよね。」
『再び日本へ』
オランダ商館長ドンケル・クルチウスの願い出により幕府から国外追放を解かれたシーボルトは安政6年(1859)、オランダの貿易会社の顧問の肩書きで、長男アレキサンダーを連れて再び日本を訪れた。
この時シーボルトは63歳。
長崎にたどり着いたシーボルトはお滝やお稲、そしてかつての門弟たちと再会した。別れた時にはまだ2歳だったお稲も門弟たちに育てられ、医学の手ほどきを受けて長崎で産科医として修行していた。
シーボルトは貿易会社の仕事をする一方、鳴滝の住居を買い戻して住み、ここで日本研究や日本人の治療を行なったという。
・2度目に渡日したとき、出島で涙の再会をしたと聞きましたが。その時お互い再婚してたんですよね。
宮坂先生
「そうです。生活のためというのもあるんでしょうけど、お滝はすぐに再婚してます。
その辺あの時代にしてはドライですよね。
離婚して互いに再婚していても子連れで再会できるなんて、現代に生きてもおかしくないような感覚ですよね」
『シーボルトが残した遺産』
シーボルトが残した業績は数多くあるが、大部分は国外退去後にまとめられたもの。
膨大な日本研究を『ニッポン』『日本植物誌』『日本動物誌』などにまとめて出版。
広く世界の国々に日本を紹介している。現在、シーボルトが収集した日本のコレクションの多くはオランダのライデン博物館に収蔵されている。
しかし、シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)横に隣接するシーボルト記念館にはその本物そっくりのレプリカやパネルが展示されているので、ぜひ自分の目で見て欲しい。
日本に滞在した年月は2回合わせて10年たらず。
波乱万丈な人生を歩んだシーボルトだが、彼の功績は、日本がヨーロッパをはじめとした世界に認知される大きなきっかけとなった。
「日本研究家」を自負するシーボルトは、死の直前まで日本研究に没頭し、彼の墓は日本の石塔をもとに造られたといわれる。
シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀が描いた「江戸参府」の様子や「長崎の町風景」などがオランダ・ライデン博物館に収蔵されている。
もちろんそれらの数点はシーボルト記念館でも見ることができる。
慶賀が描いた風景は、同時にシーボルトの目に写った長崎でもある。
2度目の渡日の際、買い戻した鳴滝の住居。
シーボルトはこの界隈の風情をひどく気に入っていたに違いない。
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