http://web1.kcn.jp/dream/rubypink/hikari.html 【光と闇】 より
光と闇、相反した特性ながら、切っても切れない一対の組合せ、表と裏。
光は善いもの…たとえば「希望の光」
闇は悪しきもの…たとえば「闇社会」
というふうに例えられたりする。
また、古語事典で「ひかり」を引くと「かげ」と出てくる。
むかしの人は、陰で光を表現したのだろうか。
学生の頃、ドイツの哲学者ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき(ツァラトゥストラはこう語った)』を読んだことがある。若気の至り?で難しそうなタイトルに惹かれて手を出した書物である。
案の定、字面を追うばかりで、どれほど内容を理解できたのかは未だ不明であるが、ひとつだけずっと記憶に残っているイメージがある。
それは、巨木の話。
深い地下の闇の中へしっかりと根を伸ばしているからこそ高く直立している大きな木。
その高さゆえ、天からの光を存分に浴びることができる。
ここにも光と闇が織り込まれている。
https://salu.at.webry.info/201312/article_1.html 【「ツァラトゥストラはこう言った」を読む(18)】より
山上の木
日本には、巨木信仰がありますが
ニーチェにも同じような、木に対する感性があるようです
太陽に対する感性といい、ニーチェと日本人は、似た感性があるようです
わたしがこの木を両手でゆすぶろうとしても、わたしにはできない。
しかしわれわれの目に見えない風は、この木を苦しめ、どうにでも曲げてしまう。われわれは目に見えない手によってひどく曲げられ苦しめられるものだ。
雨にも負けず、風にも負けず・・・、すっくと立って、美しく枝葉を広げる巨木に
畏怖を覚えるのは、感情移入でしょうが、ニーチェには、哲学的考察もあります
まったく、人間は木と同じようなものだ。
高く明るい上の方へ、伸びて行けば行くほど、その根はますます力強く、地のなかへ、下のほうへ、暗黒のなかへ、深みのなかへ、・・・悪のなかへとのびて行く。
日本の巨木信仰には、この後半の考察がないようです
ツァラトゥストラは、ひとりの弟子(?)をえて、語りかけます
群衆に語り掛けるのは止める、と、序説で述べていますが初めて聴衆/弟子(?)の姿を、ここに記述しています
この弟子は、おそらく、ニーチェの分身/若き日の姿でしょう
わたしは目まぐるしく変わって行く。わたしの今日は、わたしの昨日を否定する。わたしはのぼろうとして、しばしば階段を跳びこす。・・・どの階段にとっても、それは許せないことらしい。
上にのぼれば、わたしはいつもひとりぽっちだ。誰もわたしと話をかわす者はいない。孤独の冷気はわたしを震えさせる。高みに達して、わたしはいったい何をしようというのだろう?
その答えを、ツァラトゥストラは述べています
この木は雲の座にあまりにも近く達している。この木はおそらく稲妻に打たれるのを待っているのだ。
稲妻に打たれるとは、超人への〈橋〉であり、《没落》ということでしょう
そして、高みへ至るものの危険を述べ、青年を励ましている
高貴な者は新しいものを求め、ひとつの新しい徳を創造しようとする。善人のほうは、古いものを愛し、古いものが保持されることを願うものだ。
しかし、高貴な者の危険をいうなら、それは善人となることより、むしろ鉄面皮な者、冷笑する者、否定する者となることだ。
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