目の力

Facebook・Nakako Yamamotoさん投稿記事

ソニアさんが「ホルスの目」をUPされているのを見て、はっきりとしたドリームボイスのことを思い出して再UPさせていただきやす😁

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★ホルスの目をなぞると元気になりますよん♪の巻

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以前、体調不良を感じていたとき、夢の中に「ホルスの目」が示されて、「あなたはこれを、目の形状に似ているので、「目のシンボル」と思われているかも知れませんがそうではありません。これは、異なる6つの意味のある図形の組み合わせなのです。それぞれ、健康を支援するパワーを持ちます。ですので、疲れを感じているとき、体調不良のとき、この形をなぞってみてください」と妙に説得力のある声で言われました。

今、この図形を見て、びっくり!本当に6つのパーツなのね。今夜は、なぞって寝ようっと♪

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<ホルスの目について>

(前略)人間の感覚を表すそれぞれ六つの部分に分かれているのです。

数学の方程式=宇宙の方程式に繋がります。

この世は、数字でできていて、数字が基本数字で説明、解釈できる世界なんですね。

「目は水晶体というレンズを通して、フィルムという網膜に映像が映し出され視神経を通って電気信号で脳に伝わって初めてものが見える、光を感知する。つまり、目は脳の一部であって、私達は脳でものを見ている」ということは知識として持っていましたが、その正体が、脳の中心にある「松果体」だったのです。そして、その「松果体」が「第3の目」=「ホルスの目」に繋がっているのです!

松果体は、松ぼっくりの形に似た脳の中心にある小さな内分泌器で概日リズムを調節するホルモン、メラトニンを分泌する働きがあるのですがこれが「第3の目」の働きをすることが、近年の研究でわかってきました。

「目を持たない魚たちは松果体で見ていた」というもので「光の探知に関しては目より松果体のほうが役割が大きい」との興味深い実験結果も出ています。

「第3の目」のチャクラ(第6のチャクラ)は、直観や叡智現実世界と見えない世界のゲートの役割を持ち、第六感など本質への目覚め、霊性の目覚めに関わりのあるチャクラで瞑想、ヨーガ、呼吸法等で「第3の目」を活性化して開眼し目覚めていきましょうなどと言われたりしていますが私は、脳内の「松果体」の正体が「第3の目」であり「ホルスの目」であるということを知って、本質に目覚め更に気付きへの意識や霊性が高まり、内なる目が開眼しました。「第3の目」から鱗がボロボロ剥がれ落ちた感覚です。

「第3の目」の活性化には、本質への目覚めが何より効果的なのですね。

引用元:http://blog.goo.ne.jp/.../e/8e2ea79485859b4bce945be222aedb1f


https://www.nttdata-getronics.co.jp/csr/spazio/spazio68/koike/index.htm 【目の力】より

 その昔、内科から眼科などいくつかの専門を生業とする医者たちを身内にもち、健康を絵にかいたようなお転婆だった私は、何かにつけ医療機器の実験台となっていた。眼底検査のための装置が普及し始めた頃であったろうか、近所の男子たちと忍者ごっこか草野球か定かに覚えていないけれども、遊び呆けた後の心臓の鼓動も収まらない夕餉前の一刻、無骨な器械から放たれる煌々とした光を目の玉に当てられ、瞬きをしてはいけない、という拷問を耐えしのんで、挙句の果てに自分の眼底を見よ、と、映像を見せられた記憶がある。

 「うん、澄んでいる、眼底はきれいだ」という診断を聞きながら、合わせて、「解剖学的に見て、眼球は中枢神経系が外部に出張ったかたちのものであり、脳の一部である」と聞かされた。「そうか、すると脳の中も澄んでいるのか。でも、目も脳も澄んでいると、心も肉体も健康なのだろうか。そもそも心は脳にあるのだろうか・・・」。

 おぼろに抱いた疑問の答えは、歳月を経た今も定かではないが、少なくとも、眼底検査の恐怖とその映像に見た血色の光景は鮮明に記憶に残り、体内にあるべきものが皮膚の切り込みから外界をのぞき見、わずか瞼によって内臓的な柔らかさを防備する目のその健気さに、頭が下がる思いがしている。

人が生命を維持するための情報をもっとも多く得ているのは、脳が外界にさらされたこの「目」のもつ力、すなわち視覚を通じてであるという。むろん目は、生命体を保持し、防御するために外界の状況をいち早く見極めるという受動的な力をもつ。しかし、目の目たる存在価値は、「見る」という能動的な行為にあろう。目を通じて世界と関わり、さらに、マクロコスモスたる宇宙とミクロコスモスたる人間の身体内部、つまり内的宇宙との交感を果たすドラマティックな窓口となっているのだ。目の魅力、視覚の魔力は、現実に存在しているものを認知するだけではなく、超自然的な存在との交感に、優れて神秘的な力を発揮することにある。

(図1,2)男子立像

紀元前2600年頃(初期王朝時代) イラク、テル・アスマル出土 大理石69cm、バグダード、イラク博物館

女子立像

同上 58cm

  たとえば、最古のメソポタミア文明を築いたシュメール人の文化の中で創造された紀元前2600年頃の男女一対の人像である(図1、2)。両手を胸に合わせ、両足をゆるく開いて斜め上方を凝視する、まるで円盤のような目。大理石で作られたこれらの像では、眼だけに象嵌が施されているためもあろうが、その大きさは並大抵ではなく、抉られて心底を晒しているようにも、また、摩訶不思議なものを見つめてそれを映す水底のようにも見える。女像の足元には、小さな足が残っており、もともとは子供も並んで「何か」を凝視していたのであろう。植物の神であるアブの神殿に奉納された礼拝者像とする一方、アブ神本体とする見方もある。

(図3)ヴィレンドルフのヴィーナス

エビフ・イルの像 紀元前三千年紀前半(初期王朝時代) シリア、マリ出土 アラバスター

(図4)エビフ・イルの像 紀元前三千年紀前半(初期王朝時代) シリア、マリ出土 アラバスター 52.5cm ルーヴル美術館

ウジャトの目

(図5)ウジャトの目

  より太古の像は、たとえば「ヴィレンドルフのヴィーナス」(図3)のように、生殖器や乳房などを強調して、頭部の細部にはあまり造形的な工夫がこらされていない。そのことを鑑みるに、文明のある時期から、豊穣多産はもとより、神、いわば、宇宙との交感を意図して、目をことさら強調する像が造り出されたと言えるのかもしれない。頭部の中でも、それが目であるのは、見ることが信じることに繋がる人間の本質を、そして、生命維持と死後の安寧という必要不可欠なものとして生み出された宗教の表現形態、すなわち宗教美術の生まれ出る源泉を考える上で興味深い。神を見えざるものとする宗教の本質を表現しようとする視覚芸術は、まさしく人間の、抽象的概念的思考形態と視覚的思考形態という二つの本性から生じたアンドロギュノスなのだ。

  ところで、目を見開いて祈るこうした像を辿るならば、紀元前3000年前半期に、同じくメソポタミアのユーフラテス川中流域に、一時の花を咲かせたマリ王国のイシュタル女神の神殿の内陣から発見された高官エビフ・イルも忘れ難い(図4)。頭髪を剃り、長い鬚をはやして篭細工の椅子に座ったイルの眉と両眼はビトゥメンによって象嵌され、眼球として白い貝がはめ込まれている。目の周りの強調は、「神の目」(ウジャトの目)をお守りとしたエジプト美術を想起させる。オシリスとイシスの子であり、太陽神であったホルスは、弟セトに一度は殺されて再生した父オシリスの仇を討つのだが、自分の片目を失い、知恵の神トトによって治療される。このホルスの目は、古来、悪魔的な力をもつとされた邪視への対抗作用を持つ神の目となったのである(図5)。それはまた、太陽の象徴でもあった。

ラガシュの支配者グデア 紀元前2120年頃(新シュメール時代)メソポタミア南部出土

(図6)ラガシュの支配者グデア 紀元前2120年頃(新シュメール時代) メソポタミア南部出土 閃緑岩 62cm  ルーヴル美術館

  灼熱の太陽を見つめ、その太陽と等価の光を放つ目力をもつ人物を神像とした文明を築いたこのオリエントの地で、もうひとつ、忘れ難い像がある。乾燥と不毛の脅威を教える太陽の大地に潤いをもたらす水を、瞠目のまなざしで捧げ持つラガシュの王グデアだ(図6)。彼は、一時はバビロニアによって衰退した南部メソポタミアを統治し、交易のみならず文芸の復興を果たした賢人といわれる。ルーヴル美術館には数体のグデア像があるが、中でもこの像は、水のほとばしる壺を抱いたグデアの驚異と歓喜が、その見開かれた目から伝わってくる。天と地、神と人を結ぶものとして造形され、原始の力を宿しながら幻視の力を開示する目は、自然崇拝に依拠する呪術から、人間精神のより観念的な結晶である宗教へと、変貌する道程を見つめているのである。

幻視の目

(図7)ヤン・プロヴォースト キリスト教のアレゴリー 1510~15年頃 油彩・板 50x40cm ルーヴル美術館

 古代世界から多くを継承したキリスト教でも、目の普遍的な魔力は神力として語られ、記されているが、こと造形美術となると、目だけを表した形象は意外に少ない。神の姿を人の姿として表わすギリシア・ローマ的な造形伝統の中で、目だけを、しかも霊力を秘めていると感じられるように表現するとなると、よほどの精神の飛翔が要求されたのであろうか。人の認識は、神と天との交感から離れて地上的になるに従い、具象の道を彷徨う。しかし古代世界の護符のような目が勝ったイメージを数多く所蔵するルーヴル美術館に、一点、かねてから気になるキリスト教の油彩画がある。ヤン・プロヴォーストが描いた「キリスト教のアレゴリー」という油彩画だ(図7)。

  ヤン・プロヴォーストは1465年頃、モンスに生まれ、1529年にブリュージュで没した初期ネーデルラント画派の最後の世代に属する画家である。郷里に近いながら、19世紀以降フランスに属する都市ヴァランシエンヌで、「色彩の王子」と綽名された写本挿絵画家シモン・マルミオンの寡婦と結婚し、28歳の頃、アントウェルペン画家組合から親方の称号を得ている。のちにフランドル、つまりネーデルラント南部の各地で活躍したが、とくにブリュージュでは、ネーデルラント旅行中のアルブレヒト・デューラーを自宅に泊めて盛大に食事を供したという。ヤン・ヴァン・エイクやロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンに始まる初期ネーデルラント絵画の伝統を引き継ぎながら、イタリア・マニエリズムにも感化された、いわば折衷様式をもつ画家である。

  それゆえこの板絵も、折衷様式を代表するアントウェルペン・マニエリズムと称されるグループに属するが、そうは言っても、いかなる図像伝統をくみ上げているのであろうか。作品の難解さは、「キリスト教のアレゴリー」というタイトルが物語っている。おそらく19世紀の美術史研究家、あるいはルーヴル美術館がつけた名前であって、決してプロヴォースト自身の命名ではない。「アレゴリー」とは言い得て妙で、実のところ、本当の意味内容がわからないことを告白した命名だ。「キリスト教のアレゴリー」を「信仰のアレゴリー」と換えても、間違いではない。

 画面の中央の上方を、雲に包まれた目が占めている。その雲の下からは大きな手が出て、その手には天球が載っている。「目」と「手」。ユダヤ・キリスト教では、万物を創造し、その出来栄えを見、永遠に見守る神を、創造の手と目であらわした。ことさら手は、中世キリスト教美術において神の象徴的表現となったのだが、方や目だけの描写は、あまりお目にかからない。目だけを表現することが、どこか摩訶不思議な、異教的でいかがわしいとみなされたのかも知れない。しかしここで私たちを見据える目は、なんと堂々としていることであろう。

 胸と、左手の掌の傷口を見せながら右手で剣を握るイエス・キリスト、そして、白百合を持って向い側に座すマリアから判断すると、剣で悪しき者を裁き、百合で善き者に慈悲を与える場面であり、それはとりもなおさず最後の審判をあらわす。さらに、雲間にのぞく目の傍に子羊がいるので、黙示録的ヴィジョンを視覚化した絵であることは間違いない。しかし、下方の中央で、両手を伸ばしながら、雲間から天を仰ぎ見る目は、一体、誰の目なのであろうか。以前、私はこの絵について、最後の審判の日に復活し、善き人として裁きを受けて天国を望む死者の目ではないか、と書いたことがあった。

(図8)荘厳のキリストと24人の長老、聖ヨハネ 『ハインリヒ2世の黙示録』 1000年頃 バンベルク州立図書館所蔵写本

 それからの長い歳月、このふたつの目は私の脳裏に住み着いて離れることはなかったが、とある日、この下方から見上げる目だけの人物は、パトモス島に流されて「黙示録」を書いたといわれる福音書記者聖ヨハネではないか、と思い当たった。それには、もうひとつの絵との邂逅がある。プロヴォーストから遡ること500年余、中世キリスト教美術の担い手となった写本の拠点のひとつ、ライヒェナウ修道院で、11世紀に制作された『ハインリヒ2世の黙示録』と呼ばれる写本挿絵の一点である(図8)。

 そこでは、アーモンド型の光背に囲まれて座すキリスト、その周囲を人、獅子、牛、鷲が取り巻き、下方では旧約聖書に登場する24人の長老が杯を掲げて荘厳のキリストを称える。その中央、目のような形の中で、口をつぐんで目を見開き、両手で耳を押さえているように見える顔がある。他の場面にも登場するヨハネである。しっかりとした描線、鮮やかな色彩の中で、この部分だけは、まるで大気のように白色で描かれ、ヴィジョンを視るヨハネが霊に満たされていることを伝えているようだ。

 『黙示録』はつぎのように語っている。

 「・・・見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう』。私は、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りには、エメラルドのような虹が輝いていた。また玉座の周りに二十四の座があって、それらの座には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海であった。」(第4章1-5)

  このように、語りをもっぱらとする聖書にあって異例に視覚的な『黙示録』は、正典に編纂されていながら7世紀に至るまで、その権威に疑いを持つ者が多かったことが知られる(1)。

 しかし、黙示録の魅力は、終末的危機意識の表明もさることながら、「ヴィジョン」のもつ力が横溢していることだ。人知を超えた自然の力、摩訶不思議な超常現象、そして「神」と対峙した人間が「見た」ことを如何に表現するか。それこそが古来、造形美術のひとつの命題となってきたのであり、あの古代人が生み出した大きく見開いた目こそ、その「力」の驚異と畏怖畏敬の念をあらわす、すぐれた造形だったのではないだろうか。『黙示録』はそうした造形伝統に連なるイメージを提供しえた書物なのだ。そこでのヴィジョンは、超自然的な「力」を見る人間の「目の力」であり、それは、『ハインリヒ2世の黙示録』に見るようにまっすぐに見開いた目によって端的に表現されたのである。

『黙示録』は、言うまでもなく、パトモス島に流されたヨハネが、神から啓示を受けて、世界の終末と天上のエルサレムの実現という壮大なヴィジョンを書き綴った書であるが、視覚的であるゆえに、目に関わる記述も豊富である。同書はつぎのように先の記述に続ける。

  「・・・この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間の顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。

『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、

全能者である神、主、

かつておられ、今おられ、やがて来られる方。』」(黙示録 第4章6-8)

(図9)荘厳のキリストと四つの生き物、24人の長老 『ベアトゥス黙示録註解書』挿絵 12世紀 パリ 国立図書館所蔵写本Ms.lat.8878,ff.121v-122r.

  身体にも翼にも一面に目のある四つの生き物、獅子、雄牛、人間の顔を持つ物、鷲は、初期キリスト教時代にはすでに、それぞれ福音書を記したマルコ、ルカ、マタイ、ヨハネの象徴と解釈されることになる。この『ハインリヒ2世の黙示録』写本では、四つの生き物に目は描かれていないが、同時期に北スペインで制作された『ベアトゥス黙示録』写本挿絵では、赤色を背景に黄金をあらわす黄色の円環で囲まれた神の周囲を飛翔する鮮やかな四つの生き物たちには、一面に目がついている(図9)。見ることが信じることへと繋がるという信仰の本質を、これらの目は、教えている。

 さて、『ハインリヒ2世の黙示録』は、通称『バンベルク黙示録』と呼ばれ、ライヒェナウの修道制作された。ライヒェナウは南ドイツのボーデン湖に浮かぶ小さな島で、8世紀にイギリスの布教者ピルミンが開いた修道院である。以降、とくにオットー朝の写本制作の中心地となって、のちの絵画に大きな影響を与えた。彼ら「ライヒェナウ派」の写本挿絵の特徴と魅力は、何より、見開かれた大きな目と、長く伸びて表情に富む手と指にある。16世紀ネーデルラントのヤン・プロヴォーストが、このライヒェナウ派の『黙示録』、ないしは、それに類似した写本挿絵か絵画を、果たして目にすることができたのかはわからない。しかしルネサンス以前のキリスト教美術では、今日に残るこのふたつの場面以外には、目の形をした幻視者はない。

(図10)シモン・マルミオン 天上と地上の楽園 『世界の七つの時代』挿絵 1455年頃 ブリュッセル 王立図書館所蔵写本Ms.9047,fol.1v.

(図11)天球と地上 同上  fol.12r.

(図12)ボス 天上界への上昇 1500-04年頃 板、油彩 87x40cm ヴェネツィア、 パラッツォ・ドゥカーレ

(図13)ボス 七つの大罪と四終

1475-80年頃 板、油彩 120x150cm マドリード プラド美術館

 それでもひとつの可能性を想定することができる。プロヴォーストは「色彩の王子」と称えられた写本画家シモン・マルミオン(アミアン 1425年頃生 - ヴァランシエンヌ 1489年 没)の寡婦と結婚したと先に記したが、このシモン・マルミオンの手になる写本『世界の七つの時代』の挿絵「天上と地上の楽園」には、まるで目のような形をした天上界のヴィジョンの中央に神が玉座に座っているのである(図10)。その目は、外側から青色、オレンジ色、黄金をあらわす黄色に塗り分けられ、それぞれに金色の彩色で天使が群がるように描かれている。神にもっとも近い霊的な存在であるセラフィム(熾天使)、ついで知識をつかさどるケルビム(智天使)ら、階級に従って配置された天使たちだ。

 マルミオンはブルゴーニュ宮廷の王侯貴族たちのために多くの写本を手がけており、そのマルミオンがいずこかでライヒェナウ派に連なる写本挿絵を見た可能性もあろう。そして、マルミオンの造形という遺産を通じて、プロヴォーストがあの「キリスト教のアレゴリー」という謎めいた絵を翻案したこともありえないことではあるまい。

 造形のラビュラントスを進むためのアリアドネの糸は、頼りなげで、実にあやうくはかないものだ。しかし、マルミオンの『世界の七つの時代』挿絵「天上と地上の楽園」の数頁あとには、七つの惑星から黄道十二宮への順番を逆にした、まるで漏斗のような天空が描かれており(図11)、これがかのヒエロニムス・ボスの「天上界への上昇」の源泉となっていることは、つとに指摘されている(図12)(2)。造形の伝播継承と思いがけない図像の変容は、瞠目に値する。

ヒエロニムス・ボスの目

 ヤン・プロヴォーストにわずか10年余り先に生き、先に世を去ったヒエロニムス・ボス(スヘルトーヘンボス 1450頃生-同地 1516年没)は、悪魔的な世界を描いて名を馳せたネーデルラント画家であるが、快感や逸楽といった人間の感覚にひそむ生の本質を、滑稽に、不気味に、また哀感をもって抉り出した知恵者であった。現在はオランダに属する郷里スヘルトーヘンボスから、生涯離れたことがないと言われるほど、土地に根をおろした彼の造形源泉は、同地の聖堂を飾る彫刻や写本挿絵であったとされ、おそらく、北フランスから南ネーデルラント一帯に名を馳せていたシモン・マルミオンの写本挿絵を見る機会があったに相違ない。先の「天国」絵は、現在はヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレに置かれ、「楽園」「煉獄」「地獄」と四枚パネルをなし、元来は中央のパネルを有した祭壇画であったとされる、1500年から1504年頃の作品だ。そしてその20年ほど前、ボスは、テーブル画という特異な形式で、神の目を描いていた。マドリードのプラド美術館が持つ「七つの大罪と四終」である(図13)。

  画面中央に大きな円形が展開し、その中心に石棺から半身を起こして傷口を見せるキリストが描かれている。主を囲んで光り輝く円環と、放射線状に線描きされた円環は、まるで瞳孔と虹彩に似ており、円全体が「目」のように見える。周囲は七つに区分され、下方中央から時計回りに「憤怒」「嫉妬」「貪欲」「大食」「怠惰」「「邪淫(逸楽)」「虚栄」という七つの大罪が描かれている。七つの大罪は、神に対する三つの徳である「信仰」「希望」「慈愛」と信仰に満ちた社会生活を送る上での四つの徳目「剛毅」「賢明」「節制」「正義」に対して定められた悪徳であり、時代によって異なるが、14世紀頃には、ほぼこの七つに絞られてゆく。三対神徳と四枢要徳と七大罪は、キリスト教徒としての善生を教えるために、教会を飾る彫刻や写本挿絵のみならず、こうした板絵に教訓的な意味をもって描かれ、使用されたのであった。

  ここでは、七つの大罪はきわめて具体的に描写されている。ざっと見てゆくと、「憤怒」では、妻を寝取られた夫が、相手の男に三脚を投げ、「嫉妬」では、女郎宿の女が客の男より、通りにいる伊達男に色目を使い、「貪欲」では、公正な裁判をすべき執政官が賄賂を受け取る。「大食」では、水を飲むしかない貧しい農夫には目もくれずに、太った男が肉を貪り、ビールを飲む。「怠惰」では、祈りの時間であるにもかかわらず、暖炉の前で、うたた寝をする男を修道女がたしなめ、「邪淫」では、愛の行いの場を象徴する赤テントの中で男女が戯れ、道化が逸楽を盛り上げるといった具合である。

 「心せよ、心せよ、神は見給う」。中央の神の下に記されたこの銘文は、これら人間どもの愚かしい仕業を、神はしかと見つめていることを告げている。そして、画面の四隅の円形内には、愚行を繰り返す人間の行く末を示す場面が、左上「臨終」から右上「最後の審判」、左下「地獄」、右下「天国」の順で展開する。罪を犯した人間は、臨終の床でそのすべてを告白せねばならないが、やがてこの世の終わる最後の時に、最終審判が下され、地獄行きか天国行きかが決まる。しかし、ここに展開するような大罪を犯した者は、死の時に、即地獄行きとなるのだった。

 ところで、中世の審判概念は、大きく二つに分かれていた。一個人の死の際に下される個人審判、つまり私審判と、この世の最後の時に下される最終審判、つまり公審判である。これは、個人が亡くなってから、いつ訪れるか定かでない最終審判まで、死者の魂はどこにいるのか、という切実で具体的な疑問と不安に答えるものであり、煉獄の場の成立と密接にかかわっていた。すなわち、死の後、死者の魂は煉獄で最後の審判まで浄罪を果たしながら、待機しているというわけだ。そこで罪を洗い清めれば、最後の審判の時に天国へ行ける可能性が出てくるのである。そして、天国と地獄の間にある中間地帯としての煉獄の制定は、古代世界における冥界や黄泉という死後世界をキリスト教的に位置づけることでもあった。

  しかし、七つの大罪を犯した者は、この敗者復活戦をかなえてくれる煉獄に行くことはできない。七大罪は即地獄の由々しき罪なのである。中央の円形の上部に描かれた巻紙のインスクリプションはつぎのように告げる。

 「彼らは思慮に欠けた国民、彼らには洞察する力がない。もし彼らに知恵があれば、悟っていたであろうに。自分の行く末も分かったであろうに」(『申命記』32章28-29節)

  下のインスクリプションも同じく『申命記』からの訓戒を記す。

  「そして、主は言われた、『私は、私の顔を隠して彼らの行く末を見届けよう。彼らは逆らう世代、真実のない子らだ』」(同32章20節)

  この恐るべき神の怒りの言葉を投げかけられた大罪者たちは、地獄へと落ちてゆく。そしてこのテーブル絵を見る者たちは、大罪のいかなるかを、そして人の生の最期に訪れる臨終での悔悛の大切さ、最後の審判、その結果として天国と地獄に思いを馳せるのである。

  この神の目を見ていた者。それは、「太陽の沈まない国」スペインの、まさしく黄金時代を築き上げた国王、かつ神聖ローマ帝国皇帝フェリペ2世であった。ボス作品を収集したことでも知られるこの16世紀の冷血無比な帝王は、その権勢を誇示するために、マドリード近郊に宮殿を兼ねたエル・エスコリアル修道院を造営する。渇いた翳りを大地に刻むあのカスティーリャの大地に虚として佇む広大な宮居の私室の壁に、フェリペはこの絵を掛けていたという。暗闇の中で揺らめく蝋燭の炎の向こうで、人間の罪悪と愚行を見守る神の目に、彼は、何を見ていたのであろうか

運命の車輪、人生の車輪

 ところで、ボスのこの作品の背景としては、すでに指摘されているように、善生善死の術を綴った『往生術』(アルス・モリエンディ)の流行があり、同じく、道徳教訓的な版画本で、七大罪とそこから地獄へ転落する者をあらわした挿絵(図14)などが、その思想的また図像的源泉となろう(3)。そして、こうした円形を区切って悪徳美徳を描く構想は、すでにパリで制作された写本『アウグスティヌスの神の国』挿絵(1467-1473年)(図15)にある。

  曼荼羅をも思わせるこの構図は、しかし、さらにヨーロッパ美術を辿るなら、運命の車輪に行き着くように思える。これは、運命女神がまわす車輪にしがみついた数人の人々が、時に「私は支配するであろう」「私は支配する」「私は支配した」「私はもはや支配権をもたない」という銘文を伴って、人生の頂点へ、頂点から転落へと回る様子を描いた絵図で、12世紀以降、流布してゆく。運命女神は、車輪の外側で廻すこともあれば(図16)、車輪の内側で廻すこともある(図17)。しかし車輪、すなわち円環の中央に神が描かれる場合も登場する(図18)。

  1300年初期にイギリスで制作されたこの『ロベール・ド・リールの詩篇』では、車輪状の円環の中心に神の顔が描かれ、周囲の10個の円形枠組み(メダイヨン)の中に人生の十段階が描かれている。左下方、暖炉の前で母に抱かれる幼子から時計回りに成長し、人生の絶頂期にあることを象徴する王冠を被って玉座に座る人物を頂に、老いて杖のみならず子供に手を引かれ、やがては死の床に就く右側へと回転してゆく。最後のふたつのメダイヨンは、棺の前でミサをあげる聖職者、そして一番下は墓である。

 運命の車輪と、そこから、展開したと思われる人生の車輪。そして美徳と悪徳を、女性擬人像ではなく、具体的な日常の所作であらわす習慣が、やがてボスの、七つの大罪を戒める神という大きな目の作品を生み出すことになったのだろう。13世紀から15世紀は、ひたすら、この世ならざる神の世界を描き出すことに美術が捧げられた時代から抜け出し、神の光に照らし出されてその面持ちをつまびらかにしていった自然界への関心が高まり、一方で、欲望渦巻く都市文化が育まれていった時代である。そのような時代の推移の中で生み出されたこれらの図像とその具体的な表現は、大いに民衆の想像力に働きかけ、現世から来世への道行きを記す善生善死の手引きとして、さまざまなヴァリエーションを生み出すことになったのだ。

目の想像力

  「もしタマネギを中央を通るように切断すれば、中心を丸く包んでいるタマネギの皮のすべてが見え、それを数えることができるだろう。同じようにして、人間の頭の中央を通るように切断すれば、まず最初に頭髪を切り、次に頭皮を、さらに筋肉[帽状腱膜]、頭蓋骨膜、その次に頭蓋、脳硬膜、その内側の脳軟膜と脳を切るだろう、そして再び脳軟膜、脳硬膜、そして怪網、そして基底となる骨を切ることになる」(4)。

  レオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノ滞在中に30体あまりの死体解剖を手がけたことで知られるが、彼の人体解剖における大きな関心のひとつは、目と脳、つまりは視覚と精神、視覚と魂との関係を見極めることにあった。画家でもあった彼は、むろん、目に映るものの形、色に多大な関心をもった。そして、彼のすぐれた絵画技法は、「モナリザ」を引くまでもなく、対象の形と色から発せられる内在的な力やニュアンスといったものを表現し、見る者にそれを感得させる。このニュアンスとはとても微妙な言葉で、陰影をつけるというフランス語nuerに由来する。人間ならば感情、精神性、また存在そのものから漂い出る微妙な雰囲気とでも言えよう。しかし、こと植物や鉱物などになると、精神や魂という言葉を使うのは躊躇する。でも、ふとした瞬間、たとえば、夕暮れ時に密かにしぼむ花の姿に言いようのない愛着や淋しさを覚えたり、灼熱の太陽にさらされた岩肌に、張り詰めたような気概を感じる。花を描いても、乾いた岩を描いても、対象とそれを受け止める私たちの心に波打つ、なにかしらの魂の震え、そのニュアンスを描き出すことが、絵画芸術の真価を高めるのだ。では、それを感じるのは、目、なのであろうか。人の心、なのであろうか。目は心と通じていると感じられるからこそ、五感の中でもっとも心象を刻みやすい感覚を有するといえるのではないか。

 ところでボスは前記の通り、1450年頃スヘルトーヘンボスに生まれ、1516年に同地で死亡している。一方レオナルドは、1452年にトスカナに生まれ、1519年に郷里を遠く離れたフランスはロワール河畔のアンボワーズ城で亡くなった。この二人の生没年をあらためて確認すると、その近似性に対して二人の精神性の相違、いや、二人の生きた環境の違いがもたらした二人の精神の方向性の相違に驚かされるのだが、あるいは、魂のあり方にはさしたる隔たりはなかったのかもしれない。二人の魂は、何より、人間の本性、自然の本性を見極めようとしたことにあったからである。

(図19)レオナルド・ダ・ヴィンチ 脳室と頭皮層  1489-90年頃   ペン、インク、チョーク  20.3x15.2cm  RL12603r  ウィンザー城王立図書館所蔵

 さて、アナロジーの巧みなレオナルドは、人間の頭をタマネギに例えたが、それをすっぱりと割ってゆくと、どのような世界が視えたのであろうか。頭部の解剖図は、それを示し、かつ、目がいかに脳の知覚に関わっているかを図示している(図19)。

 頭髪もまばらな男性頭部は、そのたるんだ顎の線によって老齢を感じさせるのだが、何より、その眼球の空虚さに死すべきものの命運が映し出されている。解剖人体の頭部であろう。しかしリアリズムとは恐るべきもので、眼球があった頭部に、死に際しての人間の慟哭と諦め、畏怖畏敬の念が感じられる。そしてその目が、いかに脳の内部と繋がっているかを図示した下部の素描に目をやると、この横顔の頭部が、まぎれもなく死者の頭部であったことを思い知るのである。

  レオナルドのリアリズムと、そこから伝わることによって生じる生死への不安や希求といった魂の揺れはさておき、下部に描かれた挿絵を見よう。頭蓋を割ったその断面図には、眼孔に続く、三つの脳室が見える。目に近い第一脳室は、すべての感覚神経が幻想(fantasia)と想像(imagination)という想像的機能を有する「共通感覚」(sensus comunis)をつかさどる。それにはまず、五感、つまり視覚、味覚、聴覚、嗅覚、触覚が前提としてあらねばならない。アリストテレス以来、すべての感覚の中で、視覚は、もっとも脳と直結していると考えられてきたのだが(5)、要約すると、五感を通して得られた情報を、共通感覚がまとめる役割を負う。この共通感覚が座す場が脳の一部、もう少し近代的に言えば、前頭葉に当たる、そしてその後方に、さらなる二つの脳室が控える。

 第二の脳室は、共通感覚を統合する第一の脳室に入った刺激を受けて、思考(cogitatio)、評価(estimatio)、などの知的作業を行う。それを受け、後方の第三脳室では、それらの結果を記憶(memoria)するのである。外界の現象、つまり刺激を第一脳室が受け止め、それを、受け止めた第二脳室は、いかなる刺激であったのか思考する。そして第三脳室は、それを記憶として留めるというわけだ。人が生きるとは、とりもなおさず、身体の感覚を通じて生命を保存するために生体を防御し、生きる体勢に仕向けることにほかならない。なぜ生きるのか、という疑問を持つのは、この生態系の進路に反する行動パターンをとりうる「ヒト」だけであろう。だからこそ、創世記の楽園追放のドラマとその贖罪が必要だったのだ。

  とまれ、外界の刺激を受容し、ある知的な能力がそれを組み立てて秩序化し、さらにはそれを記憶する、というのが人間の精神活動になる。確かに、物事の認識は、単なる外的な刺激のみならず、それを受容した精神によって意味が与えられ、秩序付けられる。つまるところ、外界の刺激を受容した人間の精神のあり方、魂の方向性が、それに価値を付与するのである。しからば、受容の最たる機関である目、視覚は、画家でもあったレオナルドにとって、幾重もの重要性をもつものであった。

 レオナルドは、ものを知覚し、それを自身の価値体系の中に位置づけることを、人間の優れた能力としたのであったが、その彼においても認識の揺らぎはある。つまり、認識が外部の刺激によって触発されるなら、ものを見た瞬時に起こる「印象」(imprensiva)の方が、それをしかと受容する「共通感覚」よりも先に、つまり目に近い位置になくてはならないと考えたのだ。アリストテレス以来の視覚認識の医学的見解は、しかし、レオナルドとて覆されるものではなかった。目は、五感を感知する器官の中でもっとも鋭敏な外部認識器官であり、判断、ついで記憶するための最前線、つまりアヴァンギャルドという地位を保つことに揺るぎはなかったのである。

 天へ、神へ、と目を向けた古代人が本能的に感じ取っていたように、判断と記憶は、生命の保存に欠くべからざる能力であった。単純に言えば、食べられる物を判断して捉え、それを記憶してつぎの狩猟に役立てるといった経験にもとづく精神活動なくしては、人類の存続はありえなかったからだ。そしてその生命保存という原初的な本性を最前線で守るのが、目なのである。こうして、いわば人間存在の本性的な機能から目を飛翔させて、視覚芸術のよって立つ目の機能を、とことんまで突き詰めて視覚と脳を直結させ、新たな芸術を出現させたのが、総じてアヴァンギャルドと称されるアーティストたちなのであろう。

 さて、レオナルドが依拠したアリストテレスは、なぜものが見え、なぜ色が見えるのか、という視覚についても考察している。光学理論をも含む色の問題、そして目と鏡のアナロジーという大テーマは、ここでは問わないことにしよう。アリストテレスに先立つ古代ギリシアの哲学者エンペドクレスは、見える、のは目が光を発しているからである、と考えていたという。

「嵐の夜に外出しようと思う人は燈火を用意する

燃ゆる火の炎をともして

あらゆる側からの風を防ぐとばり[堤燈]を、

してそれは吹く風の息を追い散らす、

が火は、それが一層微細なるものであるので、とばりを通して外におどり出て、

疲れることなき輝きをもってその閾を超えて輝く。

まさにそのごとく[愛が眼を構成した]その時根源の火は円き瞳として、

膜と布の内に閉じ込めかくされた、

[その布はまか不思議な孔で貫通されていた。]

してその布は[瞳を]囲んで流れる水の深さをさえぎった、

だが火を、それが一層微細なものであるので、通り抜けておどり出させた。」(6)

 エンペドクレスは、このように瞳は、燈火の燃える火のように、膜や瞼という布に包まれていてもそれを突き破って放たれ、対象となるものを照らし出して見えるのだという。古代ギリシアではすべてのものが土、水、火、空気の四元素からできていて、中でも空気と火は、きわめて微細なものなので、すべてを通過する性質をもっていると考えられたのであった。それにしても、「愛」(エロース)が目を構成したその時、プロメテウスが見出した根源的な火は、円い瞳になったとは、なんと美しいアナロジーではないか。エロースは万物を生き生きと動かす本源的な宇宙的なエネルギーとみなされていた古代の胸のすくようなロマンが、そこにある。

(図20)オディロン・ルドン  『夢の中で』  VIII.  幻視  1879年  リトグラフ  27.0x19.6cm

(図21)オディロン・ルドン  閉じられた目  リトグラフ  1890年  31.3x24.0cm

(図22)オディロン・ルドン  キュクロプス  油彩・板  46x51cm    1898-1900年  オッテルロー  クレラー・ミュラー国立美術館

これに対してアリストテレスは、つぎのように言う。見られるものから流出する何かによって見えるのだ、と主張する人々が多く、そちらの方が正しい。そして目は火ではなく、水からできている。なんとならば、目の透明さは水の性質であって、目から流れ出るのも水であるからだ、と。そして身体の部分のうちでもっとも湿気があり、もっとも冷たい脳に目の起源があって、すなわち霊魂と結びついているのだ、とするのである。

なんとも神話的な雰囲気のこれらの言説は、魂が外部にさまよい出て外界を見回し、すべてを感じ取って己れの存在そのものの省察を行う、あのルドンの潤んだような目を想い起させる(図20)。19世紀末を驚くほど繊細な感覚をもって生きたルドンは、目に存在を託して「ルドンの黒」といわれる暗闇に浮遊させたのだが、その目玉からは煌々と光が放たれていたではないか。レオナルドは、目は魂の窓であるから魂は目を失いはせぬかと心配で、危険が迫れば何よりまず目を両手で覆い、さらに、寝ているときに何ものかによって襲われないよう、ひとりでに閉じる目蓋をつけたのだという。しからば、ルドンのむき出しで漂う目玉は、魂そのものの無防備な流離であったのだろう。

 ルドンは、人生の伴侶を得て安らぎの時代に入り、暗闇での目の彷徨から解放されたとき、「閉じられた目」を描いたが(図21)、その後に、まるで瞼を目の光が通過して世界を照らし出したような、あの、鮮やかな色彩に満ちた神話的絵画を描き始めるのである(図22)。

(1) ローマ宗教会議(382年)での『ダマスス教書』で、四福音書とパウロ書簡、そして黙示録が公認されているが、黙示録を正典と認めないばかりか、異端の書とみなす者さえいた。スペインのトレドにおける第四回宗教会議(632年)の『信経』第17章では、黙示録の権威を認めず、教会内で教えないものが多い、と述べられている。

(2) W.S.ギブソン『ボス光と闇の中世』佐渡谷重訳 美術公論者 1989年85-89頁。

(3) R.H.Marijnissen,P.Ruyffelaere, Hieronymus Bosch, The Complete Works, Mercatorfonds ,Antwerp,1987.pp.329-345.

(4) 『ウィンザー城王立図書館所蔵 レオナルド・ダ・ヴィンチ 人体解剖図』展覧会カタログ 東京都庭園美術館、愛知県立美術館、1995年。26頁。同解剖図については26-29頁。レオナルドの目および視覚については『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(下) 杉浦明平訳 岩波書店。とくに233-247頁を参照。

(5) 同上『ウィンザー城王立図書館 レオナルド・ダ・ヴィンチ 人体解剖学』。 アリストテレス『自然学小論集』(『アリストテレス全集 6』) 副島民雄訳 岩波書店 1976年。とくに184-190頁を参照。他、『霊魂論』など随所で、視覚、目と関係して論じられる。

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