http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より
■大和 [語源]
■大和
日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。 ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。
元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国を大和国とした。さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。
■語源
○ 山のふもと
○ 山に囲まれた地域であるからと言う説
○ この地域を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説
○ 「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説
○ 「やまと」は元は「山跡」とする説。
○ 三輪山から山東(やまとう)を中心に発展したためとする説
○ 邪馬台国の「やまたい」が「やまと」に変化したとする説
○ 「やまと」は元は温和・平和な所を意味する「やはと」、「やわと」であり、「しきしま(磯城島)のやはと」から転訛して「やまと」となり、後に「しきしま」がやまとの枕詞となったとする説。
○ アイヌ語で、“ヤ”は接頭語、“マト”は讃称で、高貴を意味する“ムチ”や祥瑞を意味する“ミツ”等と同根の語とする説。
○ ヘブライ語で「ヤ・ウマト」=「神の民」とする説
■用字の変遷
古墳時代頃に漢字文化が流入すると、「やまと」の語に対して「倭」の字が当てられるようになった。中国では古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して「倭」と呼んでいたが、古墳時代に倭を「やまと」と称したことは、「やまと」の勢力が日本列島を代表する政治勢力となっていたことの現れとされる。
次いで、飛鳥時代になると「大倭」の用字が主流となっていく。大倭は、日本列島を代表する政治勢力の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。7世紀後半から701年(大宝元年)までの期間に、国号が「日本」と定められたとされているが、このときから、日本を「やまと」と訓じたとする見解がある。
奈良盆地を指す令制国の名称が、三野が美濃、尾治が尾張、木が紀伊、上毛野が上野、珠流河が駿河、遠淡海が遠江、粟が阿波などと好字をもって二字の国名に統一されたのと同じく、701年には「倭国」を「大倭国」と書くようになったと考えられている。
奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。そして757年(天平宝字元年(8月18日改元))、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。このとき初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。
■古墳
大和古墳群がある。
■その他
○ 「夜麻登(やまと)は国のまほろば~」とあるように、万葉仮名における当て字は夜麻登とも表記され、『古事記』における「ヤマトトトヒモモソヒメ」の漢字表記も、この夜麻登の方である(『紀』では倭の一字でヤマトと読ませている)。この他、『古事記』では、山跡とも表記される。『日本書紀』では、野麻登、椰麽等、夜麻苔などとも表記され、『万葉集』では、山常、也麻等、夜末等、夜万登、八間跡などなどの表記が見られる。
○ 『日本書紀』の記述では、神武東征前に、この国々の中心となるだろうとして、「内つ国」と表記し、大和成立以前では「内つ国」と呼称されていた。
○ 現代において、和文通話表で「や」を送る際に「大和のヤ」という。
■「大和」と書いて「やまと」と読む
「やまと」の語源については、諸説紛々としていてなかなか一致をみていないようです。ただ、古代、奈良県の一部のことを「やまと」と呼んだことは確かで、そこに本拠地を置いた勢力が日本列島全体を代表する政権となったことから、「やまと」は日本列島全体を指すことばとしても使われることになりました。
ところで、そのころ、中国では日本のことを「倭」と呼んでいました。なぜそう呼ばれたのか、これも確かなことはわかりませんが、この字は本来「なよなよしている」「従順な」といった意味ですから、当時の中国人は日本人に対して、そんなイメージを持っていたのかもしれません。
さて、訓読みとは、漢字が中国語として表す意味を、日本語に翻訳したものです。そこで、中国語の「倭」は日本語で「やまと」なのですから、「倭」に「やまと」という訓読みが生まれました。しかし、もともとは必ずしもいい意味ではない「倭」という漢字を、日本人は気に入らなかったのでしょう。やがて日本人は、自分たちを表すのに「倭(ワ)」と同音で、もっといい意味を持った「和(ワ)」という漢字を用いるようになります。その結果、「和=やまと」となり、今度は「和」が「やまと」と訓読みされることになりました。
その後、さらに「和」に「大」を付けた「大和」が誕生します。この場合の「大」は美称のようなもので、「立派なやまと」とでもいったところでしょうか。別に「立派でないやまと」があるわけではなく、「大」に本質的な意味はないのです。そこで、「大和」の2文字をまとめて「やまと」と読むようになりました。
日本の地名の漢字は、このように、複雑な過程をたどって成立したものが多いのです。古くからある地名であればあるほど、漢字の意味と地名とが、単純には結びつかないケースが多いですから、注意が必要です。
■「倭」
(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ、ゥオー) .紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。和、俀とも記す。 奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。
■概要
■「日本」の前身としての「倭」
史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだ時代もあったという意見もある。 中国人歴史学者の王勇によれば中国の史書に現れる倭人の住居地は初めから日本列島を指すとしている。
倭(ヤマト国家)は、大王を中心とする諸豪族による連合政権であった。大王は、元来大和地方(現奈良県)の王(キミ)であったが、5世紀ごろから大王と呼ばれるようになった。ヤマト国家では、有力豪族によって大王が擁されたり、廃されたり、場合によっては殺害されることもあり、実質は有力豪族たちによって運営されていた。そのため有力豪族同士の権力争いも耐えなかった。氏を持つ血縁を中心につながる一族が、身分(姓)を与えられていた(氏姓制度)。
『日本』と言う国名は、大化の改新によって『天皇』という称号とともに使われるようになった。天智及び天武朝において始まったとされるが、いずれにしても7世紀後半のことである。
■「倭」という呼称
『古事記』や『日本書紀』では倭(ヤマト)日本(ヤマト)として表記されている。 魏志倭人伝では日本は邪馬台国と音文字で表記されている。 また『日本書紀』では夜摩苔つまりʎia mwɑ də もしくはjia mo tʰaiと表記されていた。
奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる。ただし、古来、「と(甲)」と「と(乙)」は通用される例もあり、一概に否定はできない。
8世紀に「大倭郷」に編成された奈良盆地南東部の三輪山麓一帯が最狭義の「ヤマト」である。なお、『日本書紀』には新益京(藤原京)に先だつ7世紀代の飛鳥地方の宮都を「倭京」と記す例がある。
737年(天平9年)、令制国の「ヤマト」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力の弱まった747年(天平19年)には再び「大倭国」の表記に戻された。そして757年(天平宝字元年)橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。「大和」の初出は『続日本紀』(天平宝字元年(757)12月壬子(九日)「大和宿祢長岡」)である(但し、同書にはそれ以前に、追書と思われるものが数カ所ある)。
■語義
■解字
「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形。解字は「ゆだねしたがう」「柔順なさま」「つつしむさま」、また「うねって遠いさま」。音符の委は、「女」と音を表す「禾」で「なよなかな女性」の意。
■用例
中国の古代史書で、日本列島に居住する人びとである倭人を指した。
説文解字では「従順なさま。詩経に曰く“周道倭遟(周への道は曲がりくねり遠い)”。」と解説されている。 康熙字典によれば、さらに人名にも使用され、例えば魯の第21代王宣公の名は「倭」であると書かれている。
『隋書』では俀とも記し、『隋書』本紀では「倭」、志・伝で「俀」とある。「俀」は「倭」の別字である可能性もあるが詳細は不明である。
のち和と表記される。奈良時代中期頃(天平勝宝年間)から同音好字の「和」が併用されるようになり、次第に「和」が主流となっていった。例えば鎌倉時代の徒然草には「和国は、単律の国にて、呂の音なし」(199)とあり、また親鸞も和国と記している。
現代の日本では、倭の字はいくつかの場面で使われている。人名用漢字の一つとして選ばれている他、東京には「倭」という手作り弁当のチェーン店がある。公立学校として三重県津市と長野県中野市に倭小学校が存在する。奈良県には北倭保育園(私立)が存在する。日経ビジネスオンラインでは、海外で働く日本人に対し、華僑という言葉を参考にして「倭僑」という言葉を提案した。中国には貴州省清鎮市に犁倭という地名が存在する。
■解釈
日本列島に住む人々が倭・倭人と呼称されるに至った由来にはいくつかの説があるが、いずれも定説の域には達していない。
○ 平安時代初期の『弘仁私記』序にはある人の説として、倭人が自らを「わ」(吾・我)と称したことから「倭」となった、とする説を記している。
○ 一条兼良は、『説文解字』に倭の語義が従順とあることから、「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。
○ 江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べている。
○ 新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。
○ 隋唐代の中国では、「韻書」と呼ばれる字書がいくつも編まれ、それらには、倭の音は「ワ」「ヰ」両音が示されており、ワ音の倭は東海の国名として、ヰ音の倭は従順を表す語として、説明されている。すなわち、隋唐の時代から国名としての倭の語義は不明とされていた。
○ また、平安時代の『日本書紀私記』丁本においても、倭の由来は不明であるとする。
○ さらに、本居宣長も『国号考』で倭の由来が不詳であることを述べている。
○ 神野志隆光は、倭の意味は未だ不明とするのが妥当としている。
■悪字・蔑称説
江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べ、他にも「倭」を蔑称とする説もあるが、「倭」の字が悪字であるかどうかについても見解が分かれる。『魏志倭人伝』や『詩経』(小雅、四牡)などにおける用例から見て、倭は必ずしも侮蔑の意味を含まないとする見解がある。それに対して「卑弥呼」や「邪馬台国」と同様に非佳字をあてることにより、中華世界から見た夷狄であることを表現しているとみなす見解もある。
なお、古代中国において日本列島を指す雅称としては瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)という呼称がある。瀛州とは、蓬莱や方丈ともに東方三神山のひとつである。
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