道教の方士徐福

https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/?ctgy=2 【道教の方士徐福】より

記紀の高天原は蒜山高原であった

1 高天原について

 「古事記」においては、その冒頭に「天地(あめつち)のはじめ」に神々の生まれ出る場所として高天原が登場する。次々に神々が生まれ、国産みの二柱の神が矛を下ろして島を作るくだりがあるから、海の上の雲の中に存在したことが想定されていた。天照大神が生まれたとき、伊邪那岐は高天原を治めるよう命じた。

 高天原には「多くの神々(天津神)が住み、天安河原(鳥取県江府町下蚊屋明神)や天岩戸、水田、機織の場などもあった」ことが記述されている。

  葦原中国が天津神によって平定され、邇邇芸命が天降って(天孫降臨)から、天孫の子孫である天皇が葦原中国を治めることになったとする。

2 高天原の各説(地名を根拠にするものは削除しました。)

(1)天上説(本居宣長)

 戦前は皇国史観(天皇を神とする)と結びついてこの考え方が主流であった。※私見:天照大神は実在した人間なので地上にあった。

(2)滋賀県米原市伊吹山山麓

 「平家物語」に、「天照大神が草薙剣を高天原から伊吹山に落とした」とある。※私見:平家物語は信用できるか

(3)阿蘇・蘇陽 - 熊本県山都町

 「日の宮・幣立神宮」は高天原神話の発祥の神宮である、とする。御神体は豊国文字と阿比留文字が彫られた石板であり、「アソヒノオオカミ」と「日文」が表裏に刻まれている。ちなみに「幣立」とはヒモロギを意味し、太古 天の神が御降臨になった聖なる地とされている。※私見:天の神が高天原から降臨した地は高天原ではない。

(4)鳥取県八頭郡八頭町霊石山・伊勢ヶ平

  天照大神が八上の霊石山(八頭町)伊勢ヶ平にしばらく行宮した後、帰る際に通った道の途中の地点にある。伊勢ヶ平は高天原という名前ではないものの、暫定的にせよ、中央の政治機関があった所とみなしうる。ここには天照大神が行宮の際、白兎に道案内されたという伝承がある。※私見:田があった高天原とするには狭すぎる。

(5)大韓民国慶尚北道高霊郡

 当初その比定地とされたのは、素戔鳴尊が立ち寄ったという江原道春川市であった。春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者。※私見:天孫降臨につながらない。

(6)九州邪馬台国説

  筑後川流域山本郡や御井郡、山門郡、夜須郡など、邪馬台国の候補地のいずれかが高天原とする説。※私見:天孫降臨につながらない。

(7)岡山県真庭市蒜山(ひるぜん)

  茅部神社の山を登ったところ。天岩戸、真名井の滝、天の浮橋等がある。※私見:これは蒜山説ではない。蒜山説は高天原は蒜山高原全体とする。

3 蒜山高原を高天原とする根拠(私見)

(1) 高天原の主役は天照大神である。長田神社と加茂神社と福田神社と茅部神社と徳山神社は天照大神を祭神とする。 蒜山高原の5神社のすべて(100%)に天照大神が祀られている。

(2) 邇邇芸命は高天原から降った。(古事記)

 長田神社と加茂神社は邇邇芸命を祭神とする。これでわかったことは、4歳の邇邇芸は旭川下流の岡山県内で生まれ、鏡ヶ成ではなく犬挟峠を越えて矢送神社に降臨したこと。猿田彦が待っていた鏡ヶ成から降ったのは邇邇芸ではなく饒速日だったということがわかった。そのあとも繋がっていく。

 続きは別稿「天孫降臨は2回行われた。最初は饒速日・天照大神・月読命ほか大勢であった」を参照されたし。

(3) 神倭磐余彦も高天原から降った。(古事記)

 古事記には「ここに饒速日(ウマシマジ)が陣中に参上して、天神の御子に次ぎのように言った。『天神の御子が、高天原からお降りになっておいでになると聞きましたので、私もあとを追って降ってまいりました』」とある。

 加茂神社と福田神社は神倭磐余彦を祭神とする。これでわかったことは、神倭磐余彦は福田神社まで行っているので、鏡ヶ成から降ったということである。犬挟峠から降れば道に迷うことはないが、鏡ヶ成から降ったので道に迷った。出雲族に気付かれないようにするために鏡ヶ成から降らなければならなかった。降った穿邑は倉吉市上大立であり、そのあとも繋がっていく。

 続きは別稿「神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた」を参照されたし。

 鳥取県江府町も高天原であった。

4 蒜山高原の夜明け

右下は高速米子道

 高天原の比定地は全国に17あるという。高天原やそれに近い地名のあるところは高天原ではない。本当の高天原に「高天原」の地名がついていたらとっくに藤原氏が消している。本当の高天原はそれらしい名前の付いていないところである。

 高天原の主役は天照大神である。天照大神に焦点をあてなければならない。高天原は5神社すべてに天照大神を祀る蒜山高原である。

 蒜山周辺には旧石器時代・縄文時代の遺跡が発掘されており、天照大神以前の神々もいたはずである。高天原であるためには、三貴神以前の神々がいなければならないのであり、その点蒜山高原はこの条件を満たしている。

 邇邇芸は高天原から降臨した(古事記・日本書紀)。神武天皇も高天原から降った(古事記)。蒜山高原には邇邇芸が長田神社と加茂神社、神武天皇が加茂神社と福田神社に祀られている。神社の位置関係より、邇邇芸は犬挟峠から降臨し、神武天皇は鏡ヶ成から降臨したことがわかる。

 全国の17ヶ所の高天原候補地の中でその形跡がぴたりと残る候補地は蒜山高原だけである。邇邇芸も神武天皇も蒜山高原を通過したのであり、高天原は蒜山高原(但し、鳥取県江府町も含む)であった。邇邇芸も神武天皇も蒜山高原(高天原)から鳥取県中部(倭国)に降臨した。

5 蒜山高原に水田は多い。

 高天原には水田があったとされるが、蒜山高原には水田が多くみられる。蒜山高原は水田稲作も多くみられるので、水田稲作ができないから高天原を去り葦原中津国に降ったという理由には疑問がある。葦原中津国(鳥取県中部)に降臨したのは他に理由があった。

 紀元前210年の徐福一行は人口を増やしたかった大神(伊邪那岐)と葦原中津国(鳥取県中部)で再会し「連れてきた少年少女を水稲稲作の出来るここ(葦原中津国)に住まわすよう」指示されていた。徐福一行が蒜山高原を中心にして周辺の山々から仙薬を探している間に、徐福一行に遅れること16年後の紀元前194年に殷王朝末裔の準王一族(八十神)が葦原中津国を占拠して騒がしかった。遣わされた天忍穂耳も葦原中津国が騒がしいと言って帰ってきた。徐福一行は大神(伊邪那岐)との約束の地(広沢=水稲稲作の適地)を取られまいとして蒜山高原・鳥取県西部から鳥取県中部に降臨した。

 根国での冒険のあと大国主は葦原中津国に住んでいた準王一族(八十神)を蹴散らして従わせていた。徐福は準王一族(八十神)の動向を探るために天穂日をその本拠地(熊野大社)に行かせた。紀元前185年頃に饒速日と徐福たちの大勢(第一次)は江府町下蚊屋→鏡ヶ成→野添→神田神社に降臨した。徐福は神田神社から琴浦町の斎王集落(伊勢)に降臨して平原(方見郷)と広沢(葦原中津国)を得て自ら天照大神と名乗った。鳥取県江府町にいた饒速日は神田神社から日吉神社に行き、船で小鴨川を下って河内国の河上の哮峰(倉吉市八幡神社のある峰)に降臨した。徐福(天照大神)一行にとって仙薬も大事だが連れてきた少年少女を育てるために、水田稲作に適した葦原中津国も重要であった。

徐福と天照大神の来倭コースは重なる

1 徐福の来倭コース

(1) 中国側の歴史書ー司馬遷の史記(紀元前91年完成)よりー

 徐福の渡来地は全国に30数ヶ所も伝えられている。これは徐福の部下が到着したところである。

〇 史記(司馬遷)秦始皇本紀第六には「斉人、徐市等は上書し、『海中に蓬莱、方丈、瀛(えい)洲という名の三神山があり、仙人がここに居ます。(始皇帝の)斎戒と子供の男女を得て、これを求めさせていただきたい』と言った。ここに於いて徐市を派遣し、子供の男女数千人を出発させ、海に入り仙人を求めた」とある。

 「海中」とは海の対岸のことである。東海の三神山(蓬莱、方丈、瀛洲)とは日本海沿岸にある大山、烏ヶ山、蒜山のことであった。

 第1次でも徐福自身は大山(蓬莱山)の北西の米子市陰田町に到着し、大神(伊邪那岐)には会っている。その時に、「光が天を照らす」のを見た。大神(伊邪那岐)に会って、「多くの少年少女を連れて来れば不老長寿の仙薬をやってもよい」と言われた。

〇 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八には「(始皇帝は)徐福に船出して神仙を求めさせた。徐福は戻った。「私は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』。私は答えていった。『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしているのを見ました。そこで私は再び拝礼して尋ねました。『どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか』すると海神(海中の大神)は『名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました」と偽りの報告した。秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。徐福は、「平原広沢」を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった」とある。

 第2次(紀元前210年)の徐福一行は確実に伯耆国に渡るため、秦韓(辰韓)にしばらく留まり、リマン海流と対馬海流を利用して東海(日本海)を渡り、次々と伯耆国に到着した。

 福付き地名の土地は徐福一行が到着して住んだ集落である。鳥取県中西部に福付き地名が多い(41ヶ所)ということは、「秦韓(辰韓)から次々に伯州(伯耆国)に結集した」とする中国の王輯五の説にも符合する。

(2) 日本側の歴史書ー宮下文書(徐福文書)よりー

 宮下文書(徐福文書)は偽書とされているが、改ざんされていない部分も残っている。これを改ざんした一族は、原本をもとに改ざんする一族であり、古事記・日本書紀の改ざんも基本となる原本をもとに改ざんしている。天照大神が中国人だったという事実は決して明るみに出すことはできないとして今でも女性であるとしたり、ウガヤフキアエズ朝なるものが72代も続いたので徐福とは時代が違うとしたり、国(今でも藤原政府であり藤原の神社庁その他多くの藤原の組織)を挙げて様々な方法で消そうとしている。宮下文書(徐福文書)では、徐福がたどり着いた高天原は富士山の麓であり鳥取県の大山(伯耆富士)・岡山県真庭市の蒜山高原ではないと思わせるように改ざんしている。

〇 宮下文書(徐福文書)には「東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。しかし、近づいてみると、船上で遥拝した霊山とは違い、一行が上陸したのは木日国(紀伊国)木立野の大山であった。

 徐福が、熊野那智山を眺めていると、白衣の老翁が姿を現して、那智山は不二(富士)山ではなく、不二蓬莱山は、東方にあると告げた。一行は三年間を費やし探索してついに富士山を発見した。一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。

 この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。徐福は一族とともにこの地に止まり、一行全員を大室、中室、小室に分散居住させて、専門分野ごとに、開墾、農作、製紙、機織り、養蚕などを行わせたという。徐福の子孫は、その後も当地に止まって、福のつく苗字を残した」とある。 

(※ 太字は改ざん挿入された部分)

(3) 徐福文書(宮下文書)にある「大山」とは木日国(紀伊国)木立野(和歌山市冬野)の大山ではなく、伯耆国の大山(ダイセン)であった。伯耆国の大山は西から見ると秀麗な山様である(伯耆富士)が、東に進むにつれてその姿がなくなる(大山北壁)。

 「その裾野の小さな湾」のあったところから見た大山。秀麗な山様は失われている。

 中海の船上から秀麗な山様が見えるので徐福は宍道湖→中海を通ってきた。

 米子市陰田町に到着して大神の使いが「大神はもっと東で待っている」と言われ、大山を見ながら海を東に進み大山の裾野の小さな湾(鳥取県北栄町)に上陸した。徐福たちは徐福文書にある「宇記島・原」(北栄町の大島と原)に上陸した。

 どちらも「上陸した」と書かれているが、「宇記島原」は「その裾野の小さな湾」の中にあった。

 「その裾野の小さな湾」とは大山の東の裾野にあった北栄町の葦原中津である。海抜4mに海面があった地形を見ると、小さな湾(葦原中津)の前に笠沙之御前(北条砂丘)が現れる。

 小さな湾を拡大するとこのようになる。北栄町大島の宮崎神社の由緒には倭建命が「こは浮洲(うきしま)か」といわれたとあり、近くに原集落もある。徐福は「宇記島(うきしま)・原」に上陸した。

 徐福は大山の裾野の小さな湾(葦原中津国)の宇記島・原に上陸した。

 「徐福は一族とともに高天原に止まった」と徐福文書(宮下文書)にある。高天原は蒜山高原(別稿を参照されたし)なので、徐福は鳥取県北栄町の原と大島に上陸し、一族とともに蒜山高原に上がりそこに止まった。

2 天照大神の来倭コース

 天照大神と素戔嗚は辰韓から船で出雲の日御碕神社に到着した。出雲の日御碕神社から現在の出雲平野に入ってきた。斐伊川も度重なる洪水による土砂の堆積で河口が高くなっているが内海はもっと広かったはずである。

 出雲と鳥取県西部にある5ヶ所の日御碕神社(出雲、米子市陰田町、境港市渡町、境港市小篠津、大山町御崎)は海面が海抜4mにあった地形では海岸のすぐそばになるため、天照大神と素戔嗚の寄港地であったと解される。一番東の大山町御崎の日御碕神社を出港した天照大神は次はどこに到着したのだろうか。

 古事記には「左の目を洗ったところ、天照大神という名の神が生まれた。次に右の目を洗ったところ、月読命という神が生まれた。次に鼻を洗ったところ、建速須佐之男命という神が生まれた」とある。「生まれた」とあるが「出会った」である。三貴神は伊邪那岐が禊をしているところに到着した。そこは鳥取県北栄町の原であった。

 別稿「伊邪那岐が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった」を参照されたし。北栄町の原より東に伊邪那岐が禊をしたところは確認できない。

 伊邪那岐は三貴神と一緒に船で北栄町大島に行った。北栄町大島の宮崎神社の主祭神は伊邪那岐と伊邪那美である。伊邪那岐と伊邪那美はここを拠点として葦原中津国の国造りをしていた。

 倭国大乱の時代、孝元天皇と開化天皇(倭建命)は北栄町大島で伊邪那岐と伊邪那美を奉斎している。

 天照大神や素戔嗚は伊邪那岐が禊をしていた北栄町の原に到着した。そして伊邪那岐と一緒に船で大島に行った。伊邪那岐は大島で三貴神が治めるべき国を示した。また連れてきた一族をここで育てるよう命じた。天照大神は高天原(蒜山高原)を治めるように言われ、倉吉市の灘手神社にしばらくおり高天原(蒜山高原)に上がった。素戔嗚は海原(母の国)を治めるように言われたが、倉吉市谷の朝日神社に行き、そこでしばらく泣いた。

 鳥取県の霊石山や氷ノ山も天照大神の伝承のあることから高天原の候補地になっているが、水田があった高天原にしては狭すぎる。天照大神は天照大神の痕跡の多く残る蒜山(蒜山高原の5神社すべての祭神になっている)に上がった。

 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族(因幡の白兎伝説における大国主の兄の八十神)は徐福たちに16年遅れて出雲国、伯耆国、因幡国に到着した。琴浦町の方見郷(平原)・北栄町の葦原中津国(広沢)にも住んだ。葦原中津国が騒がしくなった。

 天の安河の河原に思兼神や八百万の神が集まり、大国主を生まれた時から守っていた鳥取県八頭郡にいた天穂日を大国主のもとに行かせることにした。「天の安河の河原」は蒜山高原の西隣の鳥取県江府町下蚊屋明神の地である。思兼神は江府町貝田神社から来た。天照大神など八百万神は蒜山高原の徳山神社から来た。

 天穂日は伯耆町の神社、思兼神は大山の西麓の神社に多く祀られている。思兼神も天穂日も辰韓から船で東海(日本海)を渡り、上陸したのは米子市陰田町であった。

〇 徐福も天照大神も島根県の宍道湖→中海を通り、鳥取県北栄町の原と大島に上陸し岡山県真庭市の蒜山高原(高天原)に上がった。徐福と天照大神の来倭コースは重なる。このことからも徐福と天照大神は同一人物であることがわかる。

3 参考

 福付き苗字と福付き地名

 「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや徐姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう徐姓は名乗ってはならない』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」以降、徐福の仲間だということを知らせるために福のつく苗字と福のつく地名を付けた。

 日本海側の福付き地名(ヤフー地図より)

(1)鳥取県 

※ 伯耆国には福つき地名が41か所ある。

米子市 1福万 2福市 3福原 4上福原 5福井 6福岡 7福頼

南部町 8福里 9福成 10福頼

日南町 11神福 12福寿実 13福塚 14福万来

日野町 15福長

伯耆町 16福永 17福居 18福岡 19福岡原 20福兼 21福島 22福吉

大山町 23福尾

境港市 24福定町

倉吉市 1上福田 2下福田 3福原 4福守 5福積 6福富 7福庭 8福光 9福本 10福山 11福吉

琴浦町 12福永

三朝町 13福田 14福本 15福山 16福吉

湯梨浜町 17北福

※ 因幡国には福つき地名が7か所ある。

智頭町 1福原

佐治町 2福園

鳥取市 3福井

八頭町 4隼福 5福井 6福地 7福本

(2)兵庫県 

 日本海側に福の字の付く地名はない。

(3)京都府 

 福知山の福を除いて、日本海側に福の字の付く地名はない。

天照大神は徐福であった

​1 中国人は大喜びであり、我々日本人は大変残念であるが、我々が尊敬してやまない天照大神は徐福であった。悔しいが、これが真実と思われる。時代も神武天皇即位年紀元前60年説を採れば無理なくつながる。崇神天皇も卑弥呼も天武天皇も道教を信奉していたが、これは始祖が道教を信奉していたからである。始祖とは道教の方士徐福である。崇神天皇は道教が母体の神道を初めて全国に創設した。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫であった。倭迹迹日百襲姫も道教(鬼道)の祭祀をしていた。何のために伊勢神宮を参拝していたのだろう、と思われるかもしれないが、歴代の天皇が参拝しなかったのは、これも理由の一つであった。​

2 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八

 国立国会図書館デジタル書籍より

 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八に「(始皇帝は)徐福に船出して神仙を求めさせた。徐福は戻った。私は海中の大神に会った。『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』と答えた。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』といった。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き(即從臣東南至蓬莱山)、そこで霊芝でできた宮殿や(見芝成宮闕)、銅の色で龍の形をした使者がいて(有使者銅色而龍形)、光が天を照らしているのを見た(光上照天)。そこで私は再び拝礼して尋ねました。『どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか』と問うた。すると海神は『名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました、と偽りの報告した。秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。徐福は、平原広沢を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった」とある。

 徐福に関する149文字の中に「大神」の文字と「天照」の文字が確認できる。

私見

 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町に到着し東南の大山に連れていかれ大神の宮殿や銅色の龍形の使者がいて光が天を照らしている(光上照天)のを見た。大神の宮殿は鳥取県大山中腹の「大神」山神社の地にあった。蓬莱山は大山であった。

 徐福は平原・広沢を得て王となり、最初に見た情景に因んで「天照大神」と名乗った。

 高天原の様子を見れば分かるが、天照大神は集団のリーダーであり、徐福も集団のリーダーである。徐福は始皇帝に「三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に留まって王となり秦の威名を高めよ」と言われていた。徐福は始皇帝に言われたように三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に止まって王(天照大神)となった。国譲りで蒜山高原(高天原)から鳥取県中部(倭国)に降臨し、平原(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉尾野)・広沢(北栄町の葦原中津国を含む豊葦原瑞穂国)を得て王(天照大神)となった。

3 「史記」秦始皇本紀第六37年には、徐福が2度目に出発したとき「連弩(連発武器)を積み込んでいた」と記されている。

 「古事記」には「スサノオの様子を見た天照大神は、高天原に攻め入るつもりだと危ぶむ。そしてすぐに御髪を解いて御角髪(みづら)に巻いて、・・・背中には千本の矢入りの箙を背負い、脇には五百本の矢入りの箙を着け、・・・弓の末を起こして、硬い地面を踏みしめ、淡雪を蹴散らして、威勢よく雄(男)叫びをあげて待ち構え、「何のために上ってきた」と問いかけた」とある。

 古事記には連弩とは書いてないが「天照大神は背中に千本の矢入りの箙を背負い、脇に五百本の矢入りの箙を着け」とあるので、天照大神のもっていた弓は徐福が積み込んでいた連弩(連発武器)である。これも天照大神は徐福であったとする根拠である。

4 天照大神のいた高天原は蒜山高原であった。

 奈良の葛城や宮崎県の高千穂にも高天原の伝承が残るが藤原氏が創作したテーマパークである。富士山高天原も藤原氏が創作したものである。北九州が高天原という説もあるがこれは天孫族が大陸に渡るために北九州に留まることがあったので天孫族の痕跡が残っているのであり、本当の高天原は蒜山高原であった。蒜山高原の5神社のすべて(100%)に天照大神が祀られている。戦前では佐竹氏、戦後は田村誠一氏、Vetty氏は蒜山高天原説を唱える。

5 徐福一行(紀元前210年の第2次)は辰(秦)韓より次々と伯州(鳥取県中西部)に結集した。徐福は伯耆富士(大山)をこれぞ蓬莱山であると遥拝したが、東に行くにつれてその形を見失い、小さな湾(北栄町の葦原の中津)に到着し、宇記島・原(北栄町の島集落と原集落)に上陸した。その後、蒜山に上がり蒜山周辺の山々に上がって仙薬を探し、周辺の山々を「仙」(せん)と名付けた。伯耆国に到着した徐福一行は出雲に引き返していない。中国地方で一番高い山のある大山・蒜山にのぼり仙人や仙薬を探し、神仙を求めた。蒜山周辺の50くらいの山は「さん」ではなく「せん」(仙)と読ませる。徐福は道教の方士であり、「山」を仙薬のある神仙に見立てて「仙」(せん)と名付けた。蒜山高原(瀛州)は仙人(真人)の居るところであり、徐福一行の目的地であった。倉吉に皇居のあった天武天皇は伊邪那岐を表わす最高位の「瀛真人」であった。

 徐福が富士高天原で記録したとされる宮下文書の原型は伯耆富士(蓬莱山)に隣接する蒜山高原(瀛州)で書かれたものである。

6 徐福一行は東海の三神仙(大山・烏ヶ山・蒜山)を目標に航海してきたのであり、出雲には行っていない。出雲に到着したのは、殷王朝末裔の準王一族であった(紀元前194年)。準王一族(因幡の白兎に出てくる大国主の兄の八十神)は葦原中津国や因幡にも上陸した。約束の地である葦原中津国に準王たちが上陸したので天忍穂耳は葦原中津国が騒がしいと言った。天孫降臨に際し、天穂日は葦原中津国にいた準王一族(大国主の兄の八十神=出雲神族)の本拠地を大国主から教えてもらい準王の様子を偵察するため能義平野(安来市)に行った。松江の南部(熊野大社)に拠点のあった準王一族(出雲神族)を天穂日は監視していた。出雲神族の子孫の富氏は天穂日をヤマト王権のスパイであったという。天穂日は出雲神族の女を娶り婚姻関係を結んだ。饒速日が長髄彦の妹を娶ったのも天穂日の仲介によるものと思われる。準王たち(八十神=出雲神族)は天穂日に同化してゆき、天穂日を始祖とした。天穂日の子供とされるタケヒラドリは殷王朝末裔の準王であった。天穂日は自分より年少であった準王(タケヒラドリ)に可愛がっていた大国主の別名の大穴牟遅の名を与えた。それ以来、出雲神族の代々の王(長髄彦)を大穴牟遅と呼ぶようになった。

7 天照大神は因幡の霊石山などに伝承が残るので、因幡国(鳥取県東部)には出向いている。しかし、「義楚六帖」の記述より亡くなったのは倭国(鳥取県中部)内である。徐福(天照大神)が亡くなった(紀元前180年)のは、丹後ではなく、倭国(鳥取県中部)であった。

 八女市の童男山古墳群は27基の円墳であるが、徐福の古墳と言われている。新宮市徐福公園にあった徐福の重臣7人の墓も円墳でつくられていた。

​​ 童男山古墳の伝説や新宮市の徐福の重臣7人の墓は藤原氏が作ったものであるが、京都の藤原氏は徐福たちの墓が円墳であり奈良時代まで都が鳥取県中部にあったことを明治になるまで知っていた。

 鳥取県中部に古墳は2395基発掘されているが、そのうち2338基(97.62%)は箱式木棺・石棺を土で封じた円墳である。徐福一行の古墳は円墳であった。鳥取県中部にいた一族は徐福一行であった。徐福が留まった倭国とは鳥取県中部であった。

 奈良の藤ノ木古墳は蘇我善徳大王、キトラ古墳は高市大王、高松塚古墳は忍壁大王の墓である。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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