道教と日本思想 ②

http://honnomori.jpn.org/syomei/4-ta/dou-nihon-1.html 【道教と日本思想】 著者 福永光司 徳間書店  より

第一層 鬼道の教-巫術

 四つの重なりの層の一番下は鬼道と呼ばれている巫術的な宗教思想信仰。日本古代の卑弥呼の宗教も鬼道であるというふうに中国の文献『魏志』(倭人伝)では説明されていますが、この鬼道というのは、今の宗教学の言葉でいえば、だいたいシャーマニズムにあたると見てよい。

 そして、この鬼道の具体的な内容は、まじない信仰とお札信仰と神おろし、すなわち禁呪と呪符、霊媒術などが中心となっており、巫術とも呼ぼれています。この巫術は多くの場合、女性によって行なわれる。これは日本の神社などに形をかなり変えてはいますが今も残っているわけで、神社、神宮、祝詞、斎宮、祓除など中国古代の宗教用語を全面的に日本に持ちこんで来たことから、必然的に巫女さんが緋の袴を着けて手に鈴を持つことになる。

 これらはみな中国の巫術としての鬼道の教を日本に持って来たものと見ていいわけです。中国における鬼道としての禁呪は、日本では修験道などで行なわれています。中国では「祝」の字は「呪」の字と共通に用います。日本では「祝」の字を祝うと読んでいますが、それはこの字の一面を翻訳しただけであって、神の前で言葉を述べること、誓いやまじないの言葉を述べることが「祝」なのです。

 -こういった呪術祈薦が道教の一番古い層としてあって、それが鬼道とよばれる。

 ところが、そのシャーマニズム、巫術、鬼道の教としての道教が時間の経過と共に何らかの神学を必要とし、哲学思想をその上部に導入するようになります。これは巫術が宗教として発展するための必然的な措置です。そこで鬼道は鬼道としてお札信仰やまじない信仰もそのままに残しながら、同時にその上部に哲学思想を乗せていく。-この場合に鬼道が上に乗せる哲学思想は、『老子』の「玄」の哲学と『易経』の「神道」と呼ばれる陰陽の思想がその中心をなします。

第二層 神道の教としての道教

 「神道」という言葉が中国の思想史で最初に見えているのは『易経』(観の卦の彖伝)のなかです。ただし、ここで第二層として挙げられている神道は『易経』の神道そのままではなく、西暦2世紀、後漢の順帝の頃からさらに神秘化され、宗教化された中国の「神(かん)ながらの道」としての神道です。そして、この神ながらの道としての神道が言葉として日本で最初に用いられているのは、8世紀の初め、西暦720年に成った『日本書紀』においてであり、『古事記』ではまだ用いられておりません。

 鬼道という道教の第一層の言葉は古代の日本では全く使われていませんが、神道という道教の第二層の言葉が日本古来の土着的な呪術信仰を総括する神ながらの道を指すものとして最初に用いられているのは『日本書紀』からです。

 それはともかく第一層の鬼道に『易』と『老子』の哲学を上乗せして、天神、大神の道、天皇、上皇の教を説く神道としての道教が第二層として成立するのは後漢の時代の中頃、西暦2世紀の半ばであり、文献でいいますと、山東瑯邪の道士干吉が天神から授与されたという『太平清領書』170巻などです。-

第三層 真道の教としての道教

 中国古代の『荘子』の哲学では、「真は天より受くる所以なり。自然にして易(か)うべからず」と説き、「故に聖人は天に法(のつと)り真を貴び」、「俗に拘(とら)われず」などと説いて、「真」の道を「俗」の道と対比させます。そして「俗の道」を捨てて「真の道」に反(かえ)り、宇宙と人生の根源的な真理である「道(タオ)」を友として囚われなく遊ぶことを「全真」の教として説きますから、このような『荘子』の「真」の哲学が道教の神学のなかに大きく取り入れられますと真道の教と呼ばれてきます。

 しかもこの真道の教は、伝統的な儒教の政治倫理の道の教を俗道と呼んで、みずからの教の儒教に対する優位を主張します。

 そして、インドから中国に伝えられた仏教がまた、みずからの教を道教と同じく真道の教と呼ぶようになり、とくに浄土と禅の系統の中国仏教が真道の教として『荘子』の「真」の哲学を大幅に導入することになります。

 そして逆にまた真道の教としての道教も、同じく真道の教としての中国仏教から、その教理と宗教哲学をさまざまな形で大きく取り入れていくという、往復運動が始まっていくわけです。

 後の真言密教の「真言」の思想にしてもまた、このような真道の教としての道教、もしくは道教と中国仏教の思想的共通性を根底基盤として展開するということになっていきます。

第四層 聖道の教としての道教

 インドから中国に伝えられた仏教は、西暦3~4世紀、魏晋の頃まではみずからを真道の教とも呼び、道教と同じく反俗の立場を取って儒教の俗道と対立しました。

 しかし、5~6世紀、宋斉梁の頃になると、その仏教はこれも真道としての道教を「天下を以て事とすることのない」独善自利の宗教として批判攻撃し、それまで俗道として退けていた儒教とむしろ手を握ることになります。

 仏教の衆生済度の教えは儒教の治国平天下の教えと同じく、利他兼済を理想とする聖人の道の教すなわち聖道の教である。この衆生済度こそ宗教としての仏教の本質であり、儒教にはこの本質と共通するものがあるが、道教には全くそれが見られないと激しく批判攻撃するわけです。

 そうなると道教のほうも負けてはおられません。道教にも衆生済度すなわち「度人」の教えは本来的にあるのだと主張し、衆生の済度、救苦を説く道教経典、いわゆる『度人経』、『救苦経』のたぐいが大量に製作されることになります。そして、みずからの教を儒教、仏教と同じく聖道の教、聖教であると主張するようにもなるのです。

 さて、このようなわけで中国土着の民族宗教である道教は、インドから来た外来の宗教である仏教とかなり早い時期から-四つの重なりの層でいえば、第三の層の真道の教の頃から-相互に折衷習合する傾向、趨勢を強めていきます。道教の文献なのか、仏教の文献なのか、レッテルの張り方ではどちらにでもなりうるといった雑種的、雑家的な教典著作が大量に作り出されるということになって、わが空海さんが中国に留学された唐の徳宗ないし憲宗の治世こそは、まさにそのような道仏折衷習合の典型的な時期であったわけです。

 四神獣というのは、最も道教的な性格を顕著にもつ中国古来の土着的な宗教思想信仰を代表します。つまり、その道教的な青龍という名の仏教寺院で空海さんが真言密教を学んでおられたということが、この当時の中国仏教の性格とあり方を何よりも良く示しているといえましょう。

道教の四重構造

聖道の教-A.D.6C以後

 南北朝時代の中国仏教が自利と利他-儒教の独善と兼済-の聖道を強調して真道の教を自利のみの「小乗」と貶(けな)すのに対して、道教がまた「度人」(衆生済度)「救苦」(苦海からの救出)を説く教典類を大量に整備し、儒教・仏教と同じく聖道の教であることを強調するに至ったもの。みずからの教を聖道として強調するこの時期において道教の教学体系は一応確立される。

真道の教-A.D.3C以後

 神道の教がさらに」荘子』の「真」-「真と信天より受くる所以なり。自然にして易(か)うべからず」-の哲学とこの「真」の哲学をふまえて展開する初期中国仏教の「清浄」の哲学などを導入し、儒教を俗道の教として批判すると共にみずからの教を真道とよぶに至ったもの。なお、この時期においては中国仏教もまたみずからの教を真道とよんでいる。

神道の教-A.D.2C以後

 鬼道の教の上部構造として『易経』の「神」-「陰陽の測られざる、これを神という」-の哲学と『老子』の「道」-「道は万物の奥、自然に法る」-の哲学を上乗せしたもの。後漢時代の瑯邪地区で出現した神書『太平清領書』(P太平経』)に説く「神道」がこの教を代表し、古代日本では8世紀の初めに成った『日本書紀』が最初にこの語を用いている。

鬼道の教-B.C,14以後

 殷周の最古代から行なわれている呪術的な宗教=巫術。本来は「鬼」すなわち死霊の信仰を中心とする巫術であったが2~3世紀、後漢末期に鬼道とよばれている張角の太平道、張魯の五斗米道などの教法は、「符呪」(お札とまじない)、「請禱」(誓いと祈禱),「首過」(懺悔)などを主要行事としている。日本古代の卑弥呼の宗教もまた中国の史書(『魏志』倭人伝など)では鬼道とよばれている。

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