再び会ふ夏蝶すでに傷つきて

季語が夏の蝶の句

April 1442001

 昼の酒はなびら遠く樹を巻ける

                           桂 信子

たぶん葬儀か法要の後の、浄めの酒だろう。どういうわけか、「昼の酒」は少しでも酔いが早くまわる。折しも落花の候。酔いを自覚した目に、遠景の桜吹雪が見えている。樹を巻くように散るとは、幻想的な落花の様子を言い当てて妙だ。ほんのりと酔った作者は、故人をしのびつつ、盛んに散りゆく「はなびら」の姿に世の無常を感じている。散る桜、残る桜も散る桜。と、昔の人はまことにうまいことを言った。私事になるけれど、今日午前に多磨霊園で、さきごろ亡くなった友人の納骨式がある。「昼の酒」となる。まだ、花は少しくらい残っているだろう。鎌倉生まれで鎌倉育ちだった彼の愛唱歌の一つに、「元寇」があった。有名な蒙古襲来、文永・弘安の役の歌だ。「四百余州をこぞる 十万余騎の敵」と歌い出し、なかで彼がいちばん声を張り上げたのは「なんぞ恐れん我に 鎌倉男児あり 正義武断の名 一喝して世に示せ」のくだりだった。酔えば、よく歌っていた。その鎌倉男児も、いまや亡し。突然、それこそ樹を巻くようにして、苦しそうに散ってしまった。かつての仲間たちと「昼の酒」を飲みながら、私はきっとこの歌と掲句を思い出し、そして少しだけ泣くだろう。桂信子に「鎌倉やことに大きな揚羽蝶」もある。『彩(あや)』(1990)初秋。(清水哲男)

May 2752008

 打ち返す波くろぐろと梅雨の蝶

                           一 民江

先週22日の沖縄の梅雨入りを皮切りに、今年もじわじわと日本列島が梅雨の雲におおわれていく。先日、雨降りのなかで、今までに見た最高に美しい空の思い出を話していたら、「南アルプス甲斐駒ケ岳で見た空は青を通り越して黒く見えた」という方がいた。あまりに透明度が高く、その向こうにある宇宙が透けて見えたのだと思ったそうだ。それが科学的根拠に基づいているのかそうでないかは別として、聞いている全員がふわっと肌が粟立つ思いにかられた。美しさのあまり、見えないはずの向こうが見えてしまうという恐怖を共有したのだった。掲句の波も、見えるはずのない海の奥底を映し出してしまったような恐ろしさがある。そこに梅雨のわずかな晴れ間を見つけ、蝶が波の上を舞う。春の訪れを告げる軽やかな蝶たちと、夏の揚羽などの豪奢な蝶の間で、梅雨の蝶はあてどなく暗く重い。タロットカードに登場する蝶は魂を象徴するという。もし掲句のカードがあったとしたら、「永遠に続く暗雲に翻弄される」とでも言われそうな衝撃の絵札となることだろう。〈よく動く兜虫より買はれけり〉〈梅を干す梅の数だけ手を加へ〉〈送り火のひとりになつてしまひけり〉『たびごころ』(2008)所収。(土肥あき子)

June 1762008

 標本へ夏蝶は水抜かれゆく

                           佐藤文香

昆虫が苦手なわたしは、掲句によって初めて蝶のHPで採取と収集の方法を知った。そこにはごく淡々と「蝶を採取したら網の中で人差し指と親指で蝶の胸を持ち、強く押すとすぐ死にます」とあり、続いて「基本的に昆虫類の標本は薬品処理する必要がありません。日陰で乾かせばすぐにできあがります」と書かれていた。こんな世界があったのだ。虫ピンというそのものズバリの名の針で胸を刺され、日陰でじっと乾いていく蝶の姿を思うと、やはり戦慄を覚えずにはいられない。掲句はこの処理の手順を「水抜かれ」のみで言い留めた。命、記憶、痛み、恐怖のすべてを切り捨て、唯一生の証しであった水分だけで全てを表現した。出来上がった美しい標本を眺めながら考えた。丸々太った芋虫から、蛹のなかで完全にパーツを入れ替え、全く別な肢体を得る蝶のことである。今までの劇的な変化を考えれば、水分をすっかり抜かれることくらい造作もないことで、永遠の命を得るために標本への道を、蝶が自ら選択しているのではないのかと。〈朝顔や硯の陸の水びたし〉〈へその緒を引かれしやうに鳥帰る〉『海藻標本』(2008)所収。(土肥あき子)

May 1052009

 女學院前にて揚羽見失ふ

                           浅井一志

季語は「揚羽」、夏です。揚羽蝶の大ぶりな美しさは、たしかに夏の季節にふさわしく感じられます。この句に惹かれたのは、なんと言っても「女學院」の一語ゆえでしょうか。目の前をさきほどから、まるで自分の行く先について行くように、派手な柄の蝶が舞っています。その姿に見とれながら歩いていたのが、つい見失ってしまい、気がつけばそこは女学院の前だったというわけです。生の真っ只中での、揚羽蝶と女学生のいきいきとした美しさが、見事に競い合っています。たしかに見失った場所が別のところだったなら、このようなくっきりと鮮やかな句にはならなかったでしょう。ペギー葉山の歌を持ち出すまでもなく、学生の日々の出来事や友人を思い出せば、いつも同じ場所の切なさにたどりつきます。その心情はまさに、いつまでもまとわりつく蝶のようでもあり、目で追い続けていたのは蝶の姿と、遠く懐かしい日々だったのです。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)

June 2962009

 「夕べに白骨」などと冷や酒は飲まぬ

                           金子兜太

同年の盟友であった原子公平(はらこ・こうへい)への追悼句五句のうち。命日は2004年7月18日、84歳だった。一句目は「黄揚羽寄り来原子公平が死んだ」だ。この口語体が兜太の死生観をよく表しており、掲句にもまたそれがくっきりと出ている。作者をして語らしめれば、死についての考えはこうである。「人の(いや生きものすべての)生命(いのち)を不滅と思い定めている小生には、これらの別れが一時の悲しみと思えていて、別のところに居所を移したかれらと、そんなに遠くなく再会できることを確信している。消滅ではなく他界。いまは悲しいが、そういつまでも悲しくはない」。だから「夕べに白骨」(蓮如)などと死を哀れみ悲しんで、冷や酒で一時の気持ちを紛らわすことを、オレはしないぞと言うのである。他者の死を、そのまま受け取り受け入れる潔い態度だ。年齢を重ねるにつれて、人は数々の死に出会う。出会ううちに、深く考えようと考えまいと、おのずからおのれの死生観は固まってくるものだろう。そこから宗教へとうながされる人もいるし、作者のようにいわば達観の境地に入ってゆく人もいる。おこがましいが、私は死を消滅と考える。麗句を使えば、死は「自然に還ること」なのだと思う。したがって、私もふわふわしていた若い頃とは違い、あえて冷や酒を飲んだりはしなくなった。死についての考えは違っても、この句の言わんとするところはよく理解できるつもりだ。『日常』(2009)所収。(清水哲男)

July 0472010

 大揚羽教師ひとりのときは優し

                           寺山修司

この句の初出は昭和29年の「蛍雪時代」ということですから、高校3年生の時の作者が、初々しく詠んだ句となります。今では、教師が優しいのはあたりまえというか、優しくなければ問題になるわけですが、当時の教師像というのは、人によって差はあっても、今よりもだいぶ厳格な印象を持たれていたものです。とはいうものの、生来の人のあり方が、たかが半世紀ほどで変わるわけもありません。生徒の前ではいかめしい表情を見せていても、一人になったときには、いつもとは違う穏やかなものをたたえていたということのようです。「大揚羽」のおおぶりな書き出しが、生徒にとっての教師の大きさに、自然とつながっています。また、「ひとり」という言葉から連想されるさびしさも、きちんと「優し」には含まれていて、この教師のこれまでの人生が、妙にいとしく感じられてきます。『寺山修司全詩歌句』(1986・思潮社)所収。(松下育男)

April 2942011

 やさしさは宙下りかゝる揚羽蝶

                           山口誓子

やさしさというものは高みから下降にさしかかったときの揚羽蝶のようなものだという直喩。下降のときの羽の感じや姿態や速度、それらが「やさしさ」そのものだと言っている。同じ作者に「やさしさは殻透くばかり蝸牛」がある。誓子考案の型である。どっちがいいかな。甲乙つけがたい。二句とも小さな生き物に対する愛情に満ちている。それでいて季節の本意を狙った「らしさ」はどこにもない。類型感はまったく無いのだ。構成の誓子と言われる。即物非情とも言われる誓子にはこんな情の句もある。『遠星』(1945)所収。(今井 聖)

July 0572011

 いま汲みし水にさざなみ黒揚羽

                           今井 豊

汲んだ水がしばらく揺らめいている様子は、「もぎたて」「捕りたて」のような生きものめいた艶めきがある。目の前にある水が立てる生き生きとしたさざなみを見つめ、その小さな波頭に思いを寄せている。ざわめく気持ちがいずれは落ち着くことが分っている、なだめるような視線である。小さな水面のさざ波は、やがて穏やかな一枚の滑らかな水のおもてになるはずだ。一方、確かに生きているにも関わらず、黒揚羽の美しさはどこかつくりものめいている。さらに「バタフライ効果」といわれる「ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」という予測可能説が頭をよぎり、その静かな羽ばたきによってもたらされる吉凶の予感が、見る者の胸をざわつかせる。予言者めいた黒揚羽が、汲んだ水を持つ者の手をいつまでも震わせ、さざなみ立てているのかもしれない。〈せりなずな生はさみどり死はみどり〉〈もてあます時間崩るる雲の峰〉『草魂』(2011)所収。(土肥あき子)

July 0672011

 病み臥すや梅雨の満月胸の上

                           結城昌治

梅雨の晴れ間にのぼった満月を、病床から窓越しに発見した驚きだろうか、あるいは、梅雨明けが近い時季にのぼった満月に驚いたのだろうか。いずれにせよ梅雨のせいでしばらく塞いでいた気持ちが、満月によってパッと息を吹き返したように感じられる。しかも病床にあって、仰向けで見ている窓の彼方に出た満月を眺めている。しばし病いを忘れている。病人は胸をはだけているわけではあるまいが、痩せた胸の上に満月が位置しているように遠く眺められる。満月を気分よくとらえ、今夜は心も癒されているのだろう。清瀬の病院で療養していた昌治は石田波郷によって俳句に目覚め、のめりこんで行った。肺を病み、心臓を病んだ昌治には病中吟が多い。句集は二冊刊行しているし、俳句への造詣も深かったことは知られている。仲間と「口なし句会」を結成もした。「俳句は難解な小理屈をひねくりまわすよりも、下手でかまわない。楽しむことのほうが大事だ」と語っていた。掲句と同じ年の作に「柿食ふやすでに至福の余生かも」がある。波郷の梅雨の句に「梅雨の蝶妻来つつあるやもしれず」がある。第一句集『歳月』(1979)所収。(八木忠栄)

June 1962012

 船ゆきてしばらくは波梅雨の蝶

                           柴田美佐

出航する船を見送るシーンにカラフルなテープを投げ交わす光景は、いつ頃から始まったのかと調べてみると、1915年サンフランシスコで開催された万国博覧会に紙テープを出品した日本人から始まっていた。この頃既に布リポンがあったため大量に売れ残った色とりどりの紙テープを「船出のときの別れの握手に」と発案し、世界的な習慣になったという。行く人と残る人につながれたテープは、船出とともに確かな手応えとなって別れを演出する。陸を離れる心細さを奮い立たせるように、色とりどりのテープをまといながら船は行く。掲句にテープの存在は微塵もないが、船と陸の間に広がる波を見つめる作者の視界に入ってきた梅雨の蝶の色彩は、惜別に振り合った手のひらからこぼれたテープの切れ端のようにいつまでも波間に揺れる。〈啓蟄や木の影太き水の底〉〈小春日やこはれずに雲遠くまで〉『如月』(2012)所収。(土肥あき子)

June 1462014

 梅雨の花林にしろく野にしろし

                           水原秋桜子

先日、梅雨時の日差は白いですね、と言われなるほどと思った。曇っていても、本来は強い夏の太陽の存在が梅雨雲の向こう側に感じられる。そして、山法師、梔子、など木に咲く花から、群れて明るい十薬や雨に重たげな蛍袋など、白い花も目につく。自然の白は豊かで優しく、掲出句もそんな花の色の句のはずが、しろく、しろし、とひらがなで重ねると強く、どこか穏やかかならざりしの感があるなと思いながらいろいろ見ていると『秋櫻子俳句365日』(1990)に載っていた。六月の項の著者有働亨氏は、掲出句の前にある<人ふたりへだつ林や梅雨の蝶 >の前書「石田波郷君は東京療養所に、山田文男君は清瀬病院にあり」を引いて「(この重複した表現は)病弟子二人を思う秋櫻子の晴れやらぬ心の韻律」と述べている。そういう背景を思いながら読み返すと、作者の後姿とその目の前で無垢な白が濡れているのが見えてくる。句集『霜林』(1950)所収。(今井肖子)

July 0572014

 大日向あぢさゐ色を薄めけり

                           上野章子

日の当たる場所を、日向、ととらえるのは概ね冬だろう。ひなた、というやわらかい音は、強くて濃い夏の日差しの感じとはやや違う。さらに大日向となると、そこにある光はさほど強くはないが広々と遍くゆきわたっている。作者は、たくさんの紫陽花がこんもりとまさに咲きに咲いたり、という感のある場所に居て紫陽花を見ている。雨の日には水の色を湛えていた紫陽花はことごとくしおしおと少し悲しげに見え、そこにどこか白く湿った日があたっているのだ。その真夏とは違う日の色がまさに、大日向、なのだろう。虚子の六女である作者、その句柄は天真爛漫といわれるが自由でありながら本質をとらえ平明だ。<あるだけの団扇とびとび大机><浜茶屋の夏炉に軽い椅子寄せて><夏蝶の去り残る花色いろいろ>。『桜草』(1991)所収。(今井肖子)

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