https://fukujyoji.com/2018/02/post-186.html 【古人のあとを求めず 古人の求めたるを求めよ】 より
古人のあとを求めず 古人の求めたるを求めよ
今月の掲示板の言葉は、江戸時代に、俳句の元となった俳諧(はいかい)を発展させた松尾芭蕉の言葉です。芭蕉は、弘法大師の言葉を参考にしながら、この言葉を弟子の武士、森川許六(きょりく)に贈ったと伝えられています。文中にある古人(こじん)とは、過去の偉人というような意味です。「昔の偉人たちが、何をしたかという結果をまねるのではなく、何をなそうとしたかという志(こころざし)を見極めて行動しなさい」という意味でしょうか。
許六という名は、俳諧のみならず様々な活動に優れ、槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の六芸(りくげい)に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだといわれます。中でも絵画は、芭蕉が許六を師と仰ぐほどです。
ある時、芭蕉は尋ねます。「絵は何のために好むか」と。すると許六は「俳諧のために好む」と答えました。次に芭蕉が「俳諧は何のために愛するのか」と問うと、「絵のために愛する」といいます。芭蕉は「学ぶことが二種類あるのに、その学びの帰するところが一つなのは、感服すべきことではないだろうか。」と、どちらの世界でも本物に近づこうと志す許六を讃えて、「古人のあとを求めず 古人の求めたるを求めよ」という言葉を送ったのだそうです。
私は、この言葉の背景にある物語を知り、ふと考えました。例えば、「なぜ仏教に学ぶのか」ということも、「なぜ社会情勢に学ぶのか」も、「なぜ歴史に学ぶのか」も、「自己をあきらかにする」という点では一つではないかということです。一つの目指す地点が明らかになると、周りにある事柄も、別の登山口のように見えてくるのです。
「真宗を学ぶ者の姿勢は、現実と聖典の間に身を据えるということが大事なことだ。しかし、私たちは現実と聖典との間に寝そべっているのではないだろうか。間に身を据えるということは、真向かいになるということだ。聖典に真向かいになり、現実に真向かいになることだ。」
これは亡くなられた宮城顗先生が仰った言葉ですが、「現実と聖典との間に寝そべっている」と鋭く私の姿勢を言い当てられます。真向かいになることなく、ただ眺めているだけで、動かないということでしょう。真向かいになるならば、私を突き動かすものがあるのではないか、ということです。
学生の時、お世話になった先生が、「どんな仕事でも真剣にやろうとしたら、楽な仕事なんて世の中に一つもないんや」といわれていたことを思い起こしました。「これくらいやったから、もういいだろう」という姿勢を戒めたのが「古人のあとを求めず」ということでないでしょうか。どんなことでも、真向かいになるならば、自分の姿勢が問い返される。「古人」が求めた、真向かいになる姿勢。私は、今、どうであろうか。 (深草誓弥)平成30年2月
https://otaniichigon.blogspot.com/2013/08/blog-post.html 【古人の跡を求めず 古人の求めたるところを求めよ】 より
今週の一週一言
8月26日~9月1日
古人の跡を求めず 古人の求めたるところを求めよ
松尾 芭蕉
松尾芭蕉・・・寛永21年~元禄7年(1644~1694)江戸前期の俳人。伊賀の人。蕉風俳諧を確立。各地を旅して発句や紀行文を多く残した。旅先の大坂で病没。『野ざらし紀行』、『笈の小文』、『奥の細道』など。
【如是我聞】
「まねしぃごんぼ、ごんぼ食(く)て走れ」。
小学生くらいのとき、誰かまねをしたときには、必ずと言っていいほどこう言ってからかわれました。子どもの頃は、どうして「ごんぼ(ゴボウ)」を食って走らなあかんのかなんて考えもしないまま使っていました。今でもなぜ「ゴボウ」なのかはよくわかりませんが…。ただ、そこには誰かのまねをするのはあかんことだという思いがあったんでしょうね。
何かをしようとするとき、失敗はしたくないものです。いや、少なくともぼくはそうです。「失敗を恐れるな」とか「失敗は成功のもと」など周囲からはいろいろと言われますが、やっぱり失敗するのは嫌なものです。
「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」。松尾芭蕉は、弘法大師の言葉を参考にしながら、この言葉を弟子の許六(きょりく)に贈りました。「古人」とは、過去の偉人でしょうか。昔の偉人たちが、何をしたかという結果ではなく、何をしようとしたかという志(こころざし)を見極めて行動しなさいという意味でしょうか。俳諧や書道、文学や芸術においては、誰かのまねをすることはよくないことかもしれません。しかし、最初は自分が憧れる誰かのまねであってもいいと思います。たとえ物まねから始まったとしても、それをやり遂げようとする過程のなかで、自分が理想とするものが見えてくるはずです。許六もきっと芭蕉の物まねから俳諧を始めたのでしょうから。物まねや失敗したくないという足掻(あが)きのなかから、芭蕉翁が言うように、古人の志を見極められたらいいですね。それまでは「ごんぼ」を食いながら頑張りますか。
https://ameblo.jp/hospita/entry-10745063902.html 【「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」】より
松尾芭蕉の言葉
「古人の跡を求めず 古人の求めたるところを求めよ」
たぶん若いころから聞いたことのある言葉だと思うのですが、
以前は全くスルーだったこの言葉、今ではものすごくしっくりと腑に落ちます。
これは、芭蕉が彼の門弟であった森川許六に餞別として書いた辞で、もともとは弘法大師(空海)が述べた書道についての教えであり、それを芭蕉が引用し、俳諧の道に当てはめたもの。
先人の行った「結果」や「やり方」を求めるのではなく、その人がなぜそうしたのか、それによって何を求めようとしていたのか、どういった想いで、どんな志でそれをしていたのかー・・実際、そこが重要な部分であり、「やり方」はその過程で生まれてくるのだろうと思っています。
やり方の奥にある 「なぜそうしたのか」 という考え方、在り方、一度そこを真摯に求めてみる過程はとっても大事。
「温故知新」ってそういうことなのかなと思います
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