https://tsukinami.exblog.jp/30382254/ 【俳句のレトリック(1)】 より
一 レトリックとは
レトリックの語は、修辞学あるいは修辞法、修辞技法などと訳される。ことばのあやという意味で、文彩と呼ばれることもある。
ちょっとした言いまわし、文章表現上の小技にすぎないからというので、日本の詩歌ではレトリックを軽んじる傾向があった。これには近代以降の詩歌、特に俳句や短歌が、写生すなわち写実的描写を重視してきたことの影響もある。
俳句のレトリックをまなぶ前に、ごく簡単にレトリック学の全体像に触れておきたい。
伝統的なレトリックの語は、ヨーロッパで二千五百年の歴史を持ち、雄弁術、弁論術、説得術などと日本語に訳されて、体系化された学問領域を意味した。古代ギリシアの哲学者でプラトンの弟子であったアリストテレスの著書にも『弁論術』や『詩学』がある。
一般向け入門書たとえば瀬戸賢一著『日本語のレトリック』(岩波ジュニア新書)などによれば、古典的なレトリックは、三つの分野と五つの技術部門で編成されていた。
《分野》 《技術部門》
思考 ――― 発想、配置
言語 ――― 修辞
実演 ――― 記憶、発表
右の全体像のうち言語分野の「修辞(文体)」部門が文章表現におけるレトリックである。修辞すなわち効果的な言葉の運用によって、読者から共感を得るための技、テクニックといってよい。
詩歌のレトリックもまた、単に言葉のあや、表面的な装飾という程度のものではなく、作者の意図を正しく読者へ伝えようとする、詩的内容に深くかかわる技術の体系なのである。現代の詩歌はレトリックの本来有する〝説得術〟としての役割をもっと尊重するべきだろう。読者からの共感なくして文学は成り立たないのだから。
本稿では俳句のレトリックについて、適宜、実例(作品)をあげながら検証したい。
俳句の修辞に、意味のレトリック、形状のレトリック、構成のレトリックの三種があると措定し、まずは、意味のレトリックから始めよう。
二 意味のレトリック
① 直喩(シミリーsimile、明喩)
類似性を直接的に示す比喩のこと。日常会話でも「花のような美しさ」などと用いられる。
直喩の句は「~の如く」「~のやうに」「~に似て」とわかりやすい言葉で詠まれることが多い。口語句なら「~みたいに」も使えるだろう。
向日葵の蘂焼かれたる地図のごと 今井 聖
花びらのやうに公魚釣られけり 山田弘子
山姥と夏蚕のかほと相似たり 黒田杏子
しかし比喩が露骨、明白すぎることを嫌って直接的な言葉を隠したやり方がある。
栄螺にもふんどしがありほろ苦し 津田清子
摩天楼より新緑がパセリほど 鷹羽狩行
浅蜊掘るうしろ姿は原始人 名村早智子
穴惑ばらの刺繍を身につけて 田中裕明
これらの句は、厳密には次項のメタファー(隠喩)に分類されるべきかもしれない。また、次の二句の場合も「~のやうに」や類似の言葉である「たとへば~」で直喩らしい形を整えた句でありながら、単純、直接的な見立てとはいえない。
死ぬときは箸置くやうに草の花 小川軽舟
たましひのたとへば秋のほたる哉 飯田蛇笏
② 隠喩(メタファーmetaphor、暗喩)
メタファーとは、未知なるものを別の既知なるものに置き換えて表現する比喩のこと。典型的には、抽象的なものをわかりやすく具象的なものに見立てる技法といえる。
戦前いわゆる「新興俳句」弾圧事件で特高に検挙された俳人がこんな反戦句を詠んでいる。
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉
一方、徴兵制と縁のない平成の俳人は、平和な日常にひそむ暗部をこんな措辞で抉ってみせた。
人類に空爆のある雑煮かな 関 悦史
昭和三十年代に前衛俳句が盛んになった頃から、メタファーの語も注目されるようになった。
彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太
骸骨が舐め合う秋も名残かな 永田耕衣
擦過の一人記憶も雨の品川駅 鈴木六林男
うしろ手に閉めし障子の内と外 中村苑子
抽象(概念や心情)を具象(目に見える物)で表現するという定義に限ってみれば、メタファーとは近代俳句における写生なのかもしれない。
柩の中は蝶の乱舞であるだらう 今井 豊
幻聴も吾がいのちなり冬の蝶 中岡毅雄
(俳誌「いぶき」2020年2月発行、季刊第7号掲載)
https://tsukinami.exblog.jp/30382255/ 【俳句のレトリック(2)】
二 意味のレトリック(続き)
③ 擬人法(パーソニフィケーションpersonification)
あらゆる人でないものの現象を人の行為や姿に見立てる技法のこと。人でないものとは動植物のみならず時候、天文、地理、生活にまで及ぶ。
たてよこに富士伸びてゐる夏野かな 桂 信子
自然を大づかみして、それでいてしなやか。
車にも仰臥という死春の月 高野ムツオ
ひっくり返った自動車の姿は平成二十三年三月東北の震災の象徴である。現代かな表記の句。
擬人化はわかりやすさ、説得のしやすさという意味で修辞法の代表選手といえる。とはいえ、安易に用い過ぎると底の浅い作為を露呈しかねないから、とくに初学者は心して使いたい。
冬菊のまとふはおのがひかりのみ 水原秋櫻子
鉄塔のふんばつてゐる大刈田 塩川雄三
④ 共感覚法(シネスシージアsynesthesia)
ある一つの刺激を受けて、五感のうち複数の感覚が同時に生まれる現象を「共感覚」と呼ぶ。
あんがい日常でも頻繁に用いられる技法で、たとえば「音が大きい」は聴覚と視覚、「なめらかな味」は触覚と味覚、そんな二つの感覚を同時に反応させた共感覚法による修辞といえる。
麦飯は日暮れの匂い私雨 塩野谷 仁
私雨すなわち局地的な降雨が、嗅覚と視覚とを呼び覚まし、懐旧の情に訴えかける。
静かにもとろりと灯る切子かな 鈴木花蓑
この切子は盆灯籠の一種である切籠灯籠のことだろう。触覚の「とろり」が視覚に流れ込む。
美しき緑走れり夏料理 星野立子
この緑は何だろうか。料理の胡瓜や紫蘇やオクラ、鮎をのせた笹の葉。舌の上に走る新鮮な味。肌に触れる風のそよぎ。川床から見える山の緑。せせらぎの音や老鶯の鳴き声までもが聞こえてくる。これほど五感に訴えかける句は珍しい。
やはらかき母にぶつかる蚊帳の中 今井 聖
指揮棒の先より生るる音ぬくし 稲畑廣太郎
見えさうな金木犀の香なりけり 津川絵理子
三 形状のレトリック
⑤ 対句法(アンティセシスantithesis、対比)
日本詩歌のレトリックはおおむね漢詩(中国古典詩)の影響を受けている。たとえば、盛唐の詩人である杜甫の五言律詩『春望』の冒頭部分が、対句の例としてわかりやすい。
国破山河在 ~ 国破れて 山河在り
城春草木深 ~ 城春にして 草木深し
八句構成である律詩の通常ルールから外れているけれども、第一句と第二句が対を成している。この対称の妙は敗戦後の日本人の心を強く打った。
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
右の眼に大河左の眼に騎兵 西東三鬼
水あれば飲み敵あれば射ち戦死せり 鈴木六林男
切株があり愚直の斧があり 佐藤鬼房
しぐるゝや駅に西口東口 安住 敦
一月の川一月の谷の中 飯田龍太
昼は日を夜は月をあげ大花野 鷹羽狩行
いつかふたりいづれひとりで見る櫻 黒田杏子
右手に消え左手に点る大文字 名村早智子
人を焼くにほひと繭を煮るにほひ 今井 豊
⑥ 反復法(リピティションrepetition、リフレインrefrain)
反復法とは同じ語句の連続、繰り返しのこと。詩歌ではこれをリフレインと呼ぶ。
あなたなる夜雨の葛のあなたかな 芝 不器男
遠く彼方にあるものへの尽きない思い。
つばめつばめ泥が好きなる燕かな 細見綾子
十七音しかない俳句に「つばめ」の語を三度登場させた。それでいて決して浪費ではない。
花に問へ奥千本の花に問へ 黒田杏子
桜の名所、吉野の花はエリアごとに下千本、中千本、上千本そして奥千本と呼ばれる。リフレインの場合、意味を強調し印象を深めるよりも、リズムを高めたり調べを滑らかにする効果のほうが大きいのかもしれない。
すこし読みすこしねむりぬ春の霜 中岡毅雄
病後の療養中の作だろうか。「すこし」が二度あらわれて、傷つきやすい現代人の心をやさしく包み込む。対句の形状でもある。
あじさゐの毬あつまりて毬をなす 鷹羽狩行
一年生一年生を呼びに来る 名村早智子
次の世もまた次の世も黒揚羽 今井 豊
(俳誌「いぶき」2020年5月発行、季刊第8号掲載)
https://kota2009.hatenablog.com/entry/2023/09/11/180000 【桜のレトリック】より
名著と呼ばれる本はたくさんありどれを一番ということはできないけれども、『レトリック感覚 (講談社学術文庫)』は間違いなく名著の一つに挙がるだろう。この中で、有限の言葉で無限の事象を表現することはできず、私たちの感じたことをできるだけありのままに表現するためにレトリック技術が必要だ、述べている点が素晴らしい。
レトリックが技術であるなら、他人の技術を盗むこともできる。この本を読んでから、本を読んだ際にそこで使われているレトリックを盗むようにしている。
例えば、桜の花に関するレトリックで有名なのは、梶井基次郎の「櫻の樹の下には」だ。満開の桜の花を見た時の迫力のある見事さを表現するレトリックである。
桜の樹の下には屍体したいが埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
『あの家に暮らす四人の女 (三浦しおん)』を読んでいて、桜の花に関するレトリックを見つけた。
桜の枝さきで、ふくらみきった蕾がポップコーンのようにひとつふたつ弾けた。
そのあたりの桜の密度といったら、霞を通り越して、薄ピンクの積乱雲のようだった。
桜をポップコーンや積乱雲に例える意外性にうれしくなる。また、枝さきで花が咲く様はポップコーンのようだというのも私の肌感覚に合う。積乱雲の方は、小さな花がモリモリと集まる様子をよく表しているが、夏の積乱雲で例えるのは季節的に外れている気もするが、気温の高い日には是非使ってみたい気もする。
レトリックなんて使わず単に「桜の花」と言えば通じるけれど、自分の見た印象を表現するには、「死体が埋まっている」「ポップコーンのようだ」「積乱雲のようだ」などと、言いたくなるし、自分の印象に近い言葉を探したくなる。自分でレトリックを発明するのは難しいので、本を読んだ際にレトリックを集めるようにしている。
https://tsukinami.exblog.jp/30382257/ 【俳句のレトリック(3)】
三 形状のレトリック(続き)
⑦ 倒置法(インヴァージョンinversion)
文法的に正常、ふつうと考えられる語順を逆転させ、関心のありどころを明示する技法。たとえば、日常会話でも「怪しいな、雲行きが」と言って、後ろへ送った言葉に重心を置くことがある。
放心をくるむ毛布の一枚に 山田弘子
平成七年一月神戸で震災が発生した直後、被災者の茫然自失の姿を描く。現場に立ち会った俳人は、それ以上言葉を発することができなかった。
季節感が十七音の中で埋没してしまわないように、季語を上五または下五に取り出すことはあるし、逆に、さりげなく中七に配して目立たなくする方法もある。
鷹渡る白灯台を起点とし 栗田やすし 渥美半島の南端、伊良湖岬で見る鷹の渡り。
漕ぎいづる螢散華のただ中に 黒田杏子 四万十川を下ってゆく船から見た光景らしい。
翁に問ふプルトニウムは花なるやと 小澤 實
⑧ オトマトペ(声喩onomatopoeia)
創造的な音韻表現を用いた技法のこと。その代表格が擬態語あるいは擬音語、擬声語である。
押韻をオノマトペに含める考え方もあるが、ふつう別個に扱われるため次項でとりあげる。
天地の間をほろと時雨かな 高濱虚子
水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
鳥わたるこきこきこきと罐切れば 秋元不死男
乗鞍の諸嶽ずつぷり霧浸し 山口誓子
雪の水車ごつとんことりもう止むか 大野林火
チチポポと鼓打たうよ花月夜 松本たかし
これらの秀句を眺めていると、俗語の果たしてきた役割の大きさに気づく。オノマトペは万葉古歌の時代からつづく言葉遊びだけれども、ただの遊びじゃない。詩語に昇華された音の遊びである。
学僧のむんずと摑む蛇のかほ 今井 豊
昔は大人も子供も素手で蛇を捕まえた。修業僧ならば、庭の魔物ごときに怯えていてはいけない。
とととととととととと脈アマリリス 中岡毅雄
平仮名の「と」ばかり連続して十個縦に並んでいる。読み手は言いようのない不安に襲われる。侘び、寂びや滑稽だけが俳句じゃない。
⑨ 押韻(ライムrhyme,頭韻、脚韻)
漢詩に〈同じ韻の文字を定位置(ふつう偶数句の句末)で用いなければならない〉という規則がある。この「韻」をあえて俳句で説明してみる。
孑孒に生まれ棒振るほかはなし 名村早智子
右の句では上五のボーフラ、中七のボーの語頭のボーが同じ音であるが、分解してみると子音Bを除いた母音Oが同じ響き(オー)を持っている。このように同じ母音の響きをもつ別の漢字(右の例でいうと、孑と棒)を句末に配置して対比させることを漢詩の世界で「韻を踏む」といった。
俳句の押韻(頭韻、脚韻)は、そのような漢詩の押韻(脚韻)を応用したものである。同一あるいは類似の音(漢詩と違い、子音を含む。右の句でいえばボの音)を持つ文字を上五・中七・下五の複数の句頭または句尾(まれには中途)に配置し、リズム効果を高める。遊びの要素もある。
目のなかに芒原あり森賀まり 田中裕明
みづうみのみなとのなつのみじかけれ 同
脚韻と頭韻の例。前句では下五に愛妻の氏名を詠み込み、駄洒落から脱している。後句では上・中・下の句頭に同じ韻のミを配して心地よい。
⑩ 省略法(エリプシスellipsis、切れ、体言止め)
省略法とは文脈上容易に復元できそうな語句を省略し、余韻ある表現を生み出す技法のこと。
大根引臀を濡らして帰りけり 国光六四三
勢い余って尻餅をついた農作業の場面を省いてみた。類想のある句かもしれないが。
天皇の白髪にこそ夏の月 宇多喜代子
戦後憲法下における天皇のあるべき姿と非戦の誓いとを模索し続けた、前天皇の意志と行動。白髪はそのシンボルであり、これも広義の省略法。
まだもののかたちに雪の積もりをり 片山由美子
雪は降り始めたばかり。日常から非日常へ。
また「切れ」も俳句における省略法の一典型。長い和歌・俳諧の歴史の中で、具体的な道具として、切字や句末の体言止めなどが編み出された。
よろけ来て仮寝をかはる蚕飼かな 皆吉爽雨
蚕小屋で寝ずの番を交代するとき、次の人が寝ぼけたまま、よろけるようにやってきた。
東山回して鉾を回しけり 後藤比奈夫
流氷の渾身の白ふぶきけり 中岡毅雄
短夜の赤子よもつともつと泣け 宇多喜代子
(俳誌「いぶき」2020年8月発行、季刊第9号掲載)
Facebook永田 満徳さん投稿記事
くまもと・歴史館友の会機関誌 「湧水」第31号(2024年1月20日発行)
俳句のレトリックとは何か
~漱石俳句と『肥後の城』のレトリック~ 「火神」主宰 俳句大学学長 永田満徳
【抜粋】
[第一章]漱石の俳句観
明治30年2月の〔子規へ送りたる句稿二十三〕(『漱石全集』第17巻・岩波書店)をみると、「俳句のレトリック」をこれでもかこれでもかと使っている。番号は掲載順で、私が都合のいいように、「俳句のレトリック」を使った句だけを抜き出した訳ではないことを断っておく。
1066 ○○ 人に死し鶴に生れて冴返る 空想
1067 隻手(せきしゅ)此比(ひ)良目(らめ)生捕る汐干よな 見立て
1068 恐らくば東風(こち)に風ひくべき薄着
1069 ○○ 寒山か拾得か蜂に螫(さ)されしは 連想
1070 ○○ ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり 比喩
1071 ○○ 落ちさまに虻を伏せたる椿哉(かな) 擬人化
1072 貪りて鶯続け様に鳴く 擬人化
1073 ○ のら猫の山寺に来て恋をしつ 擬人化
1074 ○○ ぶつぶつと大な田螺(たにし)の不平哉 オノマトペ・擬人化
子規の添削・評は句頭の○である。子規が漱石の句を高く評価しているのはいずれも「俳句のレトリック」を用いた「空想」「連想」「比喩」「擬人化」「オノマトペ」である。子規は子規で、夏目漱石の俳句の特色、あるいは魅力が「俳句のレトリック」の応用にあることを的確に掴んでいるのである。ここに漱石の俳句を「活動」と評した所以があると言わなければならない。
[第ニ章]漱石俳句のレトリック
夏目漱石の熊本時代の千句余りの俳句を調べてみて分かったことは、「写生」「季語」「取り合せ」「省略」という俳句の基本的なレトリックはむろんのこと、「デフォルメ」「連想」「擬人化」「同化」などに及び、あらゆる「俳句のレトリック」を使っていることである。
その際に参考にしたのは、漱石俳句に対して門下生と呼ばれる寺田寅彦・松根豊次郎・小宮豊隆が標語している「漱石俳句研究」(一九二五年七月、岩波書店)である。
比喩=あるものを別のものに喩える
日当りや熟柿の如き心地あり 漱石
熟柿になつた事でもあるような心持のある所が面白い(小宮蓬里雨)
擬人化=人間でないものを人間に擬える
叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな 漱石
此処では木魚を或意味で人格化している(蓬里雨)
連想=季語の内包する美的イメージを表す
寒山か拾得か蜂に螫されしは 漱石
絵の表情から蜂に螫されたといふ架空の事実を連想した。(寺田寅日子)
空想=現実にありそうにもないことを想像する
無人島の天子とならば涼しかろ 漱石
思ひ切つた空想を描いた句。(寅日子)
デフォルメ=対象を強調する
夕立や犇く市の十萬家 漱石
十萬家といふ言ひ現はし方かの白髪三千丈の様ないささか誇大な形容(松根東洋城)
オノマトペ=音や声、動作などを音声化して示す 擬音語、擬声語、擬態語の3種類
ぶつぶつと大いなる田螺の不平かな 漱石 大いなる→大な 〔句稿二十三〕
先生の所謂修辞法の高頂点を示す(寅日子)
このように、私のみならず、漱石の門下生がどう標語しているかを例示することによって、漱石がどれだけ「俳句のレトリック」に習熟していたかということを示しておきたい。
[第四章]俳句のレトリックの可能性
「俳句のレトリック」に対する評価は必ずしも肯定意見ばかりではない。俳句に限らず、レトリックは一般的に評判が悪い。表現上の小技にすぎないと軽んじ、遠ざける傾向がある。特に俳句においては、古くは松尾芭蕉が高山伝右衛門宛ての書簡で作句五か条の一つとして「一句細工に仕立て候事、不用に候事(細工をしないこと)。」を記し、近年は高浜虚子の客観写生、すなわち写実的描写を重視してきたことの影響もあるのだろう。見たままをそのまま句にするのが写生であるから、当然と言えば当然である。確かに、オノマトペを含むレトリックは、例えば、擬人化の発想というのは、どうしても似たり寄ったりになりがちで、ありふれた発想、表現になることが多く、月並みに陥りやすいという欠点がある。擬人法を安易に使うと、気取った作意が透けて見え、陳腐で、薄っぺらな句になってしまうものである。
しかし、金子兜太は俳句という定型の音律形式がオノマトペを使いこなすのに格好のものであると述べている。また、漱石の「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」という言葉に触発されて俳句を始めた首藤基澄は句集『魄飛(はこび)雨(あめ)』(北溟社)の「あとがき」において、「片仮名語・擬音(態)語・方言・俗語・仮構・片言など、現在(いま)を生きる一人の人間の世界を少しでも浮かび上がらせるものであれば、それはそれでいいのではないか。」と言い、俳句表現の幅を広げるためには擬音(態)語・仮構も必要との考えをしている。
「俳句のレトリック」は言葉の力を最大限に引き出すための表現手法として重要な役割を果たす。レトリックは俳句という短詩型にとって有効な表現手段である。俳句は究極的には「レトリック」の固まりと言ってよい。作者の意図、感動を正しく読者に伝え、共感を得るために、もっと積極的に取り入れてよいのではないか。
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