漂泊定住との民俗学

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http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~thb0309/IbunkaRikai/Nomade.pdf 【漂泊定住との民俗学】より

(これは、2002 年にモンゴルで行われた国際アジア民俗学会で行った報告の要約です)

1. ノマド(漂泊)とは、なにか?

ノマド(nomad)を手近な英語の辞書でひくと「遊牧の民、放浪者」とあります。語源は、ギリシャ語の nomas ( nemein+as )だそうで、nemein の意味は「割り当てる」ですから、「割り当てられた所をさまよう」つまり「牧草地をさまよう」ことを意味するようです。

日本の文化人類学者の西田正規によれば、ノマドすなわち遊動生活の伝統は「人類が人類となるはるか以前から、実に数千万年の歴史を持っていることになる」そうです。人類が、定住生活をはじめたのは、今からおよそ1万年前であり、長い人類史の尺度からすれば一瞬のことにすぎません。

人類がなぜ定住を始めたかについては、一般には「先史学の立場から、晩氷期から後氷期にかけての気候変動期に、多角的経済活動や食料生産の開始によって経済的能力が向上し、それによって定住生活が実現した」と説明されてきました。

しかし西田は、人類にはきわめて長い遊動生活のなかで培われた肉体的、心理的、社会的能力や行動様式が身についていたわけですから「定住生活は、むしろ遊動生活を維持することが破綻した結果として出現した」と考えます。

中緯度森林の定住民というのは、たとえば日本の縄文遺跡などに見られる<狩猟や漁労と栗や栃の実などの採集を組み合わせた共同体の定住生活>などを考えればよいでしょう。

西田は、人類の歴史にとって決定的であったのは、約一万年前におこった<遊動生活と定住生活の分岐>であって、主として農耕の出現によって説明される<採集経済か食料生産経済かの分岐>ではない、と考えるのです。

氷河期が終わって訪れた気候変動によって、温暖な気候の中緯度森林地帯に残された日本人の祖先たちが、やむなく定住をはじめたのに対して、高緯度のステップ地帯に生活の基礎をもったモンゴル人たちは遊動生活を維持したのです。

西田の提起するこの仮説は、氷河期の終わりとともに幾つかの島に閉じこめられて、定住生活をはじめ、いまから2500年ほど前から稲作が急速に普及して農耕民中心の社会を形成することになった日本人にとっては、刺激的です。

というのは、日本の人文科学研究は、日本が稲作を中心とした定住的な社会であることを前提として、社会の仕組みやものの考え方を説明することが多く、人が本来もっているはずの遊動民的な肉体的、心理的、社会的能力や行動様式を切り捨ててしまうことが少なくないからです。その傾向は、とくに日本の民俗学につよいと思われます。

そこで、私は、今回のお話を通じて、日本の社会のなかにみられるノマド的な要素とその役割について、紹介してみたいと思います。

2.日本民俗学の「漂泊」論

日本の民俗学は、日本の文化の基層に農耕を中心とした定住的な村落共同体の社会をおき、その中心に定住民である「常民」というモデルをすえて研究をすすめてきました。ですから、漂白(ノマド)の問題を扱うことは、たいへん苦手です。

しかし、周知のように、日本民俗学の創始者である柳田國男の初期の仕事には、しばしばこの問題への言及がみられます。

たとえば、『遠野物語』のなかには、「山人」と呼ばれる山の民がしばしば登場します。彼らは、定住民である里人の恐れと憧れの対象で、昔話や伝説の重要な登場人物です。

定住的な生活を営む稲作の民には、一方において、何世代にもわたって共同体を維持し、土地を守り、国の生産活動の中心を担ってきたという誇りがあります。

しかし、その一方で、村共同体という狭い空間に閉じ込められて身動きのとれない農民にとっては、共同体の外の「広い世間」を渡り歩く漂白の民は、自分たちの持っていない物をもたらす交易の民であり、知識や経験や宝をもった「不思議な人たち」でもありました。

初期の柳田國男は、ノマドのもつ異質な視点を定住者の世界に取り入れることによって、閉ざされた定住者の世界観を開こうとした節があります。

そこで、柳田國男のいう漂泊者を、柳田のすぐれた研究者である鶴見和子の見解を参考にしながら、具体的にいくつかのタイプに分類してみましょう。

(1) 山人

柳田國男が『遠野物語』その他の研究で対象とした「山人」は、西田正規のいう「中緯度森林の定住民」の系譜につらなるといってよいかもしれません。彼らは、稲作農耕を行うことはありませんが、栃や椎などの山の幸を十分に利用し、山の木や、蔦・竹などを使って道具を作る職人の業を身につけたともいえるでしょう。いずれにせよ、これらの山にすむ人々は、稲作農耕の進展とともに周縁においやられ、再度定住をすてて漂泊する道を選んだのではないかと思われます。

(2) 海人

山の漂泊者に対して、海の漂泊者も少なくありませんでした。海洋民俗の研究者、北見俊夫によれば、日本の海人の系譜は、韓国・中国・東南アジアにつらなるものです。たとえば、伊勢や千葉の白浜の海女は、男が船をあやつり、女が海にもぐるのですが、これは韓国の済州島と共通する伝統です。かつての長崎、五島、壱岐、対馬や瀬戸内海には「家船(えぶね)」と呼ばれる海上漂泊民が存在しました。彼らは、陸上に一片の土地ももたず、海上に暮らし、とった魚と農作物を交換して暮らしをたてていました。

(3) 職人

日本の社会には、昔から専門の職業を身につけた職人集団の伝統がみられます。とくに近世になって成立した都市には、その消費を支えるために多くの職人が定住しました。しかし、その一方で、鋳物師、木地師のように、簡単な道具を携えて全国をわたり歩く漂泊の職人も存在しました。また、夏の間は農業を営みながら、冬の農閑期には、屋根ふき職人や杜氏(酒造り職人)として働く出稼ぎの職人もいます。

(4) 商人

職人だけでなく、商人たちも多く旅をしました。つい最近まで、日本各地の得意先をまわって薬を売り歩いていた富山の薬の行商は、その典型です。漂泊の職人たちも、その製品である椀や鍋・釜や籠などを売り歩きました。馬の取引をする博労もまた旅する商人の典型です。行商には、女性が多く「販女(ひさぎめ)」とも呼ばれました。漁師の妻は、夫の獲った肴を、かついで町から町へと売り歩きました。また、京都の町で大原の柴を売り歩く大原女(おはらめ)も、よく知られています。

(5) 芸能民

昔は、テレビやラジオがあったわけではありませんから、三味線や琵琶のような楽器をもって村々を訪れる瞽女(ごぜ)や琵琶法師、曲芸の太神楽(だいかぐら)や猿回し、旅芝居の一座などは、たいへん貴重な存在でした。芸能をたずさえた人々が、村を訪れると大変歓迎されました。

(6) 馬借・車借・船頭など運送にたずさわる者

中世から近世にかけて、陸路の商品流通に大きな役割をになった者に馬借(ばしゃく)・車借(しゃしゃく)があります。彼らは、とくに中世の終わりに一揆をおこし、当時の政治に大きな影響をまきおこすほどの力を有していました。その一方で、山の多い日本では、海や川も大切な商品の流通経路となっていました。馬借や車借の多くは、川や海から運び込まれる商品を港で待ち受け、奈良や京都といった大消費地に送ることを業務としていたのです。

(7) 信仰の伝播者

日本の社会には、仏教や神道という既成の宗教の枠におさまりきらない「聖(ひじり)」「比丘尼(びくに)」「歩き巫女(みこ)」「山伏(やまぶし)」「六部(ろくぶ)」などという旅する漂泊の宗教者が、存在しました。彼らは、民衆のあいだに信仰を広めたり、寺をたてたり、橋をかけたり重要な役割を果たす一方で、あやしげな祈祷や護符の販売によって金を騙し取る「いかがわしい人々」とも見られていました。

(8) 巡礼

宗教的な漂泊には、巡礼という「一時的な漂泊」もあります。日本には、伊勢神宮、熊野神社、四国八十八ヶ所、金毘羅神社など、有名な巡礼地があり、多くの巡礼者をあつめました。巡礼は、定住生活と明確に決別し、白い死の装束を身につけて漂泊の印を身にまといます。また、これを迎える村人たちも「接待」などといって特別のご馳走を用意し歓待しました。

(9) 職業的な旅人

巡礼にかぎらず、日本には旅人を歓待する民俗がみられます。とくに、芭蕉に代表されるような近世の文人たちは、旅の先々で弟子たちの迎えを受けました。芭蕉にかぎらず、文人や絵師が、旅先で名望家の家に長逗留することもあります。これは、俳句や絵画、書などという特別な能力を発揮する芸人・職人に対する歓待と共通すると考えてもよいかもしれません。

日本の伝統的な社会に見られる「ノマド=漂泊者」は、以上のように多岐にわたりますが、そこに共通するのは、定住民からみる「畏怖と賤視」であり、ノマドのもたらす情報や商品に対する憧れです。定住民にとっては、漂泊者はつねに「異邦人=ストレンジャー」であり、自分たちとは異なった「異人」です。

日本民俗学は、こうした「定住民の異人観」を日本人の固有信仰=来訪神信仰とむすびつけて考えようとしました。

共同体のなかに住む定住民は、外側の世界からやってくる神を待ち望みます。神は、職人の技能、情報、山伏の不思議な力、芸能民の芸のような、共同体内部には存在しない「不思議な力や富」をたずさえて、外側からやってくるのです。

たとえば、年のはじめの正月には、トシ神が「稲を実らせる力」を携えて村の家々を訪れます。神棚に神をお迎えすると、村人は神にご馳走を供え、一緒に食べ、楽しいときをすごします。

そして2週間ばかりすると、人々は神棚に供えたものをすべて燃し、神はその煙にのって、神の国に帰っていきます。神は、ちょうど旅人のように、村に長逗留することはないのです。季節ごとに村(共同体)を訪れ、村人と交歓し、プレゼントをおいて帰っていくのです。

こうした「来訪神」は、漂泊の旅人と重ねあわせてイメージされ、歓待されたり恐れられたりしたのです。

3.フランス民俗学におけるノマド

さて、それでは日本と同じく中緯度森林地帯にとりのこされ、定住化したフランスの場合は、どうでしょうか。

フランスの民俗学のなかで、柳田國男のような「来訪神論」を展開した人はいませんが、私は、やはり同じような図式で解けると考えます。

フランスもには、日本と違って牧畜の伝統と文化がありますが、それは「遊牧」ではなく「移牧( transhumance )」です。それも大きく考えれば、定住の民俗と考えてよいと思います。

それでは、フランスのなかで「漂泊者」と考えられるのは、どのような人々でしょうか?そこには、当然、商人や職人、芸能民、巡礼、宗教者などがあるでしょう。しかし、問題を単純化するために「ロマ」あるいは「ジプシー」の例をとりあげてみたいと思います。

ロマは、インド起源と考えられ、15世紀にヨーロッパに出現したと考えられています。1427 年に書かれた『パリ一市民の日記』には、12 人のロマがパリに到着し、「たいていの男たちは両耳たぶに穴をあけ,銀のイアリングをつけているが,顔色は黒く,頭髪は縮れている。(……)女たちは手相を見たり,占いをしたりするが,そのほかに魔術を使って人々の財布を巧みにからにしてしまうことがある」と記されています。

その印象は、ほとんど現在もかわりありません。

ロマは、ヨーロッパ各地に根拠地をもちながら、現在も漂泊の生活を続けています。彼らの職業はさまざまですが、鍋やフライパンをつくる鋳掛け屋、籠や篩やゆりかご等をつくる指物職人、それを売り歩く行商人、時には馬の売買もし、サーカスや芸能活動もします。手相をみたり、占いをする霊能者の役割もはたします。

印象は、まったく違いますが、日本の漂泊者の場合と共通する要素が多いのにおどろきます。

フランスにおいても「ノマド=漂泊者」は、定住民にとっての恐れと憧れの対象であり、つねに「異邦人=ストレンジャー」であり、自分たちとは異なった「異人」なのです。

私は、フランスを始めとするヨーロッパにも、「来訪神」の信仰があり、異人歓待の習慣があると考えています。

たとえば、ヨーロッパ各地のカーニヴァルでは、仮面をかぶった不思議な存在が町を訪れて、町の人たちの大歓迎をうけます。その歓迎のかわりに「仮面の異人」がもたらすのは「春の訪れ」と「祝福」なのです。彼らは、穀物の豊な実りや家畜の成長を約束して、外側の世界に帰っていくのです。

この意味では、日本やフランスのような「中緯度森林の定住民」の民俗は共通の構造を有していると言えるかもしれません。

4.国境を越える人たち(ノマド)の民俗学

さて、以上のような共通の構造を見出したうえで、もう一歩さきに進んでみたいと思います。ここで、もういちど「ノマドとはなにか」を整理してみたいと思います。私の考えでは、ノマドの問題は大きく二つに分けることができます。一つは、定住民から見たノマドです。

この問題は、私がここで日本とフランスの民俗学を例にして考えてみた通り、定住と漂泊という二項対立という視点で民俗学の側からさまざまに論じられてきた経緯があります。

もう一つは、ノマドのもつ多様性の問題です。

本論の最初にしめしたように、ノマドはまず遊牧を意味します。その遊牧には、さまざまのものがあるでしょう。モンゴルのような羊や馬やラクダを中心にした遊牧から、シベリアのトナカイ中心の遊牧、北アフリカの砂漠のラクダの遊牧、東アフリカの牛の遊牧など、きわめて多様です。

しかし、定住と漂泊という対立をここに導入しながら考えると、魚を追って海を旅する海の遊牧民(ノマド)の存在も忘れることはできません。日本の社会にも、かつて家船に居をかまえた多くの海民が存在しました。

これらの人々の生活は、主として文化人類学の研究者たちによって、実態が明らかにされてきたと思います。

私は、日本やフランスの民俗学が、ロマの人々や「山人」のような人々が、定住社会の周縁にすみ、とかく閉ざされがちな定住共同体同士を「商品や技術や芸能や情報の交換」によって繋ぐ役割を記述し、研究対象としてきたことには意義があると思います。しかし、そこには大きな限界がありました。それは、定住や共同体の閉鎖性、さらには国家や国境の自明性を前提としたことだと思います。

ご存知の通り、民俗学というのは、日本でもヨーロッパでも、19 世紀に誕生した新しい学問です。それは、近代の国民国家の成立とともに生まれたために、国境に囲い込まれた

民族や国民のアイデンティティ探しに熱心にならざるをえなかったのです。ところが、ノマドには、本来国境はありません。たとえば、日本の海民にとって、国境などというものは、後から勝手にできあがったものであり、海の社会の掟や民族間の共同作業、交換の慣習などは、国家によって縛られるはずのものではなかったと思います。

もちろん、海には海の掟があるように、陸には陸の掟があり、海民は停泊地を変えるたびに「郷に入っては、郷に従え」というわけで、行動の様式を使い分けていたはずであり、それが海民の知恵であったはずです。

しかし、近代の社会制度、とくに大学や学校の教育・研究制度は、「国家」という近代社会の幻想に縛られ、意識的に、あるいは無意識的に、国家や共同体の枠組みに入らないものを排除してきたと思います。

日本や、フランスの学会では、ようやくこうした近代的な学問の枠組み(パラダイム)に対する反省が始まっています。たとえば、歴史学の領域では、従来の国家の歴史(=国史)の研究の枠組みをはずれて、「アジアの中の日本」を考える歴史学が育ってきました。

民俗学の領域では、従来の日本民俗学の枠組みを越えた「アジアの民俗学」などがその好例となるのでしょう。そこでの研究の大きな手がかりとなるのが、ノマドの交易ネットワークで繋がれた山や海の広がりであろうと思われます。

私は、今回のシンポジウムが「ノマドの研究」を大きなテーマ掲げたことに、たいへん期待しています。

参考文献:『定住革命 ― 遊動と定住の人類史』(西田正規著 新曜社 1986/12 刊) 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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