https://www.rekishinoshinzui.com/entry/2019/05/04/192836 【明智光秀の裏切り方は、足利尊氏の裏切り方に似ている。】 より
明智光秀の本能寺の変の経緯は、足利尊氏の六波羅討伐の流れに似ている。
●明智光秀、本能寺の変までの経緯。
・明智光秀、安土城にて徳川家康来訪のための接待。
・その途中に、織田信長は、明智光秀に中国の毛利輝元討伐の命令を下す。
明智光秀は本拠坂本城に戻り、軍備を整え、出陣する。
・まずは、明智光秀もう一つの所領である、丹波亀山城へ移動する。
この移動中、いまの京都市の北方、愛宕山で宿泊、ここで、有名な連歌の会を開く。
(明智光秀が詠んだのは、「ときは今 あめが下しる 五月かな」)
・坂本から京都を越えて、丹波亀山城に至る。
明智光秀の所領、坂本と丹波亀山の間に挟まれる位置に京都がある。織田信長からの信頼の度合いが窺える。
・この間、織田信長は、京都の本能寺に入る。
・京都の北西にある丹波亀山。中国討伐に向かうには、西に向かう。
京都に背を向けた形になった明智光秀。
これが、南東に方向を向けて京都に移動する。
・織田軍主力は、当時各敵対勢力の最前線に集中していて、織田勢力の中心地、京、安土、岐阜、尾張に兵力はなかった。
・13000とも言われる、明智光秀の軍勢は、京に行軍。
そのまま本能寺を囲み、織田信長を自刃させる。
●足利尊氏、六波羅探題陥落までの経緯。
・足利尊氏、北条高時か、赤橋守時のいずれかの命を受け、西国に楠木討伐に出かける。
足利尊氏は、近習数十騎で鎌倉を発つ。
足利尊氏には大雑把に言うと、三つの所領があった。下総、三河、丹波である。
足利尊氏は、鎌倉を発ってまず三河に入り、軍勢を揃える。
・その後、京都を通過し、丹波篠村に入る。篠村は現在の丹波亀岡市。
市域には、明智光秀の領地丹波亀山も入る。
足利尊氏はここから、本来は後醍醐天皇が籠る伯耆の船上山(今の鳥取県)に向かうところ、反対に南東に方向を向けて、京へ向かう。
・鎌倉幕府の西国の主力は、河内の楠木正成に集中。西国の本拠地、六波羅には兵力はほぼなかった。
・足利尊氏は、軍勢催促の書状を出して、佐々木道誉、赤松円心を糾合して、数日で六波羅探題を陥落させる。
●明智光秀と足利尊氏、それぞれの経緯の比較。
端的に言うと、明智光秀は、
①主君織田信長の本拠地安土城にいたが、
②織田信長の命令に従って、中国地方の毛利輝元討伐に向かう。
③自身の領地、坂本と丹波亀山に移動。
④本来、西(中国地方)に向かうはずも、方向を逆に向けて、京都に向かい、織田信長を滅ぼす。
⑤当時、織田軍の主力は京都になく、織田信長には明智光秀に抵抗する手立てはなかった。
足利尊氏は、
①幕府の本拠地鎌倉にいたが、
②得宗北条高時か、執権赤橋守時かの命令に従って、後醍醐天皇、楠木正成討伐に向かう。
③自身の領地、三河と丹波篠村に移動。
④本来、西の伯耆(中国地方)に向かうはずも、方向を逆に向けて、京都に向かい、鎌倉幕府の六波羅探題を滅ぼす。
⑤当時、六波羅探題の主力は、河内の楠木正成討伐に向かっていて、京都の六波羅にはなく、六波羅探題には足利尊氏に抵抗する手立てはなかった。
①から⑤の項目が著しく類似している。
●明智光秀、足利尊氏はそれぞれの政権におけるNo.2であった。
また、足利尊氏は鎌倉時代末期、鎌倉幕府のなかで、北条氏に次ぐ、事実上のNo.2のポジションだった。
嫡流の途絶えた源氏一門にあって、比較的嫡流に近い足利氏。
それもあって、足利氏の各当主は、正室を北条氏から迎えている。北条氏に優遇されたのが足利氏だ。にもかかわらず足利尊氏は裏切った。
明智光秀は織田政権にあって、家臣No.1のポジションだった。織田信長をNo.1とすれば、No.2である。織田信長は、京都の両脇である、近江坂本と丹波亀山を明智光秀に与えている。織田信長は明智光秀を重用していた。にもかかわらず明智光秀は裏切った。
●明智光秀は足利尊氏をベンチマークした。
上記のように考えると、明智光秀が考えたベンチマークは、この足利尊氏の裏切り劇なのではないかと私は思う。
尊氏の代には、最終決着はつかなかったが、室町幕府を創立、武家のトップに立ち、孫の足利義満は事実上の最高権力者になったわけだから、足利尊氏の造反は大成功と言える。
足利尊氏の評価は、時代時代によって変化するが、武士としての最終勝利社であることは間違いない。
1582年本能寺の変前夜において、天皇家、五摂家などの貴族は非常に弱体化し、武家全盛期にあっては足利尊氏は、賞賛される人物であったはずだ。
しかし、明智光秀は、織田信長を討ち果たすのは成功したが、その後政権を維持することに失敗した。
●明智光秀と足利尊氏のたったひとつの差異。
何が、明智光秀と足利尊氏の差異か。それはたった一つ。
足利尊氏の六波羅攻撃の際、彼には、佐々木道誉、赤松円心という協力者がいた。
しかし、明智光秀が本能寺に織田信長を攻めた時、彼には協力者はいなかった。
明智光秀直属の軍のみだった。
本能寺の変成功後に、足利尊氏にとっての道誉・円心の立ち位置に近い、細川藤孝(当時は長岡藤孝)と筒井順慶に協力を促すも失敗している。
これが致命傷となり、明智光秀は羽柴秀吉の軍勢を天王山に迎え敗退し、その後小栗栖で落ち武者狩りにあい命を落とす。
足利尊氏と明智光秀はこのように、協力者がいたかいなかったかであるが、よりその本質は、なぜ裏切ったのかに対する共感だったと私は思う。
足利尊氏は共感され、明智光秀は共感されなかった。
だから明智光秀は滅びたのだと私は思う。
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