https://weekly-haiku.blogspot.com/2010/06/blog-post_13.html 【極私的「金子兜太」体験】
今井聖
僕の兜太体験を書いてみようと思った。
僕は昭和46年、21歳のときから「寒雷」にいたから、兜太さんは近しい存在だったはずだが、昭和37年に創刊された「海程」は、そのころ既に前衛の旗手として活発に活動しており、兜太さんは何かの大会のときでもなければ寒雷の句会にみえなかったので、実際に謦咳に接したのはずっとあとになってからである。
加藤楸邨に惹かれて師事した僕にとって、「金子兜太」は同門でありながら最初は否定的な対象であった。どういうところが僕の嗜好に合わなかったのかはあとで述べたい。
それなのに、いつのころからか、しだいに好きになり、大好きになり、それまでいちばん好きだった山口誓子や加藤楸邨と肩を並べるくらいになり、今では、俳句の歴史の根っこにいる子規や芭蕉と並ぶくらいになった。愛してしまったと言ってもいい。とは言っても兜太さんの方はとても僕を評価しているとは思えないので、これは確実に片思いである。
兜太さんは「海程」創刊の言葉で俳句を愛人に喩えた。僕も兜太さんを恋人に喩えよう。最初嫌いだった相手を好きになってしまう、そのサワリのあたりを聞いて欲しい。
昭和三十年代の末、鳥取県米子市の中学生だった僕は近所の粗末な床屋(本当に掘立小屋のようだった)で頭をやってもらっているとき、床屋のオヤジが「趣味は何かいな」と僕に聞いた。
すでに学習雑誌の俳句欄投稿魔で何度か入選を獲ていた僕は得意気に「俳句やっとうだが」と気負って応えた。
ところがオヤジ動ぜず「俳句!? ワシもやっとうが、「ホトトギス」だで」と僕よりも得意気に言った。
オヤジは俳号芹沢友光(せりざわゆうこう)「ホトトギス」、年間入選一、二句の実力だったと思う。
「ほんなら、句会来たらええだが」という誘いに乗って、そのときから僕は「ホトトギス」と「雪解」と「かつらぎ」の人たちの混成からなる10人ほどの句会に出ることになった。平均年齢60歳代の句会だった。
僕は投稿魔だったが、やっぱり俳句は基本と伝統を学ばねばと考え「ホトトギス」に投句しようと思って、友光さんに言うと、「それはええけど、投句は毛筆で書かんといけんで」
そりやだめだ、字の拙さは当時もクラスでトップクラス。書道は一番嫌いな科目だった。
「そんなら「馬酔木」にするけえ」
「「馬酔木」はいけんで。やめた方がええ。新しもん好きなだけだけん」
友光さんは反対したが、毛筆投句に恐れおののいた僕は伝統二番手の「馬酔木」に投句することにした。
その頃の「馬酔木」の一句欄に僕はしばらく載っている。
僕は学校が終るとその床屋に行って、客がいるときは漫画を読んで時間をつぶし、調髪の終るのを待って友光さんと俳句談義をした。思えばヘンな中学生だった。
「こんなんが俳句だか?どげ思う?」と言って、
友光さんが或る日僕の前にポンと一冊の本を置いた。
本は『今日の俳句』。著者金子兜太との初めての出会いだった。
『今日の俳句』(光文社刊)は昭和40年刊。中に書かれているさまざまな俳人の句や兜太自身の句は、一茶や芭蕉の句の模倣から入った中学生にとって、まるで、異国語のような趣だった。
しかし、まるっきり理解不能だったわけではない。
たとえば、
果樹園がシャツ一枚の俺の孤島 兜太
なんじゃあ、これは!これが俳句かと友光さん同様にそのときは思ったが、この句が何を表現したいかを理解できなかったわけではない。
果樹園の真ん中で、あるいは樹の上で、汗にまみれたシャツを着て頑張ってる「俺」の姿だ。それは実際の果樹園ではなく、土に根ざした産業の中で孤軍奮闘している若い「俺」という概念。
つまりそこには労働と若さの典型があると思った。
リアルな果樹園と思えなかった理由は、今思うと、働いている人間は「果樹園で働いています」とは言わないからだ。林檎園とか葡萄園とか具体的に言うだろう。つまり果樹園は概括なのだ。
中学生のときに、そう感じたのかどうか。高校に入ってさまざまな詩歌に触れる機会があってから、そういう思いがあとから芽生えて来たのか、どちらかは覚束ないが、この句に対する嫌悪感は最初見たときからきちんとあって、それは、初めて目にしたものに対する抵抗感などとははっきり異なる。この句の持っている青年性の典型が嫌だったのは確かである。
少年一人秋浜に空気銃打込む 兜太
これもいわゆる「少年」の典型。
希望に燃える溌剌とした若者が類型なように、浅沼稲次郎へのテロ以来特に流行した暗い匕首のような「少年」もまた類型以外の何者でもない。
たとえば、これもそう。
少年来る無心に充分に刺すために 阿部完市
なぜ、僕が若さの典型を描くような表現に嫌悪感を抱いたのかは、僕自身の生活環境に起因している。
僕はその床屋の近くに広大な敷地を有する県営の家畜試験場の中の職員住宅で暮らしていた。
大正八年生まれの父(偶然にも兜太さんと同年)は、戦後の混乱の中で曲折を繰返したため、公吏になったのが三十代になってから。そのため公吏の中に厳然とある学閥と年功による昇進路線に乗れず、かなりの不遇感を抱いていた。母は戦後数学の教職に在ったが、しだいに鬱病傾向となり、当時は入退院を繰り返していた。
母は自分の精神状態と向き合うのが精一杯で子供にかまう余裕はなかったため必然的に父がすべてのことをこまごまと指示し、強制した。ところが、父は困ったことに大酒飲みだった。
職住接近の最たる環境、5時に終業のサイレンが鳴ると5時5分にはもう帰宅してちびちびと二級酒を始める。
父は自分の不遇感の裏返しで僕をエリートに育てようとしていた。
そのためには、世俗的な心情を排し、小さな価値観にまとまらぬようにと思ったのだろう。徹底的に僕の持っている価値観を攻撃し否定してみせた。
しかし、この程度のことはどこの家庭にでもあることだろう。僕は自分の意識過剰な不幸物語を聞かせようとしているのだろうか。
そう思ってはみるが、やはり、父は普通ではなかった。
たとえば、中学校のとき良い先生に当たってよかったとにこやかに学校の話を告げた僕に、父は学校の教師のいうことは聞く必要がないと断じた。奴らは師範学校出身で馬鹿だからというのがその理由だった。師範なんて村でも一番馬鹿が行ったんだ、そんな奴らを信じてはならない。教育学部なんか行ってはならぬ、あんなのは大学でやる学問じゃない。
「先生」に憧れ、教師を志すかもしれぬ息子を父は牽制したのだった。父はあらゆる一般的通念や正論のごときものを素朴に主張する息子に対し、「現実の実相」を知らしめることで徹底して否定してみせた。
回りはお前を騙そうとしている。騙されるな、真実に気づけ。見え透いたことをするな。独自性をもて。
青いマフラーを自分の小遣いを貯めて買ってきた僕に父は、「色気づきやがって。青なんて色はそのへんのアンちゃんが着るもんだ」
そのマフラーを僕は一度も首に巻くことができなかった。
だが、僕は酒を飲んでいないときの父は嫌いではなかった。獣医だった父は僕を豚のお産に立ち合わせ、職場の高性能の電子顕微鏡をのぞかせてくれたりした。
一般的通念を指す「らしさ」とか、「典型」に抵抗して自分だけの独自性をもつこと、僕が達した認識は酒乱の父に精一杯歩み寄った理解だったように思う。
皮肉っぽいひねた中学生だった。
中学二年生のときに俳句を始めたのも、その嗜好があったのだろう。人がやらぬことをやる。「典型」を忌避することが、愛憎半ばする父との妥協点だった。
高校に入ると僕は古着屋でサラリーマンふうの長いコートと中折れ帽を買い、ステッキを持ち、父が昔使ったという鼈甲縁の丸い眼鏡をつけて放課後や日曜には米子の町を歩いた。友人に会うと中折れ帽を昭和天皇のように持ち上げて、挨拶してみせた。
果樹園を孤島と見立ててシャツ一枚で屹立する「俺」には若さの「典型」が匂った。見え透いた若さだと思った。
見え透いていることはもうひとつあった。
洋風であることである。
この句の果樹園はどう考えてもフランスやイタリアあたりの果樹園に思えた。働いている「俺」は日本人ではなく、アラン・ドロンやマストロヤンニの「俺」である。当時は、「太陽がいっぱい」の貧しいドロンのシャツ姿や「ひまわり」の中のバス代も払えないマストロヤンニの風情が人気を呼んだ。果樹園の「俺」はふんどし姿の三船敏郎ではない。孤島という比喩も決して日本的ではない。だいたい日本には「孤島」なんてモダンな言葉に相当する島があるのか。
この句は借り物のモダニズムだと感じた。当時はもちろんそんな気の効いた言葉は知らない。ポエジーの意図が見え透いていると思ったのだった。
「馬酔木」の出発以降の近代俳句の流れは、「ホトトギス」の花鳥諷詠という情緒に対する反発であり、一方でそこから敷衍した新興俳句は、見えるものを写すという方法に対する反発が中心にあった。
しかし、情緒に関して言えば、花鳥諷詠がもっぱら神社仏閣老病死に限定された情緒を詠ったのに対して、俳句のモダニズムが洋風の情緒を旨としたというほどの差異である。少なくとも僕にはそう見えた。神社仏閣老病死が抹香臭くて洋風の風景なら新しいというわけでもあるまい。問題はそこではない。「写す」という方法に対する懐疑だったのだが、僕はそれさえも的外れに思えたのだった。
見えるものを写すという方法に対する懐疑は、例えば、
頭の中で白い夏野となっている 高屋窓秋
などに解説的に示されているが、見えるものを写さなくてもいいではないかというのはその通りだが、ならば、それに勝るリアリティを「言葉」で構築された俳句が獲得したのだろうか。いまの段階では否というしかないように思える。そもそも古い情緒が「写生」に起因するものだという捉え方が誤りであった。
僕は高校生のころそう思った。その思いに的確な言葉は与えられず、年月が経つにつれてしだいに思いを論めいたものしていったのだったが、最初の確信は今日まで変ることはない。
抹香臭い俳句的情緒を否定して洋風な嗜好をみせる俳人も浅薄単純に思えた。
縄跳びの寒暮傷みし馬車通る 佐藤鬼房
鬼房さんの代表句として喧伝されているこの句が好きになれず、今でも鬼房さん一級の作品とは思えないのはこの句の馬車がどこか洋風だからである。
東北の村の道、あるいは軒の低い貧しい日本の戦後の街並みをぼたぼたと糞を落としながらすすむ馬車というよりは、ヨーロッパの石畳を走る馬車に思えた。だいたい日本に馬に引かせて人が乗る馬車という乗り物があったのかどうか。あってもそれは皇室の祝い事や国葬のような儀礼的な場での例外だろう。
当時の映画でいうと「鞍馬天狗」より「ローハイド」の方が若者向きだというのは商業主義の作戦である。
夜が明けたら一番早い汽車に乗って この町を出るのさ
と唄ったのは浅川マキ。
今夜の夜汽車で旅立つ俺だよ
と唄ったのはかまやつひろし。
トラベリンバスでのその日ぐらしがどんなものなのかわかっているのかい
と家出してきた少女に諭すのは矢沢永吉。
「この町」も「夜汽車」も「トラベリンバス」も間違っても八戸や長万部を想定しない。国籍不明のなんとなく「洋風」な対象である。
身をそらす虹の/絶顛/処刑台 高柳重信
虹が見える公開処刑の処刑台はどこの風景だ。マリーアントワネットか、ルイなにがしか。これはモボ、モガ憧れの国おフランスの景だろう。
月下の宿帳/先客の名はリラダン伯爵 重信
も同じ。19世紀フランスの伝奇的な伯爵の名をもってくれば句がモダンになるという嗜好は見え透いているというべきだろう。
兜太作品への反発はもうひとつ。
言葉の喧騒感とでもいうべきものであった。
奴隷の自由という語寒卵皿に澄み
朝空に痰はかがやき蛞蝓ゆく
港湾ここに腐れトマトと泳ぐ子供 兜太
名詞が多く、字余りが多く、リズムが悪い。何よりもひとつひとつの言葉がどぎつい。言葉がざわついていると思ったのだった。
僕は、「静謐」が秀句の条件だと信じていた。
例えば、当時、僕がしだいに惹かれていったのは山口誓子であった。
高きより雪降り松に沿ひ下る
ボート裏返す最後の一滴まで
雪敷きて海に近寄ることもなし
城を出し落花一片いまもとぶ
波にのり波にのり鵜のさびしさは
悲しさの極みに誰か枯木折る 誓子
等々、好きな誓子句をあげるときりがないが、誓子の句は「静謐」な詩情が詠まれていると感じ、それが心にしみた。
「静謐」な新しい詩情。それは作り手としては最高に困難なことのように思えた。
西東三鬼も僕と同じ思いだったような気がする。
春ゆふべあまたのびつこ跳ねゆけり
右の眼に大河左の眼に騎兵
月夜少女小公園の木の股に 三鬼
三鬼の句のこの喧騒ぶりはどうだ。同時代の「現代詩」から引いてきたモダニズムを志向した三鬼が誓子の
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る 誓子
を至上の句として絶賛している。
「喧騒」の三鬼は、それを自覚していたがゆえに誓子の句の「静謐」を限りなく憧憬したのだった。
僕には「静謐」が「喧騒」の一段上の詩情に思えた。
兜太さんに最初感じた印象は、「若さの典型」「知的洋風の趣」「言葉の喧騒感」だった。
それが最初好きになれなかった理由である。
兜太作品に対する嫌悪感がしだいに感動に変わっていったのは、やはり加藤楸邨を通してである。
僕は山口誓子作品に出会ったとき、初めて同時代的感興を俳句に感じることができた。古い俳句的情緒を脱し、それでいて自由詩の趣に阿らない。見えるものを写すリアルの中にいて、洋風も若さの押し付けも老人趣味もない。俳句にしか出来ない新しい方法を示しているように思えた。硬質で構成的な「写生」と溢れんばかりの抒情の間の振幅で僕の胸をゆさぶった誓子作品は、しかし、しだいにそのスタンスを前者に収斂してゆく。
僕は20歳のころ楸邨の
狐を見てゐていつか狐に見られてをり 楸邨
のような実存的な傾向を眼にして、40年代以降の誓子に抱いた懐疑からの出口をここに求めようと思った。
「寒雷」に来た当時、楸邨句のイメージは
おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ 楸邨
のように先入観通り、実存的傾向の楸邨だったのだが、
そのうち、僕にとっては極めて重大なことに気づいた。
楸邨は結果的にどんな観念句になろうと、かならず現実の実体から得られる実感を入り口にしている。ものから自分の五感を通して受け取ったものを起点として観念にとぶという順序が徹底されているのである。
しづかなる力満ちゆき螇蚸(はたはた)とぶ 楸邨
喧伝されているこの句、人生忍耐だ。我慢だ。の寓意の類がテーマと思い、とても秀句だとは思えなかったのだが、あるとき螇蚸を見ていて気づいた。飛ぶ前に実際に螇蚸の体がぎゅっと縮むのだ。縮んで引き絞ってバネをきかせて飛ぶ。しづかなる力満ちゆきは寓意ではなく、写生的事実だったのだ。
歯に咬んで薔薇のはなびらうまからず 楸邨
こんな、どちらかといえば失敗作の中身が楸邨の本質を表している。薔薇を先入観でとらえない。言葉のイメージでとらえない。目の前の薔薇つまりそのときその瞬間の薔薇を、見て、触れて、嗅いで、ついには歯でかんでみる。この五感把握が楸邨だ。
そこにそのときその瞬間の生きている自分と対象との邂逅がある。「もの」をとおして初めて一個の自己が実感されるのである。
そのことの証明に幾百の楸邨句を引いてくることができるが、それはここでのテーマではない。
僕はそういう楸邨の「観念」の特質に気づいたとき、兜太さんの句が一気に理解できた気がした。それまでは楸邨と兜太さんがなぜ師弟なのか、どこに共通性があるのかがいまひとつ理解できていなかった。兜太さんは楸邨から、現実から観念へという順序の基本を学んだのだった。
僕は兜太作品を読み解く鍵を手に入れたと思った。
オーバーにかかり荷馬息過ぐ駅の灯見ゆ 兜太
荷馬息過ぐのナマな実感。
車窓擦過の坂の一つの焚火怒る 兜太
焚火怒るは造型。しかし、それは車窓擦過の現実が起点になっている。焚火怒るはいわゆる唄のサビではない。サビは車窓擦過。
屋上に洗濯の妻沖に空母 兜太
反戦がテーマというより、現実そのもの。優れて映像的な写生句である。思想が主張されない。映像がしずかに現実を突きつけるのだ。
「どもり治る」ビラべた貼りの霧笛の街 兜太
「どもり治る」のリアル。個人の精神的屈折に起因するどもりがまず描かれ、そこから高度経済成長のひずみにはまりこむ人間性が暗喩される。
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 兜太
東京オリンピック当時だから「二十のテレビ」の驚きになる。黒人のリアルから入って、今なら、ヤマダ電機の百のテレビになるであろう。この二十が「時代」なのだ。
怒気の早さで飯食う一番鶏の土間 兜太
ああ、まさに五感的把握。「早さ」は怒気の早さであると同時にこの句を読み下すリズムの早さにもなっている。
もちろん楸邨流順序だけではなく、そこから派生してくるオリジナルな魅力も多岐にわたる。
例えば、
彎曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太
の魅力は、彎曲しの主語と火傷しの主語が書かれていないことに大きく掛かっている。何が彎曲するのか、何が火傷するのか、爆心地のマラソンはそれらとどう関わるのか。
彎曲する鉄骨や橋や柱。火傷する人や犬やすべての生き物。それら、主語がないゆえに広範に広がる主語候補の映像とマラソンの走者が重なり映る。ドキュメンタリーの重層的映像。さまざまな角度から重層的に対象を捉えるピカソの手法も思わせる。文法的には滅茶苦茶。だからこそ伝わってくる叫びのエネルギー。
この句も反戦の意図を伝える作品ではない。現実の複合的なリアルが眼目。
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 兜太
も僕は後年理解ができた作品。
いわゆる社会性俳句は、第一次産業の労働者と会社の底辺労働者の「正義」、つまり貧しさと正しさを詠った。知的エリート俳人もこぞってこのポーズをとって詠った。それゆえ、経済成長が果たされて底辺の底上げが成就したとき、貧しさ俳句は終焉を迎える。あとは、社会性は党派俳人の専門分野となり、嘘貧乏の知的エリートたちはいっせいに花鳥諷詠へ先祖返りを始める。晩年のための賢い処世でもあった。
この句が対象としたのは、正しさや貧しさとは無縁の銀行員。初めて俳句が対象とした新しい労働の情緒であった。ここには金のない悲哀やプロレタリアートの正義の代わりに「気分」があった。気分と感情を乗せた「現在」が息づいている。
「造型俳句六章」もさまざまな時間の上に乗った複合された感情や気分が俳句のテーマとして提唱されている。それはまさしく兜太さんのオリジナル。
兜太さんは固定化された修辞的手法を駆使し熟達してゆく作り方ではないので、己れの培った堅実な境地を見せる俳人とは対極にいる。
だから一句一句に果敢な試みを乗せる。当然失敗作も多いが、突然、ものすごい秀句が出現する。この点も楸邨と同じ。
近年の作では、
子馬が街を走つていたよ夜明けのこと 兜太
には驚いた。
僕に映像を演出させてもらえるなら、霞ヶ関かニューヨークかパリの夜明けの街路を子馬を走らせる。解き放たれた子馬を街の人々は微笑みながら見ている。解放や自由をまとった疾走だ。
まだまだ書きたいことはある。草田男と兜太さんの関係。高柳重信系と兜太さん系の論争のこと。「海程」の代表から主宰への移行のこと。性的なテーマのこと等々。しかし、もう締め切りの日をかなりすぎてしまった。この辺で極私的な小文をひとまず終えたい。
黴の中言葉となればもう古し 楸邨
という句がある。言葉にしてしまったら、もう、原初の思いと一体になれないこと、それにもかかわらず、思いを言葉で言うしかないという二律背反の上に僕ら表現者は立たされている。たかが言葉されど言葉というべきか。楸邨と兜太さんはその認識の上に立っている。
僕もまたそうありたいと願いつつ。
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