https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/8530633/ 【「日本の夏」3 蛍 ②蛍への想い】
「夏は、夜。月の頃は、さらなり。闇もなほ、蛍の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。」(清少納言『枕草子』)
平安貴族は蛍見の情趣を楽しんだが、江戸時代になると庶民も様々な方法で蛍の風情を楽しむようになる。町では虫売りから蛍を買い、蚊帳の中などに放って楽しんだ。また、郊外の水辺へ出かける「蛍狩」や「蛍見」も人気で、川から蛍を見るための「蛍見舟」も出た。江戸ではないが、芭蕉が詠んでいる。
「ほたる見や船頭酔(よう)ておぼつかな」芭蕉
瀬田の唐橋付近で酒を楽しみながら蛍の光の水面に映るのを見て楽しむ「蛍見舟」を詠んだ句。瀬田の蛍は大型の源氏蛍。ここは水に映るうつくしさで有名だった。
「この螢田毎の月にくらべみん」芭蕉
「田毎の月」は、信州姨捨山の麓の千枚田に映る月影のこと。千枚の田に映る1000個の月は、この瀬田の群舞する蛍の光とどう違うのかとこれから向かう信州姥捨山の名月に思いをはせて瀬田の蛍と比べている。
次の有名な句は、芭蕉らしい観察の鋭さが光っている。
「草の葉を落つるより飛ぶ螢哉」芭蕉
葉っぱの上を滑り落ちるかに見えた蛍が、落ちると同時にふわっと飛び立った瞬間の情景。子規の次の句は蛍の儚げな様子が強調されていて、この芭蕉の句と対照的。
「露よりもさきにこぼるる蛍かな」子規
向井去来は命の儚さと蛍を重ねている。
「手のうへにかなしく消(きゆ)る螢かな」去来
この句の前書きに「いもうとの追善に」とある。仲の良かった去来の妹千代(俳号千子・ちね)は20代で亡くなる。その辞世の句。
「もえやすく又消えやすき螢哉」千子
去来は、この妹の辞世の句を受けて詠まれている。一茶になると、ゆったりした蛍の動きが前面に出る。「大蛍」は源氏蛍の異名。
「大蛍ゆらりゆらりと通りけり」一茶
次の句など、儚げさより、滑稽さにあふれている。
「馬の屁に吹き飛ばされし蛍かな」一茶
蕪村の次の句は身につまされる。
「学問は尻からぬけるほたる哉」蕪村
「尻から抜ける」とは、見聞きしたことやだいじなことをすぐに忘れてしまうの意。いくら知識を頭に詰め込んでも、尻から出る屁のように、 どんどん抜けていってしまうと屈託なく蕪村は詠んでいる。
「掴みとりて心の闇のほたる哉」蕪村
これは意味深な句。掴み取った蛍のかすかな光を手の中で見て、己のこころの闇に気づかされる蕪村。
ところで、俳句では目にしたことがないが、かつて見られた「蛍の群舞」は壮観だったようだ。小泉八雲が宇治川での「蛍合戦」(平安末期、「平家物語」で「橋合戦」と呼ばれる源氏と平家の戦いが京の宇治川であった。川が赤く染まるほどの凄まじい戦いだったが、多くの蛍が宇治川で乱舞する様子が源氏が平家に戦いを挑んでいるようにも見えることから、「蛍合戦」と言われるようになった)を楽しむ蛍見舟について記している(1902【明治35年】年)。
「現在、一番有名な蛍の名所は山城の国の氏の近所である。・・・町から数キロ離れた川上で見られる蛍の眺めは圧巻で、まさに蛍合戦と呼ばれるにふさわしい。緑深い谷あいを宇治川が大きく蛇行しつつ滔々と流れ、その両岸から幾千幾万もの蛍がわっとばかりに飛び出して、水の上でぶつかりあい、からまりあう。蛍の大軍がいちどきに群れをなして飛び交うさまは、まるで光の雲か閃光の玉にみまごうばかりである。そうかと思うと、たちまち群れをなす蛍の雲は流れの上でぱっと散り、その玉は落ちて砕ける。落ちた蛍は瞬きながら川面をゆらゆらと漂っていく。しかし、次の瞬間には同じ場所にまた新たな軍勢が集まってくる。人びとは一晩中、川に浮かべた舟の上でこの光景を眺めるのである。蛍合戦が終わっても、なおも宇治川は明滅しながら漂う蛍の躯におおわれ、さながら銀河を見ているような様相を呈すると言われている。」
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