謎多き古代日韓関係

https://www.asahi.com/articles/ASN4H3G5NN30UTIL00V.html  【謎多き古代天皇、福井に残る痕跡 朝鮮との結びつきも】より

有料会員記事 大塚晶

 古代、日本海側には広大な「こし(高志、越など)の国」があった。このうち今の福井県にあたる地域にはある天皇が長く暮らしたとされ、大陸や朝鮮半島との交流の玄関口でもあった。それから約1500年。数多く残る伝説・伝承をはじめとする歴史や文化は地域の資源になった。

 語り継がれているのは、日本書紀によると第26代の継体天皇。5世紀に今の滋賀県で生まれたが幼少期に父を亡くし、母の実家がある福井に戻ったとされる。

 当時の名は男大迹王(おおどのおう)。前の武烈天皇に後継ぎがおらず、第15代応神天皇の5代あとの子孫という男大迹王に白羽の矢が立つ。しかし507年という即位の時点で57歳。大和に入ったのはその約20年後という謎多き天皇として知られる。

世阿弥作の能「花筐(はながたみ)」は味真野を舞台に男大迹王と愛する女性の恋を描く。その2人の像が越前市の庭園に立っている=2020年3月7日、福井県越前市余川町

 男大迹王が戻ったのは今の福井県坂井市と言われるが、越前市と鯖江市、越前町を区域とする丹南ケーブルテレビの林良宗(りょうしゅう)・統括部長(49)は「越前市の味真野地区にも住まいである宮居(みやい)があったと伝わっています」と語る。

 この3市町を中心とする丹南地方は、狭い範囲に伝統産業が集積。しかも古代の伝承を併せ持っているところに特徴がある。

 例えば越前漆器は、男大迹王が今の鯖江市で冠を壊した時に漆職人が直したことがきっかけで盛んになったと言い伝えられている。越前和紙も同じ時代、今の越前市を流れる川の上流に姫が現れて紙すきの技術を教えてくれたのが始まり――と。

 丹南ケーブルテレビはこうした地域の歴史や文化に着目。2005~06年に「こしの都千五百年物語シリーズ」を放映し、男大迹王の足跡や伝統産業のルーツなどをたどった。

 その過程で改めて浮かんだのが朝鮮半島との結びつきだ。紙すきを伝授したという姫「川上御前」も渡来人だったとみられ、この地方に養蚕と絹織りの技術を伝えたのも百済の織姫たちだったと伝わる。継体天皇自身、即位後の百済との関係の深さが知られている。


https://ameblo.jp/kadoyas02/entry-12043264702.html 【福井:謎多き古代日韓関係と日本海ルート】 より

2000年の時を経て向き合ってきた日本と朝鮮半島、私たちはどのような関係を築いてきたのか、そしてどこへ歩もうとしているのか。日本と韓国は双子のような関係だ。現在も貿易、少子高齢化、環境対策など、抱える共通課題も多い。しかし現実は歴史問題という古いハードルを前に両政府は相も変わらず対立したままだ。ようやくこの6月

に世界遺産「明治日本の産業革命遺産」と「百済歴史遺跡地区」の双方の登録で協力することで合意する。やっと対話の窓が開いた。そこで謎多き古代日韓関係について、この機会に私なりに取りあげてみたい。

日本海沿岸が大陸や朝鮮半島といかに近く向き合っているか。古来いくつかのルートで人々は行き来していた。瀬戸内ルート、そこは最も安全で最も頻繁に通行されたメインルートで歴史の表舞台だ。今回は日本海沿岸に絞り日韓

交流の関係を探ってみたい。

因みに日本海は韓国では東海(トンヘ)と呼ぶ。韓国の「三国遺事」や「三国史記」の文献によれば、新羅の人が海を渡って日本の王になったという神話、逆に日本の山陰地方から渡った人が韓半島で王になったという、この二つの神話が残っている。日本神話にも同根と見なせる神話がある。このような神話は国家形成ができる前から密接な繋がりがあったということを示している。日本海は文化を隔てる障害ではない、むしろ逆だという気がする。古代朝鮮半島と繋がりがこんな内

陸部にもあったんだという長野県木島平根塚遺跡。弥生時代2世紀~3世紀前半の弥生墳丘墓(写真)だ。その遺跡から朝鮮半島南部の伽耶から日本海ルートでダイレクトに伝わった渦巻文装飾鉄剣(二ふり・写真)が発見された。大塚初重・西谷正両先生によって名前がつけられた鉄剣で、握り部分から先端まで74cmもある大振りの剣だ。日本には2例しかない(京都府八幡市ヒル塚古墳)。なぜ、朝鮮半島から遠く離れた東日本で見つかるの

か。千曲川・信濃川を下って海まで直線で30km超の距離だ。また最近の研究で弥生時代末期の朝鮮半島の鉄製品が山陰から北陸など日本海沿岸に数多く発見されることが判明している。朝鮮半島から東日本に至る日本海ルートがこの時代からすでにあったことを証すものだ。逆に、日本から朝鮮半島に何が渡っていたのか。根塚遺跡から北西50kmにある新潟県糸魚川市、古代からこの

一帯は碧玉の材料として珍重されたヒスイ(翡翠)の産地だ。昨年ツアーで訪れたヒスイ原産地、姫川にはヒスイ原石がごろごろと転がる景勝地だ。当然国史跡で原石採集禁止の保護地域だ。ブログ参照 http://amba.to/1gIdFrc 。韓国ではヒスイは採れない。ヒスイは純金と同様の価値があり珍重されていた。写真は朝鮮半島の4世紀頃の遺跡から出

土した糸魚川のヒスイ製の勾玉だ。こうしたヒスイ製品は韓国で400点以上見つかる。5世紀に作られた金の王冠(写真)にもびっしりとヒスイが飾られている。当時朝鮮半島では王が権力を示すため豪族にもヒスイを配っていたという。これらのヒスイ製品は日本から持込まれたもので、曽我遺跡(奈良県橿原市)のヒスイ工房は有名である。この工房の勾玉をヤマト王権が朝鮮半島に贈っている。ヤマト王権とは別に日本海沿岸にもヒスイ工房が複数あり、直接ヒスイ製品が朝鮮半島に持ち込まれた。ヒスイは物々交換品として貴重なもので、朝鮮半島の先進的文物、特に鉄器を得るために出雲・丹後・若狭・越前の豪族達も活発に交易した のである。鉄を多量に持つことによって軍事力や経済力が強まる。5世紀になると日本ではヤマト政権が強大な軍事力を背景に各地の豪族に支配を強めていく。そんな中でも、日本海側の豪族は朝鮮半島と繋がりながら独自の勢力を保っていたのだ。写真の金製垂飾付耳飾は若狭西塚古墳⇒若狭向山1号墳⇒福井市天神山7号墳⇒石川県加賀市吸坂丸山75号墳⇒長野県畔地1号墳⇒群馬県剣崎西遺跡など北陸,中部、関東地域にかけて分布圏を形成する。このように北陸地方の若狭地域と福井平野には大伽耶の文物が集中していることから、両地方が大伽耶への窓口としての役割を果たしていたと考えられる。福井平野の首長が韓半島からの文物の輸入だけでなく、移住民をも招いて金銅製品を生産し、東日本においてその流通を掌握していた可能性を示唆する研究者もいる。これと関連した注目されるのは「日本書記」雄略8年条(485年)、任那王が若狭の豪族の膳臣斑鳩(かしわでのおみいかるが)と吉備臣子小梨等を送って高句麗を攻撃させたという記録である。この任那王は、その当時の政治情勢から大伽耶王であるという。韓半島の大伽耶は高句麗と新羅の軍事的進出に対抗するため、倭王権だけでなく、各地の豪族勢力に援助を求め、それに見合う文物を提供しているのである。北陸地域や上毛野国さらには江田船山古墳の有明海地域との勢力と連携することもあり、多面的であったといえる。このように朝鮮半島南部では大伽耶が勢力を拡大し、また新羅や百済とも対抗していた。朝鮮半島と独自の繋がりを持ち続けた北陸の豪族達。6世紀そうした中から力を蓄えた勢力が台頭、ついに天皇まで輩出する。男大迹王 (ヲホド)後の継体天皇である。日本書紀による男大迹王は母親の出身地の越前、今の福井県で育った。当時この地域には越王国と呼ばれる独自の勢力があった。その越王国の巨大さを示す古墳群が残されている(六呂瀬山古墳群と松岡古墳群http://amba.to/1eU3BeQ )。その越王国の古墳群、ここでも大伽耶との関連(韓国高霊群池山洞302号洞と32号洞)がある金銅製王冠が出土、大伽耶の儀礼を取り入れた可能性を示している。この大伽耶系冠の伝播ルートも福井市二本松古墳⇒富山県朝日長山古墳⇒長野県桜

ケ丘古墳⇒栃木県桑57号墳など北陸・中部・関東地域にかけて金銅製耳飾りルートの同じように分布を形成する。男大迹王の一族は朝鮮半島の南部と結びついていたと見られている。越王国を始めとして北陸の勢力は、いち早く海外の情勢をよく知り、そういう国々と結ばなければならないと早くから先見性の持ち、継体天皇を擁立する勢力であったといえるのでは。

6世紀になると北陸の豪族達は大伽耶(562年に新羅に滅ぼされる)だけでなく、ほかの朝鮮半島の国々とも交流を始める。若狭の古墳で見つかった魚の形をした魚飾り、同時代の百済の古墳からも同じものが出土している。日本で最も早い段階で百済から若狭に持ち込まれたことが分かっている。若狭の豪族達はヤマト政権に服属しつつも、独自の外交ルートを持っていたので

ある。写真の角杯形土器と呼ばれる焼き物も新羅に特有の角杯で、焼いた窯も若狭で見つかる(獅子塚古墳と興道寺窯跡)。

当時新羅はヤマト政権と敵対していた国柄だが、それなのに若狭に来て窯を焼いた新羅系の工人がいたということだ。ヤマト王権の支配下に服従しつつも、実はこっそりと新羅とも二重外交を行っていたのだ。これは若狭だけでない。このように朝鮮半島の国々と多元的な関係をもちながら北陸の豪族達は力をつけていった。その力を結集したのが男大迹王だ。西暦507年、男大迹王はヤマトから大王(おおきみ)に迎えられる。継体天皇の誕生だ。日本書紀には継体天皇が百済との外交を重視し、頻繁に交流したことが記されている。当時、百済は中国南部の文化を積極的に受け入れていた。百済から儒教の専門家・五教博士が日本を訪れ、最新の知識をもたらす。百済という国は新しい知識、技術が集まってくる所、新羅よりも百済の方がずっと先進的だと男大迹王の時代から既に見抜いていたようだ。百済を中心に熱心に朝鮮半島との外交に力を注いだ継体天皇。継体天皇以後、海を越えて馬具、武器、須恵器等のより先進的な文物や仏教がもたらせられた。朝鮮半島との関わりの中で生まれた古代国家日本、その成立に欠かせない海の道が日本海なのだ。

追記:古代の日韓交流を語るにはどうしても整理しておかなければならない大テーマがある。一つは「テサンドン流域の前方後円墳」であり、もう一つは「任那日本府」の歴史解釈である。素人には手に負えない難問だが、これからも活発になる日韓古代共同研究。それは私の学習テーマの一つでもあり、現地探索も参加したい。

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