東松浦郡史  ⑦

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より 

  一二、海軍の形勢

 四月二十七日我艦隊釜山港に入り、慶尚道沿岸を西航せしに、敵の右道水軍節度使元均と會戦し、唐島にて敵船百余艘を捕獲す、均等は南海島に逃る。慶尚道の敵軍潰えたれば、九鬼嘉隆・加藤嘉明・脇坂安治等は上陸して漢城に向ひ、藤堂高虎・来島通之・毛利勝信等南海を阨守した。元均使をやりて全羅道の左道水軍節度使李舜臣に援けを求めた、我が水師は三艦隊となりて唐島を本営とし、巨済島及び其の東方海面を警戒した。舜臣来援して五月四日巨済島の我艦二十六艘を焼き・転じて我が第三艦隊を撃破し、六月四日には舜臣等また唐島の我艦隊を襲ひ、来島通之戦死するに至った。この報京城に達するや、九鬼・加藤・脇坂等急ぎ南海に赴き、七月五日毛利勝信の営にて謀議を凝し、舜臣が巨済島の西、見乃梁に泊するを探知して之を襲ひしに、我艦却て彼の砲撃に遭ひて七十余艘を失ひ、戦死者亦之に伴ふ、依りて脇坂は金海に、九鬼・加藤は安滑浦に退いた。之より舜臣は閑山島に據りて近海を警戒した。かやうに我軍の敗戦を招きしは、諸将の不和なると船艦の構造彼の堅牢なるに若かざるが故であるけれども、又一方には最初我軍が元均を被りて心驕り、九鬼・加藤等が漢城に至りて悠々たるは、其の敗因の一であって、勝って兜の緒を締むるの用意なかりしためとも云はねばならぬ。

   一三、名護屋本営

 我が数十萬の豼貅が勝ちを異域に制するの時、名護屋城に於では、家康・利家等謀議に参画して遺算なきを期した。 しかして豊公は雄心勃々抑へ難く、親ら朝鮮に渡りて軍旅を統帥して明韓の地を蹂躙せんと欲し、加之石田三成等の如きも之に賛した、然るに家康・利家等は極力其の不可を説き、また後陽成天皇も宸翰を賜ひて、其の出陣を留むべきやう諭し給ふた。

 偶々公の生母大政所病に臥す、其の報名護屋陣営に達した、孝養の心厚さ公は大に之を憂へて、至情切なる祈願を神佛に籠めて恢復を祈り、在外軍の進退、留守営の警戒など落ちもなく措置して、帰洛に決し、其の間名護屋陣の配置を左の如く定めた。

       名護屋留守陣と城中警固

名護屋留守陣

   大和中納言   森右近太夫

   勢州穴津少将   藤堂佐渡守

   伊賀侍従     浅野弾正少弼

   江州八幡侍従    同息左京太夫

   播州龍野侍従  同舎弟木下宮内少弼

   栃木河内守   小川土佐守

   水野和泉守    伊藤長門守

   伊藤弥古      生熊源介

   橋本伊賀守     千石權兵衛尉

   河原長右衛門尉 石川出雲守

   羽柴河内守   吉田又左衛門尉

   日根野織部正   伏屋小兵衛尉

   伏屋飛弾守   西川八左衛門尉

   佐久間河内守    水野久右衛門尉

   瀧川豊前守   佐藤駿河守

   鈴木孫三郎   大塚與一郎

   鍋島伊平太    落合藤右衛門尉

   鈴木孫一郎   蜂屋市左衛門尉

   美濃部四郎三郎   安井次右衛門尉

   吉田水主正   石河兵蔵

   南部弥五八

 関 東 衆

   江戸大納言家康 會津侍従氏卿  結城少将

   佐竹侍従  伊達侍従政宗   北條美濃守

   北條助五郎   眞田安房守 出羽侍従

   眞田源三部   宇都宮弥三郎  成田下総守 

   邦 次 宗  安房里見侍従  南部大膳

   秋田太郎    北 半 介   佐野太夫

   六 卿 衆 小介川治部少輔   小野寺孫十郎

   瀧澤又五郎   内越宮内少輔  三ノ屋伊勢守

   高屋大次郎   由円衆四人

 北 国 衆

  羽柴加賀宰相利家  羽柴松任侍従長重

  上杉越後宰相景勝  羽柴久太郎  羽柴美濃守

  青木紀伊守     溝口伯耆守   村上周防守

 城中警固

  裏之御門番衆

 一番 有馬中務卿法印 大野木甚之丞

 二番 石田木工頭  太田和泉守

 三番 長束大蔵次輔  江州観音寺

 四番 寺澤志摩守  御牧勘兵衛尉

  西之丸御前備衆

  富田左近将監 七百人   金森飛弾守 八百人

  蜂屋大膳太夫 二百人   戸田武蔵守 三百五十人

  奥山佐渡守  三百五十人 池田備中守 四百人

  小出信濃守 四百人   津田長門守 五百人

  上田主水正  二百人   山崎左馬允 八百人

  稲葉兵庫守 五百人   間島彦太郎 二百人

  市橋下総守  二百人   赤松上総介 二百人

  羽柴下総守 三百人

  東二之丸御後備衆

 羽柴三吉侍従  三百人  長束大蔵大輔 五百人

 古田織部正 百五十人  山崎右京進 二百五十人

 蒔田權亮   二百人   生駒修理亮 百七十人

 中江式部大輔 百七十人  生駒主殿亮 百人

 溝江大炊助  百人 河尻肥後守 二百人

 池田弥右衛門 五十人   大鹽與一郎 百廿人

 木下左京亮  百五十人  矢部豊後守  百人

 有島玄蕃允  二百人   寺澤志摩守  百七十人

 寺西筑後守  同 次郎介 四百人  福島右馬助 五百人

 竹中丹後守 二百人    長谷川右衛門尉 二百七十人

 松岡右京進  百人     河勝右兵衛尉 七十人

 氏家志摩守  二百五十人 氏家内膳正  百五十人

 服部土佐守  百人   寺西勝兵衛尉 二百人

右一日一夜無懈怠可令勤仕者也

御本丸大手門御門番衆

 一番 服部土佐守  

 二番 鹽谷駿河守 建部壽徳

本丸裏表御門番衆

 一番 中江式部大輔

 二番 山崎右京進  

 三番 石田木工頭  

 四番 長谷川右兵衛尉

 五番 石河備中守   

 六番 寺澤志摩守  

 七番 長束大蔵大輔 

 八番 服部土佐守

 九番 蒔田權佐    

 十番 福原右馬助

右一日一夜宛堅可相勤者也

 三之丸御門番衆、御馬廻衆

一番 石川組

石川紀伊守  土橋右近将監  佐藤半介  金森掃部助

田丸勝八郎  今枝勝七郎  片岡喜藤次  中村七助    

雲林院忠介 瀧川助太郎  森村三平   坂井理右衛門尉

水野源左衛門尉  水谷次右衛門尉  坂井彦九郎  

丹波源太夫   落合新三   眞田源次

山中五郎作  土肥久作   上田勝三郎  宮本清三郎  

平井金十郎  立野孫十郎

二番 中島組

中島左兵衛尉  青山勝八郎  齊藤新五  村上太郎兵衛尉 

坂井平八  長谷川宗次郎 小澤喜八郎   桑原勝介   

吉田彦四郎  菅野弥三左衛門尉 池山新八郎  宇野傳十郎

水原彦三郎   矢野十左衛門尉  鹽野屋宗四郎 長坂三十郎  

郡十右衛門尉 高田源十郎 薄田傳右衛門尉  河原勝兵衛尉

三番 長束次郎兵衛組

長束治郎兵衛尉  木下小次郎   津田新八  赤座三右衛門尉 

坂井平三郎  珂副式部丞  一柳大六   安見甚七  

岡村数馬助  山名市十郎   日比野小十郎 矢野源六郎

岸 久七   廣瀬加兵衛尉  大谷次郎右衛門尉  山羽虎蔵   

長谷藤十郎  山口三十郎  薄田源太郎  田中藤七郎   

拓殖吹郎吉   五十表小平次  安西左傳次  山田半三郎

堺猪左衛門尉  田中三十郎

四番 桑原組

柔原次右衛門尉   若杉藤次郎  木曾八郎太郎 多羅尾久八郎  

村井吉兵衛尉 津田掃部助  平野九郎右衛門尉  河田九郎左衛門尉 

平野新八郎  越智又十郎   前田太郎助  生熊丹左衛門尉

梶原兵七郎   中川長助  岡本清蔵   伊知地與四郎 

大蔵五郎左衛門尉 岡本平吉  森權六郎

五番 中井組 

中井平右衛門尉  多賀長兵衛尉  松原五郎兵衛尉 溝口傳三郎 

小出孫十郎  荒川助八郎 吉田三左衛門尉  吉田九一郎   

石川長助  小原喜七郎  小崎兵衛門尉  石尾與兵衛尉

山名勝七     松浦金平   茨木兵蔵  薄田清左衛門尉 

赤座藤八郎   安宅源八郎  矢野九郎次郎   佐久間葵助   

加藤小助  吉田又七郎

六番 堀田組

堀田図書助   上條民部大輔  野々村次兵衛尉 村瀬宗七郎  

余語久三郎  伊木半七  加藤清左衛門尉  大山勝兵衛尉  

大津久兵衛  山本加兵衛尉 桑山市蔵  山田平兵衛尉

井上彦三    林猪兵衛尉   生熊與三郎  寺島久右衛門尉 

矢野久三郎  団甚左衛門尉  村瀬喜八郎  吉田市蔵  粟屋弥四郎

本丸廣間之番衆 馬廻組

一番 伊藤組

伊藤丹後守  津田小兵衛尉 桑原将八郎 福原太郎右衛門尉 

木全又左衛門尉 長鹽弥左衛門尉  吹田毛右衛門尉  村田将監   

岡村弥右衛門尉 那須助左衛門尉 藤堂勝右衛門尉 上原次郎右衛門尉

三上大蔵丞   酒井助允   小栗助兵衛封 三牧太郎右衛門尉 

岡田勝五郎  尾関喜介  津田新右衛門尉  清水弥左衛門尉 

竹内虎介  高橋弥三郎  吉田次兵衛尉 吉田彦六郎

松井新助   柴田弥五左衛門尉 三村九郎左衛門尉 

山口藤左衛門尉  村上兵部丞

二番 河井組

河井九兵衛尉   三好孫九郎   森宗兵衛尉   三好新右衛門尉  

生駒若狭守  三好為三  石河忠左衛門尉  佐々喜藤次   

生駒孫介   柘植平右衛門尉  飯沼五右衛門尉  跡部佐左衛門尉

宮島甚五右衛門尉  河井次右衛門尉 寺西半左衛門尉 加須屋與十郎  

伊藤長蔵  能勢右衛門尉  林喜平太   林助十郎    林長太郎    

生島佐十郎   三宅善兵衛尉  溝口新介

三番 眞野組

眞野蔵人  赤松次郎太郎  津田小平次  赤松伊豆守  小崎新四郎  

堀田三左衛門尉  太田平蔵  堀田部介   平 彦作   桜木新六   

塚井新右衛門尉 堀田權八郎  佐々權左衛門尉  木村藤介  河北算三郎  

清水喜右衛門尉  平塚因幡守   乾彦九郎  今井兵部丞  貝塚五兵衛尉  

栃木六兵衛尉  眞野佐太郎  平野甚介

四番 佐藤組

佐藤隠岐守  伊丹兵庫守  長谷川甚兵衛尉 小笠原左京太夫 

竹腰三郎左衛門尉 大屋三右衛門尉  福富平兵衛尉  赤座弥六郎  

上野中務少輔  飯沼金蔵  安部仙三郎  河村図書助

飯沼仁右衛門尉 寺町宗左衛門尉 大屋助三郎  青木善右衛門尉 

河村彦三  佐藤助三郎  余田源三郎  橋本九郎右衛門尉 古田宗四郎  

寺町新介  吉田宗五郎  安見新五郎  飯尾兵左衛門尉  寺町孫四郎  

佐藤孫六郎   舟津九郎右衛門尉 赤部長介

五番 尼子組

尼子三郎左衛門尉 春日九兵衛尉  東條紀伊守  中村掃部助  

高橋三右衛門尉 進藤進次郎  永原孫左衛門尉  山岡修理亮  

上田勘右衛門尉 三好助兵衛尉  井上新介  梅原傳左衛門尉

河毛九郎左衛門尉 田那部小傳次 野間久左衛門尉 青木左京進

渡邊九郎左衛門尉 河毛源三郎  岳村與八郎  松田源兵衛尉 

水原又進  河副源二郎  伊藤半左衛門尉 田那部與左衛門尉

河毛勝次郎  野間長次郎  齊藤吉兵衛尉  荒木助右衛門尉  

賀藤弥平太

六番 速水組

速水甲斐守  佐々木孫十郎 白樫主馬助 白樫三郎左衛門尉 

山中又左衛門尉 渡邊半右衛門尉  本郷小左衛門尉 小坂助六  

千秋三郎  夫間甚次郎  北村宗左衛門尉 薮田伊賀守

森藤右衛門尉  森村左衛門尉 篠原又一郎 萱野左太夫 

佐々木十左衛門尉 佐々喜三郎  山内善助  山本太郎右衛門尉  

宮崎半四郎  青山助六  竹内源介  南見孫介

安居傳右衛門尉  北村五助  鈴木與三右衛門尉

    右一日一夜宛無懈怠可令勤仕者也

     七月廿二日       御 朱 印

 大政所の異例日々に宜しからず、毎日の通報軍営に達したれば、今はとて文禄元年七月二十二日名護屋を発す、船頭明石與次兵衛船方を掌ったが。時に毛利輝元は朝鮮に出陣中であって、其の長子秀元は年少にして本国に止まり居光れば、名護屋陣中に公の機嫌を奉伺中であったから、公に従ひて国に帰った。然るに関門海峡を過ぐる時俎瀬(マナイタゼ)の難所にかゝりし頃、自然一大事もあらざるにやとて秀元は己が座船を急がしめたるに、果たせる哉公の乗船彼の瀬に坐礁して危機一髪の観ありしが、幸にして秀元の船に救はるゝことを得た、依って公は秀元の功を賞して宰相に任ぜられた。さて明石に對しては糺明ありたるに、彼辯明しけるには、此所は難所と聞きつれど中国の地公に叛せんと傳ふれば、此の航路を取りて豊前地沿岸を辿りたるものなりと。公謂へらく、中国殿の船に移乗してこそ危難を免れたのである、偖々言語道断のことなりとて、内裏ノ濱にて明石が首を刎らる。

 同月晦日京師に着せしに、既に大政所は廿五日薨去して居た、公之を聴き大に慟哭して臨終に逢はざりしを遺憾として、痛恨の極少時昏倒するに至った、公が如何に母親に對する孝道の念深厚であったかを察するに足る。かくてあるべきにあらざれば、前田玄以に喪儀を主掌せしめて、頗る盛儀を尽して大徳寺に葬らしむ。

    一四、名護屋陣中の遊興

 豊公は其の歳九月再び名護屋に下向して軍務を督し、軍事多端の際にも興を遣り徒然を慰めて、将士と共に陣営の間に歓楽を分った。文禄元年も暮れて二年の春を迎へしに、折ふし山城国八幡山の暮松新九郎は年頭の祝儀を申さんとて、名護屋軍営に奉伺したるに、公の満足一方ならず、暮松に就きて能の稽古を始められ、最初は山里丸にて伽衆ばかりを召し出して稽古ありしが、次第に其の技進みしかば、今は表向きにて物し給ふとも苦しかるまじきよし暮松言上せしに、今一入の練熟をなさばやと謂ひつゝ、弓八幡は天下を治め民を安んずる能であればとて、殊の外練習を重ねらる。

五十日許りの内に十五六番の稽古ありしが、日数を経るに従ひ其の技益々妙に入る観る人感ぜざるはなかりしが、暮松には金銀御服など夥しく賜はった。諸侯大夫の面々も一方ならぬ稽古に熱心であれば、暮松が門前は常に賑である。さて太閤は新に金春大夫八郎・観世大夫左近を召し下し、能の演技を為さしめんとて使者を立てられければ、二月下旬両人名護屋に到着した、太閤の満足一方ならず、金春家の名物こおもて・はんにゃ・小尉・三光之尉、観世家の名物ふかひおもて・しは尉・あこみの女・こへしみなと・を模造したき旨、内々所望ありしかば、辞み難きことなれば、即ち面を差し上げければ、其の頃山城宇治郡醍醐の角ノ坊とて、面などを模造して類なき名人ありしゆゑ、召し下し模造するやう木下半介に下命あつたが、早速角ノ坊来りて十日計りのうちに五筒出来上りたるが、実物と模造物との区別も分かざる程巧に出来上った、太閤の御感斜めならず、種々の引出物の下賜ありて、残余の面共も出来上りたれば、おもての天下一號を授けんとて、家康・利家などにも諮りて、異議をかりしゆゑ、其の夜召し出して、銀子五十枚並に天下一號の御朱印状を給はった。かく能に嗜好を有せられしかば、名物のおもて諸所より聚ること夥しきことであった。

     同毎四月九日名護屋本丸にで能の次第

翁   金春八郎  千歳振  大蔵六  さんばさう  大蔵亀蔵

  もみ出し 大蔵平蔵  とうとり 幸五郎次郎

一番 高 砂

 太夫 金春八郎 わき 金春源左衛門尉 つれ 長命甚次郎

 太談 大蔵平蔵 小鼓 幸五郎次郎   笛  長命吉右衛門尉

 太鼓 金春又次郎 あひ 大蔵弥右衛門尉 狂言 長命甚六 大蔵亀蔵

二番 田 村

 太夫 金春八郎  わき 金春源左衛門尉  太鼓 樋口石見守

 小鼓 観世又次郎  笛 長命新右街門尉  あひ 大蔵亀蔵

 狂言はなとり大名 弥右衛門 相撲今参り 甚六

三番 松 風

 太夫 金春八郎  わき 金春源左衛門尉  つれ 武俣和泉

 太鼓 樋口石見守  小鼓 幸五郎次郎  笛  八幡助左衛門

 あひ 長命 甚六  狂言釣きつね  祝弥三郎  あと甚 六

四番 邯鄲

 太夫 金春八郎 わき 武俣和泉  太鼓 大蔵平蔵

 小鼓 幸五郎次郎  笛 長命吉右衛門  狂言 弥右衛門

五番 道成寺

 太夫 金春八郎  わき 武俣和泉  太鼓 大蔵平蔵

 小鼓 辛五郎次郎  笛  長命吉右衛門   狂言 弥右衛門

観覧中の諸侯等には酒肴のもてなしあり、太夫並に座の者共には御服を、八郎には唐織菊の御紋付きたる小袖二重を下賜せられた。

六番 弓八幡

 太夫拝領の小袖を着して座に着きて、御祝言を仕つる。

七番 三 輪

 太夫 金春八郎  わき 春藤六右衛門  太鼓 大蔵平蔵

 小鼓 観世又次郎  笛  長命新右衛門  太鼓 金春又二郎

八番 金 札

 太夫 金春八郎  わき 金春源左衛門  太鼓 大蔵平蔵

 小鼓 幸五郎次郎  笛 長命吉右衛門  太鼓 深谷金蔵

長閑なる残春の頃、和気靄然たる一日は、松浦潟青海波も治まりて、目出度き歓楽に陶然として酔へる様であった。

 また同二年六月廿八日、太閤を始めとして諸侯等異様なる仮装をなして、濶やかなる瓜畑に粗雑なる仮屋を営み、種々の遊興をなして長陣の欝を散ぜんとて、太閤は、柿帷を着け、藁の腰簑を纒ひ、黒頭巾を頂き、菅笠を肩にして、味よしの瓜召され候へと触れ歩きたれば、聊も瓜売り人に違ふ所もなく、観る人をして笑嘆せしめしこと一方ならざりき。

一、江戸大納言家康は、あじか売りに眞似て、大様に、あじか買はし買はしと呼び歩きたるは、又よく似合ひたり。

一、丹波中納言秀勝は、漬物瓜を荷ふて、かりもりの瓜、瓜めせ瓜めせと不束にのゝしり歩きければ、実にも若きは何事も無功に有るよと思はれて年は取るべきものにて、又取るまじきものと云ひ合へる人も多かった。

一、常眞公は遍参僧に仮装し、文庫を浅ましげなる同宿に持せ、修行の体に物しけるも。蛇に衣を着せたる様にて、横着に見えたり。

一、加賀大納言利家は、高野ひじりのおひを肩に懸け、やどやどと声を長く引きて、如何にも宿借り佗びたる声さも有りげに覚えて、聊哀を催ふした。

一、會津忠三郎氏卿は、荷ひ茶売りになりて、太閤へ極上の茶を立て参らせて、代金を強く請ひしは一興であった。

一、三松老は、赤き半帷を上に打ち羽織り、つるめせつるめせ、又御用の物もなどゝ云ひつゝ、空めき笑めるも又可笑し。

一、織田有楽老は、客僧の姿に出で立ち、修行者の老僧に、瓜御結縁あらぬかと請ひたるに、太閤手づから施し給ふに、いや是は熟せぬとて成熟の者を望めるなどは、いと可笑しきことであった。

一、有馬中務卿法印は、有馬の池坊に成りて湯文を説き廻り、有馬の湯の徳を事々しく云ひ立てしは、所柄とて能き作意であると思はれ、此人は物毎に機智に富めるならんとて、人々思ひ合ひしやうであった。

一、前田民部卿玄以法印は、比丘尼に出で立ちしが、脊高く肥え太りたる比丘尼の、醜体なる顔ざしに可笑しき声で、唯念佛を常に申せば必ず成佛すべしと説法した。

一、放籠屋の亭主には、蒔田權左、其の妻には藤壷とて太閤の中居なるもの、白生絹を着し黒緞子の前掛け、襷は紅糸にて打ちたるものを用ひたるも、よく似合った。

一、茶屋の亭主には三上與三郎、其の妻にはとこなつとて是も太閤の側女であったが、出で立ちは荒ましき濶袖の浴衣に、繻子軽袗(カルサン)、南蛮頭巾を蒙りて御茶上り候へ、温き饅頭もおあはしまし候など中々に愛嬌を盡くし、又藤壷は御飯まいり候へ、甘酒も生蕎麦も候と云ひつゝ、太閤の御手を引き招し申せば、殊の外御機嫌にて、布袋の笑める様に目も口もなき計りであった。

其の他に、禰宜・虚無僧・鉢叩き・猿使ひなど様々の仮装遊興盡くる間もなく賑ひて、僻遠の地幕営の間軍務鞅掌の暇に、慰籍を他に求むべきもの少ければ、上下挙りてかゝる遊興によりて歓楽を分ち欝懐を散じた。

 一五、和議及び其の間の戦争

 曩に明の援軍租承訓等が敗戦するや、當時明廷は神宗の治世であって、北には満洲の地に愛親覚羅氏起らんとし、西には寧夏の乱擾がしく、内には東林の黨争止まず、所謂内憂外患竝び臻るの秋であれば、我が国との和議の説を為すもの亦多く、兵部尚書石星其の説を賛し、説客をして和を講ぜしめ、其の間に奸策を弄せんとした。時に無頼の遊客沈惟敬をるもの、其の妾の下僕に就きて多少我が国の事情に通じて居た。依って惟敬は石星に見えて曰へるに、日本が大陸に軍旅を出すは秀吉が封貢を欲するに外ならないのであると、石星依て惟敬を抜擢して遊撃将軍となし、平壊に至りて我が軍に説かしめた。文禄元年九月順安に至り行長に會見を求めしに。行長は宗義智・柳川調智・僧玄蘇と共に乾伏山下に於て、彼と會見して和約の事を議せしに、惟敬一旦帰国して裁許を得んとて五十日間の休戦を約し、平壊の西北約十里なる谷山院を境界として、両軍この境を超ゆる事なきを定めた。行長は之を漢城の浮田秀家及び石田・増田・大谷の三奉行に報じ、惟敬の報を待ちしに、稍々期に後れて十一月彼再び来りたれば、行長は彼を伴ひ名護屋の本営に赴がうとした。

 然るに明廷の和議は詐謀であった、乃ち李如松を防海禦倭総兵官となす、既に寧夏の乱も鎮定したれば、任に東方に赴いた。我軍が惟敬の約を信じて備へざるに乗じ、如松五萬騎を率ゐて平壌に迫った。初め行長は明兵の至るを見て封貢使の来るとなして備をなさず、然るに如松突然起って城を襲ふ、時に文禄二年正月六日である。義智等牡丹臺に利あらず退て城を守りしに、敵軍三面より合撃したれば、行長の兵は一萬数千騎に過ぎざりければ支ふること能はず、大友義統に應援を請ひしも至らず、行長止むなく退却して漢城の本隊に合した。然るに開城に居た小早川隆景・黒田長政・立花宗茂等は、敵の追撃軍を碧蹄館の南方礪石嶺に激撃し、同月廿七日夜宗茂の兵敵の硝兵と衝突し、翌廿八日隆景全軍を三隊に分ち、親ら敵の前面に備へ、長政其の後方に予備隊として控へ、宗茂及び毛利元康・同秀包の軍を嶺上に配置し、如松の軍進んで隆景の兵と奮戦酣なるの頃、嶺上の兵俄に敵の中腹を突きて彼の不意を撃つ、敵軍混乱旗色清乱す我軍之を見て隆景と予備隊と共に電光石火の勢を以て敵を突破し、追撃殺倒息をも休めず敵に迫つたが、敵の死傷一萬余人を算するに至り如松僅かに平壊に逃れ、再び和を講ずるに至った。

  ○名護屋條約

 碧蹄館の敗戦より明廷も眞に和議を欲し、我軍にても平壊の失敗を幾何か意とし、加之異域にありて櫛風淋雨の苦惨を嘗め病患相踵で至り、且つ一時休戦をなしたるため郷国を思ふものも漸く多くして、諸将の和を望むもの次第に多きを加ふ。恰も此の際明は徐一貫・謝用梓を挙げて使節となし、惟敬と共に行長の営に至りて和議を提唱した。依って明使の請ひにより漢城の兵を南韓の地に移した、末だ和議の成否も決せざるに、軽々しくも占有金点を引き攘ふが如きは、如何に我軍に和議を欲するものありと雖も、局に當れるものゝ大失態であって、我が外交の失敗甚しきものと云はねばならぬ。五月十五日行長明使と共に名護屋に至り左の七箇條を議定した。

    大明日本和平條件

一、和平誓約無相違者、天地縦雖盡不可有改変也、然則迎大明皇帝之賢女、可備日本之后妃事。

一、両国年来依間隙、勘合近年断絶矣、此時改之、官船商船可有往来事。

一、大明 日本通好、不可有変更旨、両国朝權之大官、互可顕誓詞事。

一、於朝鮮者、遣前駆追伐之矣、至今弥為鎮国家安百姓、雖可遣良将、此條目件々、於領納者、不顧朝鮮之逆意、對大明、割分八道、以四道竝国城可還朝鮮国王、 且又前年従朝鮮差之使、投木瓜之好也、余薀付與四人口実。

一、四道者既返投之、然則朝鮮王子、竝大臣一両員、為質可有渡海事。

一、去年、朝鮮王子二人、前駆者生*(テヘンニ禽)之、其人非凡間、不混和平、為四人度、與沈遊撃、可帰舊国事。

一、朝鮮国王之權臣、累世不可有違却之旨、誓詞可書之、如此旨趣、四人向大明勅使縷々可陳述之者也。

    文禄二年癸巳六月廿八日

                    御朱印

                            石 田 治 部 少 輔

                            増 田 右 衛 門 尉

                            大 谷 刑 部 少 輔

                            小 西 攝 津 守

猶また之に添ふるに次の諭告文を以てした。

   對大明勅使可告報之條目

一、夫日本者神国也 神而天帝、天帝而神也、今無差、依之国俗帯神代風度、崇王法体天則、地有言有令。雖然風侈俗易、軽朝命、英雄争權群国分崩矣。予懐胎之初、慈母夢日輪入胎中、覚後驚愕、而召相士筮之。曰天無二日、徳輝弥綸四海之嘉瑞也。故及壮年夙夜憂世憂国、再欲復聖明於神代遺威名於萬代、思之不止。纔歴十有一年、族滅凶徒姦黨、而攻城無不抜、国邑無不有、乖心者自消亡矣。已而国富家娯、民得其処心之所欲無不遂。非予力、天之所援也。

一、日本賊船、年来入大明国横行于処々雖成寇、予會依有日光照臨天下之先兆、欲匡正八極。既而遠島邊陬、海路平穏、通貫無障礙、制禁之。大明亦非所希乎、何故不伸謝詞、盖吾朝小国也、軽之侮之乎。以故将兵欲征大明、然朝鮮見機差遣三使、結隣盟乞燐、丁前軍渡海之時、不可塞粮道遮兵路之旨、約之而帰矣。

一、大明日本會同事、従朝鮮至大明啓達之。三年内可及報、約年之間者可偃千戈旨諾之。年期已難相過、無是非之告報、朝鮮之妄言也。其罪可逃乎。咎自己出、怨之所攻也。此故去歳春三月、到朝鮮遣前駆、欲匡違約之旨、於是設備築城高壘防之矣。前駆以寡撃衆、多々刎其首、疲散之群卒伏林*(キヘンニ越)、恃蟷臂挙蟹戈雖窺隙、交鋒則潰敬、追北教千人討之、国城亦一炬成焦士矣。

一、大明国救朝鮮急難而失利、是亦朝鮮反間故也。於此時大明勅使両人、来于日本名護屋、両説大明之綸言、答之以七件。見于別幅、為四人可演説之。可有返章之間者、相追諸軍、渡海可遅廷者也。

     文禄二年癸已六月廿八日

                    御朱印

                           石 田 治 部 少 輔

                           増 田 右 衛 門 尉

                           大 谷 刑 部 少 輔

                           小 西 攝 津 守

 然るに七箇條の條件は明に達する前に、既に改竄せられ終つたのである、今、朝鮮の趙慶男撰の乱中雑録の一節を見るに。

 上聖普照文明、無徴不悉、下国幽隠之曲、有求則鳴。茲瀝卑衷、仰于天聴、欽惟皇帝陛下、天佑一総、日清四万。皇極建而舞于羽千両階、聖武照而柔遠人于萬国。天恩浩蕩、遍及遐邇之蒼生。日本 微眇、成作天朝之赤子。度托朝鮮而転達。竟為秘密而不通。控訴無門。不待已而構怨、飲悵 有日。非無謂而用兵。且朝鮮詐偽存心、乃爾虚*(サンズイニ賣)宸聴。若日本忠貞自許、敢為迎刄王師。遊 撃惟敬忠輸明、而平壌預譲。豊臣行長輸誠向和、而界限不逾。誰謂朝鮮反間、構起戦争。雖致 我卒死傷、終無懐報。第 王京惟敬舊約復申、日本諸将初心不易、還城廓、献芻蕘、益見輸城 之梱送儲臣帰土地、用盡恭順之心。今差一将小西飛騨守。陳布赤心。冀得天朝龍章銀錫。以為日 本鎮国寵栄。伏望廓日月照微三光、洪天地覆載之量。比照舊例、特賜藩名號、臣秀吉感知遇之洪休、若高深之大造。増重鼎品。共作蕩籬之臣豈愛髪膚。永献海邦之貢、祈皇基丕著於千年、祝聖壽 延綿於萬歳。(乱中雑録)

 是によりて見る時は、太閤が提出したる條件の一箇條をも認むることが出来ぬ、全く途中で改竄せられたることが明である。其の大意は太閤日本国王に封ぜらるゝを深く希望し、封冊の後は其の知遇の渥きに感じて明の蕃屏として朝貢を怠らざらんと云ふのである。全く太閤の意志でない。この大胆なる改竄は小西行長三奉行と惟敬との間に行はれしこと疑ないやうである、即ち行長等はこの講和條件を非常に秘密に附したりしが、比のこと清正より漏洩するに至った。そは朝鮮の僧侶に惟政(松雲大師)なるものあり、彼は清正・行長等の陣中に出入して我が将に知見がある、惟政は竊に和議の成り行きを探査するに、清正は條約の不調を望むが如く、行長は其の成立の早からんことを期せるを知るや、双方の間に往来して其の機微を洞察せんとして、清正の許に至り強て和議の條件を聴かんとせしに、清正語りて曰へるに、明の皇女を日本皇妃に配すること、又朝鮮八道中四道を日本に分割することなどを挙げしに、惟政次で行長の許に行きて詰りて曰へるに、卿は曩に太閤は単に封貢を希望して居ると云へるに、其の実は明の皇女を日本の皇妃に配すること以下諸件を含めるにあらずやと、然るに行長は極力之を非認した、惟政また惟敬を訪へるに行長と同じく強く清正の言を打ち消した。されど誰云ふとなく和議の條件は或は五箇條である、或は七箇條であると傳ふるやうになったから、惟政再び清正を訪ひたるに矢張り前言を繰り返した。(大森氏所説)

 ○名護屋滞留中の明使接待

 一、使節の宿所及び接待のこと。

   ○大明正使参将謝用梓    江戸大納言家康

   ○副使遊撃徐一貫      加賀大納言利家

    右宜被馳走旨也。

 よりて五月十五日より同廿一日まで、両卿之が接待の任を果し、其の後は左の如く定められた。

一番(自五月廿二日至六月朔日)    浅野弾正少弼

二番(自六月二日至同十一日)     建部壽徳

三番(自同十二日至同廿一日)     小西加清

四番(自同廿二日至七月朔日)     太田和泉守

五番(自七月二日至同十一日)     江川観音寺

 右如此令沙汰賄方之儀何れも手前の代官所之内を以、相計ひ可申者也。

一、使萬車用所等承、相調就可申者添奉行事。

 ○増田右衛門尉内    高田小左衛門 服部源蔵

 ○石田治部少輔内    井口清右衛門 大島甚右衛門

 ○大谷刑部少輔内    引壇傳右衛門 小岩内膳

 ○小西攝津守内     小西與七郎  結城弥平次

 右両人苑昼夜相詰め、萬事斡旋せしかば明使一方ならず便宜を得て感謝した。

一、明使へ五月廿三日御對面の式序             ′

 〇三 献    折など種々

 ○御盃臺

 ○御配膳衆

 御前 羽柴河内侍従 八幡侍従

 御酌 中江式部大輔

 御加へ 山崎右京進

同じ間列席の衆

  江戸大納言   加賀大納言   岐阜中納言   丹波中納言

  大和中納言   越後宰相

次之間参列の衆

  羽柴三吉侍従 龍野侍従  有馬中務卿法印  戸田武蔵守

  羽柴下総守  古田織部正  河尻肥前守  寺澤志摩守

  氏家志摩守  富田左近将監  奥山佐渡守  上田主水正

御酌かよひ衆

 尼子三郎左衛門尉  三上與三郎  新庄駿河守  長谷川右兵衛尉

 明使下賜之目録

一、御太刀 (長光、目貫笄後藤)

一、御太刀 (助光、目貫笄後藤)

一、銀子 三百枚宛

ー、小袖 二十重宛  

一、帷子 三十枚   

一、銀子(百枚筆談の玄蘇、西堂)

一、銀子(五百枚雇人供の下々)  

一、帷子 百  筒服 百 同下々へ

  ○對面彼の接待

 かやうにして謁見式終りて、金の数寄屋で茶を給ひ、晩餐の後は長谷川刑部卿法眼これを勤む。太閤は此の時床の側に座を構へ、茶道久阿弥、通ひは尼子三郎左衛門・三上與三郎奉仕し、諸侯大夫其の外の大官は、縁通りに居竝んだ。室内の装飾は、書院の道具も総て金装で、床の間には虚堂の墨蹟・玉*(石間)の夜雨・晩鐘・馬藺の朝山・青嵐を配したれば、彼の使臣等何れも嘆賞せざるはなかつた。

一、太閤明使の為に脚下の湾内に於て舟遊の事。

 名護屋の地は崛曲自然に興ありて、海水遠く彎入し海波静かに水深く、景勝稀なる地区であれば、彼の使臣之を賞観して嘉陵三百里の山水には及ばざるも、*(サンズイヘンニ肅)湘十里の風景には優れたりとて、即ち詩を賦して、重畳青山湖山長、無邊緑樹顕新粧、遠来日本傳明詔、遙出大唐報聖光、水碧沙平迎日影、雨微煙暗送斜陽、囘頭千態皆湘景、不覚斯身在異郷。

 沓旋*(車召)車来日東、聖君恩重配天公、遍朝萬国播恩化、悉撫四夷助垂忠、名護風光驚旅眼、肥州絶境慰衰躬、洞庭何及此晴景、空使詩人吟策窮。一奉皇恩撫八絋、忽蒙聖諭九夷清、晴光湧景霊蹤聚、山勢抱江煙浪軽、虔境奇踪難闘靡、楊州風物寧堪争、扶桑聞説有仙島、斯処定知蓬又瀛。

 太閤も明使が一聯に気色斜ならず、船を漕ぎ出さしめ、数百艘の大船に家々の紋章ある幔幕、或は旗或は指物を以て、飾り立て*(ヒ矢欠)乃歌など事々しく歌ひ騒ぎしかば、上下ともに離苦得楽の眺めに世塵を忘れ果てた。太閤其の日の行装は如何にも華麗を極め、虎尾の投鞘の鑓二百本、十文字長刀何れも金装燦然たるものを、茜の羽織を着したる中間三百余人に之を持たせ、供奉の輩も綺羅を瑩き善美を盡くす、又老武者の異様の出で立ちを為すものなどありて、千差萬態である。太閤は船中にて、明使其の他の倍伴の諸侯大夫にも饗膳を給し、酒宴頗る盛大である。序で御能の催ふしありて、観世・金春などを召して、音曲海上に響き渡り、龍神も感應有りげに覚え、明使も深く興に入り、寔に天人も影向するかのやうに見渡された。

 二人の明使並に玄蘇、西堂と船中にて相約し、翌六月十日の朝山里にて御茶を給はらしが幽邃閑雅の園庭はげに山里の名に負かなかつた。

一、山里にて御茶を給ひしこと、

    四畳半の御数屋装飾

一、玉*(石間)の帰帆の畫   

一、細口の花入    

一、新田肩衝(ニツタカタツキ)

    棚の装飾

一、茄子の茶入内側朱塗りの盆上に   

一、臺天目  

一、釜  

一、えんをけの水さし

一、水こぼしがうし   

一、象牙の茶杓

太閤自身にて通ひものし給へば、何れも感謝せざるはなかった。

 其の他五畳激のくさりの間、勝手の装飾など夫れ夫れ行はれて、勝手の間にては諸侯大夫に御茶を給はつた。

一、六月廿八日明使帰国に當りての下賜品目

一、生絹(スズシ)の摺薄帷子 二重宛     

一、辻か花染帷     十重苑

一、浅黄の表紋上品の帷子 廿 苑     

一、船中慰のため挽茶壷    三

一、眞壷(極上五斤入) 一箇

一、きりさきの旗   二本

一、白 米       五百俵     

一、諮白樽        百

一、雁、鴨       二 百     

一、鶏         二 百

      以 上

 又同時に、和議の用務を帯びて、朝鮮・名護屋間を往復十度許りにも及び、功労少からざりし岡田将藍、内藤飛騨守に、御帷子十苑、銀子百枚宛の賜給があった。

  〇和議不成立

 我が遣明使小西如安は惟敬等と共に明に赴く、この時名護屋城中に捕虜となって居た朝鮮二王子以下を帰還せしめた。如安は一旦遼東に留り、惟敬等先づ国都に入り予め計謀せるやうに、太閤封冊の事を朝廷に奏した、廷議其の要求の過小なるを以て疑議百出したるも、石星其の説を可とし、太閤を日本国王に封ずるに決し、如安を招いた。如安遼東にあること一年にして、文禄三年十二月明の国都に入る、其の謂ふところ亦同一であつた。明主疑念一掃して、三條を約した、曰く悉く日本兵を朝鮮より撤去すること、曰く封を許し貢を許さず、曰く誓って朝鮮を侵犯せざることである、よって李宗城・楊方亨の二人を刪封使となし、惟敬と共に我国に至らしむることゝなり。四年九月明使京城に入りて我軍の撤退を促す、翌慶長元年正月正使李宗城は我が兵の全く去らざるを恐れ、惟敬の奸策に陥りて釜山より遁れ還った、因て明は楊方亨を正使となし惟敬を副使に任じた。六月十六日釜山を発す、朝鮮は世子*(王韋)(ヰ)を遣はさんとなしたれども奸臣に妨げられて果さず、黄慎・朴弘長二人を使臣として明使と共に来朝した。公既に伏見城にあり、彼の使節直ちに泉州堺浦に向ひ、八月廿九日伏見に着いた。公は朝鮮王子の来らざるを怒りて其の使臣に面謁を許さなかつた。九月二月明使を引見して金印冕冠を受け、三日二使に謁し明の国書を僧承兌(ダ)をして読ましめられた。

 奉天承運、皇帝制日、聖仁廣運、凡天覆地載、莫不尊親帝命裨将。曁海隅日出、罔不率俾。昔我皇祖、誕夢多方、亀紐龍章、遠錫扶桑之域、貞珉大篆、栄施鎮国之山。嗣以海波之楊、偶致風占之隔、當*(玄玄)盛際、宜続*(ヨ粉廾)華章。咎爾豊臣秀古、崛起海邦、知尊中国、西馳一介之使、欣慕来同。北方叩萬里之門、懇求内附、情既堅於恭順、恩可*(革斤)於柔懐*(玄玄)特封爾為日本国王、錫之詰命、於戯、龍賁芝幽、襲冠裳海表。風行卉服、固藩衛於天朝。爾其念臣職之當修、終循要柬、感皇恩之己渥、無替*(ヒ矢欠)誠。祗服綸言、永遵聖教欽哉。

   萬暦二十三年正月甘一日

   (此の原本は巻軸であって石川子欝家に保存し、大幅錦にて大字一行四字を書す、其の摸写せるものは唐津中学校にも蔵して居る。)

 何たる不遜侮蔑の言を恣まゝにせる書辞なるぞ、果然太閤赫怒して使者を逐ひ、再征の令を下し、十月方享、惟敬等堺より名護屋に到りて順風を待つ、されど未だ豊公の再挙のことを信ぜなかった、数日にして寺澤志摩守到りて太閤の書を示した。一に曰く前年朝鮮の使至るも明の事情を陰せしこと、二に曰く惟敬の請ひに従ひ朝鮮二王子を返すも王子来り謝せざること、三に曰く日本及び明の和議は朝鮮の反覆によりて遅滞せしことの三事を詰問せるものであった、使者大に恐れて本国に帰る。 

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