https://gendaihaiku.gr.jp/learn/square/hairon_35/ 【第35回受賞作 天空の越後路・・・・・芭蕉は「荒海」を見たか 髙野公一】 より
一 遥遥えうえうのおもひ
酒田の余波なごり日を重かさねて、北陸道ほくろくだうの雲に望のぞむ。遥々えうえうのおもひ胸をいたましめ て、加賀の府まで百三十里と聞きく。
酒田での静かで内省的な七日間に、芭蕉はこれまでの旅の総括をし、新たな気持ちで北陸道に臨んだのではないかと思われる。そんな心の響きがこの一節に凝縮しているように読める。
元禄二年のはじめに、芭蕉は弟子達への書簡でこの旅の目的を明らかにしている。
又能因のういん法師・西行上人さいぎょうしょうにんのきびすの痛いたさもおもひ知しらンと、松嶋の月の朧おぼろなるうち、塩竈の桜ちらぬ先にと、そゞろに忙しく候。(惣七郎・宗無宛 元禄二年二月)
芭蕉を『おくのほそ道』(以下『ほそ道』)の旅に駆り立てたものは、陸奥の歌枕を巡り、能因、西行の踵を辿ることであった。そして、古人の詩魂に触れつつ新たな詩の創造に挑むことであった。出発から約三カ月、芭蕉は、白河、塩竈、松島、平泉、そしてついに象潟に辿りついた。象潟は松嶋とともに、この旅の最大の目当てであった。「松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。」陸奥の歌枕を巡る旅がピークアウトした瞬間であった。
その直後、芭蕉は酒田の伊東玄順邸に身を置きながら酒田の街の喧噪から身を遠ざけ、陸奥の歌枕を巡る旅の目的が十分に果たされたことを思っていたに違いない。
旅の目的がひとまず達せられた満足感と同時に、芭蕉はまた旅というものの不思議さを思わずにはおられなかった。旅には思いがけない出会いがある。そして、この度の旅での、最も大きな出会いは山河日月、天地天空そのものであった。それらが、時に音となり、動きとなり、光となって、眼前に立ち現われ、芭蕉はそれらを全身で感受したのである。
閑しづかさや岩にしみ入いる蟬せみの声
五月雨さみだれをあつめて早し最上川
雲の峰幾つ崩くづれて月の山
「月の山」の句は月山登山の時の吟である。『ほそ道』ではその時のことを「日月行道の雲関に入かとあやしまれ・・・・日没て月顕る。」と書いている。これは、『ほそ道』冒頭の「月日は百代の過客」に対応するもので、この時に初めて芭蕉は、李白の「春夜桃李園ニ宴スルノ序」の詩の時間論と天地観を全たき姿で把握したと言われている。(注1)
酒田の静かな日々の中で、芭蕉はこの旅のもたらしたものが、天地そのものとの生々しい邂逅であり、自身の天地観の深化であり、新たな俳諧の出発への確信でもあることを改めて思い定めていたに違いない。
「遥々のおもひ胸をいたましめて」は、帰り道の長さを思うだけではなかった。
二 『曾良日記』の旅
陰暦六月二十五日、酒田を発った芭蕉と曾良は日本海沿いの浜街道を大山、三瀬、温海と南下、温海では二人は別行動をし、芭蕉は鼠ヶ関に足を運び、その日、二人は中村に宿泊、翌日は葡萄峠を越えて村上に到着する。
村上で二泊して、新潟、弥彦、寺泊を経て、出雲崎に到着する。酒田を発ってから八日後の七月四日であった。
翌日、柏崎では宿のことで不快なことがあった。再三止められるのを振り切って雨の中を鉢崎まで十六キロも歩き続ける。芭蕉はひどく腹を立てた。
翌日の直江津(今市)でも行き違いがあった。宿泊予定の聴信寺は紹介状があるにもかかわらず「忌中ノ由ニテ強テ不レ止」。結局は古川という人のところに泊るのだが、行き違いや思い違いが交叉して、芭蕉はここでもいたく腹を立てる。しかし、この夜の句座で「文月や」の句が披露される。
その後は高田、能生、糸魚川を経て市振に到着する。
三 [ほそ道]の沈黙
越後路の実際の旅の様子は『曾良旅日記』でざっと見てきたようなものであったが、『ほそ道』には、それらが書き留められることはなかった。
鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行あゆみを改て、越中の国一ぶりの関に到る。
此間九日このかんここのか、暑湿しょしつの労に神しんをなやまし、病やまひおこりて事をしるさず。
文月ふみづきや六日むいかも常の夜には似ず
荒海あらうみや佐渡によこたふ天河あまのがは
越後にはたいした歌枕も景勝地もない、それらを書きつらねて、この紀行文が長々しくなることを避けるために芭蕉は思い切った省略をした。安永年間の古註以来、それが越後路の不記載の伝統的な解釈になって今日に至っている。(注2)
しかし、越後路の完全省略はそれだけの理由なのだろうか。芭蕉の胸にもっと積極的意匠があったのではないのだろうか。そう思わせる徹底した沈黙であり、また何の前書き後書きもなく、唐突に置かれた「文月や」「荒海や」の二句の立ち姿に何やら胸騒ぎがする。
四 断章の絵巻
『ほそ道』の草稿には越後の記事が多く書かれていた。それが朱と墨で抹殺されていた。その草稿を見た人がいた。江戸末期の証言である。今では実証は出来ないことであろうが、興味をそそられる。
「幕末頃に、越後路の事も多く記し、それを朱や墨で十字に消してあった『細道』の芭蕉自筆本が、曾良の『腰帳』と共に信州から売り出て、松平志摩守が買い上げたという記録があり・(中略)・・」(注3)
江戸中期の芭蕉研究家である蓑笠庵梨一の『奥の細道管菰抄』に幕末の俳人、本間契史が様々な注解を蔵書に書き込んであるものが残っている。そこに右の記載があったのである。
そもそも、『ほそ道』の完成までのプロセスはどんなものであったのか。旅を終えて後、四、五年もかけて完成したこの小冊子は、ある日、冒頭から一気に書き下ろされたものでないことは完成された姿からも想像出来る。
現在まで残っている芭蕉の散文に俳文と呼ばれているものがある。発句の前書き程度のものから本格的な文章に発句がそえられたものもある。有名な「幻住庵記」もその一つである。その中で『ほそ道』の旅の文章も多く残されている。(注4)
奥の田植歌 文字摺石 松嶋前書 法の月
銀河の序 温泉ノ頌 敦賀にて
これらの文章の多くは細道の旅の中で書き記されたと考えられる。(注5)又、旅の直後のものと見られるものもある。そして、その一枚一枚の断章を折り綴るように、懐紙を重ね合わせて、一巻の物語が次第に出来上って行ったのであろう。『ほそ道』のそれぞれの場面の対称性や変化は、このような断章の組み合わせで生まれ出た。その組み合わせは、原則は旅の行程に沿いながらも、虚実を織り込んだ、俳諧師の感性によって取捨選択され、絵巻物のように配列されていった。
ある断章はすっかり書き直されて『ほそ道』に残る。ある断章は繰り返し手を入れられる。そして、ついに、『ほそ道』から除かれたものもあった。
五 越後路の俳文
『ほそ道』の草稿には「越後の事も多く記し」てあったとする幕末の証言、その事は十分あり得ることとして、そこにははたしてどんなことが書かれていたのであろうかと想像してみる。手掛かりはやはり残された俳文だが、その数は少ない。 後で詳しく見る「銀河ノ序」を除くと次の三篇で、一つは存疑の碑文である。(注6)
(一)「文月や六日も常の夜には似ず」の詞書 今市
(二)「薬蘭にいづれの花をくさ枕」の詞書 高田
(三)「汐越しの鐘」句文(存疑) 能生
ここにあげた俳文はどれも、それ自体は『ほそ道』本文にあってもおかしくない。㈠は「文月」の句の導入として邪魔にならない。㈡の薬蘭は、本文の「病おこりて」を具体的に敷衍することに役だち、㈢の汐路の鐘の話も珍しい旅の話である。他にも幾つもの断章が書かれた可能性はあろう。しかし、芭蕉が越後路において書き記したものの中で最も執着した断章は「銀河ノ序」であり、それは旅の途上で書かれ、旅が終わってからも、幾度も書き直された。
しかし、越後路の断章のどれも『ほそ道』最終稿に残ることはなかった。幕末の証言にある、朱墨で抹殺された「多くの」記事はこれら全てであったかもしれないし、「銀河ノ序」だけだったかもしれない。
越後路には、見るべき歌枕も景勝地もなく、それ故、越後路の記事が残らなかったと簡単に片づけては核心を見落としてしまうことになるのではないか。少なくとも、「銀河ノ序」は、『ほそ道』本文への挿入の可否は芭蕉が最後まで迷ったものであったと思われる。
六 銀河ノ序
「銀河ノ序」はさまざまな形で後世に伝えられたが、最終稿と目されるものが『風俗文選』他に納められている。蕉門俳人二十七人他の文章百十五編他を収めた、この撰集は、芭蕉が没した十二年の後に、弟子許六によって出版されたものである。
この「銀河ノ序」には初稿に近いものと、それ以降の推敲のあとが辿れるものが残されている。(注7)
初稿に近いものは、平易な文章で綴られている。
ゑちごの国出雲崎といふ処より、佐渡がしまは海上十八里とかや。谷嶺の嶮岨くまなく、東西三十余里、波上によこをれふせて、まだ初秋の薄霧立ちもあへず、さすがに波もたかゝらざれば、たゞ手のとゞく計になむ見わたさる。
・・・・中略・・・・・
あら海や佐渡によこたふ天河
この稿では出雲崎で実際に目にした情景の描写が中心になっているが、稿が改まるたびに、より文学的な修辞へ変貌して行く。発句「荒海や」の世界に地の文章が近づき、句に共鳴するような俳文が練り上げられてゆく。
最終稿の佐渡ヶ島のところを読んでみる。
・・・・前半略・・・・
嶋はこがねおほく出て、あまねく世の寶となれば、限りなき目出度嶋にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるヽによりて、たゞおそろしき名の聞えあるも、本意なき事におもひて、窓押し開きて暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかヽりて、星きら〳〵と冴たるに、沖のかたより、波の音しば〳〵はこびて、たましゐけづるがごとく・・・・・
この文章は『ほそ道』に一章をなすものであっても何ら遜色ないことは明らかである。これを、現在の「文月や」「荒海や」の二句二行の代わりに、その場に挿入する構成は十分にあり得たことである。
芭蕉はこの展開を考えなかったはずがない。最終稿の文章が美文に流れ、象潟の文章と競い合うように屹立しすぎるなら、初稿に近い文のように素朴なものでよいのかもしれない。しかし、芭蕉は最終的に、「銀河ノ序」とともに越後の道中の一切を切りすてる決断をした。「朱墨で抹殺」したのである。
七 自筆本の謎
一九九六年十一月、芭蕉自筆本の『奥の細道』が「発見」された。中尾本の出現である。この「自筆本」一万六四一字の総点検をした上野洋三氏は、「文月や」「荒海や」の句から市振の記述に及ぶ部分(第二十四丁)を記す懐紙は、差し替えられたか、後から新たに差し入れられた可能性が極めて高いことを発見した。それは「差し替えられたというよりも、この丁の文章・句の全体が、まったく新しく書き加えられて、最後の段階でこの位置に挿入されたのではなかろうか」と推論する。
芭蕉手作りの自筆本の現物をつぶさに観察して、「文月や」「荒海や」とそれ以降の文章が、その扱い、文字列の並び具合、文字の大きさなどから、それ以前にあった懐紙を捨て去り、新たにこの丁を挿入されたらしいという断定の根拠は具体的で説得力がある。(注8)
ほぼ整った『ほそ道』懐紙の束から、一つの懐紙が捨て去られ、新しく書かれた懐紙が加えられた。取り除かれた懐紙には、「銀河ノ序」か、それをも含む越後路の「多く」が書かれていたに違いない。
八 暗闇
多くの越後路の記載が朱墨で抹殺されている芭蕉自筆原稿があったという古い証言。また、自筆本二十四丁の現物の姿から、「文月や」「荒海や」とその後に続く市振の記事が新たに差し込まれたらしいという見解。それらは今や証明出来ることではないし、証明しようとする事がこの論の目的でもない。ただ芭蕉が断行した思い切った越後路の旅の省略の周辺に目を注ぎ、その真意を理解し、そのことによって越後路の芭蕉とその作品二句をより深く鑑賞しようとしているのである。
これまでの検証から、少なくとも、『ほそ道』制作のプロセスとして、芭蕉は越後路の何らかの断章を書きながら、ついにはそれを放棄したということは、間違いない事実と考えられる。そして、その理由は、越後にはたいした歌枕も景勝地もなく、それらを書きつらねて、紀行文が長々しくなることを恐れたというのが伝統的な解釈であったが、近年はこの省略にそれ以上の芭蕉の意匠を見ようとする見解が出てきている。越後路は、重要な象潟と市振の断章の間に位置するため、バランス上簡略にしたといった見解などである。更に、象潟から市振という恋の場面を七夕の恋の連関で結びつけるためであるとする意見もある。何れも、越後路の記載の省略は、それ自身がさほど重要でないという点では一致しているようである。
しかし、この断固として徹底的な「省略」には、越後路そのものの本情に起因する積極的な意匠が隠されていると思われる。
消去し、省略をし、そこには何も残さない。それはどういうことなのだろう。結論を言ってしまえば、芭蕉は思い切った全的な消去・省略によって大きな「無」、或は、全き「闇」をそこに生み出したのだと思う。それは、身の回りで起こっている日々の一切合切を消し去ってしまった後に生まれた暗闇である。旅にある自分の身辺雑事のみならず、人界に起こったすべてを無とした後の沈黙である。それは、つまるところ、越後路の空間と時間の現実の全てをぬぐい去って大きな暗闇と化してしまったということである。そして、その暗闇の真っただ中に
文月ふみづきや六日むいかも常の夜には似ず
荒海あらうみや佐渡によこたふ天河あまのがは
の二句を立てたのである。
その瞬間、その暗闇はたちどころに夜となり、夜空となり、天空となり、宇宙となった。この沈黙の宇宙に、二つの句の下で、星の恋が灯り、人間の孤愁とあくがれが立ち上り、海が躍動し咆哮し、銀河が生まれ輝き、それら一切が交響する、その絢爛の座としての暗闇の創造こそ、激しく徹底した省略の意匠であった。省略によって生み出された、この暗黒に屹立する、この二句の美しさは、その暗黒故に愈々光輝を増すのである。
暗闇、それは「光」を生む「闇」であり、「音」を生む「黙」であり、「有」を生む「無」である。そういうものの総体としての暗闇が、徹底した省略によって生み出さたのである。すべてが生起し帰結する悠久。その無限と沈黙。これは芭蕉がすでに出羽三山で見たものであった。
雲の峰幾つ崩くづれて月の山
この句には悠久を見つめる眼差しがある。
「日月行道の雲関」「日没て月顕る」(注9)の天体宇宙世界の姿を凝視した者の胸に迫る時の流れが感受されている。幾つも雲の峰が湧き、崩れ、そして変わらぬ月山がある。その月山も雲に隠れ、雲が崩れてその姿を顕し、時には月光を浴び、文字通り月の山となり、刻々見た目の姿を変える。雲の姿は変わり、月山の眺望も変化する。しかし、月山はそこにあり続け、雲が湧き、崩れる、その営みは太初から続き、いつまでも変わらない。「天地者ハ万物之ノ逆旅」「光陰者ハ百代之ノ過客」が一つの詩的映像となって、言いとめられた瞬間であった。
荒海あらうみや佐渡によこたふ天河あまのがは
ここでも同じ視線と詩興がある。暗闇の中に海が咆哮し、暗闇の中に銀河が光る。雲の峰が崩れるように、荒海がうねり叫び、月の山の如く銀河が横たわる。動くものは動き、変化するものは変化しつつ、一切が悠久の時の中に存在する。その様相の把握の共通性は「雲の峰」と「荒海」、そして、「月の山」と「天河」の対応、更には、「いくつ崩れて」「佐渡によこたふ」の対照性に如実に示されている。芭蕉は月山で見たものを、日本海でも見ているのである。
月山登山では「雲霧山気の中に、氷雪を踏で」、越後路では「暑湿の労に神をなやまし」、何れも肉体の極限の中で、天地の悠久な営みに目を見張るのである。
そのことを最も効果的に提示する為に、旅路の詳細を一切「省略」し、そこに大きな暗闇を天空のごとく置いたのである。
九 芭蕉の山河
「荒海や」の句は、その作られた日と場所をピンポイントで確定しようと努力がなされて来たが、様々な矛盾があって確定することが出来ないでいる。(注10)
現在では大方の見方は「海岸線を辿った長途の旅中、北の海の日々の印象が漸次醸成されてこの句になったとすれば、叙景句らしい表面の句姿に拘らず、本質的には心象風景を展開した句といってよかろう」というあたりの理解が最も妥当なものと思われている。(注11)
「荒海や」の句について、自らの現場感覚を踏まえて、加藤楸邨は、その著『芭蕉の山河』で、この一句は「実景が土台となって」「象潟以来の日本海岸の印象が重なり」「人々の暗い悲惨な歴史」「七夕の思い」が働く「構成された幻の景」であるという断定のしかたをしている。そして、それこそが「芭蕉の山河」であると云う。ちなみに「芭蕉の山河」とは「裸の自然というのではなく、芭蕉という人間に浸透された自然だ」と語っているのが印象的である。(注12)
越後路の時間と空間の中で、芭蕉という人間に浸透した、天然自然がこの一句に結実したという把握は十分な説得力を持つ。
また、楸邨は「芭蕉の山河」「芭蕉的山河」には「それをつらぬく一本の太い心(しん)として造化の流れ」を指摘する。「造化の流れ」とは悠久の宇宙天地と、そこを貫く久遠の時間ということであるのだろう。楸邨はたとえば、立石寺の蟬の声の静寂にそれを見ている。私自身は、先にあげた月山での吟「雲の峰幾つ崩て月の山」の中に、又「文月や」「荒海や」の句に、それを感受する。
十 天空の旅路
越後路の旅は北国街道を辿る旅であった。この街道は、場所によっては特に浜街道と呼ばれるように、概ね海岸線に沿って走っている。殊に、新潟から出雲崎を経て直江津に至る道のりは、弥彦山でわずかに内陸側に入る以外は、波打ち際を行く道が続く。寺泊あたりでは、今は信濃川の分流の大河津分水路が運ぶ土砂で浜が広がり、そこに家並みが出来、街道は山側に後退してしまったが、芭蕉の頃の道は、渚をすれすれに行く道であった。越後路は、日本海の波音を聞き、日本海の風や日照り雨を身に受けながら進む旅であった。
村上を発つ日に月が変わり、文月となった。芭蕉は自らの旅の歩みが文月に入ったことを意識していたに違いない。そうでないと考えるほうが難しい。文月と思うことは天空を思うことである。二日の夜、三日の夜は、晴れたので星空が見えたに違いない。
芭蕉が佐渡ヶ島の全貌を近々と目の当たりにしたのは、弥彦神社のある弥彦山から最正寺、そこから峠を降りて寺泊の村落に至る行程であったろうか。『曾良日記』にも記されている最正寺の、その境内裏からは佐渡ヶ島が指呼の距離に長々と「よこたふ」様が見られる。今でも地元の人たちはこの光景を絶景として称えている。ここから、峠を下り寺泊の村落を過ぎて出雲崎へ行く北国街道は、佐渡を「よこたへ」た海辺を辿る道であった。
出雲崎では「夜中、雨強降」と曾良は書き、現地に立てられた看板の説明文には「芭蕉はこの夜海辺の窓を押し開けて大宇宙を観じ」「(荒海や)の名吟の霊感を得た」と解説している。「銀河ノ序」を踏まえてはいるが、実証性のないものだが、この想像は許される範囲かも知れない。
それに、「出雲崎」という地名は「雲が出る」天空を想像させる地名である。芭蕉が、「銀河ノ序」で荒海と銀河と出雲崎を結びつけた理由の一つだったかも知れない。
五日、出雲崎を発ち、鉢埼では宿のことで不快なことがあり、六日、直江津でも同様なことがあった。『曾良日記』を読んでいると、当然ながら、こういう出来事に目を奪われがちだが、芭蕉の旅の大半は海辺を歩く時間だったことを忘れてはならない。出雲崎からは天候が不安定になり、よく雨が降った。七日が近づいて来たというのに天の川が見えない。すでに松島や象潟のような大きな目標を持たない単調な行程。折々の不快な気分。そして度々の雨。正に、「神をなやまし」た行程だったに相違ない。しかし、そのことによって、かえって、天空への思いが切なるものとなり、雨が身に沁み
こむように、芭蕉の中に深く浸透していったに違いない。
荒海や佐渡によこたふ天河
こういう越後路の行程の中で、この句が次第にその姿を顕して来たとすれば、結果的に越後路は「荒海や」一句を醸成する旅だったということになる。
それは結果論である。しかし、芭蕉は旅の数年後の『ほそ道』作成の中でそのことに思い至ったに違いない。旅路のあれこれは書くに値しない。「銀河ノ序」も邪魔になる。ただ、夜空のごとき暗闇、無だけが必要だった。なぜなら、越後路は「荒海や」の一句を得る時間だったからである。それは、芭蕉にとっても驚きであったかもしれない。日々、海を感じ、雨に降られ、晴天の日は、佐渡の島影を望み、夜には星があった。それらの日々、大自然と芭蕉の心を隔てるものは何もなかった。その時間の中で、「神をなやまし」ながら、悠久の時間を感受し続けたのである。
芭蕉は越後路の長い時間、句を案じ続けた。句を案ずるとは、感受したものを、言葉で、言葉と言葉の組み合わせで、摑み取ろうとすることであった。言葉の組み合わせによって、感受しつつも見えないものを、形象化することであった。句を案ずるとはそういう感受から形象化を経て認識へ進む行為に他ならない。その行為を海と空に思いを馳せながら執拗に続けたのが越後路であった。
このようにして成ったが故に、越後路の本意は「荒海や」一句に収斂凝縮されたと言える。また、それ故に、越後路の見聞の一切の叙述は不要となり、むしろ邪魔になった。この句以外に必要なものは何もない。
海を背景に天空を感じ続けて歩いた越後路という旅路は、天空を自らの存在に沁みとおらせる時間であった。それは、あたかも天空を行く旅路のようであった。
十一 「文月や」
七夕の前日に直江津に着いた芭蕉は聴信寺で「忌中ノ由」の理由で宿を断られ、ひどく腹をたてたが、結局は追いかけてきた古川市左衛門方に宿をとった。その夜、そこで地元の俳人が集まってきて俳席がもたれ、「文月や」の句を発句とする歌仙が巻かれた。
この句は七夕前日の「六日」の夜空の様相を詠っているが、すでに見てきたように、芭蕉は、越後路の折々に七夕の事を思いつつ日を重ねてきた。「六日も常の夜には似ず」は七夕前日の空の様子だが、その日に至るまでの思いの集積としての感慨でもあろう。村上を発ち、出雲崎を経て直江津に入る時間を、星のこと、天空のことにしきりに思いが行っていた。越後路は天空への思いが色濃い旅路であった。
文月や六日も常の夜には似ず
「荒海や」が天地宇宙の悠久の相をつかみ取った一句であるとするなら、「文月や」は人間の天空へ向かう眼差しと思いを、その憧れと孤愁を把握したものである。そこには、旅人芭蕉の感慨の昇華がある。自らの思いの深さが人間存在への思いへと広がり、深化してゆく気配がある。「荒海や」で天地宇宙の相を顕し、「文月や」では自らの思いを投影した人間の思いを示した。
先に、越後路の一切が「荒海や」の一句に完結していると言ったが、「文月や」によって、その天地に存在する人間の思いを添えることにより、いよいよその完結性が全うされたのである。
十二 二重のモチーフ
越後の夏の海はおおかた穏やかである。殊に、出雲崎あたりの海岸筋は特に波のおだやかなところで、それ故に古来船泊の便のために繁栄した港であった。
三日、新潟を発ち、弥彦を経由して出雲崎には四日の「申ノ上刻」に到着するまでは快晴だった。その間、芭蕉は、おだやかな海とそこに横たわる佐渡ケ島を存分に目にしたに違いない。初稿に近い「銀河ノ序」には「まだ初秋の薄霧立ちもあへず、さすがに波もたかゝらざれば、たゞ手のとゞく計になむ見わたさる」と書かれているとおりであったのであろう。そして、眼前の海がおだやかな波であるにも関わらず、芭蕉はそれを「荒海」と把握したのである。
「銀河ノ序」にあるように、この首五の発想は、出雲崎と切り離すことは出来ない。出雲崎に旅の身を置き、その船泊から佐渡に渡った人々の運命のさまざまに思いをよせ、その慟哭を身に引き寄せたことによる「荒海や」の言葉の誕生であった。旅の現実ではどこにもなかった荒海が、「芭蕉の山河」として生み出されたのである。山本健吉は「実際に荒れていたかどうかには係りなく、佐渡まで十八里の北の海を、芭蕉が「荒海」と観ずることは、ありうることなのである」と書いている(注13)だから、この句は佐渡ヶ島への思いが句の中心になっていて、そのように読まなければならない。
しかし、「銀河ノ序」を離れ、「荒海や」の句だけが独立して、『ほそ道』に、「文月や」の句の後に置かれたとき、「荒海や」はその主題が天地宇宙の悠久を主題とする句に大きくシフトし変貌した。勿論、佐渡ヶ島は依然として人間の運命の数奇への思いをにじませているが、それすらも、海の咆哮と銀河の輝きの中で、人間存在の運命を暗示する遠景の島影のように見えてくる。特に、「文月や」の句の後に置かれることにより、天河、星合、天空の世界が一層鮮明に立ち現われて来るからである。芭蕉は、そのように読まれるように『ほそ道』では一切の叙述を無くしたところにこの句を置いたのである。
この句の持つ主題の二面性については、すでに幾人かによって指摘されていることである。(注14)
「荒海」の把握は佐渡ヶ島を展望する出雲崎でなされ、その思いを「銀河ノ序」にも敷衍した。しかし『ほそ道』に挿入するに際し、佐渡ケ島の慟哭を遠景に遠ざけ、「荒海」「佐渡」「天河」の大きな叙景句として置いた。「文月や」の句の次に置くことによって、それはますます天空の句となり、星合の銀河の句となった。
越後路のあれこれは一切書かず、句の前書きもなく、ただ無言の暗闇の中に、天空の一句、その一句を導き出す、人間のあくがれと憂いを、七夕の映像とともに「文月や」で示した。
芭蕉の越後路は、この二句の展開する世界に尽きる。芭蕉はこの二句を完全な省略によって生まれた暗闇に置いた。『ほそ道』という文学空間の創造に当たった芭蕉の決断は、越後路の見聞の一切を削除し、沈黙の中に、悠久の天地自然の相貌を生じせしめることであった。それこそ、芭蕉が越後路で把握した詩的真実であった。越後路の本情であった。
芭蕉はしかし、出雲崎で得た、慟哭の佐渡ヶ島の本意も捨てがたかった。それはそれとして、文章に彫琢を加え完成し、「銀河ノ序」という俳文として、『ほそ道』完成と同時期に、恐らくは弟子の去来に託した。そして最終的には、芭蕉生前からの課題であった蕉門の俳文集の編者となった去六の手に渡った。このようにして、「銀河ノ序」の最終稿は『風俗文選』で世に出たのである。
完
天空の越後路 注解
・・・『おくのほそ道』本文の引用は岩波文庫(萩原恭男校閲)による。
注1 「芭蕉晩年の深遠な思想・芸境形成の萌芽を出羽三山体験に見ようとする研究が注目されている。」(『ほそ道大全』P240)また、作家の森敦は出羽三山体験を「奥の細道」の奥義とまで言っている。特に李白の詩との関係で重要視する。「天地者ハ 万物之ノ 逆旅 光陰者ハ 百代之ノ 過客」(天地は万物を宿する所(逆旅=旅籠)、時間は果てもなく過ぎゆく旅人・・)『われもまたおくのほそ道』講談社 P117―176
注2 「越後のうちには、歌名所かつてなく、たまたま古蹟旧地ありといへども、いづれも風騒家の取るべきものにあらず。殊に往来の道筋には、しかじか風流の土地なく、奥羽の致景佳境につづけんには、何をよしとして書くべきや。且無用の弁に、紀行の長がながしからむ事を恐れて、かくははぶき申されし成べし。」(『奥細道菅菰抄』)
注3 国文学『解釈と鑑賞』昭和26年11月号「『曾良の細道随行日記』解説」杉浦正一郎 P3
注4 『芭蕉文集』 岩波古典文学大系 P163―170
奥の田植歌 (風流のはじめや奥の田植歌)
文字摺石 (早苗とる手もとや昔忍ぶずり 旅中
松嶋前書 (嶋々や千々にくだけて夏の海)
法の月 (羽黒山) 旅中
銀河の序 (あら海や佐渡に横たふあまの川)
温泉ノ頌 (やまなかや菊は手折じ湯の匂ひ) 旅中
敦賀にて (月清し遊行のもてる砂の上) 旅中
注5 「按ずるに、曾良の書留だけでなく、芭蕉もまた自らの書き留帳を携行して、途中の吟詠や、人に与えた幅物等の文をメモしておき、『細道』の本文を綴る時参考にしたことは疑いを入れぬことであろう。」(『越後路の芭蕉』大星哲夫 P231)
注6 『芭蕉俳文集』堀切実編注(岩波文庫)(上)P74―75 (下)279
「文月や六日も常の夜には似ず」の詞書 今市 (奥細道菅菰抄附録)
「薬蘭にいづれの花をくさ枕」の詞書 高田 (風徳編『芭蕉文集』書入れ)
「汐越しの鐘」句文(存疑) 能生
曙や霧にうづまく鐘の声 芭蕉
(文政五年碑文。『続句空日記』 存疑)
注7 『芭蕉俳文集』 堀切実編注 岩波文庫 『芭蕉文集』日本古典文学大系 岩波書店
注8 『芭蕉自筆「奥の細道」の謎』上野洋三 二見書房 P192―193
注9 月山登頂 『おくのほそ道』萩原恭男校注 岩波文庫 P49
注10「荒海や」の実景探しの問題点(例)
①『銀河ノ序』に「出雲崎」と明記されているが、『曾良日記』では七月四日の夜は強い雨で、銀河は見えなかった。
②『銀河ノ序』は発句の後での創作で、実際に発句の出来たのは、今市か高田。曾良の『俳諧書留』に「荒海」は「文月」の後に記載されている。「文月」は七月七日に今市で披露されている。
③この時期の天の川と佐渡の位置関係から「佐渡によこたふ」はあり得ない
注11『おくのほそ道大全』P258 楠元六男他編 笠間書院
注12『芭蕉の山河 おくのほそ道私記』加藤楸邨 講談社 P249―250 P216
注13『芭蕉 その鑑賞と批評』山本健吉 P222―223 飯塚書店
注14『おくのほそ道大全』P260―261
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