雲水

https://www.bokushinan.com/post/untitled-15 【雲水】 より

 雲水とはあたかも行雲流水、空を行く雲、流れる水、物事に執着せず、淡々として自然の成り行きに任せる。決して一ヵ所にとどまらずに修行する僧をいいます。 

雲水

•在嶺頭閑不徹

•流礀下太忙生

雲は嶺頭(れいとう)に在(あ)って閑不徹(かんふてつ)

水は礀下(かんか)を流れて太忙生(たいぼうせい)。

 大徳寺僧堂元師家川島昭隠老師の「雲水」の置字です。それぞれの頭の文字を「•」で省略しています。出典は『虚堂録』です。『虚堂録』中国南宋の虚堂(きどう)禅師の語録で、禅師が報恩寺を隠退されるときの偈頌(げじゅ・禅意を述べる詩)の転結二句です。なお、武者小路千家当代不徹斎家元の斎号の出展でもあります。

 昭隠老師は大正時分の大徳寺僧堂師家で、当時、大徳寺の僧堂は聚光院で、禅堂が総見院の本堂でした。閑隠席が老師の隠寮で、聚光院の本堂から総見院の本堂に渡り廊下で繋がっていたそうです。

ちなみに昭隠老師は先々代家元愈好斎と木津家3代聿斎の参禅の師にあたり、それぞれの斎号をつけた老師です。

 雲は峯のいただきにあってどこまでものどか、水は谷川を流れてはなはだせわしない。その雲や水の無心の状態を謳っています。閑不徹は極めて靜寂、閑(しず)かさを強める助字で、「しみ入る」とか徹底の意味。だからこの句は雲の無心さを読む。太忙生は非常に忙しいこと。水の流れの無心さを読む。

無心という言葉を使うのは簡単です。無心に浮かぶ雲のようにはいきません。凡夫の私は暇をもてあまし、邪念を起こして「小人閑居して不善を為す」。無心のままに谷間を流れる水はあくせくすることもなく、どんな障害にあってもただサラサラと流れるだけ。淡々とただ流れるだけ。多忙で困るということもなく、あくせく慌ただしく走り回らず、ボヤくことまない。閑静・多忙のいずれにも完璧に充実している。いかなる外的要因にも左右されない。まさりゆとりの姿そのものです。

 日々の仕事や暮らしの多忙さにかまけて忘れごとが日課となってます。この軸を見てると、いちばん大切なものをどこかへ置き忘れた気分です。茶の湯は人の心にゆとりをあたえるもの。好きで始めた茶湯を職業にして人様にゆとりを差し上げる。その代償として自分自身のゆとりは無くなりました。これが悲しい現実です。


https://sibasan.yuukiwada.com/%E9%9B%B2%E6%B0%B4/ 【司馬さん一日一語☞『雲水』】 より

雲水ということばは、禅宗だけのものである。

『広辞苑』によると「(行雲・流水のようにゆくえの定まらぬことから)所定めず遍歴修行する僧。行脚僧」ということになっている。

のちに文学者(俳人)として名を知られるようになった種田山頭火などは、最後の雲水ではなかったろうか。

句はつよい自己愛(ナルシシズム)を感じさせる。

 うしろすがたのしぐれてゆくか

自己を舐めるとき、悲愴という甘美さを感じるひとだったのだろう。

禅の到りつくところは、他者までが照らされるはずの光明である。

が、たれもがそこに到れるわけではないから、せめて自分を吹く風のようにしてしまえば、境地として上等のほうだろう。

雲水(うんすい)はそのための修行で、行く雲や流れる水のように自己を化してゆかねばならない。

ところが、禅のむずかしさは、悟ろうが悟るまいが、人間はすべて死ぬことにきまっていることにある。

人生は行雲流水である、とわざわざいわなくても、王侯の生涯も行乞の生涯も、雲のようにさだめがたい。

であるのにわざわざ、「雲水」という姿に身をやつして漂泊を演ずる必要もないのだが、山頭火はことさらにそれを演じたのである。

演じ、かつ自分一人が観客席でみるというのが、自己愛である。

むろん、その自己愛を昇華した句が、山頭火にはたくさんある。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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