山頭火の日記 ④

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945541106&owner_id=7184021&org_id=1945571575 【山頭火の日記(昭和5年11月11日~)】より

十一月十一日 晴、時雨、――初霰、滞在、宿は同前(大分屋)。

山峡は早く暮れて遅く明ける、九時から十一時まで行乞、かなり大きな旅館があるが、ここは夏さかりの冬がれで、どこにもあまりお客さんはないらしい。午後は休養、流れにはいつて洗濯する、そしてそれを河原に干す、それまではよかつたが、日和癖でざつとしぐれてきた、私は読書してゐて何も知らなかつたが(谿声がさうさうと響くので)宿の娘さんが、そこまで走つて行つて持つて帰つて下さつたのは、じつさいありがたかつた。ここの湯は胃腸病に効験いちじるしいさうなが、それを浴びるよりも飲むのださうな、田舎からの入湯客は一日に五升も六升も飲むさうな、土着の人々も茶の代用としてがぶがぶ飲むらしい、私もよく飲んだが、もしこれが酒だつたら! と思ふのも上戸の卑しさからだらう。今夜は同宿者がある、隣室に支那人三連れ(昨夜は私一人だつた)大人一人子供二人の、例の大道軽業の芸人である、大人は五十才位の、痘痕のある支那人らしい支那人、子供はだいぶ日本化してゐる、草津節をうたつてゐる、私に話しかけては笑ふ。暮れてから、どしや降りとなつた、初霰が降つたさうな、もう雪がふるだらう、好雪片々別処に落ちず。――今夜は飲まなかつた、財政難もあるけれど、飲まないでも寝られたほど気分がよかつたのである、それでもよく寝た。繰り返していふが、ここは湯もよく、宿もよかつた。よい昼であり、よい夜であつた。(それでも夢を見ることは忘れなかった)。

 枯草山に夕日がいつぱい

 しぐるるや人のなさけに涙ぐむ

 山家の客となり落葉ちりこむ

 ずんぶり浸る一日のをはり

 夕しぐれいつまでも牛が鳴いて

 夜半の雨がトタン屋根をたたいていつた

 しぐるるや旅の支那さんいつしよに寝てゐる

 支那の子供の軽業も夕寒い

 夜も働らく支那の子供よしぐれるな

 ひとりあたたまつてひとりねる

【湯ノ平温泉】

山頭火は温泉が好きでした。日記の中でおとずれた温泉の感想を書いていますが、湯ノ平温泉はよほど気に入ったのかベタほめです。300年の歴史が刻まれた温泉街の石畳の坂道は、山頭火も喜んで歩いたことでしょう。

十一月十二日 晴、曇、初雪、湯布院湯坪、築後屋(二五、上)

九時近くなつて草鞋をはく、ちよつと冷たい、もう冬だなと感じる、感じるどころぢやない、途中ちらちら小雪が降つた、南由布院、北由布院、この湯の坪までは四里、あまり行乞するやうなところはなかつた、それでも金十四銭、米七合いただいた。湯の平の入口の雑木林もうつくしかったが、このあたりの山もうつくしい。四方なだらかな山に囲まれて、そして一方はもくもくともりあがつた由布岳――所謂、豊後富士――である、高原らしい空気がただよってゐる、由布岳はいい山だ、おごそかさとしたしさとを持つてゐる、中腹までは雑木紅葉(そこへ杉か檜の殖林が割り込んでゐるのは、経済的と芸術的との相剋である、しかしそれはそれとしてよろしい)、中腹から上は枯草、絶頂は雪、登りたいなあと思ふ。此地方は驚くほど湯が湧いてゐる、至るところ湯だ、湯で水車のまはつてゐるところもあるさうな。由布院といふところは――南由布院、北由布院と分れてゐるが、それは九州としては気持のよい高原であるが、ここは由布院中の由布院ともいふべく、湯はあふれてゐるし、由布岳は親しく見おろしてゐる、村だから、そこここにちらほら家があつて、それがかなり大きな旅館であり料理屋である、――とにかく清遊地としては好適であることを疑はない。山色夕陽時といふ、私は今日幸にして、落日をまともに浴びた由布岳を観たことは、ほんたうにうれしい。この宿は評判だけあつて、気安くて、深切で、安くて、よろしい、殊に、ぶくぶく湧き出る内湯は勿体ないほどよろしかつた。

 刺青あざやかな朝湯がこぼれる

 洗うてそのまま河原の石に干す

 寝たいだけ寝たからだ湯に伸ばす

 別れるまへの支那の子供と話す

 水音、大声で話しつづけてゐる

 支那人が越えてゆく山の枯すすき

 また逢うた支那のおぢさんのこんにちは

同宿三人、みんな同行だ、みんな好人物らしい、といふよりも好人物にならなくてはならなかつた人々らしい、みんな一本のむ、私も一本のむ、それでほろほろとろとろ天下泰平、国家安康、家内安全、万人安楽だ(としておく、としておかなければ生きてゐられない)。

【湯布院】

日記によると、11月11日に初霰が降り、12日に初雪が降っています。現在よりも早いのではないでしょうか。山頭火が「もくもくともりあがった」と表現した由布岳は素晴らしい山です。

十一月十四日 霧、霜、曇、――山国の特徴を発揮している、日田屋(三○、中)

前の小川で顔を洗ふ、寒いので九時近くなつて冷たい草鞋を穿く、河一つ隔てて森町、しかしこの河一つが何といふ相違だらう、玖珠町では殆んどすべての家が御免で、森町では殆んどすべての家がいさぎよく報謝して下さる、二時過ぎまで行乞、街はづれの宿へ帰つてまた街へ出かけて、造り酒屋が三軒あるので一杯づつ飲んでまはる、そしてすつかりいい気持になる、三十銭の幸福だ、しかしそれはバベルの塔の幸福よりも確実だ。森町は、絵葉書には谿郷と書いてあるけれど、山郷といった方がいい。末広神社に詣って九州アルプスを見渡した風景はよかった。町に中に森あり原あり、家あり、石あり、そこがいい。岩扇山といふはおもしろい姿だ。頂上の平べったい岩が扇を開いたやうな形をしてゐる、耶馬溪の風景のプロローグだ、私は奇勝とか奇岩とかいはれるものは好かないが、此の山は眺めて悪くない。此宿も悪くない、広くて静かだ、相当の人が落魄して、かういふ安宿をやつてゐるらしい、漬物がおいしい、お婆さんが深切だ。今日は雑木山でおべんたうを開いた、よかつた。朝が冷たかつたほど昼は暖かだつた。浜口首相狙撃さる――さういふ新聞通信を見た時、私は修証義を読みつつ行乞してゐた、――無情忽ちに到るときは国王大王親眤従僕助くるなし、ただ独り黄泉に赴くのみなり、己れに随ひゆくは善悪業等のみなり。――

 おべんたうをひらく落葉ちりくる

 大銀杏散りつくしたる大空

 落葉散りしくままで住んでゐる

 ゆふべ、片輪の蜘蛛がはいあるく

 また逢うた支那の子供が話しかける

 西へ北へ支那の子供は私は去る

 歩いても眺めても知らない顔ばかり

 鉄鉢、散りくる葉をうけた

 水飲んでルンペンのやすけさをたどる

 支那人の寝言きいてゐて寒い

 虱よ捻りつぶしたが

(後略)

【末広神社】

古い家が残る森町の町並みの中に、末広神社があります。山頭火が末広神社へきた頃は視界がきいたようですが、今は木がのびて周囲の風景はほとんど見えません。神社への坂道の途中の木の間から岩扇山が見えます。

十一月十五日 晴、行程七里、中津、昧々屋(最上々々)。

いよいよ深耶馬渓を下る日である、もちろん行乞なんかはしない、悠然として山を観るのである、お天気もよい、気分もよい、七時半出立、草鞋の工合もよい、巻煙草をふかしながら、ゆったりした歩調で歩む、岩扇山を右に見てツイキの洞門まで一里、ここから道は下りとなって耶馬溪の風景が歩々に展開されるのである、――深耶馬渓はさすがによかつた、といふよりも渓谷が狭くて人家や田園のないのが私の好尚にかなつたのであらう、とにかく失望しなかつた、気持がさつさうとした、観賞記は別に『秋ところどころ』の一部として書くつもり――三里下って柿坂へついたのが一時半、次の耶馬溪駅へ出て汽車に乗る。一路昧々屋へ、一年ぶりの対面、いつもかはらない温情、極楽気分で寝てしまつた。……

 霜をふんであんなの方へ

 山を観るけふいちにちは笠をかぶらず

 山の鴉のなきかはす間を下る

 小鳥ないてくれてもう一服

 その木は枯れてゐる蔦紅葉

 もう逢へまい顔と顔とでほほゑむ

 山の紅葉へ胸いつぱいの声

 けふのべんたうは岩のうへにて

 藪で赤いのが烏瓜

 岩にかいてあるはへのへのもへじ

 寝酒したしくおいてありました(昧々居)

 また逢へた山茶花も咲いてゐる(昧々居)

 蒲団長く夜も長く寝せていただいて( 〃 )

【耶馬溪】

山頭火は前日15日、現在県道が通じている玖珠町を発ち、深耶馬溪を通って本耶馬溪町柿坂への道を歩いたのでしょう。この道には一目八景という紅葉の名所があり、山頭火が歩いた日も紅葉が美しかったことでしょう。柿坂から耶馬溪線に乗って中津へ向かいました。当時、耶馬溪線は蒸気機関車でした。この日に泊まった昧々屋は、『層雲』の同人・松垣昧々宅で「最上々々」の評価です。

【山を観るけふいちにちは笠をかぶらず】

この日の日記に、「山を観るけふいちにちは笠をかぶらず」の句があります。また、別に「あるひは乞うことをやめ山を観ている」の句もあります。行乞を中断して山を観入る山頭火の姿には、それ以上に何か深いものを感じさせます。それは、やはり山に向かって心の中で手を合わせ拝む姿ではないでしょうか。

十一月十六日 曇り、今夜も昧々居の厄介になった。

しぐれ日和である(去年もさうだつた)、去年の印象を新らたにする庭の樹々――山茶花も咲いてゐる、八ツ手も咲いてゐる、津波蕗もサルピヤも、そして柿が二つ三つ残んの実を持つたまま枯枝をのばしてゐる。朝酒、何といううまさだらう、いい機嫌で、昧々さんをひつぱりだして散歩する、そして宇平居へおしかけて昼酒、塩風呂にはいり二丘居を訪ね、筑紫亭でみつぐり会の句会、フチグリでさんざん飲んで饒舌つた、句会は遠慮ない親しみふかいものであつた。

 晴れてくれさうな八ツ手の花

 朝、万年青の赤さがあつた

 しぐるるや供養されてゐる

 土蔵そのそばの柚の実も(福沢先生旧邸)

 すすき一株も植ゑてある(  〃   )

 座るよりよい石塔を見つけた(宇平居)

 これが河豚かと食べてゐる(筑紫亭句会)

 河豚鍋食べつくして別れた(  〃  )

 ならんで尿する空が暗い

 世渡りが下手くそな菊が咲きだした(闘牛児からの来信に答へて)

 芙蓉実となつたあなたをおもふ(     〃     )

枕許に、水といつしよに酒がおいてあるには恐縮した、有難いよりも勿躰なかつた(昧々さんの人柄を語るに最もふさはしい事実だ)。 

(後略)

【中津】

山頭火が初めて中津の句友をたずねたのは、昭和4年11月17日です。阿蘇、耶馬渓などを経て『層雲』の同人・松垣昧々宅に宿泊しました。翌日、木村宇平宅で句会が行われました。そして、翌々日、「また逢うまでのさざんかの花」という名句を残して再び旅立って行きました。山頭火は、昭和5年、10年、13年にも中津をおとずれましたが、昭和5年11月16日のことは行乞記に書かれています。山頭火は16日に、市内の料亭筑紫亭で句会があり、フグチリで酒をたらふく飲んで、翌17日はほろ酔い状態で山国川を渡っています。

【東林寺(鷹匠町)】

山頭火の句碑は中津市内に2か所あり、鷹匠町の東林寺に「阿なたを待つとてまんまるい月の」の句碑があります。山頭火は、中津城址近くの中津川に面した汐湯に来たことがあるという話が伝わっています。編み笠姿で、ぼろぼろの法衣を着た姿に驚いて、銭湯のあるじは警察へ通報したといいます。その後、警察や銭湯のあるじの誤解が解けて、山頭火が汐湯につかって旅の疲れをいやした、そうであってほしいと思います。

【筑紫亭(内枝町)】

内枝町の筑紫亭に、「これが河豚かと食べてゐる」「河豚鍋食べつくして別れた」の句碑があります。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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