岩手県内における義経伝説 – 信じたくなる話ばかり

http://msystem.hatenablog.com/entry/20160319/1458315065 【岩手県内における義経伝説 – 信じたくなる話ばかり Vol.1】より

皆さん、「源 義経」は、当然、ご存知ですよね ? 日本人が好きな英雄やヒーローの話題になると、必ず上位に登場する人物です。

「判官びいき」と言う言葉の語源になった人物としても有名ですよね。

「判官(はんがん/ほうがん)」とは、「源 義経」が、平家追討の功により、後白河法皇より賜った官位を、名前に付けて呼んだ「源九郎判官義経」に由来している事もご存知ですよね。

そして、その生涯についても、詳しくは無いにしても、「だいたい」の流れはご存知ですよね ?!

えっ!! ご存知ない ?

それでは、今回と次回のブログでは、頼まれていませんが、勝手に「源 義経」の生涯や、それ以降の各種伝説、および伝説が生まれた背景等を紹介したいと思います。

また、「義経北行伝説」が伝わっている場所も、伝説に従い、時系列で、簡単にですが紹介したいと思います。

なお、今回取り上げた「義経シリーズ」は、次のような予定で進めようと思っています。

【 第1回目 】

●義経に関する史実

●義経の生涯

●義経に関する学説

●義経北行伝説の種類

●義経北行伝説のタイムテーブル

【 第2回目 】

●義経生存説の根拠

●義経の北行伝説のルート

●「義経伝説」が他の伝説と異なる点

それでは、今回も宜しくお願いします。

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■義経に関する史実

「源 義経」に関する正確な史実は、彼が22歳の時に、黄瀬川で兄である「源 頼朝」と対面してから、31歳の時に平泉で自害した、わずか9年間の記録しか残されていないようです。

これから紹介する年表は、次の歴史書や軍記物語(創作物語)を参考にしています。

・軍記物語 :「平治物語」、「源平盛衰記」、「義経記」

・歴史書 :「吾妻鏡」 ※治承四年以降文治五年まで

また、歌舞伎や物語では有名な「武蔵坊弁慶」や「金売吉次」ですが、架空の人物と言われています。

実際には、「源 義経」を支援した僧兵や商人が存在したと思いますが、個別の人物ではなく、その時々により、複数の別人物が支援したのだと思います。

特に、「義経」と言えば、必ずペアで登場する「弁慶」ですが・・・経歴等は全く不明で、「吾妻鏡」にも、2箇所に「辨慶法師」、あるいは「武藏房辨慶」と言う記述があるだけだそうです。

「義経」と「弁慶」のファーストコンタクトで有名な「五条大橋の話」も、全くのフィクションらしく、当時、「五条大橋」なる橋自体が存在しなかったようです。

「義経」と「弁慶」が五条大橋で戦ったと言う話は、彼らが生きた時代ではなく、そのずっ〜と後、明治時代に入ってから「巖谷小波(いわや-さざなみ)」と言う作家が書いた「日本昔噺」と言う児童文学書の創作と言われています。

故に、作者は不明らしいのですが、「京の五条の橋の上〜」と言う「牛若丸」と言う童謡、皆さんも小さい頃に聞いた覚えがあると思いますが、この童謡も、「日本昔噺」の内容を元に作成されているらしいです。

と言う事で、「義経」の部下に、僧兵が居たとは思われますが、それが一人なのか、複数なのかは解らないようです。そして、その一人は、「辨慶」と呼ばれた僧兵がいたらしい、と言うことみたいです。

しかし、物語性を高めるために、個別の名前を付けて、効果を高めたのだと言われています。

それでは、最初に「義経の生涯年表」を紹介します。今回も宜しくお願いします。

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■義経の生涯

前述の通り、「義経」に関しては、治承四年(1180年)に黄瀬川で、「頼朝」と出会うまでの正式な記録は残っていません。

それ以前の記録は、全て「軍記物」と呼ばれる創作小説の内容からの抜粋です。

前述の通り、五条大橋での「弁慶」との戦いや、鞍馬寺での「天狗」との修業等、皆さんも、子供の頃、童話で呼んだり、あるいはNHKの「大河ドラマ」で見たりした覚えがあると思いますが・・・全て、想像の産物です。

それでは、簡単に「義経」の生涯を紹介します。※年齢は享年(数え歳)

●【誕生〜頼朝との再開まで】

年号 年齢 事象

平治元年(1159年) 1歳 河内源氏の流れをくむ左馬頭「源 義朝」の九男として誕生。幼名「牛若丸」。母「常盤」は九条院の雑仕女(召使)。父「源 義朝」が、同年、平治の乱で謀反人となり、逃亡中に配下の裏切りにより敗死。

平治元年〜平治二年(1159〜1160年) 1〜2歳 母と同母兄二人(今若/乙若)と共に逃亡するも、最後は「平 清盛」の元に出頭し捕縛。兄二人は、即座に出家させられるが、幼い「牛若丸」のみは母との同居を許される。

仁安四年(1169年) 11歳 母「常盤」の「一条長成」への再嫁に伴い、「牛若丸」は、鞍馬寺に預けられ稚児名「遮那王(しゃなおう)」となる。

? ? 鞍馬寺修業中、参詣に来た「金売吉次」と出会い、その後、鞍馬寺を出奔し、奥州藤原氏の元に下る。(※金売吉次:架空人物と推測)

承安四年(1174年) 16歳 平泉下向途中、鏡の宿に宿泊中、自らの手で元服を行い「九郎義経」と名乗る。

安元元年〜治承三年(1175〜1179年) 17〜21歳 奥州藤原氏の「藤原秀衡」の元で暮らす事となる。

●【頼朝再会〜自害まで】

年号 年齢 事象

治承四年10月(1180年) 22歳 兄「頼朝」の挙兵を知り、平泉より駿河国黄瀬川の陣に駆けつけ、兄と対面する。

治承四年〜寿永二年(1180〜1183年) 22〜25歳 この間(約3年間)、何をしていたのか全く不明。

寿永二年10月(1183年) 25歳 「木曽義仲」討伐のために上京。貴族の日記に「頼朝の弟九郎(実名を知らず)、大将軍となり数万の軍兵を卒し、上洛を企つる」と言う記述があり、京都における義経の最初の記録となる。

寿永三年(1184年) 26歳 異母兄「源 範頼」と共に「木曽義仲」を「宇治川の戦い」で破る。義仲討死。

同年2月 同 一の谷の戦いで平氏を打ち破る。俗に言う「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」。この勝利により、一躍、時の人となる。

元暦元年9月(1184年) 同 後白河法皇より、「左衛門少尉/検非違使」に任ぜられる。これにより「判官」と呼ばれるようになる。また、「河越重頼」の娘を正室「郷御前」とする。(※「郷御前」の母は、頼朝の乳母「比丘尼」の次女)

元暦二年2月(1185年) 27歳 後白河法皇の許可のもと、平氏の拠点である屋島を奇襲して平氏を打ち破った。(屋島の戦い)

同年3月 同 壇ノ浦で平氏を滅亡させる。(壇ノ浦の戦い)

同年5月 同 捕縛した平宗盛・清宗親子を引き連れて鎌倉に入ろうとしたが、頼朝から鎌倉入りを拒否され、大江広元宛に書状(腰越状)を書くも、結局、鎌倉に入れず京に戻る。

文治元年10月(1185年) 同 後白河法皇から「頼朝追悼の宣旨」を受けるも、頼朝の追求の激しさから、京都から逃げる。

文治三年(1187年) 29歳 正妻と子を連れて「藤原秀衡」の元に落ち延びるも、同年10月に、「藤原秀衡」病没。

文治五年(1189年) 31歳 「藤原泰衡」が、頼朝の圧力に屈し、父「秀衡」の遺言を破り、義経を攻めて、自害させる。(衣川の戦い)

これが事実なら、本当に、短くも華々しい生涯ですね。

ちなみに、「吾妻鏡」によると、歴史的には、ここで「義経」の生涯は終わってしまうのですが・・・・

●義経北行伝説とチンギス・ハーン

そこは「ヒーロー」、【 義経は、実は、衣川では死んでおらず、その後、北海道まで逃げ延びて、更には大陸に渡り、チンギス・ハーンとなった。 】と言う伝説が、未だに伝えられています。

これは、「義経」が北海道まで逃げたと言う【 義経北行伝説 】と、その続編みたいな話で、北海道に逃れた「義経」が、大陸に渡り「チンギス・ハーン」になったと言う【 義経=チンギス・ハーン説 】が合体した話のことです。

そして、【 義経北行伝説 】の原型となった話は、室町時代から作られるようになった「挿絵入りの物語」である御伽草子「御曹子島渡」であると言われています。

また、【 義経=チンギス・ハーン説 】の原型は、江戸時代初期に存在した「沢田 源内」と言う詐欺師と言うか、偽家系図ばかり書いていた作家が作成した「金史別本」と言う書物と言われています。

ちなみに、この「金史別本」には、清国の第六代皇帝「乾隆帝」の御文に、次のような記載があったとされていますが・・・聞くからに、嘘っぽい話です。

『 朕の祖先の姓は源、名は義経と言う。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ。(朕姓は源、義経の末裔、其の先は清和に出づ。故に國を清と號す) 』

しかし、何故、ここまで伝説が残っているのかと言うと、「林 羅山」、「新井 白石」等、皆さんも教科書で聞いたことがある有名な学者達が、真剣に「義経生存説」を検証し、生存を否定していない事が原因だと思われます。

また、「義経」が戦死した「衣川」以北となる岩手県、青森県、そして北海道に至る各地に、数多くの「義経伝説」が残されていることも原因の一つです。

そして、それら「義経伝説」ですが、明らかに嘘と解かる伝説が多いのですが、中には「いかにも・・・」と思われる伝説も数多く残されているのが、「義経生存説」を裏付けています。

本ブログでも、過去に掲載した「民間信仰シリーズ」で「鵜鳥神社」を紹介したのですが、鵜鳥神社に残されている「鵜鳥神社御縁起」と言う書物に、「義経」が、「衣川の戦い」で生き延びて、この神社を訪れた事が記載されています。

★過去ブログ:岩手の民間信仰 Vol.2

この他にも、岩手県内各地に、「衣川の戦い」の後の、「義経」の痕跡があります。

そこで、次に、前述の江戸時代の学者の説を紹介したいと思います。

■義経に関する学説

最初に、江戸時代の有名な学者「林 羅山」と「新井 白石」の説を紹介したいと思います。

●林 羅山

「義経北行伝説」を、公式文章として、初めて著したのは、江戸時代の儒学者「林 羅山」です。

「林 羅山」は、「徳川 家康」の最重要ブレーンとして活躍し、その後、二代将軍「秀忠」、三代「家光」にも仕えた人物で、75歳(1583〜1657年)で没するまで、徳川幕府の政策立案に深く関わった人物です。

「豊臣家」を滅亡させた大坂の陣の発端となる「方広寺鐘銘事件」で、鐘銘文を解読し、鐘銘文が徳川家を呪詛している断定したのは、この「林 羅山」です。

そして、この「林 羅山」と息子「林 鵞峰(がほう)」が、寛文十年(1670年)に、幕府からの要請で、「本朝通鑑(ほんちょうつがん)」と言う歴史書を完成させているのですが・・・何と、この「本朝通鑑」の中で、『 義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種残す』と記載してしまったのです。

「本朝通鑑」は、神代から後陽成天皇の時代(〜1611年)までの日本通史で、前編として神代3巻、神武天皇〜宇多天皇までの本編40巻、醍醐天皇〜後陽成天皇の続編230巻等、合計310巻から構成される、壮大な歴史書です。

年代がちょっと一致しませんが、正確に言うと、「林 羅山」は、生保元年(1644年)に「本朝編年録」を編纂して「徳川 家光」に上梓したのですが、明暦三年(1657年)の「明暦の大火」で、この「本朝編年録」は焼失してしまいます。

その後、息子の「林 鵞峰」が、「徳川 家綱」の代に完成させたのが「本朝通鑑」となります。

そして、「義経」に関しては、この「続本朝通鑑」巻七九に、『 俗伝又曰。衣河之役義経不死逃到蝦夷島存其遺種 』と記載されているそうです。

ちなみに、この記述の先頭部分を正確に訳すと、「またいわくと俗に伝わる」ですから、「世間では、このように伝わっている」と言う事になると思いますので、世間の噂を伝えたものだと思います。

まあ、公式文章に、正式に記述したと言っても、ウワサ話を記載したに過ぎないと思いますが、そんなウワサ話を幕府の歴史書に記載する方もする方だと思います。

●新井 白石

次に、「新井 白石」ですが、彼は、江戸時代中期、明暦三年(1657年)〜享保十年(1725年)に存在し、六代「徳川 家宣(いえのぶ)」、および七代「家継」に仕え、「正徳の治」と呼ばれる政治改革を行った儒学者です。

しかし、その身分の低さや性格の悪さから、八代「吉宗」と、その幕閣には疎んじられてしまい、最後は失脚し、「正徳の治」で立案した政策は廃案となり、作成した膨大な書類は、ことごとく破棄されてしまったそうです。

そんな「新井 白石」ですが、「読史余論」と言う政治史、および「蝦夷志」と言う地誌で、「義経北行伝説」に触れています。

【 読史余論 】

「読史余論」の中では、「吾妻鏡(書中では東鏡と記載)」の記述に、次のような数々の疑問を投げかけています。

・泰衡が攻めてきた時に、義経は既に忠衡の元に逃げたのでは ?

・義経の首は本物だったのか ?

・本当は忠衡の方が、義経より先に攻め滅ぼされたのではないか ?

・それなら、義経は、何故、何も手を打たなかったのか ?

・義経のような智者が手を拱いて死を待つとは思えない

そして、続けて、『 今も蝦夷の地に義経の家の跡あり。又、夷人飲食に必ず祀るそのいわゆるヲキクルミと謂うは、即ち義経の事にて、義経のちには奥(=蝦夷)へ征きし等謂い伝へしとも謂う也。 』と記載しています。

※忠衡:藤原忠衡。奥州藤原氏三代当主「藤原秀衡」の三男。四代「泰衡」の異母弟で、父の遺言を守ろうとして「泰衡」に討たれる。

【 蝦夷志 】

「蝦夷志」では、アイヌ民話の中には、小柄で頭のよい神「オキクルミ神」と大男で強力無双の「従者サマイクル」に関するものがあり、この主従を「義経」と「弁慶」とする説のあったことを紹介しています。(別説でオキクルミとサマイクルは兄弟と言う説もある)

さらに、当時の北海道各地の民間信仰として頻繁にみられた「ホンカン様」信仰は、「義経」を意味する「判官様」が転じたものではないかとも分析しているそうです。

加えて、しつこいくらい「義経生存説」に触れ、さらに奥地の千島や大陸の「韃靼」にまで逃げ延びたとも記載しているようです。

●その後の学説

両学者とも、と言うか、現在でも同じなのですが、鎌倉時代の歴史書は、北条政権となってから作成された「吾妻鏡」しか存在しません。

しかし、その「吾妻鏡」でさえ、「義経」が自害してから100年以上も後(1300年代)に作成されていますので、「義経」に関しては、正確な事実は解らないようです。

「吾妻鏡」は、治承四年(1180年)〜文永三年(1266年)、初代将軍「頼朝」から六代「宗尊親王」までの将軍記となっていますが、幕府成立前までの内容は、「平家物語」からパクったものと言われています。

また、「吾妻鏡」は、北条氏が作成した歴史書ですから、自身に都合が悪い箇所は、当然、脚色、あるいは削除されていますので、余計に不明点が多いようで、この「吾妻鏡」は、歴史書としては「二流」扱いとなっているようです。

これらの学説の後はと言うと、「徳川光圀」、別名「水戸黄門」等は、蝦夷に探検隊を派遣して調査していますし、この水戸藩が編纂した「大日本史」にも、注釈付きですが「義経の首は偽物で、蝦夷で神となった」と記載しています。

幕末になっても、間宮海峡を発見した「間宮林蔵」や、彼と親交があった「シーボルト」等も「義経生存説」を信じていたようです。

そして、幕末期には、既に「金史別本」が偽物であることは解っていたので、「義経 = チンギス・ハーン」説の最初の提唱者は、「シーボルト」が作成した「日本」という書物であると言う説が一般的となっていたようです。

また、「シーボルト」は、文政十一年(1828年)、「シーボルト事件」により幕府から追放処分をうけますが、その後、文久元年(1861年)に再来日して幕府の顧問になった事はご存知ですか ?

この再雇用の話は、余り知られていませんが、この時には、幕府直轄の学問機関「蕃書調所(ばんしょ-しらべしょ)」の役人に対して、再三「義経 = チンギス・ハーン」説を、日本の「正史」にするよう薦めています。

さらに、明治、大正になっても「義経北行伝説」や「義経 = チンギス・ハーン説」は、大ブームを巻き起こしましたが、さすがに現代では、伝説扱いになっています。

但し、以前、本ブログ「岩手の先達 〜 地味な岩手にも有名人 Vol.1」で紹介した「金田一 京助」は、「義経生存説」を否定した学者の一人です。

★過去ブログ:岩手の先達 〜 地味な岩手にも有名人 Vol.1

「金田一京助」は、上記ブログにも記載していますが、アイヌ語研究の第一人者で、蝦夷地には何度も訪れていますが、その中で、「オキクルミ = 判官 = 義経」と言う話に関して、アイヌの人から『 判官 = オキクルミと云うのは、内地の人間が喜ぶから使う時がある。 』と言う本音を聞き出したそうです。

当時、「小谷部 全一郎(おやべ-ぜんいちろう)」と言う牧師が書いた「成吉思汗ハ源義経也」と言う小説がベストセラーとなっており、「義経 = チンギス・ハーン説」が、大ブームとなっていました。

そして、彼と「金田一」は親交が深く、一緒に「アイヌ救済活動」をしていたことも有り、余り表沙汰には批判しなかったのですが、「義経」の入夷説や清祖説が存在しないと「中央史檀」に記載しています。

■義経北行伝説の種類

それでは、いよいよ「義経北行伝説」を開始したいと思いますが、この「義経北行伝説」には、数々のバージョンがある事はご存知ですか ?

・高木 彬光 成吉思汗の秘密(1958年)

・佐々木 勝三 義経は生きていた(1958年)

源義経蝦夷亡命追跡の記 - 義経は生きていた(1970年)

・黒沢 賢一 義経北行伝説 - 義経はジンギスカンになったか(2011年)

・伊藤 孝博 義経北行伝説の旅(2005年)

・今野 静一 義経北行(2005年)

これら数々の伝説の内、どうも有名な伝説は、「高木彬光」氏と「佐々木勝三」氏の説のようですが、「高木彬光」氏は、元々ミステリー作家であり、上記小説の元は、前述の「金田一 京助」が否定した「小谷部 全一郎」が書いた「成吉思汗ハ源義経也」だと言われています。

一方、「佐々木勝三」氏は、一般には、(失礼ですが)それ程は有名ではないようですが、明治28年(1895年)に岩手県宮古市に生まれ、明治大学、ワシントン州立大学留学を経て、戦前は、明治大学商学部で教鞭を取っていました。

戦後は宮古に帰り、進駐軍事務長、県立水産高校や宮古高校の教諭などを歴任しながら、地元に伝わる古文書の解析と研究をしていたそうです。

その後、盛岡藩第七代藩主「南部利視」が、宮古に再建した「横山八幡宮」の歴史を研究する内に、何度も「義経」や「弁慶」が登場するので「義経北行伝説」に興味を抱き始めたそうです。

そして、ついには、実際に、「義経北行伝説」が残る遺跡を訪ねて調査し、地元の古老が語る伝説等も研究し、彼独自の理論と推論で「義経北行伝説」を組み立てて、昭和33年(1958年)「義経は生きていた」を著したそうです。

この「佐々木勝三」氏は、地元では、「義経研究に半生を捧げた歴史家」として有名らしいので、本ブログでは、岩手県出身と言うこともあり、この「佐々木勝三」説を元に、「義経北行伝説」を紹介したいと思います。

また、「佐々木勝三」氏は、次のような古文書を参考にしていたそうですが・・・膨大な量の資料を研究したのだと思います。

(01)亀井文書 (11)田代村口碑

(02)江刺郡史他 (12)目時文書

(03)佐藤家系図 (13)成ヶ沢文書

(04)判 官家家伝 (14)吉内家家伝

(05)奥州南部封域志 (15)横田文書

(06)能保消息 (16)藤九郎神社伝

(07)杉目系譜 (17)中村文書

(08)玉葉 (18)類家稲荷大明神縁起

(09)判官稲荷縁起 (19)徳城寺縁記

(10)東奥古伝三閉伊の巻

■義経北行伝説のタイムテーブル

佐々木勝三氏の「北行伝説」によると、「義経一行」は、「吾妻鏡」に記載されている「衣川の戦い」で自害する前の年、1年前には、既に平泉を出発して遠野方面を目指していたようです。

「えっ!!」と思われるかもしれません。

よく聞く「義経伝説」では、「義経」は、「衣川の戦い」では死なず、戦いを生き延びて脱出し、郎党共々、蝦夷地に向かったとありますが、この「北行伝説」は違います。

また、これが「義経伝説」の特徴で、他のヒーロー伝説とは異なる点です。

それでは、伝説の前振り、タイムテーブル、そして同行メンバーを紹介したいと思います。

●北行伝説の前振り

「義経北行伝説」を紹介する上で、絶対必要となる「前振り」の話が必要となります。

それが、「義経の替え玉」、いわゆる「影武者」の存在です。

・「義経」には、「杉目太郎行信」と言う「影武者」が存在した。

・「杉目太郎行信」は、「義経」の母方の従兄弟で、年齢・背格好が、「義経」そっくりだった。

・「秀衡」の死後、「影武者:杉目太郎行信」を平泉に残して、「義経」は、直ぐに平泉から脱出した。

・「杉目太郎行信」の「首なし」遺体が、沼倉小次郎高次により宮城県金成町の信楽寺に葬られた。

そして、それをタイムテーブルで整理すると、下表のようになりますが・・・一部、重複する記録もあるようですが、いかにも、と言う感じの流れとなります。

さらに、前述の「信楽(しがらく)寺」の跡地には、何と、「杉目太郎行信」の墓碑があり、その墓碑には「源祖義経心霊見潜杉目太郎行信」と刻まれています。

この墓碑銘の「見潜」とは、「義経の身替り」の事だと思われます。

故に、「おぉ!! これぞ、まさしく義経が生きていた証拠か ?! 」と思うかもしれませんが、残念ながら、墓碑の右横には、建立「明治四十五年四月」と刻まれているそうです。

ガッガリさせて申し訳ありません。それではタイムテーブルをご覧下さい。

●タイムテーブル

年号 吾妻鏡 義経北行伝説

文治三年(1187年) ・2月:妻子共々、平泉に落ち延びる

・10月:藤原秀衡死去

文治四年(1188年) ・5月:勅使が平泉到着 ・4月:北行の準備を始める

・同月:遠野付近を目指して出発

・7月:釜石付近(唐丹村)に常陸坊海尊が現れる

・8月:宮古付近に入る

・9月:横山八幡宮参拝

・同月:黒森山山中にて大般若波羅密多経を奉納

文治五年(1189年) ・4月:義経追討の宣下

・同月:衣川の戦い(義経自害)

・5月:泰衡、義経誅滅を報告

・6月:義経の首が腰越到着 ・6月:黒森山山中滞在

・7月:頼朝、泰衡討伐に出発 ・7月:宮古市茂市に到着

・8月:泰衡、鎌倉軍に敗北

・9月:泰衡の首が梟首となる

建久元年(1190年) ・宮古市蟇目二又の出雲氏宅に寄る

・黒森山中にて般若経を写経する

建久二年(1191年) ・宮古を去って田老へ向かう

・田老村乙部新田の吉内家に立ち寄る

・普代村卯子酉山に籠もり断食をして海神勧請

・忠衡の子、泰行、久慈の吉田に残留する

・鈴木三郎重家が横山八幡宮神主となる

・八戸、舘越に至る(類家稲荷大明神)

建久六年(1195年) ・三厩村竜飛から蝦夷島に渡る

・「南部光行」が八戸に来る(南部氏の始祖)

●同行メンバー

また、「義経一行」と言っていますが、その同行者は、一人二人ではなく、かなりの人数で移動していたようです。

江戸時代中期、元禄十三年(1700年)に生まれた盛岡藩士であり儒学者の「高橋 東洋」が作成した「奥州南部封域志」に拠ると、「義経」以下、15名のメンバーが勢揃いしていたようです。

・源 義経 ・黒井次郎景次

・武蔵坊弁慶 ・熊井太郎忠元

・依田源八兵衛弘綱 ・鷲尾三郎義久

・亀井六郎重清 ・備前平四郎成房

・鈴木三郎重家 ・佐藤三郎義信

・片岡八郎 ・佐藤四郎経忠

・伊勢三郎義盛 ・民部卿頼然

・駿河次郎清重 ・下部鬼三太

また、上記メンバーの他にも、次のようなメンバーも同行したと言う記録もあるそうです。

・常陸坊海尊

・毘紀(比企)藤九郎藤原盛長(※元々は頼朝の部下)

しかし、京都から平泉に逃げてきた時には、妻子も一緒だったはずですが・・・「北行伝説」では、同行メンバーに含まれていません。

と言うことは・・・「北行伝説」でも、妻子は、「杉目太郎行信」と一緒に、平泉に残して脱出した事になります。

これは酷すぎる・・・

と言うことで、第1回目は、ここまでの紹介となります。折角、話が盛り上がってきた所なのに申し訳ありません。

まだ話は途中ですが、「義経北行伝説」、如何ですか ? 何か、「いかにも」っぽい話ですよね。

私も、このブログを書くまでは、「義経伝説」とは、次のような経緯で生まれた伝説かと思っていました。

・義経は、「衣川の戦い」で自害した

・しかし死体が見つからない

・取り敢えず付近にあった焼死体の首を鎌倉に送った

・このため、義経は、本当は死んでおらず、戦場から脱出したのではないか ?

皆さんも、大体が、こんな伝説だと思っていたと考えますが、どうでしょうか ?

ところが、実は「衣川の戦い」の1年も前には、既に平泉を脱出していたとは・・・全く意外な展開です。

次回の「義経北行伝説」では、最初に紹介した通り、次の内容を紹介します。

●義経生存説の根拠

●義経の北行伝説のルート

●「義経伝説」が他の伝説と異なる点

「義経生存説の根拠」に関しては、次のような点を紹介します。

・何故、義経は、泰衡に攻められるまで何も行動しなかったのか ?

・何故、泰衡は、数十人の相手に対して、数万人の軍勢で攻撃したのか ?

・何故、義経の首は、鎌倉到着まで1ヶ月以上も掛かったのか ?

何か怪しい事だらけです。これだけでも、十分に「義経」が自害などしていない証拠のような感じがしてきます。

また、「北行伝説」で、「義経」が辿ったルートですが・・・これも、本当に、「いかにも」と言う感じで、見事な道筋です。

「何が見事なのか ? 」と言う点は、次回をご覧下さい。


http://msystem.hatenablog.com/?page=1462548150  【岩手県内における義経伝説 – 信じたくなる話ばかり Vol.2】

さて、今回は、前回に引き続き「義経北行伝説」の第二弾を紹介します。

■義経生存説の根拠

さて、義経の北行ルートを紹介したいと思いますが、その前に、「義経生存説」の根拠を、簡単に紹介したいと思います。

前回ブログで、「北行伝説」に関する様々な小説を紹介しましたし、それ以前、江戸時代からの説も同様だと思いますが、【 義経が生きていた 】と言う説は、「吾妻鏡」の記載内容に対する疑問と、これから紹介する数々の伝承、そして遺跡や古文書が元となっています。

そこで、本章では、「吾妻鏡」への疑問を紹介したいと思います。

●何故、「義経」は何も行動しなかったのか ?

これは基本的に、「義経」が、天才戦術家と言う事が大前提となっていますが、その「義経」が、平泉に落ち延びてから1年以上も、何も行動していない点が疑問となっています。

特に、平泉に落ち延びた翌年、文治四年(1188年)に関しては、「吾妻鏡」上には、1年間、何も記録がありません。

いくら、平泉に着いて落ち着いたからと言っても、鎌倉や京都では、大騒ぎになっているはずです。

しかも、「義経」には、僧兵や山伏、または商人等のネットワークがあった訳ですから、「風雲急を告げている」事は理解していたはずです。

また、「泰衡」の行動も掴んでいたか、あるいは最初から、一緒に、「頼朝」を欺こうと思っていたフシもあるので、何も行動しなかった、と言うのは、逆に怪しいことだと思われています。

しかし、まあ・・・結局「泰衡」は、「奥州合戦(「治承・寿永の乱」の最後の戦)」で負けてしまい、部下「河田次郎」の裏切りにより殺害されてしまいますが。

●何故、「泰衡」は大軍で攻めたのか ?

次に、「秀衡」の息子「泰衡」は、文治五年(1189年)4月に、「義経」の居館「衣川館」を攻めますが、その時の「泰衡」の軍勢は、2万人とも3万人とも伝わっています。(一部、500人と言う説もありますが)

何れにしても、当時、「義経」の部下は、数十人程度しか居なかったはずです。いかに「義経」が「戦上手」とは言え、数十人しかいない敵を、数万人で攻める訳がありません。

このため、この「衣川の戦い」は、鎌倉向けの、派手なデモンストレーションではないか、と考えられています。

●何故、首の鎌倉到着に43日も掛かったのか ?

さらに、「衣川の戦い」は、前述の通り4月30日に終結していますが、「義経の首」が鎌倉(腰越)に届いたのは、その43日後、6月13日と伝わっています。

当時、新幹線は無いにせよ、平泉から鎌倉までは、通常なら数週間で着いたはずです。また、早馬を使えば、数日でも、送り届けることは可能だったと思います。

普通の状況であれば、一刻も早く「首実験」をしたいと思う所、何故、それも真夏に、40日以上も掛けて、「義経の首」を運んだのか ?

また、5月には、「義経誅滅」の飛脚を鎌倉に送っている事実もあり、飛脚の件は、公家「九条兼実」の日記「玉葉」にも記載されています。

故に、そこには「泰衡」の、何らかの意図(故意に首を腐敗させた)が感じられるとされています。

●鎌倉側の「義経の首」への対応の仕方が変である

さて、何やかんやで文治五年(1189年)6月13日に、鎌倉(腰越)に、「義経の首」が届き、和田義盛と梶原景時が、「首実検」を行います。

その時に、梶原景時は、「これは義経の首ではない !」と即座に否定したそうですが、和田義盛が「焼け首だから異なって見えるのは当然。しかも、眼中に光を宿しているので、鎌倉に入れると祟がある。」として、首を「頼朝」に見せずに、海に投げ捨てたとされています。

常識的に考えて、「頼朝」に「義経の首」を見せずに海に投げ捨てる等、考えられません。「頼朝」の部下が、そんな勝手な行動を取ったら死罪だと思います。

と言うことは、和田義盛は、あらかじめ「頼朝」から、何らかの指示があったものと考えるのが自然です。

・「頼朝」は、「偽首」と知っていたか ?

・「頼朝」は、とにかく早く奥州藤原氏を討伐したかったか ?

・鎌倉まで「義経の首」が届くと、「偽首」とバレるのを防ぎたかったか ?

色々と、説はあるようです。

●昔から「義経」に影武者がいることは知られていた

前章にも記載しましたが、「義経」に影武者がいる、と言うことは、どうも、その当時から、皆に知られていたようです。

前章では、「義経」の従兄弟「杉目太郎行信」と言う影武者の件を紹介しましたが、その他にも「佐藤忠信」も、「義経」の影武者を務めた事で有名です。

「佐藤忠信」は、その昔、「義経」が、平泉から「頼朝」の陣に向かう時、その兄共々、「秀衡」から与えられた部下となります。

佐藤兄弟の「義経」への忠義は有名で、兄「継信」は、「屋島の戦い」で、「義経」を敵の矢から守ろうとして討ち死にしています。

また、弟「信忠」も、「義経」共々、「頼朝」の追っ手から逃れる途中、京都吉野山で、「義経」の替え玉となって敵をおびき寄せ、最後は「切腹」して果てたとされています。

ちなみに、この「佐藤忠信」の切腹が、武士の最初の切腹と言われているそうです。

このように、昔から「義経」には影武者や替え玉が居たのは有名だったにも関わらず、上記のように、十分に「首実検」を行わずに、海に廃棄するなど、もってのほかの行為です。

このように、数え上げればキリがない程、「義経」の自害には、謎が多く存在します。

また、後ほど「他伝説との相違」にも記載しますが、「義経の墓」が存在しないのも大きな疑問の一つです。

それでは、北行伝説のルートを紹介します。

■義経北行伝説のルート

それでは、「義経」の北行ルートを簡単に紹介したいと思います。

(1)平泉

これまで記載した通り、「義経」は、文治四年(1188年)4月には周辺で兵糧を集め、同月中に、平泉の「衣川館」から遠野方面を目指して脱出したそうです。

このため、平泉周辺の庄屋には、兵糧を借りた証文が残っているそうです。

(2)妙好山「雲際寺」

雲際寺は、嘉祥三年(850年)、慈覚大師を開祖と伝えられ、中尊寺の別院ですが、その後廃れてしまったそうです。その後、平安時代末に、「義経」の正室「郷御前」の手により再建されたそうです。

このため、「義経」自害後、「義経」と「郷御前」の遺体が運ばれ、位牌も安置されていたと言われています。

江戸時代に、再度、再建されたそうですが、平成20年(2010年)に起こした火災により、位牌も焼失してしまったそうです。全く・・・

(3)石清山「観福寺」

平泉から脱出した「義経」は、最初に、佐藤継信/忠信兄弟の父親「佐藤基治」を訪れたとされています。

そして、そこから束稲山を越えて、現在の大東町猿沢に入り、「真言宗石清山観福寺」で宿泊したそうです。

この「観福寺」には、義経四天王「亀井六郎重清」が、宿泊のお礼として、砂金を入れた「笈(おい)」を置いていったと伝わっており、寺宝として保存されています。

但し、この寺院は、建久二年(1191年)、「工藤祐経」の長男「犬房丸」が寺を建立して、円長法印を迎えて開山したと伝えられていますが、それだと北行伝説と、時間的ズレが・・・

(4)弁慶屋敷

次に、一行は、現在の奥州市近辺、JR水沢江刺駅近くで、かつて「弁慶」が住んでいたと伝えられる「弁慶屋敷」に立ち寄り、食事をしたと言われています。

現在は、立て看板だけが立っていますが、言い伝えでは、日中は付近の「五十瀬(いそせ)神社」に隠れ、夜になると、この家に来て白粟五升を借り、粥を炊かせて食べた後、立ち去ったといいます。

また、屋敷内には、弁慶が足を洗った池が残っているそうです。

(5)岩屋戸「多聞寺」

弁慶屋敷の北、現在の「岩谷堂町」に岩屋戸山「多聞寺」という天台宗の寺があったそうです。

一行はこの寺に宿泊し、義経の家臣「鈴木三郎重家」の笈を残したとされていますし、境内には、弁慶が腰掛けた、「腰掛松」もあったと伝えられていました。

しかし、この笈は、明治五年の火災で焼失し、寺も廃寺となってしまいました。

(6)玉崎神社

同じく岩谷堂町に玉崎と言う村があり、義経は、そこの「玉崎神社」に、5日間参籠したと伝えられています。

そして、経文、太刀、および槍などを奉納し、現在でも社宝として保存されていると言われていますが・・・何か、見た目、そのような社宝が保存されているようには見えない神社です。

(7)藤原氏隆の館(源休館)

「玉崎神社」を出た義経一行は、下伊手地区にある「藤原氏隆」の館に来て滞在したと伝わっています。

「藤原氏隆」は、藤原氏の親戚と言われています。そして、「源九郎判官義経」が、逗留した館なので、「源休館」と呼ばれています。(別名「建久館」)

付近には、以前、本ブログでも紹介した巨石「狐石」があります。

★過去ブログ:岩手県内の巨石の紹介 - その2

(8)風呂家

「源休館」を出発した一行は、姥石峠を越え、判官山付近で野宿をし、赤羽根峠を超えて遠野に入ったと伝わっています。

峠越え、野宿をした一行は、遠野市細越に入ったが、汗まみれだったので、付近の農家に「風呂」を借りたそうです。

以来、この家の屋号は、義経から賜った「風呂」となり、地名も「風呂」になったと伝えられており、古文書やら巻物が保存されていたそうですが、これも火事で焼失してしまったそうです。

(9)板沢「駒形神社」

峠越えや山越えを繰り返していたので、「義経」の愛馬「小黒」が、この地で倒れてしまったそうです。

そこで、この地で3日間ほど休息をとって、馬を看病したそうですが、看病の甲斐もなく死んでしまったので、「義経」は、付近に祠を建立し、葬ったとされています。

その祠が「駒形神社」と言われており、地元では「お蒼(あお)様」と呼ばれているそうです。

(10)中村「判官堂」

義経一行は、閉伊郡青笹村の六角牛山(ろっこうしやま)を越えて北に向かい、鵜住居(うのすまい)川に沿って東にある海岸の町、大槌町を目指しました。

六角牛山の北側、鵜住居川上流に釜石村中村があります。一行は、その付近の農家(八幡家)に何泊か泊めてもらい、そのお礼に鉄扇を置いて行ったそうです。(※現在は紛失)

その農家は、判官神社を建て、分家(中村家)を別当職にしたそうで、現在でも「中村家」が別当職を努めています。

(11)室浜「法冠神社」

一行は、中村「判官堂」から北に向かう際に、大槌にある代官所を避けて船越(現在の山田町)に直接舟で渡るため室浜の山崎家に寄ったそうです。

山崎家では、その記念に「法冠神社」を建立しました。

しかし、この神社は、明治二十年に焼失してしまい、その後、石の祠となっていましたが、昭和47年頃に、ブロックモルタル造りの祠に建て替えられたそうです。

(12)弁慶の手形石

室浜(大槌町)を出た一行は、北上して、「金売吉次」が金を採掘していた「金沢(金澤)村」を目指したそうです。

そして、その後は、川井村箱石に着いたのですが、回りに道が無くなったので、鞍馬寺の毘沙門天に祈りを捧げたそうです。(現:判官権現社)

さらにその後、義経一行は、長者森・中山を経て、種戸口(たねとぐち)沢でいったん休憩し、その時に弁慶は、記念のため、路傍の石に手形を彫ったと伝わっています。(県道26号線沿い)

(13)山田町「山田八幡宮」

一行は、大槌町種戸口から一旦南下し、続いて山田町を目指したそうです。

山田町の旧関口村には、「義経」に仕えて戦死した佐藤継信の長男「佐藤信正」が住んでいたそうで、この長男の元を訪れ、「継信」の守り本尊であった「清水観音」を託したそうです。

現在では、清水観音は、山田八幡宮のご神体となっているようです。

(14)宮古「黒森神社」

次に一行は、かつては「奥州湊」とか「渋田庄」と呼ばれた宮古にたどり着き、小高い丘に「黒(九郎)館」とよばれる居館を構えたと伝わっています。

また、黒森神社には、秀衡の遺言に従い、3年3ヶ月も籠って「大般若経」を写経したと伝わっています。

(15)判官稲荷神社

黒森の近くには、黒森山を出て北へ向かった義経の徳をしのび、その甲冑を埋めた上に祠がたてられ、現在は、「判官稲荷神社」となっている。祭神は、当然「義経」である。

「判官稲荷神社」には、「義経」が、この地に残したという「緋おどしの鎧」が所蔵されていたという伝説が残されているが、神社創建の7年後に火災により焼失したそうである。

(16)横山八幡宮

さらに北に向かう一行は、家臣「鈴木三郎重家が高齢のため、名前を「重三郎」と変え、「横山八幡宮」の神主として残したそうです。

「横山八幡宮」は、創建が白鳳九年(680年)と伝わる非常に古い神社であるが、火災により縁起などが失われてしまい、詳細は解らないようです。

また、「横山八幡宮」の記録によると、この神社にも、「大般若経」を百巻奉納したと伝わっているようです。

(17)「鵜鳥神社」

宮古を出発した一行は、田老町にある、金売吉次の弟「吉内」の屋敷を訪れたと言われています。

そして、田老から普代村の「鵜鳥神社」を訪れ、七日七晩籠もり、道中の無事を祈ったと伝わっています。

この件に関しては過去ブログに記載していますので、そちらをご覧下さい。

★過去ブログ:岩手の民間信仰 Vol2

次に一行は、普代村から久慈を目指しますが、諏訪の森で陣を構える追っ手「畠山重忠」の一隊と出会ってしまうそうです。

「義経」と「重忠」は対峙しますが、落ち延びた「義経」を哀れに思った「重忠」は、矢をわざと外して立ち去ったそうです。

そして、矢が刺さった場所に「諏訪神社」が建立され、松の木に刺さった矢の穂先が、神社の御神体となっているそうです。

(19)青森〜竜飛岬

岩手を出た一行は、八戸に向い、ここにも長期間滞在したと伝わっています。

そして、八戸から津軽半島を目指しますが、途中「義経」の側室「浄瑠璃姫」が一行に追いつきますが、病に罹ってしまったので、家臣「鷲尾三郎義久」を看病のために残して、一行は津軽半島を目指します。

その後、津軽半島から蝦夷地に逃れようとしますが、海が荒れて渡れなかったそうです。

そこで、巨岩の上に守り本尊である観音像を安置させ三日三晩念じると、白髪交じりの仙人が現れ、3頭の龍(竜)馬を与えられ無事に蝦夷まで辿りつくことが出来たと伝えられています。

そして、この地域は、3頭の馬を繋いだ場所と言う意味から「三厩(みんまや)」と言う地名が付けられたと言われていますし、また、「竜飛岬」と言う地名は、「義経一行」が、「竜のような馬に乗って蝦夷地に飛んで行った」事から、名付けられたとも言われています。

その後、時は流れて江戸時代の寛文七年(1667年)、この地を訪れた「円空和尚」が、厩岩で光り輝く観音像を見つけたのですが、この観音像こそが、「義経」の守り本尊であると悟り、この観音像を祀るために創建したのが「義経寺」と伝わっています。

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■「義経伝説」が他の伝説と異なる点

今回は、「義経の北行伝説」をご紹介しましたが、如何でしたか ?

まあ、伝説、言い伝え、古文書・・・等、いろいろと言い方はありますが、壮大な話ですよね。確かに、調べ始めたら、「半生」どころか、「一生」掛かってしまいそうな内容です。

そして、この「義経の北行伝説」ですが、他の伝説と異なる特徴がある事が解っています。

最後に、他の「英雄伝説」と異なる点を紹介して、今回のブログを締めたいと思います。

(1)ルートが1本に繋がる

それは、「北行伝説」のルートが、見事に1本に繋がっている事です。

他の伝説、例えば、本ブログでも過去に取り上げた「坂上田村麻呂」の伝説ですが、この伝説の場合、ここにも、あそこにも「田村麻呂」が出没して、「やれ神社を拝んだ」、「戦勝祈願をした」等、何かを行っています。

★過去ブログ:【坂上田村麻呂】に関する観光地

また、本ブログでは、まだ取り上げていませんが、「弘法大師」の伝説も、似たような感じだと思います。

しかし、「北行伝説」の場合、今回のブログで紹介した地図やルートを見れば解る通り、本当に、見事に1本になっています。

これは不思議です。まさか、それぞれの地元で、

『 義経は、隣村まで来た事になっているから、次は、ウチの村でも、何か話を作らなきゃ ! 』

なんて事は無いと思いますが・・・

(2)伝説の始まり方

それと、もう一つ奇妙なのが、前にも記載しましたが、「ヒーロー伝説」とは、普通、「ヒーローが死なずに逃げ延びた」と言う形式を取ります。

今、話題の「真田幸村伝説」や「織田信長」等が英雄伝説では有名ですが、彼らは「大阪夏の陣」や「本能寺」では死なずに逃げ延びて・・・と言うのが定番です。

その他にも、同時代で言えば、「安徳天皇」や義経の叔父「源鎮西八郎為朝」等も生き延びた伝説があります。

「石田三成」に至っては、茨城の「佐竹氏」まで逃げ延びて、死ぬまで匿われ、秋田には「三成の墓」があると、地元では有名です。

しかし、「義経」に関しては、それ程は単純ではなく、影武者を用意し、食料も調達し、歴史上戦死するはずの1年も前に逃亡していたなんて・・・

何とも不思議な伝説です。

(3)墓が無い

それと、最後に、他の伝説と異なる点は、「義経の墓」が、どこにも無いことです。

「真田幸村の逃亡伝説」では、日本各地に「幸村の墓」が存在しますし、「織田信長の墓」も各地に存在します。

しかし、「義経」に関しては、まあ、確かに、藤沢の「白旗神社」に「首洗いの井戸」があり、「義経の墓」がある場所としては有名ですが・・・ちょっと違いますよね。

普通は、「あの英雄は、おらが村に逃げてきて最後を迎えた。ここが墓だ !」と言いたい所ですが、「北行伝説」では、見事に「通過」するだけで、どこでも死んでいません。

北行伝説で死ぬのは、「奥方」や「娘」、あるいは「息子」だけで、本人は逃げている点が、他とは異なります。

参考までに、「義経」関係者の死に関しては、伝説上は、次の通りとなっています。

・愛馬「小黒」 上郷村板沢「駒形神社」

・娘「日出」 遠野市「日出神社」

・子供「?」 岩泉町「加茂神社」

・正室「久我大臣の娘」 八戸市「おがみ神社」

・側室「浄瑠璃姫」 野内「貴船神社」

しかし、「義経」の墓だけは、未だにありません。どういう事なのでしょうか ?

まあ、「義経」の場合、蝦夷地の後は、大陸に渡って「チンギス・ハーン」になった、とまで話が広まっていますので、今更「これが義経の墓だ !」と言っても、もはや手遅れなのかもしれません。

ちなみに、「チンギス・ハーンの墓」も、候補地は、何箇所かは見つかっているようですが、まだ正確な場所は特定されていません。

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今回、「義経 = チンギス・ハーン伝説」は紹介できませんでしたので、次回(があれば)紹介したいと思います。

それでは、お待たせしましたが、今年(2016年)の「春の藤原まつり」における義経役ですが・・・俳優の「高杉真宙(たかすぎ まひろ)」さんに決定したそうです!!

と、言っても、私は「高杉真宙」さんなんて、全然知らないのですが・・・何でも、経歴によれば、次のような役を演じていたそうです。

・2012年 NHK大河ドラマ『平清盛』小兎丸役

・2013年 EX系特撮ドラマ『仮面ライダー鎧武』仮面ライダー龍玄/呉島光実役

・2015年 CX系『ゴーストライター』 遠野大樹役

・2015年 TBS系『明日もきっと、おいしいごはん〜銀のスプーン〜』主演 早川律役

・2015年 TBS系『表参道高校合唱部!』宮崎祐役

・2016年 EX系『スミカスミレ〜45歳若返った女〜』天野慶和役

この「春の藤原まつり」における義経役は、結構有名で、過去には、この役を演じてから、人気が出た俳優も沢山います。まあ、中には、「堀の中」に入ってしまった方も居るようですが・・・

「春の藤原まつり」は、毎年、10万人以上の観光客が押し寄せ、過去には、「滝沢秀明」さんが義経になった時など、25万人もの人で溢れたそうです。

過去の義経役に関しては、下記ブログに表を掲載しています。

★過去ブログ:春の藤原祭り−【源 義経】役は、あの人気俳優に!?

もしも、GW中に東北方面を訪れる予定があるなら、ちょっと寄り道をして世界遺産「平泉」を訪ねて、「義経」に思いを馳せてみては如何ですか ?

それでは次回も宜しくお願いします。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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