http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei02.htm#%EF%BC%91%E3%80%80%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E%E6%BA%90%E3%81%B0%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84%E3%83%BC 【6 山形県の地名】 より
(1) 出羽(でわ)国
出羽は、現在の山形県と鹿角市、小坂町を除く秋田県の地域の旧国名です。古くは越後国でしたが、和銅元(708)年に越後国の一部として出羽郡が置かれ(『続日本紀』)、和銅5(712)出羽郡に年陸奥国最上郡および置賜郡を割いて併せ、出羽国として分離しました。この「デワ」は、越後国の北方に突き出た「出端(いでは)」の意と解されています。
この「デワ」は、マオリ語の
「タエワ」、TAEWA(foreigner,cold)、「(外国人である)蝦夷(の住む。国)」(AE音がE音に変化して「テワ」から「デワ」となった)
または「テ・ワ」、TE-WHA(te=the;wha=be disclosed,get abroad)、「最近状況が明らかになつた土地(国)」
の転訛と解します。
(2) 鳥海(ちょうかい)山
鳥海山は、秋田・山形両県にまたがる東北第二の山で、出羽富士と呼ばれる秀麗な二重式の成層火山です。新火山の東鳥海山は七高山、伏拝山などの外輪山の中に北に開いた馬蹄形の爆裂火口があり、その中に最高点の新山(享和岳。2,236メートル)があります。その山頂は、山形県に属しています。旧火山の西鳥海山は、笙ケ岳、月山森などの外輪山に囲まれて、鍋森や扇子森などの中央火口丘と、直径約200メートルの火口湖「鳥(とり)ノ海」があります。
奈良時代から霊山として信仰され、頂上には出羽国一宮大物忌(おおものいみ)神社が祀られ、平安時代には修験の山として栄えました。
山名は、(1) 山頂の火口湖「鳥(とり)ノ海」からとする説、
(2) 「トウ(峠)・ウミ(海、湖)」の転、
(3) 「トリ(切り取る、崩壊する)・ウミ(海、湖)」の意とする説などがあります。
この「トリノウミ」は、マオリ語の
「トリ・(ン)ガウ・フミ」、TORI-NGAU-HUMI(tori=cut;ngau=bite,hurt,attack;humi=abundant)、「(東鳥海山の大爆裂火口部分が)大量に・食い・千切られている(山。その火口湖)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」と、「フミ」のH音が脱落して「ウミ」となった)
の転訛(語尾の「キ」が脱落した)と解します。
倉稲魂(うかのみたま)神と同神格とされる大物忌神をまつる大物忌神社の「オオモノイミ」は、マオリ語の
「アウ・モノ・イミ」、AU-MONO-IMI(au=sea;mono=disable by means of incantations,an incantation to disable an army;imi(Hawaii)=seek,look for)、「海難を避ける呪術を行う(神)」
の転訛と解します。
(3) 飽海(あくみ)郡・遊佐(ゆざ)郡
飽海郡は、古代から現在(戦国時代から江戸時代初期までを除く)にいたる郡名で、庄内地方の中央を流れる最上川の北側の鳥海山を含む地域で、北は古くは子吉川を境として河辺郡(のち由利郡)、東は雄勝郡(由利郡成立まで)および最上郡、南は田川郡、西は日本海に接しました。『和名抄』は「阿久三(あくみ)」と訓じます。
この「あくみ」は、(1) 古代は飽海郷あたりが最上川の遊水池となっており、「阿古(あこ)海」と呼ばれていたものの転、
(2) 「アク(低地、湿地)・ミ(辺)」の意とする説などがあります。
この「アクミ」は、
「アク・ミ」、AKU-MI((Hawaii)aku=bonito,skipjack;mi=urine,river)、「鰹の(肌の縞模様の)ような・川が流れる(地域)」(秀麗な裾野を引く鳥海山の山腹には綺麗な放射状の谷が刻まれていますが、この放射状の谷を鰹の肌の縞模様に譬えた秀抜な地名です。)
の意と解します。
遊佐郡は、戦国時代から寛文4年までの郡名で、北は由利郡、東は最上郡、南は櫛引郡(寛文4年以降は田川郡)、西は日本海に接します。古代から中世には飽海郡と称していましたが、戦国時代にいたり、武藤氏が庄内平野をほぼ平定したのち、最上川以北の地域、川北とも言っていた地域を遊佐郡と称したものが、天正18年および文禄3年の太閤検地により公認されたことによります。なお、飽海郡の名も伝統的に使用されており、寛文4年幕命により飽海郡と旧に復しました。
この「ゆざ」については、次の(4)遊佐町の項を参照してください。
(4) 遊佐(ゆざ)町ー吹浦(ふくら)
遊佐町は、庄内平野の北端、秋田県に接し、日本海に臨む町で、月光川水系の河口には吹浦(ふくら)の漁港があり、海岸線には砂丘が連なっています。「遊佐」は、古代以来の駅名(駅馬十疋を置きました)、郷名、荘園名に見えています。
この「ゆざ」は、ユリ、ユラと同じく砂丘地を指す地名で、「砂がゆすり上げられた土地」と解する説があります。
この「ユザ」は、マオリ語の
「イフ・タ」、IHU-TA(ihu=nose,bow of a canoe;ta=dash,beat,lay)、「(その先がカヌーの舳先のようにそそり立つ鳥海山の)山麓(鼻の上)に・位置している(地域)」(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」となった)
の転訛と解します。
吹浦の「ふくら」は、(1) 河川や海岸の袋状の土地とする説、
(2) 「フク(膨れる)・ラ(接尾語)」で湾曲した浜の意とする説があります。
この「フクラ」は、マオリ語の
「プク・ラ」、PUKU-RA(puku=swelling,knob;ra=wed)、「瘤(砂丘)が連続している(場所)」
の転訛と解します。古代に渤海からの使節を乗せた船が漂着したという能登半島の西岸、石川県羽咋郡富来町福浦(ふくら)など、海岸に多くある「フクラ」地名も同じ語源でしょう。
(5) 酒田(さかた)市ー山居(さんきょ)倉庫
庄内平野は、かつて中央部北寄りを最上川が東西に貫流して日本海に注いでおり、北西端の吹浦(ふくら)丘陵と、南西端の加茂台地から北に延びる山地を結ぶ沿岸洲に囲まれた内湾状の潟湖でしたが、最上川や、これに合流する赤川などがつくる扇状地性の三角州が次第に発達してつくられた平野です。
酒田湊は、最上川河口の湊で、室町時代の『義経記』には「酒田湊」と、『吾妻鏡』には「坂田」としてみえ、鎌倉時代末には有数の湊として著名でした。ほかに「狭潟」、「砂潟」とも書いています。
この「さかた」は、(1) 砂の干潟の意、
(2) 「サカ(狭い)・カタ(潟)」の意、
(3) 「サ(接頭語)・カタ(潟)」の意、
(4) 「サキ(先)・タ(処)」の意などとする説があります。
この「サカタ」は、マオリ語の
「タ・カタ」、TA-KATA(ta=the;kata=opening of shellfish)、「貝が口を開いたような地形の場所(潟)」
の意と解します。
また、河口近くの中州、山居(さんきょ)町には、米穀取引の拠点である山居倉庫があります。この「サンキョ」は、マオリ語の
「タネ・キオキオ」、TANE-KIOKIO(tane=male,showing manly qualities;kiokio=lines in tatooing)、「男性を表す入れ墨の線のような水路(に囲まれた中州)」(「タネ」が「サン」と、「キオキオ」の反復語尾が脱落して「キョ」となった)
の転訛(同音反復の語尾「キオ」が脱落した)と解します。
(5-2) 出羽(いでは)郡・都岐沙羅(つきさら)柵・田川(たがわ)郡・櫛引(くしびき)郡
出羽郡は、古代の郡名で、初見は『続日本紀』和銅元年9月条に「越後国が新たに出羽郡を建てたいと言上したのでこれを許した」とあります。当初の郡域は、(1)現代の東田川郡の地域、(2)庄内地方から由利地方にわたる地域、(3)最上川以南の地域とする説があり、(3)が有力視され、出羽柵および郡衙は現鶴岡市藤島町附近にあったと考えられています。建郡に先立ち、大化の改新以降越国から北方への開拓が海沿いに行われており、『日本書紀』斉明天皇4年7月条には都岐沙羅(つきさら)柵がみえ(現鶴岡市鼠ヶ関に比定する説があります)、天武天皇11年4月には越後夷伊高岐那らが俘70戸を請うて1郡をつくることを願い出て許されています(現鶴岡市付近に比定する説があります)。
和銅5年9月出羽国が出羽郡に陸奥国最上郡および置賜郡を割いて併せて建国され、出羽郡は北部が出羽郡、南部が田川郡に分割されたと考えられます。なお、出羽郡の名は、中世以降史料から消え、平安時代末に消滅したものと考えられます。
田川郡は、古代から現代までの郡名で、和銅5年9月出羽国の建国にともない旧出羽郡の南部、赤川中・上流域に位置したと考えられます。和名抄は「多加波(たかは)」と訓じます。中世には、領域支配が荘と国衙領に再編され、元来大泉荘内の意味の「庄内」・「庄中」が飽海・田川両郡名の総称となり、私的名称としての櫛引郡が発生し、戦国時代の末期にはこれが公的に認められました。天正18年以降は、最上川以南、おおむね赤川の西が田川郡、東が櫛引郡となり、寛文4年幕命により田川・櫛引両郡が合併して田川郡となり、明治11年おおむね赤川を境として東が東田川郡、西が西田川郡となりました。
櫛引郡は、中世から近世までの郡名で、戦国時代に庄内地方のほぼ全域を支配下に収めた武藤氏が私的名称として最上川以南(川南)の赤川以東の東半分を櫛引郡と称したことにはじまり、これが公的に天正18年以降の太閤検地で認められ、のち寛文4年幕命により田川・櫛引両郡が合併して田川郡となり、櫛引郡は消滅しました。
この「いでは」、「つきさら」、「たかは」、「たがわ」、「くしびき」は、
「イ・タエワ」、I-TAEWHA(i=past tense,beside;taewha=foreigner,cold)、「(他の国から来た)入植者(が住む土地)の・傍ら(に置いた国府が所在する地域)」(「タエワ」のAE音がE音に変化して「テワ」となった)
「ツキ・タラ」、TUKI-TARA(tuki=beat,attack;tara=point as a thorn,peak of a mountain,side wall of a house)、「(家の外壁のような)切り立った岩壁が・削られた(場所。そこに設けられた柵)」
「タカ・ワ」、TAKA-WHA(taka=fasten a fish-hook to a line;wha=get abroad,be disclosed)、「(釣り糸に釣り針を結びつけたように)川(のほとり)に・(他の国からの)入植地がぶら下がっている(地域)」(「ワ」のWH音がH音に変化して「ハ」となった)
「タ(ン)ガ・ワ」、TANGA-WHA(tanga=be assembled;wha=get abroad,be disclosed)、「(他の国からの)入植地が・集合した(地域)」(「タ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「タガ」と、「ワ」のWH音がH音に変化して「ハ」となった)
「クチ・ピキ」、KUTI-PIKI(kuti=draw tightly together,contract,pinch;piki=climb,frizzled,closely curled of hair,press close together)、「(縮れ毛のような)蛇行する川が・密集して流れる(地域)」
の転訛と解します。
(6) 最上(もがみ)川
最上川は、福島県境の吾妻火山に源を発し、米沢、長井、山形、新庄の4盆地を貫流し、出羽山地を最上峡で横切って庄内平野に出て、酒田市南部で日本海に注いでいます。山形県だけを流れる川で、水量が豊富で、球磨川、富士川とともに、日本三大急流の一つといわれています。古くから水運が発達し、山形県内陸部の大動脈でした。江戸時代までは、左沢から上流を松川、中流を最上川、清川から下流を酒田川と呼んでいました。
『続日本紀』和銅5(712)年の条に「最上郡」がみえ、『延喜式』にも「最上駅」がみえます。『和名抄』には「毛加美」と訓じられています。この古代の最上郡は、今の東・西・南村山郡のあたりだったようです。
この「もがみ」は、郡名が先とする説が多いようで、
(1) 仙北地方(秋田県)の上(かみ)にあるから、
(2) 「モ(接頭語)・カミ(上)」で「高い所(台地)」の意、
(3) 「モモ(ママ(崖))・カミ(上)」で「崖の上」(最上峡を指す)の意などの説があります。
この「モガミ」は、川名が先に付いたもので、マオリ語の
「マウ(ン)ガ・ミ」、MAUNGA-MI(maunga=mountain;mi=urine,river)、「(庄内平野と内陸部を隔てる出羽山地の)山を・(貫いて)流れる川(またはその流域)」(「マウ(ン)ガ」のAU音がO音に、NG音がG音に変化して「モガ」となった)
または「モカ・ミ」、MOKA-MI(moka=end,muzzle;mi=urine,river)、「口輪がかかっている(新庄盆地からの出口が出羽山地の山で狭められている)・川(またはその流域)」
の転訛と解します。
(7) 出羽三山(羽黒山、湯殿山、月山)
山形県のほぼ中央部、朝日山地の北端部に位置する出羽三山は、古くからの純粋な信仰の山です。もとは別々の山神信仰でしたが、羽黒行者が熊野三山にちなみ、修験の聖地として「出羽三山信仰」をつくりあげました。
羽黒山(はぐろさん。414メートル)は、山形県東田川郡羽黒町、藤島町、立川町にまたがる羽黒派修験の霊場で、山頂に羽黒(出羽)神社と、冬季に月山神社、湯殿山神社をあわせて祀る出羽三山合祭殿があります。この神社がある山頂は、月山の火山泥流の末端が第三紀層山地に乗り上げたところで、月山から細長い台地が延びた先端にあります。
山名は、開山した崇峻天皇の皇子蜂子(はちのこ)皇子を導いた三本脚のカラスにちなむ(羽が黒い)といい、『延喜式』の式内社「伊で波(いでは)神社」が羽黒山にあったとする伝承がありますが、確証はないようです。羽黒山が歴史に登場するのは、鎌倉時代以降で、『吾妻鏡』などには「出羽国羽黒山」とあります。
その語源は、(1) 「ハ(端)・クロ(小高いところ)」の意、
(2) または「ハ・クラ(場所、処)」の転で、いずれも「山の端の神がいますところ」とする説があります。
この「ハグロ」は、マオリ語の
「ハク・ロ」、HAKU-RO(haku=complain of;ro=roto=the inside)、「(月山山系の)内ふところにあって(この山だけ山容が違うために)不満を言っている(ように見える山)」
の転訛と解します。
月山(がっさん。1,984メートル)は、東田川郡羽黒町、立川町、西村山郡西川町の境をなしています。第三紀中新世の地層からなる出羽山地のなかに噴出した成層火山で、なだらかな山頂付近や東側斜面とは対照的に、北西側は大きく崩壊した馬蹄形の爆裂火口の急斜面となっています。
蜂子皇子の開山にかかる古い修験の霊場で、山頂の式内名神大社月山神社は月読命を祀ることから月山と称したといいます。また、その形から犂牛(くろうし)山、臥牛(がぎゅう)山とも呼ばれました。
この「ガツ」は、マオリ語の
「(ン)ガツ」、NGATU(crushed)、「崩れた(山)」
の転訛と解します。これから月山の呼称が先に成立して、それにちなむ月読命を祀る月山神社が後から勧請されたものでしょう。
なお、島根県能義郡広瀬町にも月山(がっさん。184メートル)があります。頂上の富田(とだ)城は、鎌倉時代から諸氏が支配しましたが、とくに尼子経久の大永年間(1521~28)には山陰・山陽支配の主城となりました。悲運の武将山中鹿之介の出た城でもあります。この山の麓は急崖で知られており、山名は出羽の月山の語源と同じとみてよいでしょう。
湯殿山(ゆどのさん。1,500メートル)は、月山の西側中腹の峰で、東田川郡朝日村と西村山郡西川町の境をなしています。仙人沢に湯殿山神社があり、大山祇命(おおやまずみのみこと)ほかを祀っています。社殿はなく、山腹から突き出た温泉の湧き出る赤い巨岩がご神体で、出羽三山の奥の院ともいわれています。『奥の細道』に”語られぬ湯殿にぬらす袂かな”とあるように、古来ご神体については他言が禁止されていました。
山名は、ご神体の「ユ(湯)・トノ(棚、段丘)」からとする説があります。
この「ユドノ」は、マオリ語の
「イフ・トノ」、IHU-TONO(ihu=nose,bow of a canoe;tono=bid,command,demand)、「(他言を)禁止している・鼻(のような岩。その岩のある山)」(「イフ」のH音が脱落して「ユ」となつた)
の転訛(IU音が「ユ」に、NG音がN音に変化して「ユタナ」になり、「ユトノ」になって濁音化した)と解します。
(8) 鼠ヶ関(ねずがせき)
山形県の西南隅の海岸、西田川郡温海町大字鼠ヶ関に、奥羽三関の一つとして、越後と出羽の境の念珠関(ねずがせき)が置かれていました。越後から出羽庄内に入るルートは、この海岸通りと、雷峠を越えて木野俣を経由する路(ほかに堀切峠を越えて小国村から大きく迂回する路)がありました。この附近はごつごつした岩が連続する岩石海岸ですが、とくにここから約18km南には奇岩怪石が連続する笹川流れ(新潟県の(8)石船(いはふね)郡のb笹川流れの項を参照してください。)の天然記念物に指定された景勝地があります。
この「ネズ(ガ)」は、
「ネイ・ツ(ン)ガ」、NEI-TUNGA(nei=to denote proximity to,to indicate continuance of action;tunga=decayed tooth)、「虫歯のような(岩が並ぶ)場所(笹川流れ)に・ほど近い(場所にある。関所)」(「ネイ」が「ネ」と、「ツ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ツガ」から「ズガ」となった)
の転訛と解します。
(9) 朝日(あさひ)連峰
山形県の西部、新潟県との県境にまたがる山地で、朝日岳(あさひだけ。1,870メートル)を主峰として、1,400~1,600メートルの山々がほぼ南北の主脈とそれと斜交する支脈をつくっています。
朝日、旭のつく山は、太陽が最初に昇る山や、朝日で赤く染まる山を「あさひ」と呼んだことによるとされ、各地に存在しています。
この「アサヒ」は、マオリ語の
「アタ・ヒ」、ATA-HI(ata=how horrible!,clearly,deliberately;hi=raise,rise)、「どっしりとして(人を寄せ付けない凄みのある)高い(山)」
の転訛と解します。この「アタ」は、すでに解説した「浅間山」、「安達太良山」の語源と同じです。
(9-2) 最上(もがみ)郡
最上郡は、古代から現在にいたる郡名で、当初は置賜郡とともに陸奥国に属していたのが和銅5年両郡を越後国出羽郡と併せ出羽国となり、内陸部の現最上郡の地域から上山までの最上川の中流域を郡域としていましたが、仁和2年11月最上郡を二分しておおむね現天童市の乱川以北、最上川が寒河江付近で大きく西へ曲がるその最上川以北の北半分を村山郡、南半分を最上郡としました(『三代実録』)。戦国時代に最上氏が最上・村山両郡を制圧した後、文禄年間の太閤検地により、南を村山郡、北を最上郡とされ、江戸時代初期の正保国絵図作成時に現在の境界が確定したと推定されます。和名抄は「毛加美(もかみ)」と訓じます。
この「もがみ」、「もかみ」は、
「マウ(ン)ガ・ミ」、MAUNGA-MI(maunga=mountain;mi=urine,river)、「(庄内平野と内陸部を隔てる出羽山地の)山を・(貫いて)流れる川(その流域)」(「マウ(ン)ガ」のAU音がO音に、NG音がG音に変化して「モガ」となった)
または「モカ・ミ」、MOKA-MI(moka=end,muzzle;mi=urine,river)、「口輪がかかっている(新庄盆地からの出口が出羽山地の山で狭められている)・川(その流域)」
の転訛と解します。
(9-3) 村山(むらやま)郡
村山郡は、古代から現代の郡名で、当初は置賜郡とともに陸奥国に属していたのが和銅5年両郡を越後国出羽郡と併せ出羽国となり、内陸部の現最上郡の地域から上山までの最上川の中流域を郡域としていた最上郡を、仁和2年11月二分しておおむね現天童市の乱川以北、最上川が寒河江付近で大きく西へ曲がるその最上川以北の北半分を村山郡、南半分を最上郡としました(『三代実録』)。戦国時代に最上氏が最上・村山両郡を制圧した後、文禄年間の太閤検地により、南を村山郡、北を最上郡とされ、江戸時代初期の正保国絵図作成時に現在の境界が確定したと推定されます。明治11年村山郡は北村山・東村山・西村山南村山の4郡に分割されました。和名抄は「牟良夜末(むらやま)」と訓じます。「村山」は、「群山(むれやま)」からとする説があります。
この「むらやま」は、
「ム・ライア・マ」、MU-RAIA-MA(mu=silent;raia=to give emphasis;ma=names of persons or streams)、「静かに・悠々と・流れる(川。その流域)」(「ライア」が「ラヤ」となつた)
「ム・ライ・イア・マ」、MU-RAI-IA-MA(mu=silent;rai=ribbed,furrowed:ia=indeed;ma=white,clean)、「静かな・(皺が寄ったように)波を打つ・(実に・清らかな)山(が連なる。地域)」(「ライ」の語尾のI音と「イア」の語頭のI音が連結して「ラヤ」となった)
の転訛と解します。
(9-4) 置賜(おきたま)郡
置賜郡は、最上川上流域に位置し、当初は最上郡とともに陸奥国に属していたのが和銅5年両郡を越後国出羽郡と併せ出羽国となり、北は村山郡、東は宮城県、南は福島県、西は新潟県に接します。表記・読みは様々で、『日本書紀』持統紀3年正月条に「優耆曇(うきたま)郡」がみえ、和名抄は「於伊太三(おいたみ)」と訓じ、延喜式(九条家本)は「オイタム」と、『節用集』文明本は「おきたま」と、同易林本は「おいたま」とする等で、古代から中世には「おいたみ」、以後は「おきたま」と訓ずる例が多いようです。
この「おいたみ」、「おきたま」は、
「オイ・タハ・アミ」、OI-TAHA-AMI(oi=shudder,move continuously,agitate,creep;taha=side,edge,part,go by;ami=gather,collect)、「揺れながら・(両)脇の・(支流を)集めて流れる(川。その流域)」(「タハ」のH音が脱落し、その語尾のA音と「アミ」の語頭のA音が連結して「タミ」となった)
「オキ・タハ・マ」、OKI-TAHA-MA((Hawaii)oki=to finish,cut,separate;taha=side,edge,part;ma=names of persons or streams)、「川の流れを・(両)脇に・分岐させている(川。その流域)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)
の転訛と解します。
(10) 及位(のぞき)
及位は、山形県最上郡真室川町の北東部の旧及位(のぞき)村の地名で、雄勝(おかち)峠を境に秋田県雄勝郡雄勝町と接する旧羽州街道(現国道13号線)の宿場町で、JR奥羽本線及位駅があります。この道路も鉄道も、塩根川の深い切り立った渓谷の崖の上の方に張り付いて通っています。この地名は、「山岳修験の修行方法に由来するといわれる(小学館『日本地名大百科』)」といいます。
奈良県吉野の奥に役小角が開いたと伝える山岳修験の霊場、大峰山(金峰山寺)があります。いまだに女人禁制の山で、かつて関西では大峰山に参詣して岩場めぐりを経験しない若者は一人前扱いされなかったといいます。この山上には修行の場所として、鉄鎖を頼りにようやく登る急峻な岩場をはじめ、切り立った絶壁の上の釣鐘状の岩の表面の小さな凹凸に手足を託して一周する「平等岩」や、絶壁の上にある僅かな平たい岩場の「西の覗(のぞ)き」などがあります。この「西の覗き」では、先達が、肩に縄をかけて腹這いになった信者の半身を前に押し出し、数百メートル下の谷底を覗かせて、恐怖に震える信者に神仏への絶対の帰依と今後の一層の信心を誓わせるのです。
この「ノゾキ」は、マオリ語の
「(ン)ゴト・キ」、NGOTO-KI(ngoto=be deep;ki=very)、「非常に深い(谷)」
の転訛(NG音がN音に変化して「ノトキ」となり、さらにT音がS音に変化して「ノソキ」となり、濁音化して「ノゾキ」となった)と解します。
このほか、秋田県由利郡大内町の芋川中流域に旧及位(のぞき)村があり、仙北郡南外村の西又川の谷口に及位(のぞき)の集落があります。
この地名は、(1) 「ノ(野)・ソギ(削・退)」で「境上の原野」(柳田国男『地名の研究』)のことであり、「遠く離れた地(野)」の意味とする説、
(2) 「ソギ(削)・キ(接尾語)」で、崩壊・浸食・露出などの地形を示すとする説、
(3) 東北では「ノゾキ(除木)」で、木を切った開墾地の意とする説、
(4) 年貢を免除した寺社領、田・屋敷の「除き地」などの説があります。
これらの「ノゾキ」は、前者とは異なり、マオリ語の
「ノ・トキ」、NO-TOKI(no=belonging to;toki=very calm)、「極めて静かな土地」
の転訛(T音がS音に変化して「ノソキ」となり、濁音化して「ノゾキ」となった)と解します。
(11) 寒河江(さがえ)市・左沢(あてらざわ)
寒河江市は、山形県の中央部、山形盆地の西部にあり、置賜郡から北流、東流してきた最上川がここで大きく流路を北に転じます。市名は、中世の荘園名に由来します。
大江町左沢は、寒河江の西、置賜郡から北流してきた最上川が東に流路を変える場所に位置し、かつては最上川の大船遡航の終点で、上杉藩の水路改修により、物資集散地として発展しました。地名は、川の「左方(あちら)」、または「あちらの沢」からおこったとする説があります。
この「さがえ」、「あてらざわ」は、
「タ・(ン)ガハエ」、TA-NGAHAE(ta=the...of,dash,carve,lay;ngahae=be torn,dawn,look askance)、「(最上川が岸を)刻んで・横目で見ながら(流路を真横に曲げて)流れる(場所)」(「(ン)ガハエ」のNG音がG音に変化し、H音が脱落し、AE音がE音に変化して「ガエ」となった)
「ア・タエ・ラエ・タワ」、A-TAE-RAE-TAWHA(a=the...of;tae=arrive,reach,proceed to;rae=forehead,promontory;tawha=burst open,crack)、「あの・(大船が)遡上する・(頭の)一番上流の・(川の裂け目の)開けた(場所)」(「タエ」のAE音がE音に変化して「テ」と、「ラエ」の語尾のE音が脱落して「ラ」となった)
の転訛と解します。
(12) 米沢(よねざわ)市
米沢市は、山形県南東端、米沢盆地の南部に位置する市で、中心部は松川扇状地の上に発達し長井氏、伊達氏から上杉氏と続いた城下町です。
米沢盆地は南東から北西に松川が流れ、これに南側からは鬼面川(秋田県雄物川の項参照)、黒川などが、北側からは屋代川、和田川、吉野川などがいずれもほぼ並行して流れ込んでいます。
この「よねざわ」は、天文7(1538)年の『伊達氏段銭古帳』に「よなさハ」とあるのが初見で、(1) 飯豊山麓の「ヨネ(米)産地の沢」の意とする説や、
(2) 「ヨナ(砂、砂礫)の沢」の意とする説があります。
この「ヨネザワ」の地名は、この川の流れに着目したもので、マオリ語の
「イオ・ネヘ・タワ」、IO-NEHE-TAWHA(io=rope,line;nehe=rafter of a house;tawha=burst open,crack)、「家の垂木のような川が流れている開けた場所(沢)」
の転訛(「ネヘ」の語尾の「ヘ」が脱落した)と解します。この「ネヘ」は前出の「鼠ヶ関」の語源と同じです。
(13) 置賜(おきたま)盆地
山形県南部、米沢市、南陽市を中心に、西置賜郡飯豊町、東置賜郡川西町、高畠町にかけて広がる盆地を置賜盆地(米沢盆地)といい、これに長井市を中心にした長井盆地を含めて置賜地方と呼んでいます。この盆地は、中央部が陥没して形成された構造盆地で、かつては湖であり、現在米沢盆地の北東に大谷地といわれる泥炭地か広がり、その中心にある白竜湖は湖盆の残存湖とされています。
『日本書紀』持統紀3年正月の条に「優耆曇(うきたま)郡」がみえ、『和名抄』には「陸奥国置賜郡」に「於伊太三(おいたみ)」と訓じられています。
この「おきたま」は、(1)「オ(接頭語)・イタ(段丘、扇状地)・ミ(接尾語)」の意や、(2)「オキ(奥、湿)・タ(処)」の意などの説があります。
この「オイタミ」、「オキタマ」は、マオリ語の
「オイ・タハ・アミ」、OI-TAHA-AMI(oi=shudder,move continuously,agitate,creep;taha=side,edge,part,go by;ami=gather,collect)、「揺れながら・(両)脇の・(支流を)集めて流れる(川。その流域である盆地)」(「タハ」のH音が脱落し、その語尾のA音と「アミ」の語頭のA音が連結して「タミ」となった)
「オキ・タハ・マ」、OKI-TAHA-MA((Hawaii)oki=to finish,cut,separate;taha=side,edge,part;ma=names of persons or streams)、「川の流れを・(両)脇に・分岐させている(川。その流域である盆地)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)
の転訛と解します。
(14) 小国(おぐに)町
山形県南西端、新潟県境に西置賜郡小国町があります。朝日山地と飯豊山地に囲まれ、最上川上流の荒川渓谷に沿った山間の盆地で、米沢と越後をむすぶ越後街道、JR米坂線、国道113号線が通じています。
このような山間の小さな盆地などの地域で「小国(おぐに、おくに)」の名を持つ地域は、新潟県刈羽郡小国町、熊本県阿蘇郡小国町をはじめ、山形県内にも温海町、最上町、真室川町にもあります。
この「オグニ」は、マオリ語の
「オ・ク・ヌイ」、O-KU-NUI(o=the place of;ku=silent;nui=large,many)、「静まり返っている場所」
の転訛と解します。
(15) 飯豊(いいで)山
飯豊山(2,105メートル)は、山形・新潟・福島県境にある山で、古来信仰の対象でした。山の大部分は山形・新潟両県に属しますが、山頂の飯豊青(いひとよのあお)皇女を祀るとも、大国主命の五人の王子を祀るともいう飯豊山神社の境内敷地と南の三国岳から稜線上を延びてくる登山路だけは、福島県耶麻郡山都町に属しています。これは江戸時代の会津藩領であった一ノ戸口からの信仰登山の歴史の反映で、明治から大正にかけて約40年にわたる訴訟の結果によるものです。
山頂部は風化した花崗岩類が緩やかな斜面を形成し、高山植物が豊かですが、谷筋はけわしく、氷河の跡の浸食地形と長い雪渓が特徴的です。
この山名の由来は、(1) 「秀でた」山の意、
(2) 「飯を豊かに盛った」山の意、
(3) 「湯の出る」場所(新潟県北蒲原郡)の山の意、
(4) 「飯豊(いひとよ)神」の名からとする説などがあります。
この「イイデ」は、マオリ語の
「イヒ・テ」、IHI-TE(ihi=split,power;te=emphasis,crack)、「裂け目(嶮しい谷)が入っている(山)」
の転訛と解します。
なお、「飯豊神」、「飯豊青(いひとよのあお)皇女」の「イヒトヨ」、「イヒトヨノアオ」は、マオリ語の
「イヒ・ト・イオ」、IHI-TO-IO(ihi=split,power;to=be pregnant;io=spur,ridge)、「裂け目をはらんでいる峰の神(または聖なる力を秘めた峰の神)」
「イヒ・トイ・イオ・ノ・アオ」、IHI-TOI-IO-NO-AO(ihi=split,power;toi=move quickly,encourage;io=muscle,tough,obstinate;no=of;ao=daytime,world,bright,be right)、「(天皇不在の)隙間を・疲れを知らずに・駆け抜けた(短期間天皇を代行した)・(夜が明けたように)明るくなった(皇女)」
の転訛と解します。
(16) 蔵王(ざおう)山
宮城県の蔵王連峰の項を参照してください。
(17) 有耶無耶(うやむや)関
奥羽山脈を越えて山形市と宮城県川崎町を結ぶ笹谷街道(286号線)の分水界の笹谷峠の南東に古歌で知られる有耶無耶関があります。
この「ウヤムヤ」は、マオリ語の
「ウイ・ア・ムイ・ア」、UI-A-MUI-A(ui=disentangle,ask,enquire;a=and,so then;mui=swarm round,molest)、「(通行人に対して)質問を・連発して・悩みに・悩ませる(関所)」(「ウイ」、「ムイ」の語尾のI音と「ア」のA音が連結して「ウヤ・ムヤ」となった)
の転訛と解します。
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