照井党 -アテルイの時代-

https://hitakami.takoffc.info/2016/11/terui_party_2/ 【照井党 -アテルイの時代-】 より

(千城 央著「ゆりかごのヤマト王朝 一 照井党の巻」(2009.1.30 本の森発行)より)

主な登場人物

水沢照井党 建麻呂 (阿弖流為、アテルイ)

池月照井党 只牟呂

盛党 多賀嶋 (母礼、モレ)

安倍 乙志呂

坂上 苅田麻呂、田村麻呂

桓武天皇

三十八年の役勃発

呰麻呂の乱 (略)

北上川の戦い

軍神の出陣

三十八年の役終焉

774年  海道の蝦夷が反乱し桃生城を侵す(三十八年戦争開始)

776年  陸奥の軍3000人をもって胆沢の賊を討つ(胆沢の初見)

□  三十八年の役勃発

奥羽のみならず、信濃・駿河以東の東国では、重税と度重なる災害にあえいでいた。…

770(宝亀元)年10月、坂上田村麻呂の父である苅田麻呂が陸奥守鎮守将軍として赴任した。

苅田麻呂は、私利私欲に走らない篤実家(とくじつか)、平和共存路線を推し進めている。このため、奥羽の民は安堵し一揆は急減した。

ところが、…讒言(ざんげん)する者があり、翌年4月には都に戻して交代させてしまうのである。…

774年8月、磐城行方(なめかた)郡の周辺の百姓が前年の冷害のため飢えにあえぎ、食糧を得るため郡の食糧倉庫を襲って火をかけ、焼いてしまう事件が起きている。

これを受けて、都では陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守将軍の大伴駿河麻呂にエミシ征討命令を下し、奥羽三十八年の役の幕が切って落とされた。

――飢えて困っている民への同情の一かけらもなく、武力で鎮圧せよとは。神も仏も恐れぬただの無法者集団ではないか。それなら、こちらも覚悟を決めねばなるまい。

飢えに悩まされているのは奥羽全体である。

照井党から征討の情報を得た盛党は、飢饉対策を講じようとしないヤマトに、激しい憎悪の念を燃やした。…

水沢には間もなく、紫波の八十嶋からも連絡が入った。

「出羽の秋田城では、来春4千人の兵士を動員して雄勝城から進軍し、奥羽山脈を越えて紫波を討つ決定をした」。…

翌年6月、出羽に派遣されていた鎮守副将軍佐伯久良麻呂(くらまろ)を大将とする東征軍千人は、雫石から盛岡に出る山峡の谷間を進み、羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)にかかって軍列が伸び切ったそのとき、山腹から敵兵が現れて先陣が襲われ、続いて後陣も襲われて敗退している。

これで挟み撃ち作戦の一方が、あえなく崩れ去ってしまった。…

同年9月、水沢照井館では建麻呂と多賀嶋が中心となって作戦会議が開かれ、池月の只牟呂と紫波の乙志呂も参加した。…

作戦の骨子は特段迷うこともなく、次々と定められている。

・敵を油断させるため、敵が磐井川を渡るときは、50人が迎え撃って直ぐ西方に逃げること

・主戦場は衣川とし、敵の中軍3分の1が衣川を渡り切ったところで、正面の塹壕から50人が弓を構え、射ったらすぐ北に逃げること

・敵がそれを追いかけ始まったとき、建麻呂が指揮する主力2百騎が西方から弓で攻撃をかけること

・最後に多賀嶋が指揮する百騎は、東方から弓で攻撃かけるが、馬は手前に置いて人だけがそっと背後から近づき、完全に射程距離に入ったところで正面の敵を射ること

…11月中旬には、寸部の隙もない建麻呂の采配で、滞りなく実戦演習が行われた。…

「黒沢尻以北は出羽の管轄で、黒沢尻の首長が和賀であることは知っていよう。あの和賀党というのはなかなかのやり手よ。

ヤマトには従うといい、わしらにも従うといい、その使い分けと商売の上手さにかけては天下一品といえる。

奴らは、出羽守の要請を入れて花巻に古四王神社を勧請し、ヤマトに従う者も従わない者も祭祀を共に行っている」

「そのような曖昧な者らが、どうして商売でのさばっていられるのですか――」

「不思議に思うだろう。ところが、使い道が大ありでな。出羽と陸奥の交易は、ヤマトであろうとエミシであろうと大半は彼らを経由して行っている。つまり、中立地帯というわけだ。…

776(宝亀7)年8月、多賀城では胆沢遠征を目前にして、駿河麻呂が死亡した。

喪の明けた11月、後任には紀広純(きのひろずみ)が昇格し、初冬の寒さに打ち震えながら兵士3千人を引き連れて多賀城を出発し、翌日伊治城に到着している。…

翌日一関に到着し、磐井川の南岸で百張りの筏を作って野営となった。

北西の風に雪が舞い、寒さは一段と厳しくなっている。…

大沢たかお演じるアテルイ (2012 NHK BSプレミアム)

大沢たかお演じるアテルイ (2012 NHK BSプレミアム)

…退却にもかなりの時間を要したが、奇妙なことに敵はそれ以上攻めては来ない。

「今回は、敵の下見をするための作戦であり、敵の戦法や地形がよくわかったので、今年の征討はこれで終わりとする」

退却終了後、広純は取って付けたような決断を示したが、内心は穏やかなものではない。…

780年  覚鱉城を造り、蝦夷の南下に備える.伊治公呰麻呂の乱(蝦夷の蜂起)

□  呰麻呂の乱  (…略…)

781年  桓武天皇、即位

784年  長岡京に遷都.大伴家持を征東将軍に任じるも成果なし

786年  第一次胆沢遠征の準備を開始(~789)

789年  征東大使紀古佐美が胆沢で阿弖流為ら蝦夷軍に大敗.征軍5万2800人

□  北上川の戦い

…(787(延暦6)年10月)、4人の義兄弟(照井建麻呂、照井只牟呂、盛多賀嶋、安倍乙志呂)が揃って事実上の作戦会議となり、建麻呂が口火を切った。

「ヤマトによる兵士の動員総数が5万人ともなれば、実戦部隊はその4割と見て2万人だ。

こちらは、せいぜい2千人が限度、乙志呂ならどう対応する」

「寡兵の軍が圧倒的多兵の軍と戦うには、敵を分断する以外の方法は見当たりません。われらとしては、川を味方にして戦えば勝算が生まれる。

このことは、先回の戦いで証明されたとおりです。ですが、今回の規模だと衣川では通用しないでしょう」

「ほう、その意味するところは――」

「川幅が狭いところに大勢の兵士が押しかければ、どうなりますか――」

「渡る箇所数によるな。箇所が少なければ筏(いかだ)や舟も少なくてすむが、全員が渡るまで時間がかかる」

「それでは、こちらの思う壺にはまりますから、今度の敵はそうはしないでしょう」

「筏や舟を多く用意して時間をかけないようにする。いや、待てよ…。渡る場所を上流に変えれば、丸木橋を据え付ける程度で歩いて一気に渡れるな。川渡のような所なら丸木橋も必要ない」

「でしょう――。だから、今回は簡単に渡ることができない北上川を渡らせるしか手はないと…」

「なるほど、慧眼(けいがん)だな。すると、主戦場は北上川の左岸で、騎馬隊が自由に動き回る平原といえば江刺方面に限定されるな」

「敵が渡川に苦労をすればするほど、勝機が生まれると思います」

建麻呂は、乙志呂の勧説を取り入れることとした。

「それでは、左岸にたくさんの竃(かまど)を造って煙を上げながら、遊撃隊が周辺をうろついて相手をけしかけ、渡川をするように誘導をしよう」

「そうなれば、北上川両岸の周辺に住む全ての住民を、山麓に避難させておく必要があります」

「それと、敵の食糧をできるだけ消耗させるため、ぎりぎりまで手出しはせず、相手の出方を待つことが大事です」

騎馬隊の人数と配置場所、実地訓練の日程などが次々と定まり、世にいう巣伏(すぶし)の戦いの準備が着々と進んでいた。…

ヤマトでは、同(787)年11月から東海道・東山道・北陸道の各国に命じて、多賀城にモミや塩などの軍糧と武器などを運び入れ、戦闘の準備に余念がなかった。

788年8月、征東大使・将軍の紀古佐美は、大極殿において桓武天皇から節刀を授かるとともに檄の言葉を受けている。

「坂東の安危この一挙にあり、将軍よろしく勉むべし」

この激は、日露戦争において日本海海戦の火ぶたが切って落とされようとしていたとき、連合艦隊司令長官東郷平八郎が旗艦三笠から飛ばした

「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」

の、モデルである。…

789(延暦8)年4月初旬、征討軍の戦闘兵士2万2千人が多賀城を出発した。

ほかに、後方支援部隊として軍糧などの輸送に当たる輜重兵士2万人、城柵の守備兵士1万人である。

4月下旬、戦闘兵士は早くも衣川に到着したが、敵兵も住民も見当たらず、不気味な静けさを保って蕭条たる景色が広がっているのみである。

「物見を出して探索せよ」

敵兵を捜して散々探索を繰り返しているうちに、5月も過ぎようとしていた。

その矢先に、天皇から将軍と副将軍を叱責する命令が届けられたのである。…

『長滞陣は軍糧を消耗するだけである。早く決断して攻めろ』

というわけである。…

市川染五郎演じるアテルイ(2015 歌舞伎NEXT)

市川染五郎演じるアテルイ (2015 歌舞伎NEXT)

…戦闘は、エミシ側の圧勝である。

ところが、

「退却するヤマトの兵を追っていた遊撃隊長の只牟呂どのが、敵の矢に当たって重傷を負ったとのことです」…

只牟呂は手当の甲斐もなく、建麻呂ら大勢が見守るなか3日後に死亡している。

働き盛りの32才であった。…

ヤマトの戦死者は、別将丈部善理を含む1060余人、負傷者240余人を出す大惨敗で、うち800人余は溺死であった。

エミシ側の損害は兵士と百姓らを合わせて戦死者は90余人、負傷者160余人である。

その年の収穫が終わった11月、紫波盛館に主要幹部が集合し、戦勝を祝う会が盛大に開かれ、宴会が3日間続いた。

戦いにあたって旗幟(きし)を鮮明にしなかった首長らは、賀辞を添えた祝いの品を陸続と送っている。

水沢の街は戦いによって灰儘に帰したため、建麻呂は再建を急いだ。…

巣伏の戦いに敗れたとの報告が都に届くと、万事に猜疑心の強い桓武天皇は、眉を逆立てて激しく怒り、古佐美の稚拙な軽挙妄動作戦に呆れ果てている。

「あれほど念入りに計画を立てて準備は万端なのに、この有様は何事か。将軍らの責任を厳しく問え」

だが、大使の古佐美は、

「巣伏では負けましたが、全体としては敗北ではなく勝利をしたものです」

と、切々たる訴えを都に出している。…

790年  第2次胆沢遠征の準備開始

791年  大伴弟麻呂を征東大使に、坂上田村麻呂らを副使に任命

794年  平安京に遷都(平安時代の始まり).遠征軍10万人と蝦夷が交戦し、遠征軍が勝利

□  軍神の出陣

…天皇は奥羽における寺院勢力の台頭を押さえるため、エミシ征討を急ぐ必要があったことから、二人の有能な腹心の臣下を起用することにした。

「百済王俊哲と坂上田村麻呂を参内させよ」

巣伏の戦いから1年余り過ぎた、791(延暦10)年正月のことである。

俊哲は、本邦初の産金で有名な百済王敬福の孫で、4年前に不正・腐敗の責任を負い、陸奥国から日向国に左遷されていたが、同じ百済からの亡命人として亡き母后が配慮を望んだことに報いようとしたもので、同時に下野守に就任している。

田村麻呂は34才の若さであったが、近衛少将・越後守として天皇の近待にあり、よく気心を知っているほか、5年前に亡くなった父の苅田麻呂が、元陸奥守であったことから、現地に対する知識も十分であると見たのである。…

俊哲と田村麻呂は東海道に派遣された。

その年の7月、征東大使・将軍に大伴弟麻呂(おとまろ)、副使・副将軍に百済王俊哲、多治比浜成、坂上田村麻呂、巨勢野足(こせののたり)が任命され、征討の準備が1年間かけて着々と進むことになる。

天皇は、密かに弟麻呂を呼んで諭している。

「慣例に従えば、田村麻呂を副使にするには早すぎる。だが、敵にも騎馬軍団を自由自在に使いこなす照井という剛の者がいる。

この賊将に対抗できる者は、田村麻呂をおいてほかにはいない。彼は亡き苅田麻呂からその経験を細部にわたって聞いているため、賊将の弱点もよく心得ている。何よりも、常に冷静沈着な判断力と果敢な決断力を示す男だ。朕(ちん)の身代わりと思って接することができるか」

「お上、そのことでしたら何の心配もございません。彼ほどの技量があれば、良弼(りょうひつ)の役割ではなく大使たるべき器と思っております。…

俊哲と田村麻呂が常陸国を経て一足先に陸奥国に赴任し、…

田村麻呂は指示を出している。

「不安におののく首長連に使者を出し、エミシとの絆(きずな)を断ってヤマトに帰化することを勧めよ」

帰化するのであれば、今がチャンスであると吹聴した。

苅田麻呂から聞いた話は、ここでも抜群の効果を示した。

降ってくる首長が続出し、撫御(ぶぎょ)に成功したのである。独立した国家を持とうとしない彼らにとって、一度まとまりがなくなれば収攬(しゅうらん)することは容易なことではない。…

794(延暦13)年2月、天皇はその年の秋に新都平安京へ移転する準備を行う傍ら、征東大使・将軍を征夷大使・大将軍に改め、弟麻呂に節刀を授けて送り出した。

多賀城にいた浜成がこれを迎えている。

翌3月、俊哲、田村麻呂、野足が多賀城に到着した。

奥羽に春が訪れた4月初め、副将軍俊哲に続く第一軍の戦闘兵士1万人が多賀城を出発した。10日後には同じく副将軍浜成と第二軍が、その10日後には副将軍野足の第三軍が、その10日後に副将軍田村麻呂の第四軍が出発している。

大将軍弟麻呂は1万人の兵士で多賀城などの城柵の守備に回り、残りの5万人の兵士は食糧や武器などの輸送にあたることとなった。…

第一軍は、10日間かけて磐井川周辺の掃討を終えると伊治城に戻って待機となり、代わって第二軍が衣川から南股川沿いに入り、掃討を終えて伊治城に戻ると、第一軍は多賀城に引き上げ解散するという具合である。

同じように第三軍が衣川から北股川沿いに入り、第四軍が胆沢川沿いに入って掃討を終えている。

この戦略は、エミシ軍を求めて意味のない彷徨をし、あるいは無謀な渡川をした前回の敗戦を真摯に反省したことから生まれたもので、敵の戦略品を奪うという単純な作戦、つまるところは掠奪であった。

が、効果は絶大で、生活の根拠までをも根こそぎに奪ったばかりか、軍糧を無駄に消費しない点でも見事なものであった。…

乙志呂は、捕らえた兵士…に問いただしている。

「鹿嶋さまと香取さまの神幣帛は本物か」

「坂上田村麻呂副将軍がいただいてきた本物で、幟旗を立て神輿を担いでいるのは神宮の氏子です」

「軍装はどうか。何か変わったものがあるか」

「これまでは弓、刀、槍だけだったと聞いておりますが、今回は各軍団に手弩100丁、弩5丁が加わっています」

これを聞いた盛党と照井党は、これまでの支配地を保持することはもはや無理だと悟った。

この結果、盛党は三陸沿岸、羽後の米代川沿い、津軽方面に、照井党は馬淵川沿いと奥入瀬川沿いの糠部(ぬかのぶ)方面に退転し、逼塞(ひっそく)することを決意したのである。

この年の12月、大将軍弟麻呂、副将軍田村麻呂らは、遷都を終えたばかりの真新しい平安京に凱旋(がいせん)し、都の人々のすさまじい歓喜に迎えられている。…

797年  坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、第3次胆沢遠征の準備開始(~801)

801年  田村麻呂、兵4万人を率いて胆沢遠征に出発.胆沢の蝦夷を制圧し、閉伊地方まで進攻.凱旋

802年  田村麻呂、胆沢城の造営開始。浪人4千人を胆沢に移民。

阿弖流為・盤具公母礼(いわぐのきみもれ)等が降伏.阿弖流為・母礼等を河内国椙山(杜山)で処刑

803年  志波城の造営始まる

804年  第4次遠征の準備開始

805年  藤原緒嗣の建議により、胆沢遠征と平安京造営工事を中止.この頃までに磐井・胆沢・江刺の各郡が建置される

806年  桓武天皇、崩御

811年  和我・薭縫(ひえぬい)・斯波の3郡を置く.陸奥出羽按察使文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が爾薩体(にさったい)・幣伊(へい)2村の蝦夷を征討(三十八年戦争の終結)

□  三十八年の役終焉

田村麻呂による掃討作戦から4年が過ぎた798(延暦17)年2月、糠部(ぬかのぶ)の五戸(ごのへ)に退転していた建麻呂の館に、巣伏の戦いでは共に戦ったものの、5年前ヤマトに帰化した遠野の首長蘇部(そのぶ)から使者がきた。…

「元気に暮らしております。ところで照井さま、田村麻呂大将軍が赴任してからというもの、陸奥国は様変わりとなっていることをご存知ですか――」

「風の便りに聞いたことはあるが…」

田村麻呂の考えの根底にあるのは、

『奥羽は資源には恵まれているものの、水田稲作だけに頼ると冷害を克服できない。』

と、いうことである。

「大将軍は、最新技術による養蚕の導入を進めております」…

「他にもございます。最新技術による鉄器の生産や牛馬の繁殖、大船による塩などの輸送もなければ、繁栄は絵に描いた餅になると」

「ウーン、そこまで考えているのか」

――戦いだけではなく、政事にかけても一流のものを持っている。いい方が来られた。

この国の将来が明るいということだ。

「そこで、わが主人が申しますには、照井さまと盛さまにもご協力いただけないものかと。これらの施策が順調に進めば、わが奥羽は坂東を上回る可能性があるとのことです」

――この話は、こやつの主人の胸裡から出たものではなく、田村麻呂の考えによるものに違いない。検討する価値のあるものだな。

「ご使者よ、これまでの経緯からして、みなが納得するには少々時間を必要とする。時間を貸して欲しいと伝えてくれ」…

間もなく、退転した照井党の幹部を集めて協議を行った結果、ヤマトに降る潮時であるとの声が圧倒的で、この後のことは建麻呂に一任することが決まったのである。

翌日、建麻呂は津軽の藤崎にいる多賀嶋と羽後の鷹巣にいる乙志呂に使者を出し、盛党も同じ方向でまとめるよう要請した。

だが、盛党では投降派と抵抗派が半々に分かれて激論となり、結論を出すのが先送りとなってしまった。

この情報を知った田村麻呂は、天を仰いで慨嘆(がいたん)した。

――頑固な者どもよ、面子に拘っても坂東や奥羽の民が困るだけだ。

――ここは何としても乗り越えなければ…。盛党と照井党の協力がなければ真の平和はあり得ないし、奥羽の繁栄も遅れてしまう。

田村麻呂は再び動き、801(延暦20)年5月に4万の軍を起こしている。

「北方征伐を行い、盛党と照井党に最後の圧力をかける」

と同時に、胆沢城と志波城を建設して、和賀・稗貫・斯波の奥三郡を設ける狙いでもあった。

北伐軍は第一軍から第五軍に分かれ、各軍は戦闘兵士2千人、輜重兵士6千人、先導役のエミシ兵士千人で構成され、和賀川・豊沢川・雫石川・北上川上流・猿ヶ石川の五河川に沿って7日間交代で実施する計画である。…

この示威行軍は、6月で終了しているが、この動きをみた盛党はさすがに抵抗することを諦めた。

この報を聞いて、建麻呂、多賀嶋、乙志呂の3人は、陸中鹿角(かづの)に集まっている。…

「今度という今度は、全て義兄者の指示に従うことの承諾を得ているので、何なりとわしらに命じてください」

「それは、ありがたいな。それでは、考えてきたものを述べよう。ヤマトに降伏する時期は来年4月、降伏する者の人数は照井党250人、盛党250人で合わせて500人、全て40才以上で、子供のある者とする。首謀者はこの3人だけとする。以上だ」

「異議は、ありません」

「同じです」

「やれやれ、長い旅路であった」

「いやはや、敵将の田村麻呂とは、剛にして柔、柔にして剛の優れ者ですな」…

田村麻呂は、坂東諸国などから4千人の浮浪人を集め、翌802年の3月早々から胆沢城の建設工事に取りかかっている。

4月半ば、多賀城から胆沢に出向いて工事の指揮をしていた田村麻呂の元に、建麻呂から使者が派遣された。

「照井党と盛党合わせて5百人が、5月半ばに胆沢城に出向いて降伏します」

という申し出である。

5百人のやや年老いた猛者連は、家族と最後の水杯を交わし、胆沢に集まった。

「お守、降伏した照井党と盛党のエミシ5百人と首謀者3人が、ただ今到着しました」

「ついに来たか。扱いを粗末にするなよ。首謀者だと申している3人と面会しよう」…

風向きに多少秋の気配が感じられるようになった8月半ば、ススキの穂に見送られた田村麻呂は、建麻呂と多賀嶋を連れて胆沢を出発し、都をめざしている。…

道中、田村麻呂は2人を全く罪人扱いにはせず、駅馬を同じように使わせてまるで物見遊山の旅であるかのように談笑しながら進んだ。…

田村麻呂は、2人をこのまま平安京に連れて行けば、物見高い都人の見せ物になることを憂慮した。

そのため、一行は平安京には入らず、大津から伏見を通って桓武天皇がよく鷹狩りをしている河内国の交野(かたの)に向かった。

「しばしの別れだ。ここでしばらく待機し、吉報を待つように」

「私どもは、覚悟を決めて胆沢に出頭した身、これ以上の宥免は…」

「案ずるな」

が、田村麻呂の必死の宥赦嘆願にもかかわらず、2人は802(延暦21)年9月、河内国椙山(すぎやま)で斬首刑に処されている。

照井建麻呂46才、盛多賀嶋45才であった。

翌年、胆沢城が完成して鎮守府が多賀城から移り、翌々年には志波城が完成した。

805(延暦24)年、田村麻呂は再び征夷大将軍に任命されたが、都では… “天下の徳政論争”が行われ、

「民の負担をこれ以上増やさないため、征夷と平安京の造作を停止すべきです」

と、主張した(藤原)緒嗣(おつぐ)に軍配が上がり、田村麻呂の遠征は中止となった。

当時の国家予算の6割が、この2大事業に費やされていたので、桓武天皇も潮時と判断したのである。

天皇は翌年70才で亡くなっている。

811(弘仁2)年嵯峨天皇のとき、征夷将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)によって、糠部地方に形式的な征討が実施され、和賀・稗貫・斯波の三郡が設置されたことをもって奥羽三十八年の役が終わった。

だが、俘囚の名門である馬飼い照井党の活躍は、まだまだ続いている。

前九年の役では奥六郡を支配していた安倍の下で働き、後三年の役では藤原の下で大活躍し、源頼朝による奥州攻めでは平泉を守るため奮戦した。…

「照井党 -アテルイの時代-」への1件のフィードバック

山田久夫より:

2017/07/09 11:43

少々歴史認識が違うようです。

774年から始まる蝦夷の反乱の原因は天体現象によるものと考えられれます。屋久島杉の年輪の炭素14の濃度が異常に高いことが知られました。蝦夷が騒いだことや田疇が枯れたことが記されています。天体現象の異常が気象変動を誘発させた可能性があります。なぜか天皇は蝦夷の朝貢を止めています。

 朝廷軍は軍粮の運送コストを下げるため、耕種の時期に合わせ軍を進め、蝦夷と融和を図り農作の伝搬を計っていました。ところが、異常気象により農作物の収穫が思うに任せず、蝦夷に不審観を抱かせ反乱につながったのではないかと思います。

天平九年四月廿五日 [続紀] 737年

 将軍東人従二多賀柵一発。四月一日、帥二使下判官従七位上紀朝臣武良士等及所レ委騎兵

一百九十六人、鎮兵四百九十九人、当国兵五千人、帰服狄俘二百卌九人一、

従二部内色麻柵一発。即日、到二出羽国大室駅一。出羽国守正六位下田辺史難波将二部内兵五百人帰服狄一百卌人一、在二此駅一相待。以二三日一、与二将軍東人一、将軍東人一共入二賊地一。

且開レ道而行。但賊地雪深、馬蒭難レ得。所以、雪消草生、方始発遣。

同月十一日、将軍東人廻至二多賀柵一。自導二新開通道惣一百六十里一。或剋レ石伐レ樹

或塡レ澗疏レ峰。従二加美郡一至出羽国最上郡玉野一八十里、雖二惣是山野形勢険阻一、

而人馬往還無二大艱難一。従二玉野一至二賊地比羅保許山一八十里、地勢平坦、無レ有二危嶮一。

狄俘等曰、従二比羅保許山一至二雄勝村一五十里、其間亦平。唯有二両河一。毎レ至二水漲一、

並用レ船渡。

四月四日、軍屯二賊地比羅保許山一。先レ是、田辺難波偁、雄勝村俘長等三人来降。

拝首云、承聞、官軍欲レ入二我村一、不レ勝二危懼一。故来請レ降者。

東人曰、夫狄俘者、甚多二姧謀一。其言無レ恒。不レ可二輙信一。而重有二帰順之語一、

仍共平章。難破議曰、発レ軍入二賊地一者、為下教二喩狄俘一、築レ城居上レ民。

非三必窮レ兵残二害順服一。若不レ許二其請一、淩圧直進者、俘等懼怨、遁二走山野一。

労多功少。恐非二上策一。不レ如。示二官軍之威一、従二此地一而返。然後、難破、

訓以二福順一、懐以二寛恩一。然則、城郭易レ守、人民永安者也、東人以為レ然矣。

又東人本計、早入二賊地一、耕種貯レ穀、省二運レ粮費一。而今春大雪、倍二於常年一。

由レ是、不レ得三早入二耕種一。天時如レ此。已違二元意一。其唯営二造城郭一、一朝可レ成。

而守レ城以レ人、存レ人以レ食。耕種失レ候、将何取給。且夫兵者、見レ利則為、

無レ利則止。所以、引レ軍而施、方待二後年一、始作二城郭一、但為三東人自入二賊地一、

奏三請将軍鎮二多賀柵一。今新道既通、地形親視。至二後年一、雖レ不二自入一、

可二以成一レ事者。臣麻呂等愚昧、不レ明二事機一。但東人久将二辺要一、尠二謀不一レ中。

加以、親臨二賊境一、察二其形勢一、深思遠慮、量定如レ此。謹録二事状一、伏聴二勅栽一。

 陸奥国に関する通説は誤謬が多い。

 多賀は737年の時点で賊地の中にあった。724年に多賀城が置かれ国府であったとする通説は全くの誤りである。

780年に胆沢の地を獲得すべく進軍中に伊治城で呰麻呂の乱が起こり、多賀城まで逃げ込んだが、其の城に兵器や軍粮の蓄えは悉く無かった。城というと軍事施設と思いがちであるが養老律縁辺諸郡人居条に記される通り、農閑期に近くの郡人等が居る場所です。

 呰麻呂の乱の後、征討軍が多賀城に送られるが北上出来ず逗留中に蝦夷に多賀・玉造等の城塞は蝦夷に掠略され、蝦夷は刈田郡、伊具付近まで南下し要害を築いたのです。それが所謂、賊の巣伏要害です。官軍はこの要害に対向して防禦を作った。国見町にある巨大な堀と土塁遺跡として知られる国見防塁です。阿津賀志山防塁は藤原泰衡が源頼朝軍を防ぐため築いたと吾妻鑑は記しますが、俄作りでは作れない程大規模であり、阿武隈川の流れを堰入れたとありますが、川面と溝の標高差から不可能なことです。ここの戦いの後、多賀国府に寄ったことが記されますが、該当時代には多賀城は廃絶されていることが発掘調査で明らかにされています。つまり、吾妻鑑の奥州征伐は虚構文が含まれていることを示しています。官軍が作り始めた防禦は785年に完成していたことが大伴家持の言により知ることができます。

789年に胆沢を獲得すべく関東諸国に多賀城へ軍粮を運ばせ、征討軍は多賀城に集まることが命じられました。当然陸奥国も多賀城へ軍粮を送ることが命ぜられました。ところが陸奥国の国司等はその命令に応じなかったのです。刈田郡南部に作られ蝦夷の要害に阻まれ多賀城に向かうことができなかったのです。征討軍も国府にほど近い場所に逗留し北上出来ず逗留していました。約束の期限が終えてしい、賊の要害国見町光明寺東越山(あつこしやま)要害を避け、阿武隈川東岸の小径を北上したのです。この地は阿武隈川峡谷部であり川の両岸は切立細い道しかない部分に差し掛かった時に軍の前後に賊が現れ逃げ場を失った官軍の兵士の多くが阿武隈川に飛び込み溺れ死んだのです。会津や岩城の兵が含まれています。別将出雲諸上等が残りの兵士を生還させました。

別将出雲諸上は後にこの功績が認められ大枝朝臣という姓を与えられました。東越山付近に大枝という地名が有るのです。京都にもあり、その他地域には僅かです。田村麻呂に投降して来た夷大墓公阿弖利爲、磐具公母禮等がいますが、磐具は伊具に通じる名の様な感じがします。

巣伏の戦いとは刈田伊具付近で起きた戦いと推測されます

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