詩にアニミズムを読みとるために

https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/12089/1/Y12_MATSUZAKI.pdf 【詩にアニミズムを読みとるために】より 

松崎慎也

詩の表現をめぐってアニミズムについて考えてみたいのだが、その準備段階として、アニミズム詩と呼べるかもしれない、そんな可能性のある詩に見られる特徴的言い回し、表現についてここでは考察していく。

 具体的に作品(あるいは作品の一部)を読みながら考えていきたい。松尾芭蕉(1644─1694)の次の句から始める。

  閑さや岩にしみ入蟬の声(276)

1693年の作とされるこの句へなされた読みをまず二つばかりあげてみる。

「夕暮の立石寺が物音一つせず静まりかえっている。そのむなしいような寂寞の中で、ただ蟬の声だけが一筋岩にしみ透るように聞える」(井本 276)。「何という閑さであろう。さながら岩にしみ入るかのような蟬の声は、私を切ないほどの清澄な心境に引き入れて行く」(富山 135)。

 全集物から引いた、上の二つの読みは、原句中七の「岩にしみ入」という表現を文字通りの意味では取らず、「ように」、「かのような」と語句を補い、直喩化して解釈している。これらの読みは、動詞「しみ入」を特殊な用法と判断し、蟬の声の聞こえ方あるいは感じられ方に対して用いられた、表現技法としての喩えであると受け取っている。そういうことになると思う。中七については、これが一般的な取り方と考えられる。

 では、なぜ「しみ入」を直喩化して解さなければならないのか。それは「蟬の声が物理的に岩にしみ入ることはあり得ない」(大岡 98)からである。蟬の声という〈音〉が、液体か何かが物に浸透するみたいに、岩にしみ入るのは非合理であると言うのだろう。一般的な解釈が、原句の中七・下五を文字通りに受け取らないのはこういう理由からだ。ただ大岡信自身は、「あり得ない」と言った後すぐに続けて、「しかし、まるであり得たごとくに詠んでいるし、それ以上にあり得るのは当然だと読めてくる。それでいて少しも不自然ではない。」(98)と述べ、原句の断定的調子から、「しみ入」ことの自然さに納得させられるような力・凄みを感じている様子である。

 別の評者、加藤楸邨の解釈を少し長くなるが引用する。

 「岩にしみ入る」という表現は、この句の眼目である。私はかつてこの句のこの表現が非常に嫌いであった。蟬の声が岩にしみ入るなどとはどうしても誇張であり、考える働きを通過した頭の中でのはからいが露出しているものだと感じていた。しかし、数年前立石寺に登り、巌上に立って、この山の蟬の声を耳にする機会を得たが、その折は九月始めで、時節はちがっていたが、その蟬を耳にしていると、どうしても岩にしみ入るというより外はないことに思い至った。……奥の院に至る坂道には苔が深く、古びた巌石の様は、まったく本文の、「岩に巌を重ね」というとおりであった。その岩の間に鳴く蟬が、一つに澄み入ってゆくと、しーんとした山全体が一色の蟬の声そのものになってしまう。……鳴き出したときは岩あり、松あり、そこに蟬がいるのであるが、その音が澄み入り、一筋になりきると、蟬もなく、岩もなく、ただ蟬の声が一色に一筋に澄み入って生きいるのみである。(316─17)

楸邨は、中七に感じた、わざとらしいという印象が、立石寺での体験により払拭されたと語っている。そして、この山で「岩にしみ入る」蟬の声を聴いた芭蕉の感じは、蟬の声の一筋に澄み入るところに自ずと感合した不思議な寂しさであったろうと思われる。……それは、自然の充実した瞬間、その動かざる動に感合した刹那の感じ、大いなる自然のうごき――それは動にして静であるが、それに触れえたときの「さびしさ」であろう。それは、「さびしさ」であり、また、「しづけさ」である。否両者未分以前の醇乎たる「自然の感合」であろう。(317)と言い、句に表わされている芭蕉の感覚を分析して見せている。「感合」というあまり聞きなれない語を用いながら、楸邨はここで、句を表現する主体がまず蟬の声へと感情移入により融合し、次に、その「感合」する主体は蟬の鳴くその瞬間の、その場の自然と一体となり、さらには、その場の自然を包む大いなる自然の営み全体へと融合する様を読みとっている。立石寺で「蟬もなく、岩もなく」(317)と感じた楸邨自身も、その「感合」に達した「さびしさ」につつまれていたのかもしれない。

 楸邨の文学的な格調のある評釈自体をこのような拙い散文でわざわざ分析してみせていることのおこがましさは重々承知の上で、もう一言加えると、上の引用の最後に語っていることは、人間を含む自然が永遠に無常であること、あるいは、個々の自然物のはかなさが自然全体の中で永久に反復されていること、つまり、はかなさの不滅性ということを静かに感じとるという、ある種の宗教的感覚を、この句は立石寺の蟬の声を通して表現したものであり、読み手をもその宗教的感覚へと導く一句であるということだろう。

 句の解釈にもどる。楸邨は「しみ入」を「誇張」ではなく字義通りに受け取ったということになるだろう。

 次に、この句をアニミズム詩と論じる比較文化史家の平川祐弘と宗教人類学者の中沢新一の解釈を引いてみたい。古代から続き、変わらぬ日本人の精神構造の基底にアニミズムがあるという文脈へ芭蕉を置くところから始まる、二人のアプローチは、句の解釈として一般的であるとは言い難い。なぜなら、「あり得ない」ことを「あり得た」、「あり得るのは当然だ」と解するのが、この句にアニミズムを読み取るやり方だからである。つまり、この句をアニミズム詩として読む場合、中七の言葉づかいは文字通りに解されることになる。

 平川祐弘は芭蕉のアニミズムを論じながら、この句を取り上げ、「『しみ入る』という語は本来は液体の浸透を示唆する。蟬の声が生あるもののごとく鉱物内にしみ入るという動きにこの句の力はある。」(73)と述べる(「ごとく」の位置が一般的解釈と異なる)。蟬の声はまさしく、岩にしみ入っているのである。

 中沢新一は、俳句のアニミズムを論じながら、「この句はまさにアニミズムの極致でしょう。〈岩にしみ入る蟬の声〉と言うとき、蟬を流れるスピリットと岩を流れるスピリットが、相互貫入を起こして染み込み合っています。それが〈閑さや〉というわけです。」(152─53)と述べる。この引用だけでは、中沢が何を述べているのかわかりづらいので、中沢が「ほんとうのアニミズム」(144)とするものは何かの説明を少々加えながらパラフレイズしてみる。中沢によれば、古代人らによる本来のアニミズムは一元論の思考で、その一元論的思考によれば、全宇宙にスピリットという〈力の流れ〉が充満し、その流れは常に動き続けている(143)。1 よって、「閑さや」の句では、蟬という個物と岩という個物が相互に貫入させる力の流れを、句の主体は察知している。ゆえに中沢はこの句を「アニミズムの極致」と呼ぶ。ここで中沢が「しみ入」動きを、「相互貫入」、「染み込み合って」と言い換え、もとの句にはない〈相互性〉を付け加えて読んでいるのは気になるところではあるが(原句の言葉からでは、蟬の声が岩へと、という一方向の動きしか見えないので)、「しみ入」を字句のまま受け取っているのは平川と同じだ。

 「しみ入」を技法としての比喩と取る一般的な、合理的な読み方と、非合理ではあるが文字通りに取り、アニミズム(近代性から見ればアニミズムは非合理)を読み取る解釈では隔たりが大きい。アニミズムの観点を持ち出すことはしていないけれど、比喩と取らずに読み解く大岡や、「感合」を感じ取った楸邨の読みが、上の両極間に挟まれていると考えられる。

 中七以降の「岩にしみ入蟬の声」について、〈蟬の声が岩にしみ入ることはあり得ない〉と言うとき、それはまず〈しみ入る〉の本来的な意味においてあり得ないということだ。それでは、「しみ入」を文字通りに、非合理的に読もうとするとき、それはどのような言い回し、表現になっているのだろうか。

 平川が言うように、〈しみ入る〉の本来の意味は、液体や匂いが物の内に入り込むことである。蟬の声という音の振動は空気を媒質にして〈岩〉に届いてはいようが、声が液体か気体のようになって岩を構成する粒子の隙間に浸透し、定着するということは合理的にはあり得ない。あり得ないが、句が「岩にしみ入」と断定しているので、液体あるいは気体のように、と比喩的思考(表現技法における意識的な直喩化とは異なる連想)でとらえて、蟬の声が岩の粒子の隙間へ浸透する様を思い描いていく。蟬声への感情移入とはこの句の場合、蟬の声という音を液体化あるいは気体化してしまう比喩的思考による理解のことだと言える。

 また、辞書的にも〈しみ入る〉には比喩的な意味がある。と言ってもほとんどデッド・メタファー(死んだ比喩)と呼ばれるものに近く、普段、比喩とはほとんど意識されていないものであろう。それは、〈心の中に入り込んで、消し去り難く残る〉というような意味である。

〈蟬の声が心にしみ入る。〉そういうことはあり得る。蟬の声が、〈わたし〉の心、〈わたし〉にしみ入るとは、耳から入ってきた蟬の声の聴覚的心象が〈わたし〉の心の中に形成され、〈わたし〉の中で鳴り響いているということだろう。そんなとき別の蟬が鳴けば、形成された先の心象から、〈先の蟬と今鳴く蟬は異なる声を持っている〉などと比較もできるわけである。そして、繊維に染みや香りが長く残るのと同じく、蟬の声も〈わたし〉の中で、消し去り難くいつまでも鳴り響く。

蟬の声が心にしみ入るとは、そういうことだろう。わたしの体(海綿みたいな)の中に、蟬の声が液体か気体のようになって(ここで蟬の声への感情移入が起こって)浸透してくるイメージ、〈しみ入る〉の比喩的(デッド・メタファー的)意味の背後にはこれに似たイメージが常に隠れていると考えられる。こちらの意味の〈しみ入る〉で、「閑さや」の句を読むと、これはまたあり得ないことではあるけれど、「しみ入」の断定をそのままにして、人間のように、その内面に蟬の声の心象を形成し、その中で声が消し去り難くいつまでも鳴り響いている〈岩〉を想像することになる。人間ではない岩が蟬の声をその内部で鳴り響かせている。そんなイメージが思い描かれる。この読みは、つまり岩を擬人化していることになる。平川は、「蟬の声が生あるもの」と言うが、これは句の言葉づかいから判断できることではない。〈しみ入る〉動き自体は別に命を必要とはしないからだ。アニミストとしての芭蕉という前提から始めるので、蟬の声に生命を見出したくなるのかもしれないが、〈しみ入る〉に比喩的な意味の方をあてはめれば、〈鉱物〉である岩が生あるもののごとく、蟬の声

をその中に鳴り響かせていることになる。そちらの動きにまず注目することになる。こちらの意味の〈しみ入る〉は、入り込む側ではなく、入り込むものを受け入れる側の心を表現する。そんな言葉づかいになる。

 「しみ入」を字句のまま受け取る場合でも、本来的な意味と比喩的な意味では、比喩的思考の向かう対象が異なるということを見てきた。楸邨は、この句の「感合」について、主体による蟬の声への「感合」のみを取り上げているが、これは「しみ入」の本来的な意味による。比喩的な意味でとれば、感情移入の対象は、蟬の声ではなく、声のしみ入る先の「岩」となる。中沢のように解釈すれば、「岩」を擬人化して考える必要はなく、音を液体か気体のようなものに変換する比喩的思考さえあればよいことになる。ただそのような場合でも、擬人化までは起こらずとも、感情移入という比喩的思考は働いている。

 「しみ入」の本来的な意味での理解の仕方と、比喩的な意味による理解の仕方のどちらで原句を解釈すべきかという問題はひとまず置いておきたい。どちらの取り方にせよ、両者ともにそこでは比喩的思考が働いており、この比喩的思考を掬いとることがアニミズム詩としての読みを支える。ということは言えると思う。

 ここまでをまとめたい。アニミズム詩と呼べる可能性を生む表現の一つは、感情移入という比喩的思考が現れている言い回しである。アニミズム詩と呼べる可能性を生むもう一つの表現は、表現技法として意図された比喩や擬人法ではなく、〈擬人観〉が現れている言葉づかいである。2 つまり、人間ではない物や出来事・現象に人間の性質を当てはめて物や出来事・現象を見る、そういった外界の見方、外の事物を人間のような心を持ち、感じ、考え、意図し、行為するものと考える思想がそこに現れている必要がある。その表現は擬人観に根ざした擬人化でなければならない。これら二者の表現のどちらの場合であっても、比喩的思考が現れているという点では変わりがない。

 ここで少し今後検討すべき問題について記しておきたい。アニミズム詩と呼べる可能性を持つ芭蕉の「閑さや」の句をアニミズム詩であると論じるには、どのような文脈を明らかにする必要があるのだろうか。まず、芭蕉の全句にあたり、上のような比喩的思考が現れている句をできるだけ多く探し出す必要があるだろう。同時代の別の作者の作品にもあたれば、そこで見出された比喩的思考に根ざした表現を含む作品は、芭蕉の句を位置付ける歴史的文脈の一部になるだろう。そのような例証が多くあって初めて、文化人類学的、宗教学的見地の助けを借りながら、歴史的文脈へ位置付けての説得力のある論が展開できるように思う。その過程において、アニミズム詩と呼べる可能性を生む、今回考察した例とは別の表現形式の理解へと発展する可能性もある。

 最後に、また作品分析に戻り、芭蕉とは時代も場所も異なる詩人を取り上げて、詩を置く歴史的文脈の広がりの可能性について少し考えておきたい。イギリス・ロマン派詩人の一人で、ロマン派の中でも、共感的想像力の働きが顕著な詩人ジョン・キーツ(John Keats, 1795-1821)の詩の一部を例としてあげてみたい。上で確認した、アニミズム詩と呼べる可能性を生む表現を含んでいる例である。まず、詩「ぼくは小さな丘に爪先立ちした」(“I stood tip-toe upon a little hill”)(1817年)の中にある次の一行について見てみる。

  Here are sweet peas, on tiptoe for a flight.(7)

  (こちらではスイートピーが飛び立とうと爪先立ちしている。)

植物であるスイートピーの佇まいを“on tiptoe for a flight”と表しているところを、スイートピーに爪先はないので、誇張であり、表現技法としての喩えであるとも解せられる。また、歴史的文脈をひとまず置けば、スイートピーへの感情移入が働いていて、植物の動物化(擬人化と言ってももちろん良い)という比喩的思考が現れているとも取れる。

 同じくキーツの「ナイチンゲールに寄せるオード」(“Ode to a Nightingale”)(1819年)の中の次の一行はどうか。

  [Thou]Singest of summer in full-throated ease.(10)

  (お前は喉をいっぱいに膨らませのびのびと夏を歌う。)

ナイチンゲールの鳴き声を夏の歌と言い、その伸びやかな囀りを表しているわけだが、詩的誇張と言ってもいいし、この詩で詩人は夜の闇の中にその囀りを聞いていることになっているので、“in full-throated ease”は見えぬ鳥との一体感から生まれた表現とも取れる。鳥の鳴き声という、言語ではない音のみのものを、夏について歌っていると、意味内容を持つかのように想定し、さらに鳴き声のみから(よく通る鳴き声であったようたが)“full-throated”という鳴き方を、しかも“ease”の中にあるかのように鳥の気分をも想像している。感情移入の表現と言っていい。

 芭蕉の「閑さや」の句と同様にキーツの詩にも非人間に対する比喩的思考が現れていると読める。それだけの理由から、キーツ詩もアニミズム詩と呼べる可能性があるとするのはやはりあまりにも杜撰な手続きと映るだろう。ヨーロッパ的思考、近代的思考、デカルト後の物心二元論的思考は、原始的なアニミズム的思考を説明する上で、二項対立的に持ち出されるものである。よって、近代ヨーロッパ、イギリスの詩にアニミズムを読み取ろうとすれば、時代錯誤と非難され得る。たとえヨーロッパのロマン主義運動が自然への大接近を見せたからと言って、もしそこにアニミズムまで読み取ろうとするならば、それはかなりの気後れを感じながらの作業となるだろう。次のような指摘を前にするとそう感じざるを得ない。

 [日本における]自然観はデカルト以後のヨーロッパ近代の物心二元論に対蹠的であるのみならず、この「物」と「心」の分離、「自然」と「人間」の乖離に反逆して、その間にあらためて一体化の橋を架けようとした西欧ロマンティシズムの自然観とも同じものではないことに注意しなければならない。十八世紀後半にはじまるヨーロッパのロマン主義は、十七世紀に確立された近代合理主義に対する反動として、起こったものであり、そこではすでに主観と客観、心と物、人間と自然は截然と区別され、両者は徹底的に分離されていた。この乖離と対立を前提にして、その後に一つの「感情移入」によって自然を主観的意識のなかにとり込み、そのことによって再び自然と人間のあいだを架橋しようとしたのがロマン主義である。そこにはつねにこのことが成功しないかもしれないという不安があり、従ってそれは自然に対する「憧憬」――一つの実現されない願望――という形をとることが多い。(伊東 109─10)

ヨーロッパのロマン主義は、自然に近づくも、一体化の確信が持てないのだと、伊東は言う。

 西欧の詩の中にアニミズムの思考は存在しないのかどうか、そのことを確かめるためにも、アニミズムをめぐって東西詩を比較考察していきたいと考えている。いかなる歴史的文脈を準備するかが重要となりそうだ。

1 「ほんとうのアニミズム」と〈ほんとうではないアニミズム〉との違いは何か。「ほんとうのアニミズム」が一元論であるので、〈ほんとうではないアニミズム〉とは二元論によって考えられたアニミズムということになる。タイラー(Edward Burnett Tylor)はアニミズムを宗教の本質と考え、それを端的に“belief in Spiritual Beings”(様々な霊的存在を信じること)(1:383)と定義した。霊的存在は人間の魂と同じく、外界に独立した形でも、肉体に入り込んだ形でも存在する(2:112)。このように、ヨーロッパでアニミズムが概念化される際に、霊魂とそれが宿るものとは区別されて考えられた。

  今日のアニミズム研究からは、このような定義は古典的で、狭義のもの、アニミズムの一側面を表しているに過ぎないものと捉えられている。各地の先住民族を研究する宗教学者のハーヴェイ(Graham Harvey)によれば、世界は多くの「人たち」(“persons”)で満ちていて、その一部が「人間」(“human”)であるに過ぎず、生は常に、世界に満ちている他の「人たち」との関係の中で生きられる、そういう認識がアニミズムということになる(Animism ⅺ)。これは、ハーヴェイによって、タイラー的な形而上学的(“metaphysical”)アニミズムに対し、関係論的(“relational”)アニミズムと呼ばれる(Handbook2)。

  ヨーロッパで概念化された元来のアニミズム定義をもとに論が立てられている場合、日本人の「『自然崇拝』は、アニミズム理論で指摘される宗教性とは全く別種の宗教性を持つものである」(保坂 4)とも指摘されている。

  社会人類学者の村武精一は「現代人および過去のさまざまな文化のなかに、アニミズムの信仰が深く根ざしていて生きつづけていることの意味、あるいは種々の社会的・文化的装置を通して今もアニミズムが発現している」(12)ことに関心があると言い、アニミズムを狭く規定するより、「基底的なものとして『自然の生命化』あるいは『自然の霊化』としてアニミズムをとらえるとすれば、宗教文化あるいは民族宗教をかなりの幅をもってとらえることができる」(13─14)と述べている。

  今後の考察においては、作品の分析と並行して、アニミズムとは何かということをあらためて考えていくことにもなる。そのときは、洋の東と西、過去と現在との間につながりを見出せるような概念、幅のある概念を模索していきたい。

2 〈擬人観〉の現れている(と見える)擬人化表現に対し、表現技法として意図され、意識された擬人法とはどういうものか。日野草城(1901─1956)の次の句を例に考えてみたい。朝顔やおもひを遂げしごとしぼむ(平井 309)

 ここでは「おもひを遂げしごと」と朝顔が直喩により擬人化されている。朝顔のしぼみ具合を、〈思いを遂げる〉という人間の側の、ある種の成就感で、情緒的に表現している。そして、「おもひ」は、読み手を朝顔にではなく、己の内面へと向かわせる。「おもひ」という語の曖昧さが、読む者の様々な切なる気持ちを喚起する。この直喩は擬人観に由来するものではない。そう取りたい。

 この句は、擬人観なら付きまとうであろう非合理さを、「ごと」で解消しているとも考えられる。

と言うのは、「ごと」という直喩を使わずに(不届きな改変とは思うが)、〈朝顔のおもひを遂げてしぼみけり〉と隠喩にしてみるとわかる。朝顔の抱いているものを「おもひ」とだけ言うことで、その漠然とした語がかえって、朝顔の「おもひ」を主体はまるでよく知っているかのように聞こえてくる。これでは「ごと」で巧みに抑制されていた擬人化の誇張がかえって目立ち、わざとらしい、感情移入としても凡庸な句になってしまう。

引用文献

Harvey, Graham. Animism: Respecting the Living World. New York: Columbia UP, 2006.

───, ed. The Handbook of Contemporary Animism. 2013. New York: Rutledge, 2015.

Keats, John. John Keats: The Complete Poems. Ed. John Barnard. 3rd ed. London: Penguin Books, 1988.

Tylor, Edward Burnett. Primitive Culture: Research into the Development of Mythology, Philosophy, Religion, Art

and Custom. 2 vols. London: John Murray, 1871.

伊東俊太郎『自然』一語の辞典,東京:三省堂,1999.

(  ) 198 群馬県立女子大学紀要 第38号

井本濃一,堀 信夫,注解『松尾芭蕉集1』新編 日本古典文学全集70,東京:小学館,1995.

大岡 信『百人百句』東京:講談社,2001.

加藤楸邨,評釈『新芭蕉講座 第二巻――発句篇[中]』潁原退蔵,加藤楸邨,矢島房利著,東京:三省堂,1995.

富山 奏,校注『芭蕉文集』新潮日本古典集成,東京:新潮社,1978.

中沢新一「俳句のアニミズム」現代俳句全国大会記念講演録,『俳句』2016年3月号:141─59.

平井照敏編『新歳時記(秋)』改訂版,東京:河出書房,1996.

平川祐弘「芭蕉のアニミズム」『芭蕉解体新書』川本皓嗣,夏石番矢,復本一郎編,Series 俳句世界 

別冊1,東京:雄山閣出版,1997.64─75.

保坂幸博『日本の自然崇拝、西洋のアニミズム――宗教と文明/非西洋的な宗教理解への誘い』東京:新評論,2003.

松尾芭蕉『松尾芭蕉集1』新編 日本古典文学全集70,東京:小学館,1995.

村武精一『アニミズムの世界』歴史文化ライブラリー 16,東京:吉川弘文館,1997

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