本覚思想

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9C%AC%E8%A6%9A%E6%80%9D%E6%83%B3 【本覚思想】より

ほんがくしそう/本覚思想

人は本もとから覚さとっているという考え方。狭義には平安時代中期以降、天台宗で成立し、江戸初期まで続いた「天台本覚法門」のことを指すが、同様の傾向を持つ仏教思潮全体を指す広い概念として用いられることも多い。「本覚」という語はそもそも『起信論』において「覚りそのもの」を指す言葉として、「不覚」(覚りの真理に無知な状態)「始覚」(修行を積んで覚りへ向かう状態)と共にその中心概念として用いられたのが最初とされる。本覚思想の特色としては以下の諸点があげられよう。

①本来的に覚っているので、迷いと覚りを峻別せず、むしろ一体視する。具体的には、本来対立する概念であるはずの二者を「即(イコール)」で結ぶ。例えば「生死即涅槃」「煩悩即菩提」「娑婆即浄土」「我即弥陀」など。

②両者を峻別しないので、「草木国土悉皆成仏」などと示されるように、汎神論的傾向を持つ。

③「不二絶対」の一元論的立場に立つ。

④自身が覚っているということに気付きさえすれば覚れるということとなり(「一念成仏」)、修行軽視の方向へ進む傾向を持つ。

⑤迷いの世界がそのまま覚りの世界であるため、現実肯定的となる。

⑥その教えは「口伝」として伝授される場合が多い。

以上のような特色のいくつかは、密教(真言宗)や禅宗の教えの中にも見られ、さらには浄土系や日蓮系の教えの中にも指摘される場合があり、日本仏教全般にわたり、その影響が認められる。

この本覚思想は、非常に高度な教えとして高く評価される一方、法然と同時代の宝地房証真をはじめとして、常に批判もされてきた。近年においても、如来蔵思想とその延長線上に位置づけられる本覚思想を仏教の教えに背反するものとして、厳しく批判する学説もある。そのようななかにあって、鎌倉仏教の祖師たちはおおよそ、本覚思想には否定的であったといえるが、なかでも法然の教えは、概して本覚思想から最も遠い位置にある教えと見なされているといえる。その理由として、

①この迷いの世界と極楽浄土とを峻別し、不二絶対とは逆の「而二にに相対」の立場に立っていること、

②信を重視しつつも、念仏という行を決して軽視しないこと、

③本覚思想文献で頻繁に見られる仏性・法性・真如・法身などの用語を、自身の教えを説明する文脈で自身の言葉としては基本的に用いないことなどがあげられる。

法然の著作中で直接に本覚思想を批判している可能性があるのは、『一百四十五箇条問答』の真如観批判の箇所(聖典四・四五〇/昭法全六四八)のみで、法然が明確かつ体系的に本覚思想を批判することはないが、法然浄土教そのものを非本覚という視点から評価しようとする研究者も少なくない。ただし、法然門下になると、すでに直弟の段階で本覚思想的用語や概念が再び用いられ始めるなど、その影響が指摘できる。そして室町時代になると、聖覚に仮託された『大原談義聞書鈔』のように、むしろ法然の教えを本覚思想の側面から捉え直そうというような文献が現れてくることとなる。

【参考】田村芳朗「天台本覚思想概説」(日本思想大系九『天台本覚論』岩波書店、一九七三)、同『本覚思想論』(春秋社、一九九〇)、袴谷憲昭『本覚思想批判』(大蔵出版、一九九〇)、同『法然と明恵 日本仏教思想史序説』(同、一九九八)、末木文美士『日本仏教思想史論考』(同、一九九三)、安達俊英「法然浄土教と本覚思想」(印仏研究五二—二、二〇〇四)


http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9C%AC%E8%A6%9A%E3%83%BB%E5%A7%8B%E8%A6%9A 【本覚・始覚】より

ほんがく・しかく/本覚・始覚

本覚とは本来的に衆生には自覚の性質があることで、始覚とは自覚していない衆生が始めて自覚に至ること。『起信論』が初出。『起信論』では「心真如門」において仏の法身が真如の智慧そのものであることを示す。「心生滅門」では一転していかに衆生が無明による生滅流転の状況にあるかを示すが、その際のキーワードは阿梨耶識ありやしきである。そして、その阿梨耶識は法身・如来蔵を内容とする覚と無明に流れる不覚の両面を併せ持つ。その覚が本覚と始覚に分かれる。本覚は真如にも通じる法身・如来蔵そのものと言ってもよい本来性であり、始覚はその本来性が不覚の妄念に妨げられて自覚されないものを修行により始めて自覚すること。このように『起信論』においては本覚と始覚に加えて不覚が重要な要素である。三細六麤により不覚が説明されるが、それは五意や六染とも関連し、本覚・始覚の対応以上に不覚が丁寧に説示される。この不覚をいかに始覚から本覚に深め、心真如門の法身を実現するかが『起信論』の眼目である。

この『起信論』の思想は中国の諸注釈書により、さまざまに変容された。浄影寺慧遠は真心・妄心の二心を中心に八識説を展開し、新羅の元暁は一心観に徹し、法蔵は如来蔵縁起と把握する。この流れには本覚・始覚の対応は問題となっていない。宗密が『円覚経』を重視し、「円覚」が強調され、経文の一句「本来成仏」が最高の成仏論として展開された。そこで円覚を中心に不覚・始覚・本覚が宗密教学の骨格を形成する。本覚・始覚が対応して用いられ、本覚門・始覚門という用語が機能するのは日本仏教においてである。特に天台本覚法門の存在が鎌倉時代に成立した新仏教の基盤になったのか、あるいは批判対象であったかが、議論になっている。その議論は『起信論』に直接するよりも、むしろ『釈摩訶衍論』なども関連した密教教学を背景としている。この論を空海が重視したが、空海以降は安然あたりから天台宗でも大いに依用された。天台密教(略して台密)の中で中国の宗密が主張した本来成仏と同類の本覚思想が成立した。最澄に託されて『本理大綱集』が成立し、源信に仮託されて『本覚讃釈』などの天台本覚思想の書物が一二世紀から一三世紀にかけて出現する。道元が天台本覚法門を継承した、あるいはそれを批判したとの論争もある。法然の教学を同じように議論することも可能であるが、この本覚・始覚の対応で教学を決着する発想そのものの根拠を明らかにする必要がある。

【参考】多田厚隆他編『天台本覚論』(『日本思想大系』九、岩波書店、一九七三)、袴谷憲昭『本覚思想批判』(大蔵出版、一九八九)、末木文美士『鎌倉仏教展開論』(トランスビュー、二〇〇八)


http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A6%82%E6%9D%A5%E8%94%B5 【如来蔵】より

にょらいぞう/如来蔵

Ⓢtathāgata-garbhaの訳。煩悩に覆われながらもそれには染まらない本来自性清浄の如来となる本性を蔵していることをいう。中観思想や唯識思想とともに大乗仏教の重要思想の一つ。garbhaには胎の義があり、胎児や子宮の意味をもつ。初期大乗経典とされる『如来蔵経』に説かれ、『不増不減経』『勝鬘経』『涅槃経』などの中期大乗経典によって理論づけがなされた。世親の『仏性論』には、如来蔵に①一切衆生は如来の内に摂せられているという所摂の義②如来の法身は変わらないが衆生においては煩悩によって覆われ隠されているという隠覆おんぶくの義③如来の功徳は悉く衆生の内に摂めているという能摂の義があると説く。これは『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」の説にもとづき、衆生は仏性を有するので衆生そのものを如来蔵とよび仏性論としても展開する。『仏性論』には、①一切は如来の自性そのものという自性の義(如来蔵)②聖人の修行の対境となる因の義(正法蔵)③信によって如来の功徳を得るという至徳の義(法身蔵)④世間の虚偽を超えているという真実の義(出世蔵)⑤順ずれば清浄になるという秘密の義(自性清浄蔵)の五義があるので五種蔵ともいう。また二種蔵や三種蔵等があるが、『釈摩訶衍論しゃくまかえんろん』には、大総持如来蔵、遠転遠縛如来蔵、与行与相如来蔵、真如真如如来蔵、生滅真如如来蔵、空如来蔵、不空如来蔵、能摂如来蔵、所摂如来蔵、隠覆如来蔵の十如来蔵をあげている。如来蔵思想は染浄のすべてが如来蔵から起こったものと説く如来蔵縁起説の出現にも連なるが、真妄和合識の阿頼耶識あらやしき、真識の阿摩羅識あまらしきと同一視され、如来蔵思想と別系統の唯識系の学派で説かれるようになる。法然の法語には如来蔵の語を見出せず、如来蔵思想についての積極的な見解を知ることはできない。ただし、道光、聖冏、聖聡、良栄理本など如来蔵思想に触れる学僧もある。

【参考】高崎直道『如来蔵思想の形成』(春秋社、一九七四)


http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BB%8F%E6%80%A7 【仏性】より

ぶっしょう/仏性

仏の本性・本質、または衆生に内在する成仏の可能性。如来蔵、仏種と同義。如来性、覚性ともいう。Ⓢbuddha-dhātuⓈbuddha-gotraの訳。原語buddha-dhātuは仏陀の遺骨・身体を意味し、『大般涅槃経』に説かれる「一切衆生悉有仏性」は全ての衆生に仏性が内在すること、すなわち仏陀の遺骨・身体が衆生に内在することを意味する。buddha-dhātuが「仏性」と訳され、仏性説が東アジアに広まる中で、仏性は仏となる性質と再解釈され、衆生成仏の根拠として広く浸透した。それに基づき、浄土教においては己心弥陀説などが説かれ、また日本では本覚思想が形成された。浄土教との関連の上では、『安楽集』第三大門において「輪廻無窮」が強調される中、道綽は「一切衆生は皆仏性有り」(浄全一・六九二下)と述べつつ、生死輪廻の中で仏道修行を怠ったがために、自身は今生にいたるまで仏性を顕現することができないとする。道綽は末法の凡夫として生を受けた今、もはや聖道門によって生死解脱を遂げることは難しいと自覚している。それを受けて善導・法然も、無始以来輪廻を繰り返して出離生死の縁を持たない「罪悪生死の凡夫」という自覚を表明しており、成仏の可能性としての仏性にはほとんど言及しない。ただし法然の門弟でも学問や信・証を重視する者たちは、仏性説を取り入れながら独自の思想を展開している。たとえば証空は『観経疏自筆鈔』において、外から仏の誓願の力が加えられるとともに仏性が内因となって信心がおこると説明する。また幸西は、弥陀本迹説を受用して「本門の弥陀は、無始本覚の如来なるが故に、我等所具の仏性と、まったく差異なし」(『四十八巻伝』二九、聖典六・四五三)と説く。親鸞は、阿弥陀仏より「至心信楽」として真実心・大信心が回向されると説き、『浄土和讃』において「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまう、大信心は仏性なり、仏性すなわち如来なり」(『親鸞聖人全集』二・五七)と詠う。


http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E7%9A%84%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96%E3%83%BB%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E7%9A%84%E4%B8%80%E5%85%83%E8%AB%96  【相対的二元論・絶対的一元論】 より

そうたいてきにげんろん・ぜったいてきいちげんろん/相対的二元論・絶対的一元論

二つの事象が対立し互いに関連して存在することを相対といい、比較対立を超越していることを絶対というが、仏教では相待・絶待といい、大小、彼此、善悪、苦楽等対立しながら超越することをいう。智顗は『妙法蓮華経』の経題の「妙」について相待妙と絶待妙を立てる。相待妙は、『法華経』は大乗至極の経であり他の経が権実ごんじつを含むのに対して直ちに実を説く経とし、他に対して勝れている妙なる経であるとする。絶待妙は他と比較しなくても妙であり、大小乗権実の区別を超えて直ちに妙なる立場を表す経であるとする。このような相対絶対の是非、善悪等の対立を超越する概念は、仏と衆生、煩悩と菩提等との関係においてもいわれ、不二而二ふににに・二而不二ににふにの関係としてとらえられる。本来は不二であるから実体としての仏も菩提もないが、現実には煩悩に迷う衆生があるので、仏と衆生、煩悩と菩提との二つに分けられる。天台思想は「相対(事)から絶対(理)へ」の論理により、不二絶対を求める特色をもつ。本来の立場では迷う煩悩も、悟らなければならない悟りもあるわけではないので、生仏不二、煩悩即菩提という絶対的一元論に立つ。天台を学んだ法然は当初、不二絶対の一元的立場を究めようとしたが、煩悩を振り払うことのできない凡夫が到達することは困難であると気づき、而二相対の二元的立場をとることになる。すなわち「救済する仏」と「救済される衆生」との二元的相対の関係である。仏と衆生とは口称念仏による、呼び、呼ばれる関係にある。それは「速やかに生死をはなれ」(聖典三・一八五/昭法全三四七)ることを実現するためには、煩悩から脱却できない衆生が仏の救いにより浄土に往生するという、相対的二元的救済にもとづく立場である。これに対して弟子の親鸞は、悪人を自覚しながらも念仏は自己のはからいによらない非行であり、自己のはからいによる善ではないので非善とし、ひいては自己のはからいによる非行非悪ということにもなり、不二絶対の一元的立場となる。これは天台の不二絶対論、本覚法門の影響によるものである。

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