http://www.arsvi.com/w/h01.htm 【Hippocrates Hippokrates ヒポクラテス】より
■言及
◆Rousseau, Jean-Jacques 1755 Discours sur l'origine et les fondements de l'inegalite parmi les hommes(=1972, 本田喜代治・平岡昇訳『人間不平等起源論』岩波文庫).
もっと恐ろしいほかの敵で、人間がそれに対して身を守るのに同じような手段がないのは、生まれながらの病弱と幼少と老衰とあらゆる種類の病気とである。それはわれわれの弱さの悲しいしるしであり、はじめの二つはすべての動物に共通するが、最後のものは主として社会生活をする人間に属するものである・わたしの襲によるだけでも、幼少に関していえば、自分の子供をどこにでも連れて行く人間の母親は、多くの動物の雌よりも子供を養うのがはるかに容易である。動物の雌は一方ではその食物を捜すために、また他方ではその子供たちに乳をやったり養ったりするために、たえず非常に疲れて、行ったり来たりしなければならないからである。確かにもしも母親が命を失うようなことになれば、子供も彼女とともに命を失う危険が大いにあるが、しかしこの危険は、子供たちが長いあいだ自分で食物を捜しに行くことができない数多くの他の種にも共通である。そしてもしも幼年時代はわれわれのほうが長いとしても、生命もまた長いのだから、この点ではやはり、なにもかもほぼ平等である。(g)ただし幼年時代の長さや子供の数については他の法則(h)があるが、それはわたしの主題ではない。動くことも汗を流すこともほとんどない老人は、食物の必要もそれを供給する能力もともに衰える。そして未開生活のおかげで痛風やリューマチから遠ざかり、老衰はあらゆる苦しみのうちで、人間の救いの手によっては最もやわらげることのできないものであるから、ついに彼らはいなくなるのを人から気づかれず、また自分自身でもほとんど気づかないうちに消えていくのである。
病気については、わたしは大部分の健康な人たちが医学に反対して言っている、根拠のない、誤った申し立てを繰り返しはしないだろう。しかしわたしは、この技術が最もなおざりにされている土地では、それが最も注意深く研究されている土地よりも、人間の平均寿命が短いと結論できるような、なにか確かな観察があるのかどうかを尋ねたい。そしてもしも、医学がわれわれに提供できる治療法より、さらに多くの病気にわれわれがかかっているとすれば、どうしてそんなことになるのだろうか。生活様式のひどい不平等、ある人々には暇があり、他の人々は労働過重であること、われわれの食欲と情欲とを容易に刺激し満足させること、富める人たちに便秘性のこ栄養を与え、不消化で苦しめる凝りすぎた食物、貧しい人たちのひどい食事、それも彼らはしばしばこと欠くので、そのために機会があればむさぼるように胃の中につめこむのである。さらに夜ふかし、あらゆる種類のゆきすぎ、あらゆる情念の節度のない熱狂、精神の疲労と消耗、あらゆる状態において人々が味わい、そのために魂が永久にむしばまれる無数の悲しみと苦しみ。それらは、 われわれの不幸の大部分がわれわれ自身で作ったものであって、もしもわれわれが自然によって命じられた簡素で一様で孤独な生活様式を守ったならば、それらはほとんどすべて避けられたであろう痛ましい証拠である。もしも自然がわれわれの運命を健康であるように定めたのなら、わたしはほとんどこう断言してもよい、思索の状態は自然に反した状態であり、瞑想する人間は堕落した動物である、と(3)。未開人たちのりっぱな体格、すくなくともわれわれの強い酒でそこなわれなかった人たちのりっぱな体格を考え、彼らが怪我と老衰のほかにはほとんど病気を知ら.ないことがわかってみると、人間の病気の歴史は政治社会の歴史をたどることによって、容易に作れるだろうと考えたい気持ちになる。
ポダレイリオスとマカオン(1)がトロイアの包囲で用い、または認めたいくつかの薬について、それらの薬が引き起こすにちがいないさまざまな病気は、当時まだ人々のあいだに知られていなかったと判断したのは、すくなくともプラトンの意見である。そして、ケルスス(2)は、今日これほど必要となっている食養生は、ヒッポクラテス(古代ギリシアの医者。医学の祖。前460ころ~375ころ)によって発見されたものにすぎないことを報告している。
病気の源泉はこのようにほとんどなかったのだからし、したがって自然状態の人間にはほとんど薬の必要はなく、医者にいたってはなおさらである。人類はこの点で他のすべての動物より少しも条件は悪くない。そして狩人たちが駆けまわるとき、多くの病弱な動物を発見するかどかは、彼らから容易に知ることができる。彼らの多くは動物がひどい怪我をしたのを非常に巧みに癒し、骨や脚まで折ったのに時間という外科医のほかには医者ももたず、日常生活のほかには養生も行なわないでなおった動物を見いだしている。これらの動物は切開で苦しめられもせず、薬品で中毒することもなく、絶食で衰弱することもなく、しかも完全になおっているのである。要するに、りっぱに行なわれた医学はわれわれのあいだでいかに役に立っても、病気の未開人が一人で見捨てられ、自然以外になにも期待できなければ、そのかわりに彼は自分の病気のほかはなにも恐れるものがないことは常に確かである。このため彼の状態はしばしば、われわれの状態よりも好ましいものとなっているのである。
◆Durkheim, Emile 1893 De la divsion du travail social――Etude sur l'organisation des societes superieures, Ire ed., 1893; 7e ed., 1960, Paris, P. U. F.(=1971, 田原音和訳『社会分業論』(現代社会学大系2)青木書店).
(p132)
社会が原始的であればあるほど、社会を構成する諸個人のあいだには類似がある。すでにヒッポクラテス(*1)は、その著『空気と場所について』〔De Aere et Locis〕において、スキタイ人(*2)は人種としてひとつの類型をもつが、個人としての類型はない、といっている。フンボルト(*3)も、その著『新スペイン人(1)』〔NeusPanien〕において、未開人には個人差のある容貌よりも群族(ホルド)に特有の容貌がよくみられると述べているが、こうした事実は、たくさんの観察者によっても確認されてきたところである。「ローマ人は、古ゲルマン人どうしが非常によく似ていることを発見したが、同時に、ヨーロッパの文明人にとっては、いわゆる野蛮人もまた同じ効果をもたらしている。じつは、旅行者の習練不足がよくこうした判断を下させる主な原因なのだが。……しかし、文明人が自分の祖国の環境で見なれた差異が、原始人たちのあいだで出会った差異よりもじっさいにそう大きくなかったとすれば、その経験不足がこうした結果をまねくはずはなかっただろう。一人のアメリカ土民をみたものは、彼らのすべてをみたことになる、というのは、周知のよく引用されるウロア(*4)の言葉である(2)。」反対に、文明人のあいだでは、二人の個人を識別するには、必要な手ほどきを受けなくても、一見しただけですむ。
(p144)
(*1)ヒッポクラテス――Hippocrates. 前四六〇年ごろ~三七五年ごろ。ギリシアの医学者、臨床の観察と経験を基礎にした科学的医学の建設者。旅行家。
(pp295-297)
たしかに、このカースト制度は、たんに世襲による伝承という事実からのみ生じた結果ではない。この制度の成立には多くの原因が作用してきた。だが、もし、《一般的に》、この制度が各人にそれぞれところを得しめるという結果を生じなかったとすると、それは、これほど一般化しなかったであろうし、それほど長期にわたって持続するはずもなかったであろう。仮に、カースト体系が諸個人の熱望や社会的利害にあい反するものだったとすると、どんなに人工の手を加えてもそれを維持できはしなかったろう。平均的なばあいに、もし諸個人が慣習や法の命ずる機能を現実に果たすために生まれついたのでないとすると、このように人びとを伝統的に類別化するやり方は、いちはやく覆っていたことであろう。その証拠に、じっさいに天性と職能の不一致が生ずると、たちまちこのような顛倒がおこっているのである。だから、カーストのように社会的枠組が厳格だということは、当時は、たださまざまの天賦の能力が配分される一定不変の方式をあらわすのみであって、じつはこの不変性それ自体が遺伝法則の作用におうものにほかならない。たしかに、教育は家族のうちだけでおこなわれてきたし、それは、すでに述べてきたような理由によって長いあいだつづけられてきたから、教育の影響が、この不変性を強めることはあったろう。だが、そうした結果を生んだのは、教育だけではない。なぜかといえば、教育は遺伝の示す方向そのもののうちでおこなわれてこそ、はじめて有用であり効果的だからである。つまりは、遺伝が社会的制度たりえたのは、それが社会的役割を有効に果たしえたからこそである。じっさい、われわれは、古代人たちがこの遺伝についてきわめて鋭敏な感覚をもっていたことを知っている。その痕跡は、われわれが述べてきた諸慣行やその他の類似の慣行のうちにみられるばかりではない。多くの文献にも直接あらわれている(3)。ところが、もし、遺伝にたいする理解が誤っていたとすると、これほど一般的な誤謬が、たんなる幻想にすぎず、何ひとつ現実に照応しないなどということはありえないはずである。リボー氏(*1)がいうところによれば、「あらゆる民族は、少なくとも漠然とではあれ、遺伝による継承についてある信仰さえもっている。このような信仰は、文明時代よりも原始時代の方が強かったとさえいえる。制度の世襲(エレデイテ)を生じたのは、この遺伝(エレデイテ)という自然法則である。制度を世襲することを発展させ強固にするためにあずかって力があったのは、たしかに社会的・政治的な理由であり、あるいは偏見でさえあった。だが、人がそれを発明したと思うのは、ばかげている(4)。」
さらに、職業の世襲は、法によって強制されないときでさえも、それが原則であることが多かった。だから、ギリシア人においては、まず少数の家族によって医業が究められたのである。「アスクレピアデス家の人びとあるいはアスクレピォス神の祭司たち(*2)は、このアスクレビオス神の後裔であるといわれてきた……。ヒッポクラテスはこの神の家族の第一七代の医者であった。占術、予言の能力、この神々の厚き恩寵としての医業は、ギリシア人のあいだでは、その多くが父から子へと伝承されるものとしてとおっていた(5)。」ヘルマン(*3)によると、「ギリシアでは、職能の世襲を法で規定していたのは、スパルタの調理人や笛の奏者のように、もっと宗教生活と密着した若干の身分や職能だけにすぎなかった。だが、習俗のうえでは、職人たちの職業の世襲も、一般に信じられているよりはもっと一般的な事実とされていた(6)」のである。現代でもなお、多くの低級社会では、種属(ラス)ごとに職能が分担されている。たとえば、アフリカの非常に多くの部族では、鍛冶職はそこの住民のうちからはでないで、他の種属のものがこれをひきついでいる。それは、サウル王(*4)時代のユダヤ人にとっても同様であった。すなわち「アビシニアにおいては、ほとんどの職人は異族出身である。石工はユダヤ人、皮なめし工と織工とは回教徒、具足師と金銀細工師とはギリシア人とコプト人〔古代エジプト人系のキリスト教徒〕といったぐあいである。インドでは、各カースト間の多くの相違は、その職業の相違を示してもいるが、このカーストの違いはまた、こんにちでも種族の違いと合致している。異人種を含む混合人口のすべての国々では、同じ家族の子孫が一定した職業に生涯をささげるのがならわしである。だから、東ドイツでは、数世紀ものあいだ、漁夫はスラヴ人のものであった(7)。」こうした事実は、ルーカス〔Lucas〕の意見をまったく真実に近いものと思わせる。彼によると、「職業の世襲は、道徳的性質の遺伝原理によってたつあらゆる制度の原始的形態、初発的形態である。」
(p317)
(*2)アスクレピアデス(Asklepiades de Bithynia)は、前一世紀ごろのギリシアの医者。ギリシア医学をローマに移植した。ヒッポクラテスとは学説上対立するといわれる。またアスクレビオス(Asklepios)はギリシアの医神である。アポロンの子で名医となったという。なおヒッポクラテスについては一四四ページの注を参照。
◆Aries, Philippe 1960 L'enfant et la vie familiale sous l'ancien regime, Paris(=1980, 杉山光信・杉山恵美子訳『<子供>の誕生--アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』みすず書房.
(p189)
ドイツから帰国したとき、バッソンピエールはほぼ十六歳であった。「私たちはポン・タ・ムソンで学業を十月まで続けた。これ以降私の属した自然学の学級は哲学の学級へと進みアリストテレス『精神論』を講読する段階に達したので、私たちは学院を離れた」。哲学級はいっぱんに法曹界と聖界へ進もうとする生徒のためのものであり、多くの生徒たちは哲学級に進む以前に学院を離れた。次いでバッソンピエールは、私はその意味をよくつかめないのだが、かれが「実習(スタージュ)」といっているものを終了した。いずれにせよ、それは法学、教会法、医学とかわりうる上級の学業の代用物である。「私はなお六ヵ月間にわたって実習を行わねばならなかったので、実習と並行して、ひとりの家庭教師を招いて、その授業のため一時間をとってユスティニアヌヌ『法学提要』の勉強を行い、もう一時間は信仰に関する問題、ヒポクラテス『命題集』(将来軍人になる人間にとっては奇妙なとりあわせの知識であるが)に一時間、あとの一時間をアリストテレスの倫理学と政治学の学習にあてた」。こうしてかれはスコラ哲学のみでなく、法学と医学についてもかんたんな知識を身につけたのであった。「私はこの一五九五年の残りの期間と一五九六年の初めまでの期間、この勉強を続けた。私の実習は復活祭に終った」。
◆Elias, Norbert 1969 Uber den Prozess der Zivilization, Francke Verlag(=19770225, 赤井慧爾・中村元保・吉田正勝訳『文明化の過程 上--ヨーロッパ上流階級の風俗の変遷』法政大学出版局).
(pp274-275)
一五三〇年
エラスムス 『少年礼儀作法論』
(略)
小便をこらえることは健康によくないが、小便は人目を避けてすべきものである。尻を押えて屁をこらえるように子供に教えている人がいる。だが、上品に見せかけようと努力して病気を招くようなことは、やはりまともなことではない。もし席をはずすことができるなら、人目につかずに行なうがよい。さもなければ、古代の諺に見習うがよい。すなわち、咳払いによって屁の音を消せばよい。それにしても、腹を損ねないためにもそうしたことを人々は、なぜ子供に教えないのであろうか。屁をこらえることは腹を引っ掻くことよりいっそう危険であるのに。
そのことに関して注釈(三三ページ)には次のように記されている。
○病気を招く ― コースの老人(訳注四九)の屁についての意見を聞くこと。もし屁が音を伴わずに出れば、それに越したことはない。だが、こらえたり押えたりするよりも、音を伴ってぶっ放す方が健康によい。そのほか、体を損ねないためには羞恥心を度外視することが極めて有効なので、すべての医者の忠告によれば、尻を押えることはアエトーン(訳注五〇)を真似るのも同然だといわれるほどである。警句詩人の歌うところによれば、アエトーンは神殿の中で屁の音を立てないように最善を尽したため、かえって尻を押えながらジュピターに挨拶する仕儀になってしまったのである。「自分は尻を押える術を心得ている」などと口にするのは居候か高慢な輩だけである。
(p417)
(四九) ギリシアの医学者ヒポクラテス(前四六〇年ごろ~前三七五年ごろ)のこと。コース島出身のためこのように通称される。
◆Eliot Friedson 1970 Professional Dominance : The Social Structure of Medical Care, Atherton Press(=1992, 進藤雄三・宝月誠訳『医療と専門家支配』恒星社厚生閣).
(pp39-40)
医療を対象とする社会学を進展させる試みが、真剣にかつ持続的になされたのはごく最近のことである(3)。この領域自体がきわめて新しいものなのである。確かに、かなり以前から散発的に「社会学」という言葉は医療と関連づけられてきはした。事実、「医療社会学(Medical Sociology)」と名づけられた書物は五〇年以上も前に出版されている(4)。しかし、そこでの医療と社会学との連結は分析的に意義あるものというより、連結させようとする意図ないし修辞以上のものではなかった。最近まで、「医療」と「社会学」とを結びつけるということは、次のこと―すなわち、その唱導者が病気というものは純然たる生物学的現象ではないという信念を抱いており、社会生活が医療行為の文脈をなしているということを認識し、そして健康や健康に関わる諸機関の社会経済的文脈への関心をもっているということ―を意味するにすぎなかった。しかし、独自の概念が採用されていたわけではないし、使用方法も本質的に体系性を欠いていた。たとえば、有能な学者にしてヒューマニストであるヘンリー・シゲリストのような人物の立場も、本質的には、医療の社会学的側面に対して鋭敏な洞察力をもつヒューマンな医師の立場に他ならなかったのである。舞踏病やホームシックについての驚嘆すべき分析(5)は直観的に解された常識に基づくものであって、近代医学によって認知された病気概念を含めて、いかなる特定の病気概念も、社会的構成物としての病気概念に基づくものでもなかった(6)。さらに、ヒポクラテスの誓詞についての辛辣にして暴露的な注釈も、同業者集団の因襲的な合言葉に対する反発に基づいており、医療行為の性質についての一定の学間的概念に到達しようとする努力に基づいているわけではなかった(7)。この立場は医療の根本的前提を自明視しており、医療のなかで社会的要因が一定の役割を果たすことを示すことによって、医療を改善させようとはするが、医療概念や人間事象における医療の位置についての医療の自己認諾を本気で疑問視したり評価したりすることはない。この研究方法は「医療における社会学」の立場のものである。
(pp132-133)
支配的地位にある医師は、病気を診断し経過を予測する特権を手放そうとせず、しっかりと手中に収めておこうとする。しかし、医師は他の誰かが患者に情報を伝えるのを望みはしないが、かといって、自ら情報を伝える気もないのである。この医師の性向に対しては多くの理由が示されている。そのなかでおそらく最も中立的で技術的な理由は、確かな診断を下し、正確に予後を推測することが困難である、というものであろう。別の理由としては医師の多忙さがある。つまり、より重症な患者に注意を払わねばならず、それ以外の普通の患者と話すだけの時間がないというわけである。しかし、不確実性と多忙という二つの理由づけは表面的なものであり、論究に値するものではない。前者の場合、デービスが示したように、不確実という事実はコミュニケーションを回避する口実ともなりうるが、不確実であるがゆえにコミュニケーションをはかる、という可能性があるわけであるし、後者の場合、かりに医師に時間がないというなら、医師の業務を委譲すればいいということになるだろう。目下の研究目的からして、深層にあるコミュニケーションの阻害要因を一番よく明らかにしているのは、患者の特質について専門家が抱く特有な諸前提に依拠した論議である。少なくともヒポクラテス綱領に述べられたヒッピアスの防衛的な言明にまで遡るこの論議によれば、患者は専門的訓練を欠いているがゆえに無知であり、どんな情報を手にしてもそれを理解することができず、病気にかかったことでとにかく動転していて、たとえ情報を入手したとしても、それを合理的・理性的に活用することができないのである。この観点からすれば、情報を与えても患者のためにならないし、むしろ患者を動転させて、医師にとっても病気の治療以外の「処理問題」をさらに抱え込むことになる。こうして、患者は成人としてというより子供として扱われるべきであり、安心は与えても情報は与えるべきではない、ということになる。これ以外のやり方をしても、患者を動転させ、スタしフに不必要なやっかい事を生み出すにすぎない、というわけである。医師は患者を成人として、責任能力をもつ人格としてみていない-これが医師に特有な患者観である。
◆Illich, Ivan 1976 LIMITS TO MEDICINE:MEDICAL NEMESIS(=19790130, 金子嗣郎訳『脱病院化社会――医療の限界』晶文社).
(pp63-64)
富者にとっても貧者にとっても、人生は検査と診療を通じて出発点までもどる巡礼になってしまった(137)。人生はこうして、良きにせよ悪しきにせよ、制度的に計画され、形づくられなければならない統計的な現象、「生存期間」におとしめられてしまったのである。生存期間は、医師が胎児を産ますべきかどうか、どのように産ますべきかを決定する出生前の検査にはじまり、医師が人工呼吸装置を止める指示をカルテに記載するときに終ることになる。出産と死亡の間に多くの生化学的ケアがあり、それはちょうど機械的な子宮に似て、作られた都市に最も適合している。人生の各段階で、人々はそれぞれの年齢に特異的な障害者ということになる。老人が最もわかりやすい例である。すなわち、彼らは治療すべくもない状態に対して割り当てられた治療の犠牲者である(138)。
人間の苦悩の大部分は急性で良性の病気から成り立っており、これらは自らなおるか、ほんの二、三ダースのきまりきった医療の介入でよくなるものである(139)。広範囲の病的状態においては、治療をうけることの最も少かった者が最も回復しやすいのである。「病人にとっては」、ヒポクラテスはいっている、「最少が最善である」と。しばしば学識もあり良心もある医師のなしうる最善のことは、患者に障害とともに生きられると説得することであり、最後には回復すること、必要ならばモルヒネも使用してもよいことを話し、患者に対して祖母がなしえただろうことをなすだけで、あとは自然にまかすことなのである(140)。しばしば適用される新しい工夫などは単純なもので、祖母たちの最後の世代が医療のごまかしでおどろかされ無能力になっていなければ、彼女たちがとうの昔に知っている程度のものである。ボーイスカウトの訓練、よきサマリア人のおきて、自動車ごとに救急装置をつけることの義務化は、救急用のヘリコプター隊よりもハイウェイにおける死を減少させるであろう。初歩的なケアの一部分であり、専門家の仕事を必要とするとしても、大きな集団において有効であることが証明された医療的介入も、もし私か隣人がいつそれが必要であるかを判断し、最初の治療を加える責任をもつならば、より有効になされうるだろう。急性疾患にとっては、専門家を必要とするほど複雑な治療は多くの場合効果がなく、さらに手のとどかぬことが多く、手おくれになることが多い。
(pp114-115)
痛みに対するヨーロッパ的態度の一つの源流が古代ギリシャの中にあるのは確かである。ヒポクラテスの弟子たちは(43)多くの種類の不調和を区別したが、その各々は、それ自体痛みの原因であった。こうして痛みは有力な診断の武器となったのである。それはどのような調和を患者が回復しなくてはならないかを医師に対して明らかにした。痛みは回復の過程で消えていくかもしれない。しかしそれが医師の治療の第一の目的でないことはたしかであった。中国人が非常に早い時期に痛みを取り去ることで病気を治療しようと努力したのに反して、この種のことは古典時代の西欧では目立たなかった。ギリシャ人たちは自らの歩みの中で、痛みを感じずに幸福感を味わうことなど考えたこともないのである。痛みとは魂が進化を経験することなのだ。人体は回復不能なほどに傷つけられた宇宙の一部であった。そしてアリストテレスによって感覚力があると仮定された魂は、肉体と充分に共存しえたのである。このような仕組みの中には痛みの感覚と経験とを区別する必要はない。身体はまだ魂から分離されず、病気も痛みから分離されていなかった。身体的痛みを示すすべての言葉は同じ様に魂の苦悩にも使用できたのであった。
われわれのギリシャからの遺産をみるとき、痛みに対する諦めは全面的にユダヤ教もしくはキリスト教によるのであるとするのは重大な誤りであろう。紀元前二世紀に二〇〇人のユダヤ人が旧約聖書をギリシャ語に訳したとき、一三の異ったヘブライ語の言葉がたった一つのギリシャ語の「痛み」に当る言葉に翻訳された(44)。ユダヤ人にとって痛みが神の罰の道具であったかどうかは別としても、それは常に呪いであった(45)。痛みを望ましい経験であるとするような示唆は、聖書の中にもタルマッドの中にもみられないのである(46)。非常に特定的な器官が痛みにおそわれたことは真実であるが、このような器官は非常に特定的な情緒の座としても考えられており、現代医学における痛みのカテゴリーは、ヘブライ語のテキストにはまったく無縁のものであった。新約聖書の中では、痛みは罪と密接にからんでいると考えられる(47)。古代ギリシャ人にとって痛みは快楽をともなうはずであったが、キリスト教徒にとっては、痛みは楽しみに身をゆだねた結果だったのである(48)。いかなる文化も伝統も、現実の忍従を独占するものではない。
(pp124-126)
ルソーの誤解は、病気をその「自然の状態(10)」にもどしたいという願望の中にゆれうごいている。すなわち、自己規制力があり、勇気と品位をもって耐えられるし、貧者の家庭においても、ちょうどかつては富者の病気の世話がなされたのと同様に世話されるような「ありのまま(野性)の病気」に社会をとりもどす願望である。病気が複合体となり、治療不能となり、耐えられぬものとなるのは、搾取が家族を破壊する時においてのみである(11)。そして、都市化と文明化の到来とともに、病気は悪質な、品位をおとすものとなる。ルソーの弟子たちにとって、病院の中でみられる病気は、他の形式のすべての社会的不公正と同様に人工的なものである。病気は自堕落な人々、貧困化させられた人々の間で栄える。「病院では、病気はまったく腐敗している。それはスパスム(痙攣)、熱、不消化、蒼白な尿、低下した呼吸に象徴化された"牢獄熱"となっており、窮極的には死にいたるのである。たとえ八日目、一一日目でなくとも、一三日目には(12)」。医療がはじめて政治的論点となったのは、実にこの種の言語によってである。社会を健康的に工学化しようとする計画は、文明の害悪を除去しようとする社会改造への要求とともにはじまる。デュボスが「健康というミラージュ(幻想)」と呼んだものが、政治プログラムとしてはじまるのである。
一七九〇年代の一般のレトリックの中には、生物医学的介入を人間もしくはその環境に加えるということは、まったく欠如していた。王政復古とともにはじめて病気の除去という任務が医学専門家に与えられたのである。ウィーン会議の後、病院は増加し、医学校ブームになった(13)。また疾病の発見もブーム化した。病気はまだ本来的には、非技術的なものであった。一七七〇年には、一般医はペストと痘病(14)以外のことにほとんど知識はなかった。しかし一八六〇年においては、一般の市民でさえも、一ダースの病名を知っていたのである。突然医師が救助者として、また奇蹟をもたらすものとしてあらわれたのは、新しい技術の有効性が証明されたからではなく、政治的革命がなしえなかった事業に信頼性を与える魔術的儀式への要求からであった。もし「病気」と「健康」とが公共の財源を要求するとなれば、これらの概念は操作的とならねばならない。病気は人間を悩ます客観的な疾病にならなければならず、実験室にうつされ、培養され、病棟、記録、予算、博物館に適合するものにされなければならない。こうして病気は行政的管理に適応させられた。エリートの一部が支配階級からその制御と排除における自律性を委任されたのである。医学的治療の対象は、隠れてはいるが新しい政治的イデオロギーによって定義され、医師からも患者からもまったく独立して存在する実在物の地位を獲得したのである(15)。
われわれは、疾病が存在しはじめたのがいかに最近のことであったかを忘れる傾向がある。一九世紀の中頃には、ヒポクラテスによるとされる言葉が賛同の念をもって依然として引用されていた。「あなたの健康と病気についての判断の参考になるような質量、形式、計算といったものは何もない。医術においては、医師の五官以外に確実なものは何もないのである」。病気は依然として医師のヴィジョン(幻想)の鏡の中にうつる個人的な苦悩であった(16)。この医学的肖像を臨床的存在に変様させることは、天文学におけるコペルニクスの業績にも対応する医学的事件であった。すなわち、人間は宇宙の中心から発射され、遠ざけられた。ヨブがプロメティウスになったのだ。
コペルニクスが天文学に与えた優雅さを医学に与えたいという望みは、ガリレオ時代からのものである。デカルトはこの目的の実行のための座標をたどった。彼のじつに巧みな表現によれば、人体は時計の働きとなり、魂と身体との間だけでなく、患者の訴えと医師の眼の間に新しい距離を設けた。この機械的な構造の範囲内で、痛みは赤いランプになり、病気は機械の故障となった。病気の分類が可能となったのである。鉱物、植物が分類されうるように、病気は医学分類学者によって分離され、それぞれの範疇を与えられることになった。医学における新しい目的にかなう論理構造はすでに述べられている。すなわち苦悩する人間のかわりに病気が医療体系の中心におかれ、病気は(a)測定による操作的な立証、(b)臨床的研究と実験、(c)工学的規準にもとづく評価、にしたがうべきものなのである。
(p144)
典型的な一五世紀、一六世紀の死にあっては、僧侶や医師に、貧者を助けることを期待するべきではなかった(26)。原則的には、医療について記録した人々は、医師がなしうる二つの正反対のサービスを認めていたのである。医師は治癒を助けることもできるし、容易かつ速かな死の訪れへの助力も可能であった。彼はヒポクラテス顔貌(27)、すなわち患者がすでに死の掌中にあることを示す特別の徴候を認めるのが義務であった。治癒させる際も、敗退する際と同様に、医師は自然に対して手と手袋の関係を保とうと努める。医療が生命を延長できるかどうかについての白熱した討論が、パレルモ、フェズ、そしてパリにおける医学校においても闘わされた。多くのアラビア人やユダヤ人の医師たちはこの力をまったく否定し、このような自然の秩序に干渉しようと試みることは神を冒涜するものであると声明したのであった(28)。
◆Foster, George M. & Anderson, Barbara G. 1978 Medical Anthoropology, John Wiley & Sons, Inc(=19870120, 中川米造監訳『医療人類学』).
(pp65-66)
シゲリストは、一九四五年のインドでの医学史研究所設立要求の中に、民族主義のシンボルとしての伝統的医学の強力な役割を確認している。インドは、新しい生活に目覚め、未来を見つめている過渡期にいると、彼は記している。「このような歴史的瞬間においては、人々は自分達の文化的歴史を誇りを持って振り返る。それこそ彼らが一緒に立つところの共通の基盤であるのだ」と彼は語る。そして、過去に対する関心が復活した例として、古典文学の新版での刊行、ギャング物に代って古代叙事詩の映画題材化、古典舞踊の再演などを、彼は指摘した。「そして、その関心が医学に向けられた時、彼らはまた彼らの歴史を思い出す。ちょうど我々がヒポクラテスを医学の父と見なすように、彼らもまた、チャラカ、スシュルタ、ヴァグハターなどの当時の医学的伝承知識を収集保存した医学者達を、彼ら自身の古典的大医学者と見なすだろう。……紀元前三世紀の、偉大な仏教徒の王であったアショカ王が、西洋世界には病院など一つもなかった時代に、都市にも田舎にも病院を建設し、領国の中あまねく、金持ちにも貧者にも、医療サーヴィスを提供したことを、インド人は誇りをもって思い出す」(Roemer 1960 : 276-277)。
(pp76-77)
体液病理学は身体の「体液」の概念にその根拠を置く。そのルーツは紀元前六世紀までにはすでに確認されていた四元素(土、水、大気、火)についてのギリシア理論である。ヒポクラテス(紀元前四六〇年ごろの生まれ)の時代までにこの理論は四元素説と類似の四つの性質――熱、冷、乾、湿――についての概念によって補強されていた。四性質が前者の理論に統合されて、四つの「体液」概念が生み出された。それぞれには四性質のいくつかが結びついていた。すなわち、【血液】(熱と湿)、【粘液】(phlegm)(冷と湿)、「メランコリー」とも呼ばれる【黒胆汁】(black bile)(冷と乾)、【黄胆汁】(yellow bile)あるいは「かんしゃく」(cholen)(熱と乾)である。
ヒポクラテスは歴史的に確かに実在したが、彼の名を冠する医学論文集――『ヒポクラテス全集』――の出所は複数である。『全集』の現在まで残っている最も古い原稿はたぶん紀元後一〇世紀のものである(Chadwick and Man 1950 : 5)ので、どれが実在のヒポクラテスのものなのか、どれが彼の名前がつけられただけなのかを正確に知ることはできないであろう。しかし、ヒポクラテスが『全集』を書いたとして、古代ギリシアの医学を記述すると便利ではある。
健康の平衡理論が古代ギリシアで充分に発展していたことは「ヒポクラテス」の疾病の記述から明らかである。「人体は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁を含む。これらは体質を構成し、痛みや健康の原因となる。この構成物質が力と質の点で互いに正しい割合にあり、充分に混合している状態がまさに健康である。痛みはその物質の一つが不足したり、過剰であったり、また体の中で分離し他のものと混合されていないときに起こる」(同書、204)。
ヒポクラテスによると、四つの体液は「外見において本質的な差異があるゆえに、特定の違った名前を持っている……それらは熱、冷、乾、湿という性質の点で異なっている」(同書、205)。ヒポクラテスが体液の性質を正確に特定しているところはどこにもないように思われるけれども、それらの性質を明確に把握し、それらの性質が気候や天気に従って、一年を通じて変化することを記している。粘液は冬に増加する、なぜなら、それは体液中で最も冷いものゆえに冬と最もうまく調和するからであると彼は書いている。春には雨期の湿って暖かい日々に刺激されて血液の量が増加する、それは湿って熱いから、春は血液と最もよく調和する。夏には、血液は強力なままだが、胆汁は次第に増加し夏と秋の間身体を支配する。暑く乾いた夏には黄胆汁が主導的だが、冷たく乾いた秋が来るとこの胆汁は冷やされ、黒胆汁が優位にたつ(同書、207)。
ヒポクラテスはいう。このような季節的な変動のゆえに多くの病気は一年の特定の時期に起こると思ってもよい。つまり、治療するにしても、「医師が心しておかねばならないことは、すべて病気はその性質を最も強く持つ季節に最も流行するということである」(同書、208)。さらに、治療はその疾病の原因に対抗することを目標にするべきである。「過食を原因とする疾病は絶食により、飢餓による疾病は摂食により治される。過労による疾病は休息により、怠惰によるものは勤勉によって治される。要するに、医師は、疾病の治療において、その形態、季節的や年齢的誘因に応じて、疾病の原因に対する【対立の原理】(the principle of opposition)に従い、緊張には弛緩、【弛緩には緊張】をもってせねばならない。このことは患者を最も落ちつかせ、また治療の原理であるように私には思える」(同書、208 最初の傍点は筆者)。
古代ギリシア時代では最も重要な臓器(心臓、脳、肝臓)はそれぞれ、乾と熱、湿と冷、熱と湿であると考えられたので、正常な健康体では余分の熱と湿があることになる。しかし、この均衡には個人差があり、それで気質や「顔色」にも個人差があることになる。例えば、【多血質】(血色が良く、快活で、楽天的)、【粘液質】(静かで、落ち着いて、不精で、無感動)、【胆汁質】(怒りっぽく、気難しい)、【憂うつ質】(うち沈んで、悲しく、憂うつ的な)である。したがって、良い医療とは患者の自然の顔色を知り、どの、一つまたはそれ以上の体液の量が一時的に過剰になっているか、あるいは不足しているかを確かめ、この発見を季節の支配的な体液と比較し、それによってどのようにすれば正常な体液の均衡を最もうまく再構成することができるかを決定することである。これは、食事、内服薬、下剤、吐剤、瀉血、吸角などの療法を用いることでなし遂げられる。
(pp78-79)
かくして、体液の古典的教義は中世キリスト教的医学の基礎となった。ここでも、体液理論はヴェサリウス(一五一四-一五六四)、ハーヴェイ(一五七八-一六五七)、シデナム(一六二四-一六八九)らの諸発見まで支配的であった。現代までのキリスト教医の書物によると、ヒポクラテス、ガレノス、アラブの医者、特にアヴィセンナは医学の理論と実践にとって主要な権威であったことがわかる。科学的医学によってそれらの医学が廃された後ですら、体液病理学は民衆のレベルで、薬草書や家庭療法書というかたちで、一九世紀に至るまで影響を及ぼしている。イギリス植民地時代の合衆国へも本国から体液の教義が伝えられ、最近のスノウによると、この教義は民衆のレベル、特に低収入の黒人と貧困な南部の白人の間でふつう考えられている以上に普及しているという(Snow 1976)。
(p143)
ほとんどの病気が呪術のせいだとされる社会では、邪術を統制し、それと戦うことのできる専門家が、自分の必要にかなう場合は自身が邪術を行うのに必要な知識を持っていると人々が考えるのは当を得たことである。同じ理屈で、病気が自然の原因の結果であると信じられている時は、治療者の役割がより恩恵を与えるものと見られるのは当然である。ヒポクラテスの誓いは、新しく医者になる者が自分の患者を決して傷つけず、患者の最善のみを心に抱いて仕事をするという誓いであるが、それは、疾病が悪人や悪霊によるものではなくて、自然の原因の産物であると、歴史上初めて理解することのできた知的世界の産物なのである。
(pp165-166)
これらのページで、我々の意図することは西洋の「科学的」な伝統もつい最近までは、その癒しへのアプローチは驚くほど非西洋の治療技術と似ていたことを想い出すことで、これを笑いものにすることではない。例えば、アングロサクソンの医学は、少々進歩していたとしても、これらの現代の原始部族や農耕民をほとんど越えていなかった。ボンサーは、冬の間を塩漬け肉と干した豆ですごしてきた人々にとって、春に緑草を多食するのは壊血病に対しての効果があっただろうと認めている。しかし、そのほかの圧倒的多数の療法には、病者の気やすめとしての有効性しかなかっただろうと、彼は確信している。有効性に敵する疑いが、当時の医者や患者自身にも全く欠けていたわけではないことは、ある処方が最後に、「神の助けによって、彼にはいかなる痛みもやって来ないだろう」という文句で終わることに示されている(Bonser 1963 : 9)。
ボンサーは、それぞれの処方に用いられるおびただしい数の薬物についても記しているが、このことは、ヒポクラテス学派の療法と著しい対照をなしている。アングロサクソンの薬物リストには、多数の古典的な薬物が挙がっているが、実際に経験した効果によってより、むしろそれらの起源の持つ魔力によって選ばれている。いくつかの場合には、明らかに薬物自体よりその名前のほうが効き目を持っていた。蛇の咬み傷に対する解毒剤の一つの処方は、「天国から現れた」木の皮を食べることである。ここでアングロサクソンの記録者は大まじめに注釈を加えている。「これを手に入れるのは困難であろう」(同書、9)。
◆Sontag, Susan 1978, 1989 Illness as Metaphor ; Aids and Its Metaphor,Farrar, Straus and Giroux(=19921028, 富山太佳夫 訳『隠喩としての病い エイズとその隠喩』みすず書房.
(pp195-196)
普通、疫病とされるのは流行病である。こうした病気の集団発生は、ただ耐えていればすむというのではなく、どこかから下されたもめと理解される。病気を罰と見るのは最も古いかたちの病因論であり、医術という立派な名前に値する病人看護がつねに反発してきた考え方である。流行病についていくつかの論文を残しているヒポクラテスは、「神の怒り」を腺ペストの原因とする説をとくに斥けた。もっとも、『オイディプス王』における疫病のように、古代には罰と解釈された病気にしても、のちの癩病や梅毒とは違って、恥ずかしいものとばされていない。病気とは、それが何かの意味をもつ場合には、集団にとっての災難であり、共同体に対する審判なのだ。各個人に関わりがあると考えられたのは病気ではなく、怪我と無能さのみであった。近代的な意味での屈辱的な、人を孤立させる病気に似たものを古代の文献の中に求めるとすれば、フィロクテーテスの言う悪臭性の傷に目を向けるしかないだろう。
◆増子忠道, 19790615, 「正常と異常」川上武・増子忠道 編『思想としての医学――ライフサイエンスの光と影』青木書店:37-68.
(pp41-42)
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