笑いと俳諧

https://www.buson-an.co.jp/f/haikai30 【【蕪村菴俳諧帖30】貞門俳諧】より

◆江戸俳諧の開花

江戸初期の俳諧流派を貞門俳諧(ていもんはいかい)と呼びます。

貞徳(ていとく)の門流という意味で、芭蕉の蕉門に相当するもの。

宗鑑、守武ら室町俳諧のあと100年ほど停滞していた俳諧を復活させ、江戸期最初の大輪の花を咲かせたのが、博覧強記の文人松永貞徳(1571-1653)でした。

貞徳は京都の生まれ。

12歳で高名な学者から『源氏物語』の秘伝を授けられ、20歳の頃からは豊臣秀吉の右筆(ゆうひつ=書記)となります。

「貞徳の先生は50人いた」と伝えられるほど多くの師に学んだ貞徳はその豊かな知識と教養を活かすべく30歳にして私塾をひらき、庶民の子弟を指導するようになります。

本職は学者、教育者というべきかもしれませんが、里村紹巴(じょうは)から連歌を学んだのがきっかけで俳諧の世界に足を踏み入れ、やがてその改革者となっていきます。

貞徳は日常語や漢語に詩的な価値を与え、雅語のみを使う和歌、連歌と俳諧とのちがいを明確にしました。

また宗鑑などの室町俳諧の悪ふざけ、詠み捨てを否定し、座興にすぎなかった俳諧の質を高めることに熱心でした。

新時代の俳諧理論を書物に著したのも大きな功績でしょう。

わかりやすい理論に裏打ちされた貞徳の俳諧は人気を博し、70歳の頃には門弟300名に及ぶ一大勢力となって、貞徳はまさに俳壇の指導者、支配者として君臨します。

同時代には貞徳と直接の関係がない俳家もいたのですが、かれらまでまとめて貞門と呼ばれてしまうほどでした。

◆蕪村に注ぐ流れ

貞徳らしさの表れた発句を見てみましょう。

〇花よりも団子やありて 帰る雁

花の季節だというのに、それを楽しもうとせず帰っていく雁の群。

故郷には団子でもあるのではないか、というわけです。

「花より団子」を踏まえているのはすぐわかりますが、じつは『古今和歌集』の次の歌が本歌になっています。

 ◇春霞たつを見すてゝ行く鴈は 花なき里に住みやならへる(古今集 春 伊勢)

春霞が立ったのに(花を見ずに)帰ってしまう鴈(=雁)は花のない里に住みなれているんじゃないかと。

帰雁(きがん)を花を解せずとみなすのは和歌の伝統です。

歌詠みでもあった貞徳は、それを俳諧に採り入れたのです。

○雪月花 一度に見するうつぎかな

これは漢語を用いた例。

うつぎ(空木/卯木)は梅雨入り前後に清楚な白い花をつけますが、その美しさを四季の風物(雪月花)を同時に見るようだと称えています。

蕪村とその一派が漢語を多用していたことを思うと、貞徳はその大先輩だったことになります。


https://www.buson-an.co.jp/f/haikai31  【【蕪村菴俳諧帖31】談林俳諧】 より

◆笑いへの回帰

松永貞徳の貞門俳諧が俳壇を支配する中、反逆者たちが現れました。

中心人物は大坂天満宮の連歌所(れんがどころ)宗匠、西山宗因(そういん:1605-1682)。

あの西鶴が門下におり、若き松尾芭蕉もメンバーの一人でした。

かれらの不満というのは、貞門流は滑稽さが足りない、和歌や連歌の影響を受けすぎている、というもの。 では、かれらはどういう句を作っていたのでしょう。

たとえば宗因の代表作とされるこの作品。

〇里人の渡り候ふか 橋の霜

早朝の光景でしょうか、橋に降りた霜に足跡があったのです。

これは能の『景清』にある問答の部分「いかにこのあたりに里人のわたり候ふか」をそのまま使ったもの。

そこに「橋の霜」を下の句としてつけたため、「わたる」の意味が「居る」から「渡る」に変わってしまっています。 有名な能の一場面かと思ったら最後にびっくり、田舎の橋の句だったのか、というわけ。

〇塩にしても いざ言づてん都鳥

こちらは『伊勢物語』の和歌「名にし負はば」を踏まえたもの。

しかし都鳥を(長持ちするように?)塩漬けにしてでも都にことづててやりたいとは、おふざけが過ぎるような…。

じつはこの句、芭蕉35歳頃のもの。

後年の作品とは似ても似つかないひょうきんさに驚きますが、こういう発句が一世を風靡していた時代があったのです。

◆束の間の栄華

宗因たちの流派は談林(だんりん)俳諧と呼ばれます。

談林は本来「壇林」と書いて、僧侶が学問や修行をする学寮のこと。

しかし江戸の田代松意(しょうい:生没年不詳)が談林軒を名乗り

自分たちのグループを談林と呼んだことから、談林俳諧の呼称が定着していきます。

江戸に下向した折、松意らに招かれて《江戸十百韻(とっぴゃくいん)》に参加した宗因は、このような発句を遺しています。

〇されば爰(ここ)に談林の木あり 梅の花 談林俳諧の隆盛を祝うかのような一句です。

軽すぎる、ふざけ過ぎると批判されながらも談林俳諧は50年ほどつづいた貞門俳諧にゆさぶりをかけ、急速に支持者を増やして、ついには主役の座を奪ってしまいます。

談林の時代はしかし、10年ばかりであえなく終焉を迎えます。

宗因は世を去り、西鶴は小説家に転向していきました。

談林の息の根を止めたのは、かつて談林に夢中になっていたはずの芭蕉でした。

芭蕉は「談林はもう古い」と感じたらしく、滑稽の追求から離れて独自の蕉風俳諧を確立していきます。

否定はしたものの、談林は芭蕉にとって貴重な修行の場でした。

芭蕉は「上に宗因なくんば我々がはいかい今以て貞徳が涎をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也」と書き記しています。

もし宗因という先輩がいなかったら、わたしたちの俳諧は依然として貞徳の影響下にあっただろうと。

芭蕉は談林で発想の自由さ、表現の多彩さを学んだと思われます。

また貞門も談林も古典への深い造詣がベースにあり、それは蕉風俳諧にも共通しています。

貞徳や宗因の遺産は受け継がれたのです。


https://www.buson-an.co.jp/f/haikai06 【【蕪村菴俳諧帖6】笑えなければ俳句じゃない】より

◆笑って生まれた江戸俳諧

宗祇(そうぎ)や宗鑑(そうかん)が江戸俳諧の礎を築いたというのが前回までの話。

しかしかれらは連歌師であって、俳句は連歌の会の余興に過ぎないものでした。

それを芸術の域にまで高めたのが芭蕉(1644-1694)。

その芭蕉も、門人たちとたびたび連句の会を催していました。

連句は連歌と区別しづらいのですが、おかしみ、ユーモアのあるのが連句と考えればよいでしょう。

連句のうち発句の部分の独立したものが、のちに俳句と呼ばれるようになったのです。

※発句についてはバックナンバー【蕪村浪漫17】参照

ということは、発句はユーモアのあるものが本来の姿。

室町時代に編まれた最古の俳諧撰集『竹馬狂吟集(ちくばきょうぎんしゅう)』には

こんな愉快な句が載っています。

〇句:かへるなよ 我びんばうの神無月

神無月は神さまが留守になる。

我が家の貧乏神も出かけているはずだが、どうか帰ってこないでもらいたいと。

この伝統は江戸時代初期の俳諧師に受け継がれました。

たとえば西山宗因(そういん:1605-1682)の句。

〇句:白露や 無分別なる置所

所かまわず露が降りるのを「無分別」としたおかしさ。

言葉の選び方に初期俳諧らしい特徴があります。

〇句:腹筋をよりてや笑ふ 糸桜

こちらは芭蕉の師で学者でもあった北村季吟(きぎん:1624-1705)の作です。

風に揺れる枝をお腹をよじると見たてた面白さが特徴。

「笑ふ」は「咲く」と同義です。

◆批判された松尾芭蕉

宗因の門人の在色(ざいしき)という人が、芭蕉は独学だったので俳諧を詳しく知らず、

句は悪くないが下手な連歌のようだと書いています。

(俳諧解脱抄)

宗因一門の流儀からすれば、芭蕉の作風は滑稽味に乏しくて俳諧らしくないと感じられたのでしょう。

それに対して芭蕉の門人、伊賀の土芳(どほう)は、俳諧が生まれて以来、人々は滑稽にばかり夢中になり誠(まこと)というものを知らなかったと言います。

難波の宗因は自由な作風で世に知られたがまだ言葉をあやつることに気をとられていた。

そこに我が師匠(芭蕉)が現われ、俳諧は初めて誠を得たのだと。

のちに俳聖と讃えられることになる芭蕉も、最初からすんなり受け入れられたわけではなかったようです。



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